帝王院高等学校
魔女の呪いは音もなく忍び寄る
ぷるん、と。
たっぷたっぷ揺れる胸元を反らし腰に手を当て、ハリウッド女優が掛けていそうな大きすぎるサングラスを外した人は、吊り上がり気味のアーモンドアイを細め、茶色の双眸に陽光をキラリと反射させた。

「ふーん、厳つい西園寺とは違って、いつ見てもこっちはブルジョワだわね」

がっぷり開いたVネックにスパンッとサングラスを突き刺し、警備員らの視線をチラホラ集めつつ、質素な携帯電話をパチッと開いた彼女は、久し振りに見た息子の名が記されたメモリを押したのだ。

「…出ないなんて、我が子ながらいい根性だわ」

再びパチンッと鋭く携帯電話を閉じた人は、かつかつとヒールの音を響かせ、ブルンブルンと暴走族のバイク音の幻聴を見る者に与える豊かな胸を揺らしながら、



「良し、ぶん殴る。」


今世紀最強の魔女。
否、腹黒サド大魔王を唯一打ち負かす事が出来るその人は、帝王院学園の敷地へ足を踏み入れたのだ。



タイトなワンピースの下、エロい編みタイツのまだ下、太股にガッチリと、固く包帯を巻き敷いたまま。













無邪気な程の笑みを浮かべたその人は、その白魚の様な手に握り締めた鉄の塊を突き付けた。



提示された選択肢は二つ。

いつか、全てを引き換えにしても構わないとさえ願った最愛の人は、死んだ様に目を閉じたまま。チャームポイントの広い額に当てられた冷たい鉄の塊には気付かぬまま、健やかに。






『これは命令じゃない、ささやかなお願いだよ』



何故こうも、この世は無慈悲なのか。
何故姿なき神は、こうも易々と絶望ばかり与えるのか。





『こんなに愛しているのに、君は僕を愛してくれないの?』



答えを知る日は、いつ。















「ふ、うふフ、ヒャハはハハ!」

外は活気に満ちて、外は見渡す限りの幸せな人間ばかり。
けれど少しばかり地下へ潜れば、此処はこんなにも薄暗く、こんなにも悲劇で満ちていた。

「寝てル寝てル、柚子姫君のクロロホルム、やっぱり量が多かったんダ。可哀想に、可哀想にネ…、天の君」

牢獄じみた鉄格子から覗く中は静まり返り、幾つか灯された灯りの下、蹲る少年を照らしている。

「寂しいよネ…。こんな所でヒトリボッチなんて、ボクなら耐えられない。大丈夫だヨ、此処は明日までは安全だからネ…」

がちゃり、と。
重い扉を押し開き、天井に張り巡らされた無数の穴を見上げる。アスファルトの四隅は格子状の金網が張り巡らされており、通常は、非常時に応じて貯水されている部屋だ。
外の電子扉を閉めてしまえば、圧を掛けて半真空状態になる。それは流石に警備の役割だった。

「楽しい楽しい新歓祭、どうしテ君だけ、こんな所に居なきゃいけないのかナ?
 判ル?君は悪くないヨ、柚子姫はネ…恋に溺れてルんダ。
 だから柚子姫も悪くない。あの子も君もボクも、なーんにも、悪くな、」
「なら、悪いのは誰だ?」

ぐるぐると、蹲る後輩の周囲を踊る様に回り続けていた彼は、ピタリと足を止めた。
起きている筈がない。だから此処へ来たのだと、瞼を限界まで開いて、恐る恐る、下へと目線を落としていく。

「月はない。陽は限りなく遠く、雲は永劫掴めない。ならば何故、空に雲は漂うのか。何故、眼に視えるそれを、俺も君も、掴めないのか。答えは何処にある」
「ナ、んで、」
「答えは何処にもない。答えは自分の裡にある。それは永劫、掴めない。何故ならば物語は本来、眼には視えないからだ」

両手を見た。
後ろ手に縛られたそれは縛られたまま、声は聞こえど、蹲る体躯は俯せのまま微動だにしない。

「ひ、ヒィ、おおおお前は何ダ!何で起きているんだヨ!」
「起きてはいない。けれど眠ってもいない。何故ならばこれはただの契約、一時の暇潰し。あの子はまだ目覚めていない。けれどヒントを与え過ぎた。『俺』があの子を、心から愛しく思っているからだ」


