帝王院高等学校
なんと!抜き差しならない非常事態でしたか!
連れていかれる光景を、追い掛けたのは無意識だ。
負ける事など有り得ないと何処かで信じていた人が、守られ、抱かれ、運ばれていく、それは何と恐ろしい光景だろう。

縋り付いて何が言いたかったのか、追い掛けていく間、何を渇望していたのか。今はもう思い出せもしない。衝動は一時のものだ。
それとも、甲斐甲斐しく他人の世話をするその背中に、怒りでも覚えたのだろうか。ならばどれほど浅ましい事か。ただの嫉妬だ。

醜い、子供の地団駄。

「…く、そっ!」

殴り付けたエレベータードア。傷一つつかない分厚い鉄板に憤りは増すばかり。あの人なら、無惨なほど壊すのに、などと。また、未練がましい事を考えている。

瞼を閉じれば焼きついて離れないその映像は自動再生、ならば瞬きすら耐えねばならない。頭を壊せば止まるのだろうか。


怒りも、嫉妬も、名のない焦燥感も、喪失感も、全て。



「人を…っ、子供扱いしやがって!穢らわしい…!」

開いたままの眼球が乾いていた。
浅く、だからこそ早く、繰り返す息継ぎはまるで犬のそれに似ている。

はっ、はっ、はっ、自分は本当に、本物の犬に、なってしまったのだろうか。

「深呼吸…は、息を吸ってから、吐く」

涙は出ていない。
眼球はパリパリに乾いている。

泣いたりしない。
保護者が必要だった頃から無慈悲にも一人で、今の今まで、生きて来たではないか。


『その汚い餓鬼は何だね、ユエ』

実の父親から初めて与えられたその言葉を思い出しても、感情は少しも乱れたりしない。

『ふん、祭の名を名乗りたくばそれ相当の労力を見せよ。貴様の様な品性も知能もない子供に出来る事は高々知れておろう、精々、ジュチェの機嫌を取ってこい』

穢らわしい。穢らわしい。穢らわしい。
あんな穢らわしい男の血を継いだ自分の体も、そんな男に頼らなければ食べる事さえ事欠いた、弱く幼く愚かだった過去も、全てが穢らわしくてならない。

『ほう?朱雀に取り入る前に、裕也に取り入るとは、満更の馬鹿ではないか。良い、精々グレアムの犬に媚びへつらい、我が祭家の末永い繁栄に貢献せよ』

祭楼月、この世で最も穢らわしい男。
欲にまみれた賤しい男。あんな男は、父ではない。あんな男に汚されて尚、強かにも富と名声を望み果たされず、若い男と逃げた女など母ではない。

愛人ですらなかった、使い捨ての女と自分は、違うのだ。


悲しくはない。
家族はとうに一度、壊滅的なまでに失っている。



『おいで』
『手ぇ洗ってこい』
『今夜は満月だろう、』
『今夜はお前の好きな中華だ。但し、酢豚の肉は鶏肉だがな。煩ぇな、文句は総長に言え!』
『可愛いカナタの心が落ち着くまで、俺が抱き締めてあげよう』


だからこれは二度目だ。
何を悲しむ必要がある。失うのは得意だろう?

家族も、友も、全て失ってきたではないか。だからまた、そうなっただけ。何を悲しむ必要がある。

天涯孤独など同情を引く要素にはならない。腹違いだろうが兄も居て、中身はどうあれ、父親も生きているのだ。


思い出すな。



『たまに、さあ』

やめろ。
どうして瞼は開いたままなのに、自動再生しようとする。
誰がそんな事を頼んだ。誰がそんな事を望んだ。

何故あの男は普段他人を舐めくさっている癖に時折、そんな愚痴めいた独り言を聞かせてきたのだろう。

『遠い所に行きたくなるんだよねえ。あの狐色のお月様とかさあ、何にも嫌な事なんかなさそうだと思わない?』

やめろ。
乾き痙き攣った眼球から神経を這い大脳を刺激するパルスに今、全身で命じている。やめろ。頼むから、やめてくれ。





『いつか、』

自分は、そんなに酷い事をしたのだろうか。
誰も祝福してくれないのに図々しく生まれてきたから、誕生の瞬間に判決を下されていたのだろうか。
まるで呪いの様に、地獄逝きの烙印を心臓にでも、刻まれているのだろうか。



