帝王院高等学校
福音は!カチカチカチリと歌います!
空には飴色の、月。
大きな真円は静かに。雲一つなく澄み渡る宵のスクリーンに、浮かんでいる。



「ミーン、ミーン」

それは、何時頃だったのだろう。今ではそれすら思い出せない。
ただずっと、隠れる様に木の上からそれを見ていた。オレンジ色の空が東から藍に染まり、いつしか全て墨を混ぜた群青で染まりきっても。

この静かな夜でさえ斯くも精力的な蝉の音色をBGMに、いつまで待っていたのか。

「ミーン」

飴色の、それは大きな月だった。





待ち人は遂に、訪れぬまま。













世界に、純粋な感情と言うものは存在しない。根源には等しく欲望があり、欲無き者に感情など宿りはしないと考える。

腹が空けば物を食べ、喉が乾きを覚えれば水を飲み、休息を欲して眠気を覚えれば、人はそれに逆らう事など出来ない。
耐える事は可能だろう。ただそれを、永続的に繰り返す事は不可能だ。

生きると言う、抗えぬ欲の前には。










「聞こえているかな、カエサル」

年代物のアンティークだと常日頃自慢している野暮な丸眼鏡に、光の渦が乱反射している。
元はプロムナード用のダンスホールだった建物を改築した、巨大な温室には実に様々な木花が幾つも。艶やかに、年中、欠かさず世界を彩っている。

「おーい、カエサル。285時間振りに顔を見せてはくれないか。怪しい者じゃない、物理学部教授のブライトン=C=スミスだよ」

明朗な声はいつも謡うように。
明確な答えが手に入る数学をこよなく愛している二葉が『面倒臭い人間』と吐き捨てるだけあって、彼は確かに諦めが悪かった。

何にでも興味を示し、一度抱いた疑問は必ず解き明かさねば気が済まない、成程、今になれば確かにそう、血の繋がりは不明だが、似ていたのだろうか。

「困ったな。此処に籠られると見つけられた試しがない。近頃の君は意地悪だ。私を弄んでさぞ楽しいのだろうね。ケルベロスからはまともに会話もして貰えない、ミッドナイトサンは毛虫を見る様な目で『俺が用のない時は近寄るな』と言うんだ。エウクレイデスよりも真っ直ぐにね」

騒がしい男だ。
然しその声は低く穏やかで、喧しい程ではない。自分を知り尽くしている賢さに年相応の強かさを混ぜて、付かず離れず、けれど虎視眈々と。距離を測っているのが判る。

「光に殺傷能力があったら私は今頃イエスの元でヨハネの福音を読んでいたろう。だが然し神は我々を見捨ててはいない。何故ならば重力は光さえ歪める事が出来るんだ。そう、それこそブラックホールの真価」

プラタナスががさりと音を発てた。
騒がしい男が芝生に腰掛け、顔に滴る汗を拭う音が下から届いた。見つかってはいないらしいが、付かず離れず、測った様な距離なのがまた、男らしいとさえ思う。

「此処は暑いね、カエサル。サマータイムのメキシコを思い出すよ。あそこも地獄だった。でも日本のサマータイムに比べれば些細なものなのかな?こんな所に十日以上籠って出てこないなんて、私は心配で心配でリーマン予想を解く暇もない。あれには懸賞金が掛かってるのに」
「いつまでベラベラ独り言喋ってやがる、出ていけ」
「おっ?!」