何だ。
この、恐ろしい威圧感を秘めた声は、何だ。

誰からも嫌われた外部生、気持ち悪い気持ち悪いと罵られ、ついには制裁を受ける羽目に陥った、自分よりも可哀想な後輩ではなかったのか。



「おはよう、国際科の宝塚敬吾君。」

漸く、顔を上げた男の顔には爛々と、燃える様に輝く漆黒の瞳がある。見つめられた瞬間に腰を抜かした男は最早言葉もなく、ガタガタと、目に見えて震え始めた。

「君は俺を何だと問う。なら聞こう、『貴公は私を誰だと思いたい?』」

声が変わった。
有り得ない。物真似にしては余りにもそれは、似ていたのだ。この学園の生徒ならば誰もが知っている、あの気高い存在に。

「へ、陛、陛下…?!」
「『そう、人は私を王と呼ぶ。レヴィ=グレアム、私に与えられた名はそれ以外に存在しなかった』『けど俺は違う。お前は俺が、誰だと思う?なァ、悪餓鬼』」

また、だ。
今度は少し甲高い、けれど男だと判る声。震えは酷くなるばかり、もう、唇からは言葉など一つも。

「『俺は誰でもねェ。夜でも騎士でもなく、愛した男のものだった。ただ、それだけだ』」

誰だこれは。
誰だこれは。
誰だこれは。

「『今一度問うぞ小僧。貴様の目に映るそれは、揺るぎなく真実だと言い切れるか?』」

心の中を渦巻く恐怖はその一言を繰り返し、三人もの声音を易々と発した男はそこで、少しばかり沈黙した。

「そして俺は己が俺ではなく、然し他の誰でもない事に気付いた。では本当の俺は何処にある?此処にある。けれど何がそれを証明する。体か?名前か?宛にならない、儚い記憶なのか?」

何処か、で。
この男を何処かで、見た様な気がした。そんな筈はない。一年帝君は何度も目にした。帝君の癖にそうは見えない、騒がしい子供。


あの健吾が傍で笑う、その価値もない子供だ。



「そうか。健吾。君は彼を愛しているのか」
「っ、違う…!アイツはボクから家族を奪った!父さんも母さんも余所で産まれタ曾孫なんかより、実の孫ばかり可愛がった!ボクは父さんも母さんも…省吾お祖父さんだって、愛してタのに…!」
「Open your eyes」

パキン、と。
脳の中が割れる音。

「全てをありのままに。君は君以外の誰でもない。それを証明するのは、お前だけだ」
「ボ、ク、だけ…」
「聞かせてごらん、君の物語を。此処は静かでとても寂しい所だから、遠慮する事はない」
「は、い」
「俺は沢山の物語を探しているんだ。…さァ、お前の物語は俺を、満たしてくれるだろうか」

ふわりと。
柔らかく笑んだ唇に、何故、跪いたのか。理由は判らない。そもそも、理由などなかったのかも知れなかった。



「ケイゴ」


けれど、ただ、言える事は一つ。
密やかに神と崇めていたあの美しい男よりも、今は。

「で、も、ボクは、ちゃんと、喋れない」
「どうしてそう思う?お前の声はこんなにも、俺の耳を燻っているのに。言ったろう、遠慮は一つも、此処に存在してはならない」
「ハ…イ、猊下…」
「聞かせてごらん、」



甘く名を紡ぐその声が、神よりも、尊いとさえ。





「俺が眠るまで、ささやかな子守唄を。」















飛び起きた。
ばくばくと心臓が荒ぶっている。


「今の、声は」

辺りを何度も見回すが、隣の男以外誰も存在しない。ならば夢かと思い当たって漸く、嵯峨崎佑壱は自分が寝ていた事に気付いたのだ。

「…20分、くらいか。危ねぇ、片付けんの忘れてた。フライパンが痛む」

胸の上に乗っていた重い腕を弾き落とし、起き上がる。寝ていた割りに寝起きは良いので、長い時間ではない。

凄惨なキッチンの床をまず片付けて、手早く洗い物まで済ませれば、髪が油っぽい様な気がしてくる。
これはいつもの事だ。特に胡麻油は匂いが強いだけに、下手したら煙草よりも強く匂いを移す事があった。クラブ帰りの女には決して近寄らない程、鼻が良い男には辛いものがある。

