帝王院高等学校
死闘・乱闘、共闘しては負けもある!
サイズが合っていない黒縁眼鏡がズルッと滑り落ち、店員が運んできたポテトフライにチーズフレーバーを振り掛けていた女性のサファイアの双眸が瞬けば。
同じく店員が運んできたグラスとコースターをそれぞれの前へ並べたばかりの女性はエメラルドの双眸に笑みを浮かべ、甲斐甲斐しく眼鏡を押し上げてやろうとした所で、

「ああ、眼鏡がズレてる」
「あらん?ありがと、シューちゃん」

しれっと手を伸ばしてきた男が一早く、それを押し上げる。
バチッと火花散るリーマンVS極妻は、リーマンが一歩リードした様だ。何となく目を合わせてしまった男二人と言えば、ジャーマニーマフィアは静かに足を組み替え、ジャパニーズマフィアは怒りに震える嫁の肩を叩くしかない。

「本当に久し振りだ。俊江、貴方は何も変わらない。あれは私がまだ13・14歳だった頃だから、22・23年程になるか。貴方がミュンヘンに居たのは」
「んー?そーねィ、」
「シェリーはドイツに2年、スイスに1年留学していたんだったな。私と彼女が出会ったのは私が12歳の頃ですよ、クリス。当時のシェリーは歌劇のヒロインよりも愛らしかった。いや、今もとても素敵だシェリー、君はいつでも美しい」
「そ、そうでしたか、アリー」

嵯峨崎嫁が話し掛ければ空かさず割り込む高坂嫁。最早グレアムVSヴィーゼンバーグの怨み云々ではなく、ただの遠野嫁争奪戦だ。
再び目と目が合ったマフィア二人は、わざとらしくコーヒーカップを持ち上げた。女の争いには口を挟まない、万国共通の男のマナーである。

「あ、シューちゃん、まだ皆を紹介してなかったわねィ。藤倉さんも」

鈍い遠野俊江はほぼ全ての人間が状況を把握しているにも関わらず、ジャンボパフェを長いスプーンでバクバク頬張って一息吐いてから、小さい頭をきょとんと傾げた。

「こっちが幼馴染みで、女癖も男癖も悪かった高坂オマワリ。ヤクザの息子の癖に名前負けしてるわよねィ」
「向日葵だ!お前と言う奴は本気で俺の名前をそれで覚えてやがったのか、トシ!」
「どっちでもイイじゃない、小さい男だねィ。で、こっちのイケメンが私の旦那様で遠野秀隆よ!シューちゃん、ヤクザだけど一応ご挨拶してちょ」
「『初めまして』、高坂さん。遠野秀隆と申します」

高坂組長は心の中で叫んだ。
何が『初めまして』だこの野郎、一回り近く離れた恐ろしい後輩を前に痙き攣る口元に耐えながら、辛うじて『高坂です』と吐き出せたのは奇跡だろう。

幾ら何でも、グレアムの王だったキングの寵児と言えば、卒業した後の高坂の耳にも入ってきた。
あの威圧感だけは引けを取らない学園長、帝王院駿河の一人息子だ。知らない帝王院OBなど、この狭い日本、何処に存在するのか。

「で、こちらは藤倉さん。貴族さんなのに飲むヨーグルト奢ってくれる、イイ人なのょ。オマワリよりちょっと年上だけど、仲良くしてあげてよね。オマワリ、口説いたり苛めたりしたら殺す」
「口説くか馬鹿野郎…!」

息子の日向とは違い、口では女に勝てないトラウマから男に走った過去を持つ組長は今にも血管が切れそうな気配だが、嫁からシットダウンと流暢な英語で命じられるまま大人しく椅子へ座り直す。
先程から日向そっくりな高坂の顔に笑うのを耐えていた嵯峨崎零人は素早く顔を逸らし、小刻みに肩を震わせた。色合いはともかく、喋り方や声まで父子余りにも似ているが、性格はそれほど似ていないらしい。

