帝王院高等学校
豹は死して皮を留め、蝉は死して名を留む
「一斉考査の勉強してる?」
「…まさか。ただでさえ今期は帝君が二人も居るのに、うちのクラスには高野さんと藤倉さんまで居るんだよ。奇跡なんて起こりっこない」
「だよな…」

腕章に『courier』と記された生徒が肩を並べ、淡い溜息を零す。解散を告げられて尚、彼らはボランティアとして一般客向けの案内人を続けていた。
純粋に行事を楽しむには、彼らの心中は余りにも穏やかではないらしい。

「30人だけなんて…。他の学校はもう少し定員が多いじゃないか。西園寺も、進学科は特進と理数・文系に分かれてるんだって」
「無い物ねだりしても始まらないさ。精々、来年のクラス改編でBクラスに落ちる事だけは阻止しないと」
「Bクラスに落ちるくらいなら、Cクラスに入るよ、僕は」

そんな彼らの前を、脇腹を押さえた長身がふらふら通り過ぎていった。


「…今の、星河の君だったね」
「星河の君だったな…」











拝啓、
俺の可愛いとはあんまり言えないワンコ達。







『随分、大所帯になってきましたね』


そう零したのは、同世代では最も腕を認めていた子供だった。
肉付きは良くないものの、明らかに平均離れした体躯に纏うしなやかな筋肉は堅気のものではない。

隠し切れていない眼の鈍光も、この生温い国で育ったにしては些か完成し過ぎていた。

『総長、5区がABSOLUTELYに潰されたらしいっス!』

年上も年下もない。
集めるつもりなどなくとも集った数十人は、自分を『総長』と呼んだ。やめろと言っても意味はない。

『…ABSOLUTELYだ?またゼロの所かよ』
『ユウさん…いえ、総長。そろそろ俺達にも表札が必要だと思います』
『ドッグタグってか?はっ、確かにこんだけ馬鹿ばっか集まってりゃ、迷子札も必要か』

背負うは『業』、躊躇わず名付けたその名は、以来、皆のプライドとなり、今に至る。



『KARMA、


 俺達は「カルマ」だ。』


仲間を家族などと、その時には考えもしなかった癖に。









早い奴はそろそろ春休みだろう、宿題はちゃんとやれよ。馬鹿な不良なんて残念過ぎるからなァ、モテたいなら学べ。


そして東大に行け。


卒業した奴には改めて『おめでとう』と言わせて下さい。
俺はとても羨まし…じゃなく、嬉しいです。








「榊さん!」

珍しく大きな声だと小さく笑い、片手を上げた。肩に下げているショルダーバッグの中から保冷バッグを引き抜き、掲げて見せる。

「よう、鷹」
「やめてよ、それハヤトさんが面白半分でつけたんだから…」
「ホークよりキィのがお好みか?判ってんだろうな、ありゃ『北緯』の『北』じゃなく、キティちゃんからパクってんだぞ」
「…知ってるけど、それが何?年下に嫌がらせする為に来たの?性格わっる。あの貴公子様より性格わっる」
「んだとぉ?!」

ワーカーホリックの咥えていた煙草の灰がぽろりと落ち、携帯灰皿と保冷バッグを一緒に持っていた右手が泳いだ。

「おっとっと、…しまった、灰落とした。現像終わったのか?あ、これお前の好きなチーズまん」
「フィルム一つだけ片付けて来た。シロは?」
「クラスの催しがあるからっつってとっとと行きやがった。あの馬鹿はとことん馬鹿だな」
「怪我、大丈夫なの?」

頬に擦れた痕を残している榊へ目を細めた北緯は負のオーラを放ち、相手は誰?と呟いた。

「何つーか、オーナーに喧嘩吹っ掛けた罰みてぇなもんっつーか。ま、あんま気にすんな」
「オーナーって…何で榊さんが副長に喧嘩なんか」
「ファーザーを隠してたから。」

ふー、っと紫煙を吐き出した男は「…流石に相手が悪すぎた」と囁く様に言い、川南北緯は状況が読めないながらも、小脇に挟んでいた焼いたばかりの写真を納めた簡易アルバムを手渡す。