『二人で、誰もいない所に行こう。カナ』


体は成長しても脆いらしい涙腺は、意思に反して決壊した。
乾いた眼球を潤わせる為の自然の摂理だと、説得力のない言い訳は今、必要だろうか。


「う、ぇ」

五線譜から消えていく音符が見える。
どうして大切なものはただの一つも、残らないのだろう。















「お忙しい所すみません、こちらでお世話になっております、進学科山田太陽の母でございます」

リブラ寮、南。
一部の最上学部生、並びに職員、従業員らが寝泊まりしている南棟の一階エントランスに、そのけしからんおっぱいは現れた。

「え…Sクラスの寮、は、此処ではないです、が?」
「あら、そうなんですか?困ったわ、入口の守衛さんから白い建物が寮だと聞いて来たので…」

普段男だらけの生徒に囲まれている大人達は動きを止め、目のやり場に困り果てながらもパソコンを叩きまくる。顔はそれほど目立つ美女ではないが、化粧済みの女性など男から見ればどれも同じ顔に見えるものだ。

「いえ、寮は4棟ありますし迷われても仕方ない。進学科の北棟は、此処から出るとすぐに噴水が見えると思いますが、その脇の水路を真っ直ぐ進んでいくと辿り着きます」
「水路を真っ直ぐ、ですか」
「今はフラワーロードになっていますから、楽しんで頂けると思います」

にこにこと一生懸命女性受けする会話を捻り出した通りすがりの年配の教師は、然し目の前の魔女が花に全く興味がない事には気付かない。

アラサー女性の大半は、花より団子、山田家の魔女は花より毛蟹派だったのだ。旦那にムカついたら投げても良し、刺と蟹アレルギーでダブルの効果をもたらす。


山田陽子35歳、人生がRPGな人だった。


「ああ、それと北棟は他の三棟と違って、エントランスにコンシェルジュが待機しています。部屋番号はそちらで尋ねられて下さい」
「ご丁寧に詳しく有難うごさいました」
「いえいえ。楽しんで行かれて下さい」

ぶるん。
弾けるFカップは、生来太りにくい体質である彼女の細い腰との相乗効果で、限りなくけしからん揺れだった。コンシェルジュと言う単語にビビっているとはとても思えない、絶対的ボリュームである。

然し尻にはボリュームがない為に、やはり日本体型から抜け出せそうにない彼女は、バインバインと左右の爆弾を揺らしながら、水路を真っ直ぐ闊歩した。

「ごめんあそばせ。こちらでお世話になっております山田太陽の母でございます」

然し庶民育ちの魔女は噎せ返るフラワーロードとブルジョワスメルにあっさり冒され、北棟には辿り着いたものの、何処かで道を踏み外していた様だ。

「息子の部屋は何号室ざーますか?オホホ、オホホホホ」

悲しきかな、平凡なおばさんにこの帝王院学園は、少々奇抜過ぎた。














「「「「「………」」」」」
「お通夜かい」
「上手い、座布団一枚」

悲壮な表情でカフェテリアの一角に座り込む高坂夫婦、並びに嵯峨崎夫婦、加えてその長男の5人を眺め笑顔で吐き捨てた男の隣、ウッドチェアに敷かれている座布団を手に取ったダサジャージは爆笑する。

然し笑っているのは、笑いのツボのストライクゾーンが宇宙より広い東雲村崎だけだ。

「こっちはこっちでお通夜モードですけど、先輩」
「ああ、そっちは放っといていい」

両手を組み、ずーんと落ち込んでいる着物男は先程から一言も喋らず、流石に可哀想になったのかコーヒーを人数分注文していた某院長は、そっとメニューを差し出してやった。

「何でも好きなものを頼みなさい」
「…院長、その半笑いは何だろうねぇ」

然しその顔は笑っており、言葉も何処か、子供扱いしている。気付いたが反撃する気力など、今の腹黒にはない。

「や、怖いものなんかなさそうな君も、流石に同級生には敵わないんだと思ったら、つい。気に障ったなら謝る」
「………構いませんよ、どうぞお好きに笑って下さい」
「そんな落ち込まなくても」
「貴方には判らないんです。勉強よりも下ネタが重要だった初々しい中等部時代に、精通していなかった事で私がどれだけ焦っていたか」