「で、藤倉さんも知ってるみたいでしたけど、こっちがクリスティーニュ…じゃなかった、何だっけ」
「クリス=嵯峨崎です。俊江、クリスティーナは昔の名だよ。今はクリスと呼んで欲しい」
「あらん?そうなの?判った、クリィね!」
「栗?」

ブフっと吹き出した零人の唾が吹き掛かった高坂は無言でペーパーナフキンを掴み、やはり無言で顔を拭く。申し訳ないと半笑いで謝った零人へ気にするなと渋い笑みを注いだ男は、テーブルの下、妻のヒールで足を踏まれた。

「ひま?」
「すまん」

好みの男には優しい旦那を知り尽くした妻は近年稀に見る笑顔で、余りにも美しい。その倍以上は恐ろしかった、が。

「で、こっちがアリィ。さっきも言ってたと思うけど、この子が留学してた先に私も留学してて、仲良くして貰ったのょ。その後、カメラマン志望で日本にやって来て、ずっと日本で暮らしてるのよね、アリィ」
「シェリー、ちゃんと覚えていてくれたんだね。嬉しいよ、愛しいマイミストレス」

そっと『マイミストレス』の手を掴んだ人は、王子様スマイルをキラキラ撒き散らす。嵯峨崎母子が何となく見つめ合い、その内、プラチナめいたブロンドを持つ母親だけが顔を明るく染めたのだ。

「もしかして二人は、恋人同士だったのかな?」
「や、全然?つーかクリィとアリィって、もしかして歳近いんじゃない?」
「私は今度36歳だ」
「私は先週36歳に」
「そうか!貴方は何年生まれだ、クリス」
「東西の壁が壊れた年だが、まさか君も?!」

ん?と、首を傾げた金髪二人は見つめ合い、きゃあきゃあと誕生日談義を始める。誕生日談義には一切加わらないアラフォーはポテトフライをパクパクパクっと連続で口へ放り込み、その塩気でまた、パフェを頬張った。

「で、そこなイケメンのチミ。えっと、ガサガキ君?」
「嵯峨崎です。ゼロの零に人と書いて、零人と言います」
「あれま。顔だけじゃなく、名前までイチきゅんにそっくりねィ」
「イチ?佑壱の事ですか?」
「あらー、やっぱり!双子?」
「自分は今度22歳で、あれは5つ下の弟です」
「やだ、大学生って言ってたわねィ。ごめんなさいね、チェリーお食べになる?」
「いえ、結構です」

嵯峨崎零人は再び失笑を耐えた。
駄目だ、見た目だけそっくりな高坂父子で既に瀕死だと言うのに、目付きも喋り方も性格も首の傾げ方まで似ている遠野母子にトドメを刺されようとしている。
何故平気なのだと他の皆を震えながら見やったが、恐らく、数人は顔を知らないからだろう。裕也に目元だけは似ている学園理事の一人、第一秘書は、その程度ではにこりともしない無愛想な男だ。笑う所など想像だに出来ない。

「そろそろ良いだろうか、クイーン=メア。陛下…理事長の元へ、ご案内差し上げたい」

漸く口を開いた男はウェイターを呼びつけカードを渡し、己の座高と大差ない巨大パフェを旦那に二口やっただけで完食したチビを見やる。
男女共に大きい皆から囲まれて怯まない存在感、またもやメニューを開いていた大食いはズレ落ちた眼鏡を再び旦那に押し上げて貰いながら、こっくり頷いた。

「じゃ、私達ちょっと用事があるから、後は頼んだわねィ、オマワリ。警察に捕まんなよ」
「あのなぁ、捕まる訳あっか…。キン…理事長に宜しく伝えてくれ、トシ」
「ん?あ、そう言えば、アンタの息子も通ってんだっけ?何年生?」
「三年だ。名前は日向」
「ヒナタ?うーん、ヒナタ…?最近聞いたよーな気がするけど、誰だっけ…」
「佑壱君の彼氏じゃないか?さっき少し話しただろう、金髪の」