「シャワーでも浴びるか」

呟いて、スタスタとバスルームへ向かった。自室のバスルームではなく、勝手知ったるこの部屋のバスルームだ。

「何かこれ、同棲じゃねぇか?同居?俺を監視しなきゃなんねぇ癖にグースカ寝こけやがって、逃げるぞマジで」

その手前、勝手知ったるクローゼットをごそごそと漁り、包装されたまま仕舞われてあった新しい下着と、前から目をつけていたバスローブを引っ張り出す。
日向が着替える度にチラチラ見えていたのだが、早朝のランニング以外では殆ど制服のまま過ごす日向がバスローブを纏う事はない。ざっと見た所、シャツとスラックスばかりのクローゼットの片隅に数着、有名メーカーのジャージが入っているだけだ。

「上着はLLで下は3Lだと?足が長ぇって自慢してんのか、うぜぇな」

引き換えに、ジャージなど一着も持っていない佑壱の私服は、アメカジばかりである。日本にはほぼサイズがないと言う理由が最たるもので、大の革好きも影響していた。レザー、レザーこそこの世の全て。

「だが然し、バスローブに逆らえる男は居ねぇ」

そう、街中のマンションの自室にはバスローブが何着もある。ついでに言えば、ご存じの通りファンシーなスリッパも幾つもある。日向が軽く引いた、ふわふわアニマルスリッパだ。
これは単に佑壱の趣味…と言うより、毎年誕生日に兄の零人から送られてくる、半ばいやがらせでもあった。

然し残念ながらそのプレゼントは、本当の意味でのプレゼントとして機能している。嫌がらせを満更でもなく受け取る男、それが嵯峨崎佑壱。
顔に似合わず可愛いものが嫌いではない、特技はキャラ弁の、オカマと一字違いのオカンだ。

「何だこれ。リラックスアロマ〜ガラパゴス諸島の風を乗せて〜?」

オカン心と言う名の乙女心を秘めたロン毛は、恥ずかしげもなくピンクのヘアクリップで髪を巻き上げ、脱衣場の片隅に放置されていたキラキラな缶を持ち上げる。タイトルはアレだが、どうやらただの入浴剤らしい。

パカッと蓋を開けば、悪くないメルヘンな匂いがした。フローラルな香りだ。佑壱には全く似合わなかったが、そんな小さい事は気にしないおおらかな男、だからそれが嵯峨崎佑壱17歳なのである。

「湯、溜めてなかったな。まぁ良いか、髪洗いながら溜めてりゃ」

どうも開けたばかりで然程使われていない入浴剤は、推測するに親衛隊の誰かが持ち込んだものだろう。
ならば好きなだけ使って良いと言う結論に至ったオカンは、堂々と股間をブラブラさせながらバスタブの栓を落とし、ジャッバーンと蛇口を全開にした。

「あ?昨日風呂入った記憶ねぇな、そう言えば。やべぇやべぇ、高坂の粗チンよか俺のエクスカリバーのが若干ばっちいかも…」

ドドド…と、凄まじい音を発てて飛沫を撒き散らすバスタブをBGMに、洗い場の姿見で隈無く己の筋肉をチェックした男は満足げに頷いてから、はたりと動きを止める。
そしてそろそろと下半身を捻り、引き締まり過ぎた尻を鏡に映して、眉を寄せたのである。

「…我ながら良いケツだぜ。確かに良いケツだが、こんな所に突っ込むのか?あのエグいアレを…?いや、無理。肉体的には無理じゃないかも知んねーけど、精神的に無理。かと言って俺が高坂のケツをどうのこうのっつーのもなぁ…うーん」

タイルの上に男らしく座り込み、シャワーを捻って長い髪を濡らし、シャコシャコと泡立てたシャンプーでやはり男らしく…いや、此処だけは酷く繊細な手つきで頭皮から毛先まで丹念に丹念に洗い上げつつ、

「俺が高坂、高坂を、か…。うーん、想像した事もねぇから想像出来ねぇ…って、そらそうか。つまり何だ?俺の筋肉に負けを認めた高坂が、ケツを差し出してくるのか?あ?いつからそんな話になった?」

どうやら飼い主、遠野俊の病にこの男も取り憑かれてしまった様だ。
ぶつぶつと呟きながらも、そんじょそこらのヘッドスパ真っ青な指テクで己の頭と髪をわしゃわしゃマッサージ、マッサージ、マッサージ、長い、余りにも長い。

「つー事は叶に拷問されて死にかけた高坂が命からがら逃げてきて、この俺に助けを求めるって事か。成程な、それで体が礼って訳か。…畜生、泣かせるじゃねぇか。興奮しねぇけど」