腹黒着物曰く、早い同級生は初等科の頃から彼氏持ち。惚れた腫れた切った張ったの会話に、興味はあるが混ざれなかった事で、若き日の彼は孤独だったらしい。
女子校であればこれは、生理が始まったやら彼氏が出来たやらにすり替わるのだろうか。

「それでひねくれたのか?そもそもひねくれてたから友達が出来なかったんじゃないか?」

悪気のない院長は、言葉で腹黒を殺そうとしている。益々肩を落とした腹黒は然し、その程度では死にはしない。

「子供の世界には子供のルールがあるんですよ。私は知能だけは今と変わりませんでしたが、体は何処までも天使でした。ええ、欲を知らぬ天使です。勿論、今も」
「それを一般的に童貞と呼ぶ。どっから見てもそうは見えないのに…ぶふっ、まぁ、何だ。童貞だからと言って悲観する事はないさ…すいません」

子持ちの男の台詞を、腹黒は笑顔で黙らせた。

「それに引き替え、初等科の頃から親衛隊に囲まれ、学園の外でも浮き名を流していた陛下は心から敬愛するに相応しい方だった…。IQは確かめた事がないから判らないが、それでも私が認めていたのは、陛下お一人だったんですよ…」
「へぇ、王族が通ってたんですか。留学で?」
「それなのに時の君はそんな繊細な私を揶揄って…」

会話が通じていない二人に、山田大空は気付いていたがさらっとシカト。
当の初代『時の君』は、寡黙で賢かった叶冬臣がテストで手抜きしていた事に気付くや否や、生来のサドを発揮したのだ。

「あれは母が体調を崩したと聞いた、13歳の頃でした…。進学科には年間を通して休暇がない為に、私はどうしても授業免除の権利が必要でした」
「授業免除なんかあるんですか?ほー、私立は変わってるな」
「一斉考査が満点なのは進学科であれば当然の事、後に控えている選定考査でつい、本気を出してしまいましてねぇ…。帝君にならないと授業免除されませんから…」

そして、その年の選定考査で満点首位が二人誕生した。
その次の選定考査ではまた手抜きし2位に甘んじた為に、通年帝君と崇められたのは帝王院秀皇その人だったが、冬臣はそれで良かった。寧ろ美しい男が崇められるのは当たり前だと考えるからだ。

だが然し、たった一度でも首位は首位。
冬臣は秀皇率いる中央委員会への打診を受け、感電した。

「派手な事は苦手なんですよ、私は…」
「は?そんだけ派手な癖に?叶さん、コーヒー来ましたよ」
「代々、忍んで生きてきたんです…」

根っからの忍者が顔を覆う。
冬臣の鬱病を疑う根っからの医者はコーヒーを啜り、うまいと囁いた。

「私立高校のカフェはレベルが高い。良い豆を使ってる」
「何とか断ろうと私は試行錯誤しました…ええ、あれこれ考えました。部員の居ない廃部間近の園芸部へ入部し自動的に次期部長になったり、私などが陛下へお声を掛けるのはとんでもない事です。なので時の君へ打診へ行きました」
「パンフにアンダーラインのフードコートって書いてありましたよね、スペイン料理なんか本当に喰えるんですか?俺、油に海老が入ってる何とかって料理、好きなんですよ」
「けれど、それが失策だったのです。叶冬臣最大唯一の汚点です」

腹黒の昔話には全くついていかない院長は、物珍しげにメニューを眺め、へー、だの、ほー、だの、感心しきりだ。
姉とは違い大食いではないが、家政婦さんを雇っているので一切家事をしない妻とは半別居中に近く、普段はそれぞれ好きなものを食べている。つまり普段妻が何を食べているか聞かれても、ヘタレ夫には答えられない。