音もなく気配もなく、突如割り込んだ可愛いげのない声へ、男は大袈裟に驚いてみせた。

「…ミッドナイトサン、年寄りを背後から脅かしてはならないと習わなかったのかね?」
「おや、物理にそんなカリキュラムありましたか?」
「そんな現実主義のカリキュラムではなく、もっとこう、人として大切な授業で」
「経済学ですか。ふぅ、私にはあんな退屈なテキストワークは向いてないもんでねぇ」
「うん、せめて哲学書を読もうか。君には宿題を出すよミッドナイトサン、人は何故恋をするのか、そうだね、君が成人するまでに論文を提出しなさい」
「残念でしたねぇ、プロフェッサースミス。私は半年前に、院へ卒業論文を提出した身です」
「知っていたとも!困った子だね、恩師よりIQの高い教え子が院卒と同時に同僚だなんて、我が大学の懐の広さを痛感している所だよ私は。何なんだ、卒業式直後に教授就任だなんて聞いた事がないよ!」
「あははははは、恩師?院生の時点で教授でもあった枢機卿に比べれば私などまだまだ。然しスミス教授、IQ180は立派に天才の域ですよ」
「形ばかりの励ましを有難う。でも背中を蹴るのはやめてくれないかな」
「OK、蹴られたくないなら出ていけ。枢機卿のランチタイムがディナータイムに切り替わったら、大学に掛け合ってアンタをリストラするぞ」
「待ってくれ、まだジャガーのローンが残っているんだよ!子供の君には判らないだろうがあれは当たり年のレアもので、」
「Right, What do you think is this?(では問題です) Get?」
「…Away?(失せろ?)」

にこり、と。
二葉が微笑んだ。すごすごと大人しく去っていく背中を横目に、片目だけ開いていた瞼を閉じた。

「良くお休みの様で何よりです」
「ああ」
「おや、皮肉のつもりでしたのに。近頃の枢機卿は益々精気に欠けてらっしゃる。さて、ランチをお持ちしました。本日はサンドイッチです」  
「本日『も』ではないか」
「昨日はハムサンド、一昨日はエッグサンド、本日はサーモンサンドです。その接続詞は間違ってらっしゃいますよ」
「そうか」

眩しさに慣れた両目を開き、身を委ねていた枝から飛び降りる。今し方、呪いじみた宿題を出された割りにはいつもの通りの顔を見やり、非対の双眸へ手を伸ばした。

「日が当たらぬ場では、然程違いは判らんな」
「そうですか?」
「ネイビーにしてもヘーゼルにしても鮮やかな色合いだったが、今になれば、そなたは黒が良く似合う」

サファイアの隣、今や濁った赤黒の眼差しは光彩が曖昧だ。極端に落ちた視力の所為か、瞳孔の伸縮が遅いのが見てとれる。

「それは、有難うございます?そうそう、ベルハーツの渡英話が纏まった様です。二度目は穏便に済んだ様ですよ」
「本人が申し出た話だからな」
「ファーストが日本へ渡ったかと思えば今度はあれが日本から出ていく羽目になるとは…うふふ、愉快だと思いませんか」
「そなたはあちらへ行け。私が足を運べば一度目所の話ではなかろう」
「本当に受けたんですか?幾ら何でも、何故アリアドネの言いなりになど」
「頼まれたのは高坂からではなく、義叔母からだ」
「ああ、成程…」

ただただ腹へ収めるだけの食事に味など必要ない。手渡されたボトルを煽れば安いダージリンの香り、どうせなら、と。
何故この時、そう馴染みのないその名を思い浮かべたのか。

「セカンド」
「はい?」
「明日は麦茶を用意出来るか」

過ぎた重力は光すら呑み込むと言う。
獰猛な蛇が蛙を呑み込む様に万物を一切の容赦なく、ブラックホールは呑み込むのだろう。





ならば形のない、人の記憶も?











欲を放棄した者よ。
その最期に望むは、恐らく『死』以外の何物でもなかったのだろう。



私は今、それを寛容出来ない。
惨めにも浅はかに斯くも醜く強く、求める者が存在する限り、この面白味のない世界に縋り続けるだろう。逃げる事など、出来ぬままに。



ああ、それでも。
幸福たれよと望むこの感情は、決して偽りなどではなかったのだ。

けれど姿無き神よ、私の存在なくして得る幸福など虚空であれば良いと願うのは如何に女々しく脆弱であるか、此処に示し、我が身に思い知らせてはくれないだろうか。







いっそこの鼓動を止めんが為に

エンターを弾いた指がキーボードの上で静止する。最早中毒の様に、気がつけば無意識で文字を奏でるこの指は今、何を彷徨うのか。

網膜に移る光景ではただ、宙に留まるばかり。目的を失ったかの様に。

「…」

白い手だ。
紫外線を厭う血肉、幼い頃染み付いた感性か、日中は殆どを寝て過ごした。時差に慣れていないなどと、来日直後は嘯いた覚えがある。

「この国の陽は、毒だ」

騒がしい。
音など何も聞こえない。
何の矛盾だ。

この世から消え去りたい。
この世など屠ってしまえ。

フィリア。(殺意)
フォビア。(反して恐怖)