オカンはベタな遊郭ものに弱かった。
自身がモデルになった事もあるBL小説、叩き上げホスト王、つまりヤオイホスト王、略してヤ王でも感極まった事は記憶に新しい。

「『嵯峨崎、俺様を好きにしてくれ!』
『悪いな高坂、俺のエクスカリバーはもう二度と輝きを取り戻せねぇんだ。ぽっきり折れたまんまでな、諦めてくれ』
『俺様は諦めない!頼む!抱いてくれ筋肉王!』」

腐男子の病に冒されつつある男はシャンプーを丁寧に流し、コンディショナーを手に取り、洗面器に水を張った中に溶かし入れ、ざばっと頭にぶっ掛ける。
普通にコンディショナーを塗りつければ、どれくらい使うか判らないからだ。コンディショナーまみれのタイルは滑る。アルカリ性の温泉並みに滑るのだ。

「筋肉王…筋肉王、か。そうまで言われたら、立たない魔の踏み切りも立ち上がるってもんよ。頑張れ!今こそ目覚めろっ、俺の聖剣、エクスカリバーよ!」

馬鹿は股間に怒鳴ったが、曰くエクスカリバーは「無理ィ」としょんぼり、態度で返事を返した。
沈黙した佑壱はもう一度頭にシャワーを被り、

「阿呆らし。そもそも俺は自分から誘った事なんざねぇし、朝勃ちした時くらいしか抜かねぇし、想像で頑張るのは無理がある。…あれだ、官能小説風ならイケんじゃねぇか?」

文才はともかく、語学力なら誰にも負けない男は顎へ手を当て、つるっと滑り転びそうになりつつ半分程水位を満たしたバスタブへ入浴剤を放り込み、ピンクのヘアクリップで濡れた髪を巻き上げる。

「『男は懇願する様に跪き、男の指先を食んだ。

「俺を抱いてくれ、お前にしか頼めないんだヤ王…」

 その仄かに立ち上る色香は…』って無理だ、男が男にって野郎だらけじゃねぇか、むさ苦しい」

ザブンと湯船へ浸かった男は、ふぃーと、年寄り臭い息を吐いた。
良い湯だぜガラパゴスと呟いて、寝る前に抱き締めた体温を思い出す。


「…」

昼寝など殆どしない。
早寝早起きも得意な方だ。寝起きは自他共に認める悪さだが、日向に拉致されてからこっち、寝惚けた事はほぼなかった。多分。

然しながら日向の首の歯形はまず間違いなく自分がつけたもので、そう言えば、まだ血が滲んでいなかったかと今頃、そんな事を考えた。
そう言えば朝も、細く血が流れていた覚えがある。そもそも日向が怪我をした所など記憶にないが、普通の人間は掠り傷も治るまでには何日も懸かるものだ。

「うーむ、手当てしてやんねぇと、駄目かな。駄目だろ、男なら責任をしっかり取れ嵯峨崎佑壱。おう、俺ぁ男だ」

さようならガラパゴス、風は今、ブラブラ揺れる股間が感じている。


体を拭くのも適当に、颯爽とバスローブを纏った男はピンクのヘアクリップで纏めた髪をそのままに、酷く男らしい表情でドアを開いて、


「おや?」


飛び込んだリビングから1秒で、バスルームへ逃げたのである。













「お楽しみでしたか、高坂君」

息苦しさに重い瞼を開けば、腹の上に乗った見慣れた男が妖艶に微笑んでいた。頭の中で迷いなく瞬殺したものの、体はまるで動かない。

「おや、媚薬でも使いましたか?取り巻きの一人抱くにもそんな苦労をしなければならないとは、呆れて物も言えませんよ。嘆かわしい」
「…殺すぞテメェ、俺様の上から下りろ」
「何か仰いましたか?」

出た、聞こえない振り。
再び頭の中で二葉を瞬殺し、日向は目を眇めた。

「山田にチクる」
「もう、冗談も通じないなんて私は悲しいですよ高坂君。儚くも美しいふーちゃんに騎乗位して貰えて興奮した癖に」
「何が『儚くも』だ。テメェの眼鏡に吐瀉物ぶっ掛けんぞカスが」
「全く、誰が上手い事を言えと。ハニーは許せても君は許せません。でも心優しい私は退いてあげます、有り難く思って下さって構いませんよ」