ほぼ病院に籠っている現役医者は、少ない時間を見つけて簡単に採れる食事を好んだ。美味しくなかろうが飽きようが、誰が聞いてもバランスが悪かろうが、あんパン・メロンパン・焼きそばパンのローテーションで構わなかったのだ。


「私はねぇ、可愛い弟をあんな悪魔の血を引く子供にくれてやるつもりは毛頭ありません」

囁きは静かに。
手を組んだまま、ゆらりと目を上げた男は『龍神』と謡われる二つ名を匂わせる双眸を、



「父母を奪い、可愛い妹までも奪われた日から、神も仏も信じてはいませんが、ねぇ…」

静かに、一人の男へ注いだまま。














「お前、叶に惚れてんのか?」
「ぶっ」

二葉が去って、バスローブの腰紐を閉め直した男はキッチンに消え、コーヒーを淹れてきた。意識はほぼ覚醒しているが体は半分寝ている今、それは有り難い。
素直に礼を言ってカップに口をつけた瞬間、狙い定めたかの様に落とされた爆弾さえなければ。

感謝は純粋な感謝のまま、だったのに。

「何処を見たらそうなるんだテメェは…!」
「や…叶に襲われてる時、何か楽しそうだったろ?」
「殴るぞ」
「あー、まぁ、お前が総長に惚れてるのは知ってっけど…」

だからと言って練習で二葉に抱かれるのはやめておけ、などと。訳の判らない台詞を浴びせられた高坂日向全裸の気持ちが、誰に理解して貰えただろう。
武士の情けで下半身は布団で隠しているが、武士の情けもない野武士は日向が指摘するまで全開のバスローブから、何も彼もブラブラさせていた。

自覚はないが、二葉曰くロマンティストの日向の精神は風前の灯である。

「…頭痛ぇ。二葉もテメェも俺様から言わせりゃ一緒だ」
「んだと?泣かすぞテメー」

寧ろ泣いてやろうかゴルァと心の叫びは、鋭い睨みへ弾丸として込めた。
片眉を跳ね上げ、勝手知ったる日向のドライヤーをブオーと髪に当てている男は、モデルも斯くやと言うプロポーションを白いバスローブで包んでいる。褐色の肌が、酷く生えていた。

「つか、腹減ったな。そろそろ2時だぜ」
「…好きに持ってこさせろ。テメェには小間使いが居るじゃねぇか」
「は、気付いてやがったか。後少しで寝首掻かれてた所だったんだぞ?良くグースカ寝てられたなぁ、間抜け猫」
「誰の所為か判ってんだろうな…」

純粋な怒りだ。
可愛さ余って憎さ百倍、泣かしてやると立ち上がり、武士の情けなど要らんとばかりに布団を蹴り飛ばしてベッドから降りる。

「テメェは泣かす。今すぐ泣かす」

ピュー、と、口笛を吹いた佑壱はドライヤーの風を浴びたまま、鏡へ向き直った。

「やだー、セクハラ親父ー」

背後から抱き込み、首輪のない首筋へ噛み付く。痛みを感じていない訳でもあるまいに、ドライヤーで毛先を遊ばせている男は他人事の様な声を上げたのだ。

「くっは、こそばゆい」

片手をバスローブの袷から忍ばせ、弾力のある胸板を撫でる。指先に触った微かな感触は、間違いなく、嵯峨崎佑壱と言う体の中で最も大人しい、最も慎ましい、乳首だろう。

「高坂君はぁ、ママのおっぱいが恋しいのかなぁ?ママとぉ、仲良くお電話してたもんねぇ」
「犬は卒業したのか、赤狸。安心しろ、ママよりお前の方が胸がある」
「…それ言ったらお前、殺されんじゃね?」
「言うなよ」

佑壱の腰に回していた方の手でドライヤーを奪いスイッチを切れば、ムッとした様に顔だけ振り返ってくる。
計らずも目の前に紅い双眸を捉え、そのまだ下の赤へ、噛み付いた。

「ふ…」
「コンタクトのまんま風呂入ったのか」
「あー、忘れてた」
「馬鹿が」

抵抗などない。
顎を掴まずともキスなどもう、何回したか知れない。
全身を撫でようが、壁掛け鏡の隣へ押し付けた体に再度食らい付き、触れられる事に慣れていない乳首を指で転がそうが、膝で腰紐のまだ下を刺激しようが、だ。