きゃあきゃあと血液型談義にまで引っ越していた金髪二人と、笑うのを耐えていた所為で奇妙な顔の零人、並びに頭を抱えていた組長の四人が沈黙する。
艶やかな黒髪を掻き上げ、判っているのかいないのか、爆弾を投下した男と言えば余りにもマイペースに「お似合いだったな」と宣ったのだ。

「きゃー!思い出したァアアア!!!さっきのジェラシーボーイね!やだー!思い出してみると大変けしからんわねー!どっちがタチヒロシでどっちがネコヒロシか聞いたのよー!そしたらイチきゅんがタチヒロシだったのよー!きゃー!年下攻めぇえええええ!!!あの時炊飯器があったら8杯はイケたんじゃないかしらー!」
「ああ、大変面映ゆい事だが、俊には可愛いお嫁さんが欲しいとパパは思います」
「そーね!息子のBLなんて萌えないもの!うふ、うふふ、くぇーっくぇっくぇ!やだもう最近の男の子は軽々しくオバサンを萌えさせるんだからァ!少子化クソ喰らえよー!オバサンがその内ボーイなラブの間に赤ちゃん出来る医療技術を編み出して上げるから待っててねェイ!ハァハァハァハァ」

騒がしいババアがしゅばっと立ち上がり、涎を垂らしながら光の早さで駆け出そうとするのをガシッとキャッチした旦那は、硬直する四人をちらりと一瞥し、唇の端に微かな笑みを浮かべ、


「では失礼。…ごゆっくり」

いつもなら追ってくる筈の高坂嫁へ特に長く微笑み掛け、去っていたのである。



「あんの、人格崩壊者!」

そこで漸く、怒鳴りながら姿を現した巻き毛ロングスカートのオカマは、ダンッとウッド調の床をピンヒールで蹴った。
隣で頭を掻いている黒縁眼鏡と、そのまた隣でジャージの裾をぐいぐい伸ばしている男、そのまたまた隣で眼鏡を優雅に押し上げた長身を侍らせ、硬直する四人のテーブルをガツンと叩いたのだ。

「しっかりなさい、クリス!魔術師の催眠に遊ばれたのよ、アンタ達も!」
「え…あ、は…ああ、レイ?いつ来たんだ?」
「ああ、良かった。貴方に何かあったらアタシ………俺はあの糞餓鬼をマジで殺すぞコラァ」
「社長、言葉遣いが悪いですよ」
「お黙りコバック!」
「小林です」
「何笑ってんのよアンタも!」
「山田です」
「舐めてんのかコラァ!おい、テメー何処見てんだ餓鬼ァ!」
「東雲です」

ムキー!
憤慨するオカマを揶揄った三人は目を見合わせ、それぞれハイタッチを交わした。湯気を発てそうな程に顔を赤らめたカマ嵯峨崎へ、頭をふるふると振った妻の手が宥めに入る。

「随分遅かったな、小林」
「まぁ、少しばかり邪魔が入りましてねぇ。暫く撒いてから、車を変えて戻ってきたんです。…おや?そこに見えるのは、ランではありませんか?」
「リンよ!判ってて言ってるんでしょ、大叔父様!」

零人が痙き攣ったのは、成程、流石は二葉の叔父だと感心したからだ。己の甥の娘だろうが、揶揄って怒らせて満面の笑みとは、タチが悪すぎる。

「それにしても、流石は帝王院財閥の後継者。あれは何とも、扱い難そうな人です。ねぇ、会長」
「一回り以上離れた餓鬼に何ビビってんのよ!つーかアンタの息子は一つ上だったでしょうに!」
「いやー、私は会長程度が身の丈に合ってますので。あーんな恐ろしい主人に仕えている出来の良い息子を引き合いに出されても、困りますなぁ。はっはっは」
「オオバヤシ。アンタ、アタシを馬鹿にしてるわね?」
「小林です。…今更知ったのか?」