「…っつーより、初めから俺が監視役だって気付いてんのか?」
「何?やり返すなら数集めるけど」
「っんと、お前は顔に似合わず危ない奴だなぁ。コミュ障はコミュ障らしくしてろ、オーナーから俺が怒られんだぞ」
「どう言う意味、それ」

学園に友達が一人も居ない事を公言して憚らない北緯は、カルマに入るまではクラスメートの佑壱と目を合わせる事も出来なかった過去がある。
誰にでも同じ態度の獅楼とは逆に、誰に対しても必ず人見知りする北緯がカルマで最初に親しくなったのは、いつもカフェカウンターで煙草を吸っているだけの榊だった。

「実際、うちじゃお前が一番非力なんだ。負けん気が強いのも程々にしとかねぇと、後で痛い目見んぞ」
「………」
「おい、睨むなよ。兄ちゃん泣いちゃうぞ」
「いつから俺の兄になった気でいたのか知らないけど、下手な隠し事はしないで。カルマの名を辱しめるのは許さねーから。総長の耳に入る前にやられたらやり返す、8倍返しだよ」
「出た、8区の八沢直樹!」
「茶化すのやめて、殴りたくなる」
「だーかーらー、仕返しは良いっつってんの。俺が大人げなかったの。何だその目は…俺はそんな信用がないの?何なの?本当に泣いちゃうよ?日頃の鬱憤を迸る涙に変えちゃうよ?」

近頃アルバイトからも度々向けられる胡乱げな眼差しが、ブラック企業化しつつある雇われ店長のハートを抉る。致命傷をハートに負った雇われ店長は笑顔で涙目だ。

「北緯が可愛いのは面だけ…」
「何か言った」
「獅楼にしろお前にしろ、もっと俺に優しくしろし。ケンゴとユーヤが構ってくれなくて俺は心に傷を負ってるんだ。悟れ」
「鬱陶しい」
「2代目以外は性格曲がってんのな、うちは」
「はぁ?」
「あ、3代目か。ソルディオ。平凡な奴だが性格は悪くなさそうだ。ハヤトもなついてた」
「何処見てそう思ったのか判らないけど、一度殴ってあげよっか」
「っとに可愛げがない!」

現役不良相手に敵うかとブツブツ漏らしつつ燃え付きそうな煙草へ口をつけ、灰皿へ押し付けた男はアルバムをバッグへ仕舞った。

「総長以外に優しくする理由がないだろ。尤も、俺らに優しくされたいなんて思ってる奴、居ない」
「確かに…。んな事より、本物のファーザーはどうした?」
「本物の総長、って何、シーザーの事?さっきまで式典に出てたの、見なかったの?」
「だぁから、あのパチもんじゃねぇ、モノホンのファーザーだ」

北緯はぱちぱちと瞬いた。
一瞬、榊に熱があるのではないかと考え、額に手を当てるべきか否か、コミュ障故の悩みで挙動不審に陥った弟分の葛藤を読み取って、大人は白い息を吐く。

「その分だと、マジで気付いてなかったのか。…ちーぃ、まぁ良い、何処でサボってっか知んねぇが、ファーザーの首根っこ捕まえて辛子まん喰わせてやる…」
「今、舌打ちしたね。ユウさんに、」
「ちーぃ、っつっただけだ。舌は打ってない。打つのは舌鼓だけだ、オーライ」
「屁理屈」
「何とでも。大人は狡いもんだバーカ」
「おっさん臭っ」

カルマはカルマでもメンバーではなくカフェカルマの責任者は笑顔で、可愛い弟分の脛を蹴る。

「っ」
「ふふん、ケツの青い餓鬼が人をおっさん呼ばわりすんな」
「…の、野郎!」
「おぅふ!」

声もなく悶えた北緯は然し榊が油断した瞬間、健吾直伝の飛び蹴りで見事に復讐を果たしたのだ。



川南北緯16歳。
チーム諜報班、体力と持久力はないが精神的持久力…根に持つ性格はカルマナンバーワンである、神崎隼人の傘下である。









「はあ、くたびれたあ」

そのカルマ1根に持つ男、神崎隼人15歳。
精神的持久力はピカイチだが100メートル走でも瀕死になる雑魚モヤシは大きく息を吸い、ベンチに倒れ込みながら肺の空気を吐き出した。
着痩せするタイプなので、近頃割れていた腹の溝が薄くなってきた事には気付かれていない筈だ。