懐が広いのか、単に、何も考えていないのか、これが佑壱にとって大した事ではないのか。日向には判断がつかない。

「何、今頃したくなったのか、淫乱猫」
「お陰様で、四六時中発情する淫乱なもんでな」
「俺ぁ腹減ったっつってんだろうが」
「すぐイけんだろ、お前なら」

鼻に皺を寄せた顔は面白かった。
その顔を覆う様に広げた手。奥二重の目頭から切れ上がった目尻まで、左右それぞれ親指と中指の腹でなぞり、鷲鼻気味の高い鼻梁の付根を挟んだ。

「何してんだテメーは、流石の俺でも目ぇ撫でられたくらいで勃ちゃしねぇぞ」
「此処に不細工な皺がある」
「はん?で、優しいプリンスは皺を伸ばしてくれてる訳。…けっ、期待して損した」
「へぇ、期待してたのか」
「膝でゴリゴリされてなぁ、期待しないお袋さんと画面の向こうの俺クラスタは居ねぇんだよ。覚えとけ」
「また馬鹿ほざいてやがる」
「おわ!」

わざとらしい程の声は、言う通り膝で遊んでいた下半身を布越しに握ったのと同時だ。言葉の割りに柔らかいなと耳朶へ甘噛みしながら囁けば、ドライヤーのコードを伝う褐色の右手が、引き千切る様にコンセントから抜いたプラグが額に当たる。

「痛ぇ」
「天罰が下ったんだ高坂日向」
「どう見ても悪意に満ちた偶然だろうが、調子に乗んな」
「どうよ、バスローブと生乾きの髪、ガラパゴス帰りの俺は」
「あ?ガラパゴス?」

台詞の意味をまともに考えるだけ無駄だと、コードを束ねた男から胸元にドライヤーを押し付けられながら半歩下がり、顎を掻く。

「ゴージャスだろうが。俺が女だったら妊娠してるなこりゃ」
「自画自賛かよ」
「叶なんかより俺の方がエロい」
「…ああ、色気の話か。諦めろ、あれに勝てる奴は中々居ねぇ」

頭の中がふわふわした。
これは睡眠薬がどうののレベルではないと今更ながら考えてみたが、何が原因か思い当たらない。先程までは体が寝ていたが、今は逆に意識が半分寝ているのかも知れなかった。

「けっ、つまんねー奴だ」

悪口を言われている。
ずかずかと離れていく赤毛を何となく眺めながら、チェストの上へドライヤーを適当に放り、まるで犬の様に追い掛けるばかり。

ベッドに膝乗りで伸し上がった男が白を脱ぎ去れば、褐色の背に浮き上がった見事な紅蓮が、夢見心地な網膜を容赦なく灼いたのだ。


「Angel」

唇は今、何の単語を奏でたのだろう。
怪訝げに振り返った男が何かを投げ付けてきた。咄嗟に受け止めたそれは白く、ふわふわとした手触りだ。

何かに似ていると数秒考えて、そうか『羽衣』だ・などと。後から考えれば、その時の自分はどう贔屓目に見ても正常な思考ではなかった。

「王子様、お前には悪魔の呪いが掛かってる。叶に色気なんかない」
「…何?」
「色気っつーのは、こう言うのを言うんだ」

黒。
黒一色のシーツの海に、黒のブランケット。およそ楽園とは掛け離れた世界の中央で、妖艶な笑みを惜しまないそれは、それこそがまるで悪魔の様に。


「…何だよ反応薄ぃな、オカマばっか相手にしてっから目が腐ってんじゃねぇのか?抱きたいランキングなんつーふざけたランキングに一応入ってるこの俺を前に、ぼーっと突っ立ったまんまとは舐めてやがる」