相変わらず良く回る舌だと感嘆しつつ、怠い体を持ち上げる。水、と吐き捨て、テーブルの上のボトルを二葉から受け取って、ベッドを見た。

「あ?おい、お前アイツ何処にやった?」
「アイツ?ああ、お楽しみのお相手ですか。私が来た時には君一人でしたよ?」
「何だと?」

弾かれた様に立ち上がろうとしたが、くらりと目眩によって片膝が崩れる。これには流石の二葉も怪訝に思ったのか、左手に握ったボトルを奪っていった。

「…誰に盛られたんですか?まさか宮原、」
「違ぇ、馬鹿犬だ」
「おや?では嵯峨崎君に逃げられたと?」
「どうせフロアから出られりゃしねぇ。…それともテメェには、アイツが逃げるメリットに心当たりがあんのか」
「ありませんねぇ。大方、可愛い悪戯ですか。それより高坂君、」

二葉の白い手袋が伸びてくる。
振り払おうとするが今の自分では果たされない。容易く喉元を指先で撫でられ、舌打ちを零した。

「情熱的なキスマークですが、血が滲んでますよ。君の血小板は怠け者なんですから、手当てを後回しにしてはいけません」
「構うな、大した事じゃねぇ」
「血が止まるまでに3日は懸かるでしょうねぇ。明日まではともかく、最終日の打ち上げ代わりに抱いてくれと殺到するだろう君の親衛隊員達は、これを見てどう思うでしょう?」
「ちっ」
「今朝、珍しく呼んだでしょう?君が部屋に呼ぶのは珍しい事なのでセキュリティーから連絡がありましたが、見ましたよ」

勝手知ったる人のクローゼットを漁り、救急箱を取り出して戻ってきた二葉の表情は相変わらず、酷く愉快げだ。何を見たのか、どう転ぼうと日向にとって愉快な話ではないと思われる。

「君の部屋へ辿り着く前に、恐ろしい番犬に吠えられて泣きながら逃げ帰る様を」
「は?」
「丁度、嵯峨崎君が自室から出てきた所でしてねぇ。炊飯器だか何だか、派手に投げつけてらっしゃいました。因みに音声もしっかり入ってましたので、君の回線に丸々コピーしてあります」
「…」
「一人の時に観て下さいねぇ、おかずにするんでしょう?」
「するか…!」

迂闊にも指輪へ目を落としたのが敗因だ。
二葉の手から救急箱をひったくり、とっとと失せろと吐き捨てながら大きめな肌色の絆創膏を取り出す。
皮膚に似た組織の人工膜を作るスプレーを振り掛けて、念の為に絆創膏を張り付ければ、ぱっと見では判らない。満足げに頷いた二葉を見るだに、適切な対処だったのだろう。

「私が背中に振ってあげましょう。脆いケロイドを簡単に保護するスプレー、耐久性は一週間、お風呂でも落ちない。技術班の最高傑作ですねぇ」
「えらく機嫌が良いじゃねぇか、気色悪いな」
「おや、気付きました?聞きたいですか?」
「結構だ」
「本音は知りたいんでしょう?私の事を何でも知りたい君は、聞きたくて仕方ないんでしょう?」
「うぜぇ!まとわりつくな!」

ベタベタとすり寄ってくる二葉を邪険に手で払い、救急箱を投げ付けた。当然ながら軽々キャッチした二葉はクローゼットにそれを仕舞い、くるっとその場でターンする。

「私は心を入れ替えました。人を騙すのは、悪しき行いです」
「………あ?」
「利益目的のセックスなどあってはならない行いなのです。幾ら感動の再会シーンでゲームボーイを投げ付けられようが、自棄になって乱交などしてはならなかったのです」
「変なもんでも喰ったのか?警戒心の塊のお前が?イギリスの飯はパン以外糞だっつってたお前が?落ち着け魔女、違ぇ、魔王か。お前はただの鬼畜だ」
「ああ、神よ。今までの行いを私は、心の底から反省しています」

何のミュージカルだ。
唖然とする日向の前で恭しく膝を着いた二葉は左手を胸に当て、右手をばっと伸ばし、パンツ一丁の日向の前で目を潤ませた。

「こんな私を許して下さいますか、アモーレ」
「帰ってくれ」
「こんな私を受け止めて下さいますか、アモーレ」
「一人にして下さい」
「過去を恥じ、未来へ羽ばたく事をお許し下さいますか、ミアモーレ!」
「判った許す何でも許す好きにしろだから失せろアモーレ」
「ふーちゃん感激!」

テンションの可笑しい二葉ががばっと抱き付いてくるのと、日向がベッドへ逆戻りするのと、ドッカーン!と言う衝撃音は、ほぼ同時だった。

腹の上に乗った二葉が首だけ振り返り、きょとりと首を傾げるのは見えたが、



「おや?」

再び「パタリ…」と、今度は自棄に静かに鳴いたその音が何であったのか、残念ながら高坂日向には判らなかったのである。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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