「…忌々しい。」

外は無邪気にはしゃぐ他人ばかり、そう、幸せそうに、何にも遠慮せず、謳歌せよ・と。中央委員会会長の言葉通り、楽しむのだろう。

忌々しい限りだ。(ならば何故口にした)
(他人の幸など望んではいない)
(己の幸すら祈った覚えもない癖に)(何故)

「人は矛盾を抱かずには生きられぬ、…否、疑問を抱かずには、か」
『セキュリティースキャンが完了しました。最終履歴は18時間24分前、エリアK901カメラのデータを展開します』

ふ、と。
背後が翳った。室内は始めから照明を落としたままだ。ちらりと見やれば、UV対策に防弾耐火耐震を兼ね備えた最高級特殊ガラスの向こう、青い空に灰色の大きな雲が浮かんでいる。
その分厚い雲が、忌々しい太陽を隠した様だ。

『画面内に在籍登録の認められない生徒を確認しました』
「やはり、あれか」
『敷地内全カメラを確認しましたがコード:マスタークロノスを認められません。風紀委員会に通告、コード:セカンドより、エリアK901周辺からセキュリティー死角を含めた半径500メートル圏内に絞って探索中とのメッセージを受信しています』
「直ちに発見し、対象に悟られぬよう警護せよ」
『了解』

暫し彷徨った右手の指先を見つめ、頬を乗せていた左手を解く。

「一つ、頼まれてくれるか」
『ご命令を』
「ある人物を招いて欲しい。彼の方が一人の瞬間に、誰にも悟られぬよう」
『直ちに実行致します。ターゲットのご命令を』
「今でなくとも良い。対象の人相は追って沙汰を送る」
『了解』

酷く静かだと、目を閉じた瞬間に、胸元で音を発てたのは鎖。条件反射で掴んだ金属片を視界まで持ち上げ、刻んだ文字を指でなぞる。



「…ノア」

闇へ葬られて尚、黒を崇拝した哀れな一族。
霧深きロンドンから排除された悪魔の一族。女王の慈悲を失った、黒い羊。

「大洪水を揺蕩う一艘の方舟は、神の怒りに触れて尚、帰依せしめたるか。縋るものは一対の木櫂、流れ凪がされるばかりの、傀儡道化」
『報告を行います。本日6時3分にエリアL572周辺で確認された生徒が、アンダーラインエリアQ109近辺で断続的に出没しています。風紀委員二名がマスタークロノスのクロークを確認、』

何故そんな馬鹿な事を、と。
口にするより早く、鼓膜を震わせた無機質な機械音声に、世界は黒濁した。

『脅迫状と思わしき書面を複数入手しました。現在、全てに於いて差出人を確認中です』

―NOIR―
世界は全て、塗り潰したかの如く黒一色だ。





『ご命令を。』


これが、憎悪だろうか。







(こうなる事を)(真実は常に無慈悲だと



(初めから、判っていた癖に。)(飽くなき矛盾を抱えている











(世界は今、黒一色だ。)











「錦織君!」

呼び止められた瞬間、我に返った。
何処をどう歩いてきたのか、一瞬、自分が何処に居るのか把握出来なかった程度には、頭が回っていないらしい。
振り返れば、今まで話し掛けてきた事など大してなかった筈のクラスメートが数人、焦った表情で立っている。

「何か?」
「シー…じゃない、猊下と連絡つきますか?」
「溝江君と宰庄司君が風紀室へ報告に行ってるんだけど、僕らはどうしたら良いだろう?!ああそれと、安部河君が見当たらないのだけど武蔵野君が探してくると言って!」
「待ちなさい。何を狼狽えているか知りませんが、順を追って話を、」
「あれえ?カナメちゃん、何処行ってたのー?」

ぎゅむり。
背後から重苦しい何かに羽交い締めにされ、頭の上に顎と思わしき重みが乗っかった。半ば無意識で蹴り飛ばそうとしたが、流石にがっちりと固められてしまえば、抵抗らしい抵抗など出来ない。