横たわり頬杖をついた男がまた、鼻に皺を刻む。水晶体を通し視神経を灼き焦がした光景は、悪魔の絵画だ。

「あー、殿堂入りした元一位にはあれか、通用しねぇってか。そりゃそうだ」

正常な思考ではない。例え正常だったとしても、狂わない雄など存在しただろうか。

「お前もそう思ってんだろ、誰からも認められた抱かれたい王子様?」

揶揄めいた笑みが真下に見える。
模造品とは思えない灼熱の紅に映り込む獣の様なそれは、何処の哀れな雄だったのか。

「あ?…おいおい、正気か抱かれたい男。ギンギンじゃねぇか」

嗤う声が鼓膜を擽り、悪戯な手が腹の下を擽る。

熱い、と、わざとらしく囁かれた掠れた声は小さく、哀れにも欲に冒された屹立を握り込むその手こそ、燃える様な温度。

「総長に振り向いて貰えないからって叶に乗り換えたのか?やめとけ、アイツは山田の餌だ」
「違、う」
「安心しろ、男なんてものは好きじゃねぇ相手でも固くなっちまうもんだ。流石に嫌いな相手には勃起しねぇ。好きじゃないと嫌いはノットイコールだ」

他人の手が弄ぶ様に蠢く感触は判る。
同じものとは思えない質量の差は理性の差を識らしめている様に思え、八つ当たりの様に押し付けた。

「躾の悪い粗チンを誰の美チンに押し付けてやがる。テメーなんざ手コキで十分だコラァ」
「半勃ち」
「そりゃお前、そこは中々鍛えられない所ですし。膝だろうが勃起チンコにだろうが、ぐりぐりされたら弱いもんです」
「完勃ち」
「躾のなってない子ですいません」

顔を覆う男の手を剥ぎ取りながら、同じ台詞をつい最近聞いた様な気がすると考えながら熱を帯びた息を零す。
シーツの波へ縫い付けた両手に指を絡ませ、張り詰めた筋肉に覆われた太股の下へ膝を滑り込ませれば、隠された箇所は全て白日の元に。

「おい、何だこの阿呆な体勢は。分娩台に乗った気分なんスけど」
「そうか」
「いや、そうかじゃなくてな。テメー、俺のケツにンなもん突っ込んでみろ、主人にチクりますからっ!俺は総長のものだ!」
「嫌われたんじゃなかったのか」

ゆさゆさと、反り返るそれをなぞる様に腰を動かせば、一瞬だけ傷付いた表情を浮かべた顔がすぐに痙き攣る。確かにノットライクとヘイトは別物だと呟けば、煩いと返された。

「おまっ、今、人のお袋さんに何塗った?!先走りか!カウパーか!食べられない蛋白質か…!汚ぇ!もう後でガラパゴスにとんぼ返りするしかねぇ」
「ガラパゴスでもドデカニサでも何処でも連れてってやるから喚くな、頭に響く…」
「あ、うぁ、何で下腹部にまで先走りらしき感触、が?!」

ぶるりと揺れる度に、割れた腹筋に落ちる雫が残った理性を飛散させる幻覚。せめてもの意地で押さえ付けた褐色の両手は抵抗を防ぐ為などではなく、自分の行動を制す為の枷だ。

止めるのは自分。狂うのは自分。悪いのは、自分。

「待っ、俺の、事はっ」
「何?」
「…何でもねぇ、とっとと射精しろ。がつがつ擦ってさっさとしろ。あーもー、舐めてやっから舐めろ!んなママゴトで終われっか!大股開いてんだぞ、こっちは!」
「好きだ」

目を真っ直ぐ、見つめて。
言ってから、なけなしの理性を掻き集める。

「卵焼きは、な。でもあの炒飯は認めねぇ」
「テ、テメ、」
「…ふ、何真っ赤になってんだ。犯すぞ。ああ、もう犯してたか。悪かったな」
「だあああ、うっぜぇ!ぺっぺっ、えんがちょ!」
「エロい涎だらだら垂れ流してる癖に、小便臭ぇ事ほざくな。萎える」
「テメ…!」

意識は何処で眠りについたのか。
暑いと呟きながらすっきり目が覚めたのは、乳白色の湯船の中だった。



「…は?」

グゴーっと言う男らしい鼾を発てて寝ている男の膝に乗せられ、背後から抱き締められてると言う酸っぱい…いや、フローラルな現実を受け入れるには、高坂日向の18年弱の人生は余りにもそう、短すぎたのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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