夜も健全な生活なので、確実にバレていない。
夜が健全過ぎて太ったとは、思いたくなかった。

「…最近何か、走りっぱなんですけどお。ぐすん」

ブレザーのボタンを外し、中へ差し込んだ手で脇腹を撫でる。
最初からオタク追い掛けっこに参加するつもりのなかった隼人は、華麗なるエスケープを選んだのだ。それを人はサボタージュと言う。

「ボスに他人から貰ったお菓子なんかあげるわけないじゃんねえ」

呟いた瞬間、ブレザーのポケットが震えた。
ただでさえ寝ていないと言うのに朝から体力を使い果たした今、取り出した端末の画面を見ている余裕はない。
どうせ掛かってくる人間など、高が知れている。

「あー、はいはい。誰よお、こんな時に電話してくる奴はあ。もっしー?」
『やあああっと出たわねぇえええっ、馬鹿ハヤトぉおおお!!!』

ベンチで寝たままスマホに応対した神崎隼人はそのまま通話を切ろうとしたが、切ったら殺すと先に言われ、仕方なくベンチの上にスマホを置いた。そのままくるっと体の位置を変え、長い足を持て余しつつ俯せの状態で頬杖をつく。
高が知れているメモリの中で、最も面倒臭い相手に当たってしまったらしいと嘆くにも、今は体力がなかった。

「…何なのお、ジャーマネ。今日の隼人君は立つに立たないと思うからさー、他の男探してくんない?」
『っ、っ、っ!』
「え?なーに?ごめん、聞こえない…あ、スピーカー押すの忘れてた」

省電力モード設定で暗くなっていた画面を叩けば、ハンズフリーにするのを忘れていた事に気づく。耳元で騒がれたら面倒臭いとばかりにスマホを見つめたままタップすると、すぐに甲高い声が漏れてきた。

『アンタって男は…!いい加減になさいよ!契約切られたいの?!』
「んー、別に切れてもよいよお?もっとおっきい会社に移籍するだけだしい。しゃちょーもさあ、駄目とは言わないんじゃないかなー?」
『なっ』
「隼人君はあ、お金の成る木だからねえ。弱小タヌキプロで終わる足長モデルじゃないわけー。判ってるー?」

ああ、アラフォー女のヒスは煩い。笑えるけれど煩い。電波が悪いと言って切ってやろうかとも思ったが、チラホラと目を向けてくる他人を視界の端で認め、諦めた。
煩いマネージャーもだが、知らない人間から話し掛けられるのもまた、面倒臭い。

『新宮社長が甘やかし過ぎたのね…!こっちは幾つ仕事断ったと思ってんのよ!アンタがサボった取材先にも私がペコペコ頭下げてきたの、判ってるわよね!』
「それがオバサンの仕事じゃんかー、隼人君に愚痴られても困りますう。隼人君は病み上がりのイケメンですよー?優しさがさあ、足りないんじゃないかなー?オバサンには難しかったかなあ?はいはい、更年期だもんねえ」
『…んのクソ餓鬼っ!誰がオバサンですって?!誰が更年期ですって?!』
「生理があってる内はまあ、エッチしたげるねえ。ジャーマネと隼人君の仲だもん、仕方ないよねえ」

モデルの交遊関係などパパラッチする物好きはいない。
幾つかテレビにも出ているがタレントと呼ぶには些か露出は少なく、母親との関係も世間には知られていない為に、堂々とハンズフリー通話が可能だ。

『判ったわよ!ちゃんとスケジュール組んで休ませてあげるから、仕事だけはきっちりやって!お世話になった社長が困るのは、幾らアンタでも嫌でしょう?!』
「あは。別に?」
『…ハヤトぉ』
「はいはい、判ったあ。でもさあ、学生の内は勉強が本職だってタヌキも言ってんじゃん。あんまバカスカ詰め込まれるとお、サボりたくなっても仕方なくない?」
『………それは、私が悪かったと思ってる。でもこの世界はね、気を抜いたら一気に終わっちゃう綱渡りの世界なの。勢いがある内に売っとかないと、先なんてないの』