「離せハヤト、顎を砕かれたいか」
「あは。パス、カナメちゃんの腰なら砕いてあげてもよいよ☆」
「遺言はそれだけか」

体から力を抜き、隼人が油断した瞬間に自分ごと前転する様に床を蹴り上げる。驚きすぎて声も出ないらしいクラスメートの前で、大の字に転がった隼人の喉をガシッと抑え腹の上にドシッと座り、足を組んだ。
非常に窮屈な体勢だが、ヨガだと思えば苦ではない。

見下ろしてくるクラスメートに舌打ちを噛み殺しつつ、見上げている癖に見下す様な目を隠しもせずに、神崎隼人をオットマン代わりに敷いたまま、錦織要は愛想笑いを張り付けた。

「それで、猊下がどうしたのか簡潔に述べて貰えますか」
「ふぬぬ、がっ、ほむー!!!ごほっ」
「あ、そ、そうだった、あの、猊下の靴箱に良からぬ手紙が入っていたんだよっ」
「いつもは時の君が捨ててらっしゃるから中までは見た事はなかったんだけどねっ」
「ああ、あの下らない悪戯ですか。猊下は毛程も相手にされていません。あんなものは無視しておきなさい」
「むっ、むっ、むごふ!あふ!ぷは!」
「それがそうも行かないんだよ!そもそもアレを投函していたのは光王子閣下の親衛隊だそうじゃないか!」
「溝江君が中身を確かめていなかったら、僕らも此処まで騒いではいなかったよっ!」

どうも様子が可笑しい。
気色悪い声を発てる隼人を嫌々見やれば、顔色が土色だった。ああ、本当に死に掛けている様だと喉を押さえつけていた手を離せば、死戦期呼吸じみた掠れた息遣いが聞こえてきたが、構わずに立ち上がる。

「あれはまるでレッドスクリプトだよ!判るかい錦織君!これは一年Sクラス最大最悪の大事件だよ!」
「野上クラス委員長が余りの怒りで風紀室へ乗り込んでいってしまってね!溝江君と宰庄司君がフォローしてくれているとは思うけど、もうどうしてくれようかと!」
「レッドスクリプト?」
「ひゅー、ひゅー、ごほっ。…待って、神崎隼人君最大最悪の大事件が起きてたよね、たった今。何でモブにまでスルーされたか判んないんだけど、もう一歩でイケメンモデル殺人事件が勃発してたよね?え?」

しぶとく睨めつける隼人を三人同時に見つめたが、軽やかにスルーし再び三人で見つめ合った。シカトされた隼人の額に青筋が浮かんだが、クラスメート2名はともかく、要には全く意味はない。

「カナメ、苛め、よくない。隼人君は一匹ワンコだけどハブされんのは慣れてないの、優しくしなさい」
「迸るほど気色悪い事を宣うな。今はお前なんか構っている場合じゃない、優先事項は、」
「ボスでしょ?はいはい、判ってますー、何か起きてるのはとっくに判ってましたあ」

ひょいっと軽快に立ち上がった隼人が大きな欠伸を一つ、要から殴られそうな気配に素早く避けながら、

「クロノスライン・オープン、ボスの現在地はどこなりー?」
『コード:マスタークロノスのカード反応はリブラ、リング反応は捕捉出来ません』
「あっそ。じゃ、昨日の…んー、20時でいっか。ボスの行動を追跡して今朝までにどこら辺うろついてたか探んなさい」
『了解。解析完了後に通知します………2%、』
「バックグラウンドで宜しくねえ」

ポカン、と。
目を見開いているクラスメートを横目に、冷めた目で睨んでくる要へ指輪だらけの左手をひらひら振って、隼人は唇を吊り上げた。

「ま、デリシャスボスをどうにかしたいならー、戦車くらい持って来いっつー感じだけどねえ?」
「判り切った事をわざわざ、」
「誰かさんが『どうして気付いていたならもっと早く動かなかったんだ』って言いたげな顔してたから、つい」
「…」
「『気に喰わない』って?あは。ごーめんねー、隼人君ってば賢い子なのよお」

勝ち誇った表情を向ければ忌々しいとばかりに睨まれたが、顔色の悪かったクラスメートらも安心したのか、要に促されて散っていく。

「…やべえ、マジ眠いんですけど。つーか、さっちん何してんの?そお言えば一回も見てないかもー」
「イーストと一緒なんじゃないのか。ともかく、貴様に任せておいては日が暮れる。俺は会長を探します」
「お待ちなさい」
「は?」
「もしかしたら部屋で寝てるだけかも知んない」
「何を馬鹿な、」