オカマの回し蹴りを軽やかなターンで避けた秘書は、はっはっはと迸る笑みを撒き散らしながら、誰かにぶつかるまで逃げ回った。
大人げない、と、東雲と山田が同時に呟いた瞬間だ。

「おっ、と。失礼、お怪我は?」
「こちらこそ失礼しました。お構いなく。それより万一痛みなど出ては事です、名刺をお渡ししますので何かあれば、」

鬼畜秘書が体当たりした相手、これまた稀に見る男前はぶつかってきた大人げない男に頭を下げ、

「いえ、それこそお構いなく。私は医師なので」
「そうでしたか、ご迷惑をお掛けして申し訳ない」
「いや、こちらこそ前方不注意で、申し訳ない」
「いつまでお見合いしてるんですか院長、私と言う男がありながら浮気性ですねぇ、貴方は」

高坂夫婦以外がぞくりと背を震わせる、声。
一気に顔を歪めた遠野直江は冷めた目を背後へ注ぎ、鋭い舌打ちを放った。わざとだ。

「…撒いても撒いても、何処まで付いてくるつもりだ小僧。年下は年下らしくその辺でラジオ体操でもしてろ」
「おや?私の健康が心配ならそうと仰れば良いものを。ふふふ、恥ずかしがりやさん☆」
「※■△◎▼×●」

腹黒VS気弱、何度目かの口論はやはり、気弱な遠野跡継ぎが敗北を期した様だ。最早言葉になっていない罵倒を撒き散らし逃げようとする男を笑顔で捕獲し背後から抱き締めた男、山田太陽曰く『腹黒大魔王』は笑顔のまま、瞬いている嵯峨崎鬼畜秘書を見つめた。

「お久し振りですねぇ、守矢叔父さん。そちらは嵯峨崎会長と奥様、ご子息の零人さんでらっしゃいますか?」
「…相変わらず人が悪いな、冬臣。判った上で疑問文を使うんじゃない」
「おや、初対面の相手に図々しい真似をしろと?私は36にもなる男ですよ?」
「冬臣、嫌がっているだろう、離してやれ」

ふぅ、と、息を吐いたのは、腕を組んだ高坂夫人だ。素直に遠野院長から手を離した男は然しガシッと腕は掴み、逃がす気はない。

「こちら遠野総合病院の院長でらっしゃる、遠野直江さんです。そうですねぇ、どんな関係かと言われたら大人の関係としか…ふぅ。流行ってますからねぇ、不倫」
「誰がそんな事を聞いたんだ馬鹿者がァ!イイ年して恥を知れ恥を!」
「痛っ」

ガツンと院長パンチを浴びた大魔王が殴られた頭を擦り、唇を尖らせる。この光景の恐ろしさに気付いていないのは、当の院長だけだ。
無意識で妻と息子を背後に庇ったオカマは、やはり無意識で秘書の背中に隠れたが、無意識で旦那を背に庇い掛けた高坂妻は逆に旦那の背に庇われて、何だか納得していない表情である。

「ひま、お前は私に守られていれば良い」
「格好良い台詞だがアレク、それは二人の時に言ってくれ。今じゃねぇ」
「判った、すまない。混乱した」

高坂夫婦は嫁が余りにも王子様気質過ぎて、度々ホモと間違われる夫婦だった。


「そんな事より、急に走り出すから心配しましたよ。私を探していたんですか?自分で撒こうとしておいて、何と小悪魔ちゃん」
「メスで腹かっ捌かれたいのか腹黒、墨袋取り出して飲ませてやろうかァ、ああ?」
「つれない御人だ」
「姉さんに似た声がした様な気がしたんだ。勘違いだった様だが…」
「ふぅ。マザコンはともかく、シスコンだなんて。確かに私も生粋のブラコンですよ。お尻には入れられないとしても目には入れても痛くない、ええ、文仁も二葉も可愛い可愛い天使ちゃんですとも、食べてしまいたいくらいに。ああでも、食べると言っても卑猥な意味ではなく言葉通りの意味ですがねぇ、何せ生まれてこの方、勃起した試しがな」
「黙らんか愚か者がァアアアアアア!!!」