聞き慣れた台詞だと笑い、画面のスピーカーオフを指で弾く。聞こえなくなった声が微かに漏れる通話口にチュッと音を発ててキス一つ、

「迷惑掛けるねえ、ばーさんや」

怒り狂う声を聞く前に、通話を切った。



「…ここで寝たら面倒臭いよねえ。あーあ、怠いけど静かなとこ探そ…」

一度途切れたやる気を復活させるのは簡単な事ではない。そう、一度落ちた人気を取り戻す事が不可能に等しいのと同じ様に。











さて、話は秋の空よりガラっと変わるが、俺はこの度決意致しました次第であります。

俺、俺は、



本日限りでカルマを引退します☆



理由は聞かないで下さい。俺だって皆を残して旅立つのはとても悲しいのです。










「柚子姫」

やっと見つけた、と。
親衛隊に囲まれている彼を見つけ柔らかく笑んだ男は、いつもなら決して話し掛けて来ない筈の衆人環視の中、まるで別人の様だった。
茶会を開くべく集まった隊員らは百人近く。それだけで、光炎親衛隊の規模が窺い知れる。

「止まれ!何だお前、隊員じゃないな!」
「畏れ多くも姫様に何の用だ!」
「気安く話し掛けて来るな!」
「下がれ!」

気の短い隊員らが鋭く制止すると、彼はブレザーのポケットから取り出した白い封筒を差し出してくる。

「コレを」
「姫様に手紙だなんて!なんて図々しい!こちらの姫様は知っての通り光王子様のっ、」
「やめて。皆は良いから、お茶の準備をしてて。大丈夫だから」

奪おうとする隊員を止め、目で『どう言う事だ』と問えば、彼は緩く首を傾げたのだ。

「見せたら判るから、って。仰っていたよ。ボクが代筆したカラ、字は、違うケド」
「一体誰が…」
「猊下が」

何の変鉄もない封筒。
猊下、と言う聞き慣れない台詞に一瞬思考を奪われたが、封を開き中を見た直後にはもう、光王子親衛隊隊員である彼の目に、迷いなどなかった。


「本当、に?これを、…あの方が、僕、に?」
「伝言を伝えるネ。ボクの役目はココまでだから、後は、君が決める事だヨ」

弾かれた様に駆け出した彼はそのまま、木々深い森の中へと姿を消したのだ。





赤い、たった一行のスクリプトを握り締めたままに。











親愛なる君へ。












福、と言う言葉は辞書の中だけに。

幸福、と言う言葉は他のかの元に。



(存在して)
(きらきらいて)




(眩しいくらい)
たしてしまうのだろう)
              (心もも)






少しの隙間もないくらい、に。





(そして僕は描く)
(本当の幸福をこの目で観る為に)

(そして僕は謳う)
(目には見えない幸福を、具現化する為に)





(そして僕は眠る)
(決して自分のものにはならない事を、知っていたから)













どうしてもと言うなら、ABSOLUTELYの皇帝のお陰だと言っておきます。
彼のお陰様で俺の人生は狂いました。確実に元の生活には戻れない事でしょう。


俺には判ります。














「俊」



目が覚めた。
長い夢を見ていた様な気がしたが、縁側の向こう側はまだ明るい。

とは言え、西日だとはっきりと判った。

「長い話は、やはり退屈だったか」
「…ちゃんと、聞いてた」
「そうか、そうか。腹が減ったろう、油蕎麦でも喰らいに征くか」

縁側へ続くスライドドア以外は全て本棚で埋め尽くされた書斎には、夥しい数の医学書や今までの治療実績を記したファイル、そして様々な国の文字が刻まれた魔術書の様なものが並んでいる。

「お前ももう、来年には中学へ上がるか」
「来週、12歳」
「早いものだな。時の流れとは、斯くも容赦なく早いものとは、若い頃には考えた事もない」
「本棚は、此処から此処までで、終わり」