真顔の隼人に苛立った要は然し、怒鳴ろうとして動きを止めた。確かにカルマが誇る歴代最強の男は、特に寝ている時は無敵だった。絶対に起きない。
常に決まった時間、何時に寝ようが腹時計が朝を告げる7時にしか目を覚まさないのだ。怒鳴ろうが目覚ましを鳴らそうが。

「うっかり昼寝したボスが夜の8時になっても起きなかった時、唐揚げをテーブルに並べた瞬間起きた事あんじゃん」
「そう言えば…」
「食べ物の匂いがしないと百パー起きないと思わない?」
「………否定は…出来ない…が…」
「だってボスよ?ボスなのよ?パチもんの21番じゃなくて一番よ〜?この隼人君を差し置いて登場一発目から帝君のジーニアスボスを、何処の馬の骨がどうこう出来るのよお」
「…」
「歯切れわっるいなあ。何なの?やっぱり生理なの?」
「やっぱりだと?」

口が滑った。
昨夜から様子の可笑しい要の事を度々考えていた所為で、想像と現実がゴチャゴチャだ。睨まれて慌ててそっぽ向いたが、何とか殴られずに済んだらしい。顔に似合わず凶暴な男の前では油断大敵だ。

「あれ?カナメちゃん、ズボン汚れてんよ」
「何処だ?」
「そこそこ、何かついてる…ご飯粒?え、固まってんですけど。一人で食べ歩きしてたわけ?何この裏切り…ひ!」

口が滑った。
我ながら情けない悲鳴を耐え切れなかったのは、今まで隼人が何をしても絶対にそれはなかった筈の要が、ぼろっと大粒の涙を零した所為だ。余りにも豪快な涙に一瞬、それが涙だとは判らなかった。

「ななな何、え?!俺の所為?!待て待て待て、え?!どうすんの?!謝るの?!米粒取ってあげただけで泣かれたの初めてなんですけどお?あは、あは、えー?感動しちゃったのー?」
「………ウさん、が」
「え、あ、は?何…?何々、何かゆった?」
「ユウさんがっ、あんな男に喰われるなんて…!うわー!」
「は、」

抱き付いてきた要を抱き締めて良いものか、赤くなったり青くなったり慌ただしい神崎隼人はカルマで最も恵まれた長身を硬直させたまま、泣き喚く要の背中を叩いてみたり撫でてみたり四苦八苦しつつ、今の言葉を反芻させたのだ。

「うっ、うぇ、俺の胡麻油…うっうっ」
「ユウさんが、あんな男に、喰われた?」

一言一句、噛み締める様に呟いて、痛烈な視線に晒されながら、そう言えば此処は校舎の真ん前だったなどと考えつつも、



「はああああああああ???!!!」


眠気も要の泣き顔に狼狽えるピュアハートも忘れ、彼史上最も大きかったのではないかと思える絶叫を迸らせた。


















はっと顔を上げた彼はキョロキョロと辺りを見回し、ダイニングテーブルの上の凄まじい量の重箱を認め、驚いた。

「ぅわ〜!僕ぅ、いつの間に没頭しちゃってたんだろぅ?きゃ!大変だぁ、式典とっくに終わってるよ〜ぅ」

忙しい幼馴染みへの差し入れとは別に、皆でわいわい食べようと拵えた桜餅。そろそろ時期外れかとも思ったが、柏餅にはまだ数日早いかと塩漬けしていた桜の花弁を使い切った辺りで、どうも悪い病気が出たらしい。

「セイちゃんが出掛けたのが十時前だったからぁ…かれこれ四時間も経ってるなんてぇ…」

ついつい山菜おこわに黒豆、きな粉の葛切りに和三盆の落雁まで作ってしまった。品目こそ少ないが重箱6段の傑作は我ながら引く、と、安部河桜は頬を痙き攣らせる。

「…俊君なら食べてくれるよね…?きっと…」

そっと重箱の蓋を閉め、笹包みにした個装の桜餅と幼馴染みへの差し入れだけをトートバッグへ詰め込み、出掛けるべく母から貰った手縫いの三角巾を外す。
使い慣れたエプロンも外してダイニングチェアーに投げ掛けて、火の元を確め、慌ただしく部屋を飛び出した。