院長の回し蹴りが軽やかに決まった。
無意識で拍手した男性陣は、そこでハッと我に返ったらしい。お洒落めな黒縁眼鏡をもぎ取った薄毛日本代表は、そこで漸く、大魔王を倒した勇者へ近付いたのだ。

「おや?時の君?」
「久し振りだねー、叶君。って今は同窓会してる場合じゃないんだよ、遠野さん!俊江さんが居たなら、秀隆を見ませんでしたか?!」
「え?!秀隆義兄さんは見てないが、えっと、貴方は?」
「これは失礼しました。先日は妻がお世話になりまして、山田と申します。これは名刺です」
「これはこれはご丁寧に、遠野と申します」

名刺交換を果たした勇者とサド、此処に第2のチーム遠山が誕生した。何故ならば、

「そこの椅子に置いてあるそれは、携帯電話、かな?」
「いい所に気づいたねー、叶君。そう、そのぼろっちぃお子様携帯は僕も見覚えがあるんだ。で、念の為に聞いておくけど、君も秀隆を見ていないのかい?」
「ヒデタカと言うのは陛下の事かな?それならば見ていない」
「だろうね。ふん、役立たずが」

ピシッ。
感電した様に笑顔で硬直した叶長男に、被っていたカツラをバサッと剥ぎ取った山田社長は凍えるまでの笑みを浮かべ、それはそうと、と、呟き、

「君の弟に三葉君ってのが居ただろう?うちのアキちゃんとどう言う関係なのか、元クラスメートの誼で是非ともお聞かせ願おうか」
「アキちゃんと言うのは、時の君…山田太陽君の事で良いのかな、榛原君」
「それ以外の答えが、お前さんの賢い頭で弾き出せるなら出してごらんよ、役立たずが」
「…」
「この俺をあんまり怒らせない方がいいんじゃないかい、元帝君の叶君」
「…帝君は帝王院君だよ。一度だけ同点首位だっただけじゃないか」

何だか知らないが、この二人には何かがある。そしてこの山田さん、名前は平凡だが、性格はちっとも平凡ではない。
恐怖で秘書の背中から出てこれない嵯峨崎夫婦の傍ら、いつの間にか嫁の背後に庇われている組長は渋い男前の顔のまま固まっており、離れた位置で避難している帽子は他人の振りだ。

「お前さんが秀皇に惚れてた事を言い触らされたくなけりゃ、判ってるだろうね。うっかり満点なんか取った所為で中央委員会に入れられそうになった所を、口下手な君の為に風紀委員会に一年ぶち込んだだけで逃がしてあげたのは、誰だったかなー?んー?誰だったかなー?」
「…時の君です」
「君の黒髪黒眼フェチは究極だね。とうとう秀皇の義弟にまで手を出して、今度こそ嫌われたいのかい?え?」

山田太陽の知らぬ所で今、真の腹黒大魔王がひっそり、旧腹黒大魔王を再起不能にまで倒していた事を。





「ぶぇっくしゅ!」
「おや、鼻水さんがこんにちはしてますよ。はい、綺麗にしましょうね」
「ちーん!」

こちらチーム山田A、サドの卵と鬼畜腹黒である。
とっとと連れ込まれた先は一面砂浜の、お馴染み魔王城、別名『中央委員会会計個室』だ。

布団以外に座る所がほぼ見当たらない部屋の、正に敷かれっぱなしのマットレスへ下ろされ甲斐甲斐しく鼻をかんで貰い、太陽はほっと安堵の息を零した。

「はぁ。何か気が抜けたー」
「気を張っていたんですか?」
「ゼネラルグライダーって何?」
「ゼネラルグライダーですか?」

お茶を注いでいる二葉を真っ直ぐ見つめた太陽は何か暑いとブレザーを脱ぎ、顔だけ振り返った二葉は聡明な頭をフル回転させたが、正しい答えを導けそうにない。いや、判っているがはぐらかしている、と言った方が正しかった。