起き上がり、両手を左右の壁へ向かって広げた。自宅でも病院と変わらない姿の祖父は口元に笑みを滲ませ、大きく頷く。

「そうだ。儂の医者歴は、この部屋に収まるものが全てだ。長いようで、大した数ではない。振り返ってみれば、高々12畳の壁一面に収まる、微々たる量だった」
「昔話も終わり」
「ああ、そうだの。貪欲なお前を満足させるに値する話はもう、この老い耄れは持ち合わせておらん」

かつり。
愛用の杖で足元を一度叩いた男は愛用の帽子を被り、パリッと糊が効いたジャケットの胸元に、万年筆を差し込む。

「だが、何処にそれが転がっておるか判らん。世は普遍的に総じて偶然の産物から連なる、無慈悲な次元の只中に在る」
「そうか。蕎麦屋に、思わぬ収穫があるかも知れない。メモを持っていこう」
「お前はほんに、賢い男だわ。儂の孫とは思えんのう、俊」

満足げに何度も頷きながら笑った祖父は、けれど書斎から一歩外へ出ると途端に顔を引き締め、笑う事などなかった。
孫は一人ではないと言うのに、だ。

「お義父さん、お出掛けですか?」
「ああ。夕飯は要らん。お前の手間が省けたのではないか」
「…そんな意地悪を」

気の強さが顔に現れている、決して悪い人ではないが決して善でもない叔母は、控えめを装ってはいるが顔にはありありと、

「じいちゃん。出ていった長女方の孫と仲良くしてると、立場が悪くならないのか?」
「相続の話か。家は既に直江に継がせておるんだ。老い耄れの骨まで狙うておるならいざ知らず、あの女が何を欲しがろうと、他にくれてやれるものなどない」
「人が欲しがるものがお金ばかりとは限らないだろう」
「ほう、道理だ。ならばお前は何と考える」
「『今まで世話をしてきたのは私なのに』」

からり、と。
門扉を開いて飛び出した外の世界。傾いた西日が強く網膜を焼き、眩しさに目を細めた。

「ふ。あれに世話をされた覚えはないが」
「『何にもしなかった義姉の子供ばかり可愛がるなんて』」
「初孫を幼い頃から私立校の寮に入れておいて、可愛がるも何もなかろう」
「『舜が居るのに』」
「あれは馬鹿だが、一人遊びの上手い子だ。友達も多い。儂の話など聞こうともせん」
「男の考える理由を、女性がどの程度把握しているかなんて、俺には判らない」
「…賢い孫だ。それは儂にも判らん、難題だわ」

長い長い影がアスファルトに並んでいる。
部活動帰りだろうか、中学生や高校生が時折、車の少ない車道を自転車で駆け抜けていった。

「蕎麦、油抜きにしないとばあちゃんから叱られる」
「十割蕎麦など年寄りの食い物だ。少々コレステロールが高い程度で、女とは何故こうも口煩いか。お前に言わせれば儂が従うと思っておるらしい」
「俺はじいちゃんに長生きして欲しい」
「…判った、判った。その夜に愛された円らな瞳でそう見るでない。老い耄れの顔に穴が開く」
「鶏南蛮にして、蕎麦だけ食べたらイイ」
「鶏南蛮を寄越せと言う事か。賢いのう、儂に健康を薦めて自分は南蛮を二枚喰らう企みとは、末恐ろしい孫よ」

橙色の空に燻る巨大な灼熱。
ゆらゆらと陽炎が揺らぐアスファルトへ、ぽとりと、蝉が一匹落ちていった。


「蝉の一生」

何を考えているのか、厳めしい表情を一時も和らげない男が帽子の鍔に縁取られた影の下、唇に笑みを浮かべる。
そんなに今の言葉は可笑しかっただろうかと首を傾げれば、

「空蝉の一生は常に、己が主の為に存在する」
「うつせみ?」
「その為ならば名も命も惜しくはない」
「それは新しい話」
「…ああ、そうだの。儂にはまだ、語れる話が残っておったわ」

からからと。
弾む音は蕎麦屋の戸か、笑みか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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