「あわわ、太陽君何処に居るのかなぁ?ケータイケータイ…ぁれ?ケータイ忘れて来ちゃったぁ!」

エレベーターに乗り込んでから気付いた桜は肩を落とし、仕方ないとブレザーの内ポケットに仕舞っているメイドイン神崎印の指輪の感触をブレザーの布越しに確めてから、キョロキョロと辺りを窺った。誰もいない。当然だ、エレベーターの中だ。

「ぇ、ぇっとぉ、クロノスライン…ぉ、オープン…?」
『コード:桜餅を確認、ご命令を』
「わわっ。ぼ、僕『桜餅』なんだねぇ…ぁはは。そぅだ、太陽君…ぇっと、コード:アクエリアスとお話出来ますかぁ?」
『エラー、コード:アクエリアスは超一級プロテクトにより接続出来ません』
「へ?!凄ぃなぁ、太陽君。もぅそんなに使いこなしているんだねぇ…。じゃぁ、俊君はお話出来ますかぁ?」
『コード:マスタークロノスは削除されました』
「ぇ?」

ガタン、と。
止まったエレベーター、アニメ声の機械音声に首を傾げた桜は然し一歩踏み出した所で、ドアが開いていない事に気付いた。


「ぁれ?」

いつまで経っても開かないドア。
カチカチカチ、と。時計の針が刻むそれに似た音が、狭い世界を支配している。

『………97%、クロノスケイアスサイド・リブート、コード:【始まりの福音】を確認。設定を構築します』
「ぇ、ぇえ?!何が起きてるの〜ぉ?」
『確認1、貴方は全ての始まりである、舞い落ちるもの。イエスかノーでお答え下さい』

奇妙な状況だが、ホラーやオカルトには滅法強い安部河桜はすぐに落ち着きを取り戻し、クイズみたいと呟いた。

「判ったぁ、答えはイエスですぅ。僕の名前が桜だから〜。4月は確かに、学生は始まりの時期だよねぇ〜。ぇへへ」
『確認2、貴方とマスタークロノスの関係は、侍従か盟友か』
「ぇ?俊君の事、だよね?ぇっと、どちらかと言えば…友達かなぁ?」

言って、照れた様に頬を掻いた桜の頭上で、カチカチと言う奇妙な音は止まる。

『システムチェック、オールブルー。ようこそ、12宮に刻まれない0番目、真実の友よ。ただいまより、我らは貴方をマジェスティナイトの友として心より歓迎致します』
「へっ?」
『接続開始………99%、』

エレベーターは未だ沈黙したまま、扉は固く閉ざされて。

『はァい、桜餅ィ。こちら独りぼっちの遠野俊15歳でございますん、愛しさと切なさと心強さを込めてご用件をどーぞ!』
「ぁ、俊君?初めてだったから緊張したよぉ。繋がって良かったぁ、今何処に居るのぉ?」
『ふぇ。それは腐男子のスリーサイズ的秘密なのょ!ちょっとアレやコレやでハァハァしてますにょ』
「そぅなんだぁ。あのねぇ、僕うっかり式典サボっちゃってぇ、桜餅作ったんだけど食べる〜?」
『わァい、持つべきものはベスト腐レンド!でも今お忙しいので、僕の分のおやつはエレベーターに乗っけてくれないかしらん?先輩が来るまでイイ子で待ってなきゃ、めーなのょ』
「そっかぁ、判った〜。じゃぁトートバッグごと置いておくからぁ、このままにしておいて良ぃ?」
『オッケーざますん。あ!皆には内緒にしてて欲しいにょ。腐男子的シークレットミッションなのでバレたら困るなり』

疑わない桜が笑って承諾した瞬間、漸くエレベーターが開いた。人気は少ない寮のエントランスは目映いほど光に満ちて、白亜の壁を際立たせている。


背後でエレベーターが閉まる気配、抱えたタッパの上に幾つかの笹包みを乗せて、





『Close your eyes.』



その囁きが鼓膜を震わせた途端、それすら忘れた事には、気付かずに。

←いやん(*)(#)ばかん→
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