「さっき俺の耳塞いでた時、言ってなかった?5位と2位が何とかって」
「さぁ、そんな事を言いましたかねぇ」
「考え事する時に、指でとんとん何か叩いたり、見てもないテレビのチャンネルをパチパチ切り替えたりするだろ、お前さん」

ぽたり。
急須から最後の一滴を絞り出した二葉は太陽に背を向けたまま微かに目を瞠ったが、態度にはそれ以外何の変化も現れていない。

だから太陽はそれに気付かないままネクタイを解くと、ごろりと横になった。

「同じ動作を何回か繰り返す、って感じかなー?言われた事ない?」
「さぁ」

嘘だ。
日向から何度か言われた覚えがある。

「そっか、じゃ、勘違いかなー」

判っているのだろうかと、分厚い面の皮の下、今の状況に気付いていそうにない太陽の元へ湯呑みを運べば、もぞっと体を起こした太陽が手を伸ばしてくる。

「このお茶に睡眠薬が入ってたりして」

何だ、と。
口から言葉が飛び出し掛けた。この無駄に鋭い発言は一体、何が起きたのか、と。

「まさか」
「だよねー。俺を寝せてエロい事する、なんて、まず考えらんないし」

ぼりぼりと、太陽の左手がうなじを掻く。
右手に持った湯呑みへは何故か口をつけない。

「何にも入ってませんよ。疑うなら取り替えてあげましょう」

自らの湯呑みを太陽の手のものと取り替えて、当て付ける様にぐいっと口へ運んだ。目の前で景気よく飲み干せば、太陽は大きな目を見開いて、へらりと笑ったのだ。

「じゃ、俺も頂きます。ぷはー、高いお茶はやっぱり美味しいよねー」
「京都から取り寄せた抹茶と、幾つかの茶葉をブレンドしているんです。飲み易いでしょう?」
「ふぅ、うん、飲み易い。あーあ、もしかしてネイちゃんが俺の事が大好き過ぎてこの部屋に閉じ込めておきたいと思ってる、なんて、馬鹿な想像までしちゃった」

今度こそ、自分は失態を犯した筈だと、叶二葉は見開いた目を閉じる事なく開いたまま、食い入る様に太陽を見つめる。


「やっぱり、ね。…あはは、ま、いいや。ここで大人しくしとけば、お前さんは心配しないんだろ?」
「…」
「だったらせめて、おやすみ、の…」

ぱたりと。
崩れ落ちた体躯を呆然と眺める。



何だ、この子供は。
いつからこんなに聡く、いつからこんなに鋭くなったのか。ぐるぐると考えを張り巡らせて、最後に。


「ごめ、ん」

騙し討ちの様な狡い手段を講じた己が何と浅ましいのか、と。腹の底から沸き上がった罪悪感に、歯を噛み締めた。

「…俺が悪かった。ごめん、アキ」

剥ぎ取る様に外した手袋を放り、顔に散った前髪を掻き上げ、広い卵形の額に口付けを落とす。


そう、隠したかっただけだ。
訳の判らない全てから、悪い者全てから、他の誰でもなく太陽だけは、今度こそ、目の前で傷付けさせたりしない。

誰であろうが。
それが神であろうが、だ。

遠ざけられないならせめて近くで、宝箱の中に詰め込んで、出来る事ならそのまま永久に。



「二度と騙したりしない」

微かに微笑んだその唇は、浅はかな罪を容易く許すか様に、優しく、一瞬だけ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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