帝王院高等学校
ピンチ!ピンチ!コーヒー色の腹黒さ!
「おや?お久し振りですねぇ、何をなさっているんですか?」

にこにこと、その男が口を開いた瞬間、廊下は黄色い悲鳴で包まれた。その大半は白ブレザーだったが、式典を終えて我が子と合流したばかりの保護者や西園寺学園の生徒らも窺える。

「何をなさっているんですか、だと…?ふん、お前ら高校生共のお遊戯会を見に来てやったんだ、有り難く思って心から歓迎しろ」
「おやおや、その割りには随分なお姿ですが、熊にでも襲われましたか?貴方らしくない、髪が乱れてらっしゃいますよ、店長さん」

ビキッ。
眼鏡の上に走った亀裂…いや青筋に、狼狽えた獅楼は声もなく榊に抱き着き、眉間に皺を刻んでいるもう一人は、頬を膨らませたまま眼鏡をくいくい押し上げた。

「まー兄ちゃん、何コイツ。可愛い顔してるけど腹ん中黒そうな気がする!うちの母ちゃんみてーだ!」
「良く言った舜!そうだ!コイツは腹黒な男だ!上手い事やってるがな、女癖は悪いわ他人を馬鹿にしてるわ、良いのは顔だけだ!」
「最低な奴だな!」
「良く言った!そうだ!最低な男なんだ!」

大声で叶二葉を批難する二人だったが、生憎ギャラリーからは遊ばれても構わないと言う黄色い悲鳴。
一部カルマファンから頑張れエールが沸き起こった為に、何とも場は奇妙な雰囲気だ。

「おやおや、だから貴方の恋人とは知らなかったと言ったでしょう?お誘いはあちらからだったのですし、知っていたらご遠慮申し上げました」
「テ、テ、テメェ…!」

どうやら店長は、魔王に彼女を寝取られた過去がある様だ。此処数年、女は懲り懲りだが口癖だった兄貴分の秘密を知ってしまった獅楼は青冷めたが、二葉の背後を見やり、ポロっと一粒涙を零した。

「総…会長!お疲れ様っす!」

怒りの頂点にあった榊も冷静さを取り戻し、ぱぁっと顔を綻ばせる。優雅にターンした二葉と言えば然し、笑顔で凍りついた。


「へぇ、おモテになりますねー、白百合様。」

恐ろしいほど冷めた笑顔の山田太陽以下、ヘラヘラしている高野健吾、神崎隼人、藤倉裕也。太陽の背中に張り付いている黒縁眼鏡を言うに及ばず消し去りたい所だったが、今の叶二葉に、そんな心の余裕は欠片もなかった。

「…これはこれは山田太陽君、いつから、そこに?」
「誰かさんが腹黒だって後ろ指差されてる時からです」

にこっ。
左席委員会会長が全力で誇る左席委員会副会長の微笑みで、三匹の犬と涙目の犬はビシッと背を正した。無意識だ。これぞ本能だ。

「誘われたら断らないんですねー、知りませんでした」
「いや、それは曲解ですよ山田太陽君、そうではなく、」
「男の言い訳は見苦しいですよー、中央委員会会計閣下」

バチリ。
太陽の周囲で黒い何が、弾けた。

「じゃ、何処ぞのお姉さんとごゆっくり。俺はここのワンコとごゆっくりしてますので。行こっか、皆」
「ヘイ兄貴(^ω^人) あ、肩お揉みしますぜ☆」
「ヘイ山田組長。頭皮マッサージしますぜ」
「ヘイサブボス。耳掃除させてあげますぜえ」

辺りは大勢の人間で犇めいていたが、口を開く者など誰一人存在しない。普段は強気な犬共も、弾けるドSバーストを見た瞬間から逆らわない方向で円満一致したらしかった。


「さよーなら、風紀委員長様。」

だから、口を開く者など、誰一人存在しない。叶二葉でさえ混乱の底に沈められたまま浮上する事なく、去っていく背を止められなかったのだ。



太陽の背後でひそりと、眼鏡を押さえた人だけが、微かな笑みを零した。







「完全にピンチ、じゃねェかァ」
「…完全にピンチ、だな」

ぎゅむり。
細い腕を男らしく組んだチビっ子の隣、白と黒のストライプ柄ガマグチをパチンと閉じた男は、真顔で神妙に頷いた。
因みに二葉のピンチをこの二人はまるで知らない。別件だ。

「何で小銭が使えないんじゃア、自販機の癖にィ!最近の奴はどれもこれも電子マネー電子マネーって!nanacoならイイのかァ!WAONか!あァん?!Suicaなら満足なのかァア!!!」
「落ち着きなさいシエ…トシ。この手の自動販売機はコツが居るんだ」
「何っ、コツですと?!知らんかった」
「取り出したるは、何の変鉄もない指輪」
「ほほぅ」

しゅぴん。
結婚指輪を填めた左手を大袈裟に持ち上げ、カードスキャナーの隣、鍵穴じみた窪みへズポッと突っ込んだ男は、然し沈黙している自動販売機に首を傾げる。

「何も起きないわねィ」
「何も起きないな」

そりゃそうだ。
ただ突っ込んだだけではどんな自動販売機も動きはしない。目当ての商品を押してこそ、ゴトンと落ちてくるのだ。

然し、片や結婚するまで海外生活が長かった元医者、結婚後は自動販売機など滅多に使わないドケチ貧乏暮らしに、自ら喜び勇んで立ち向かってきた主婦。
片や、結婚するまでセレブ生活で掃除洗濯すらした事がなかった跡取り、結婚後は仕事とぷよぷよと風呂掃除しかした事がないリーマンである。

「何か、赤く光ったけど、それだけねィ」
「ああ、赤く光ったが、それだけだな」

二人は偏った天然だった。
何もしなくても自動販売機から望みのジュースが出てくると、信じて疑っていない。因みにこの二人、プレステの配線も出来ない逸材だった。押しボタン式の信号で、永遠に渡れない二人でもあった。

俊の苦労が少し、報われた気がしないでもない。

「はァ。女の子は色々大変なのょ?1日1本飲むヨーグルト飲まないとさァ、お腹の調子が整わない気がするんざます」

ぽんぽんと腹を軽く叩いた嫁に、便秘かと頷いた亭主は携帯を取り出す。

「姿が見えないオオゾラ…社長にメールしよう。2分で飲むヨーグルト買ってこい…良し」
「あのねィ、シューちゃん、平社員が社長をパシらせたらめーなのょ?」
「そうなのか?」
「私がシューちゃんと俊をパシらせるのはOKだけどー!きゃ!」

感電した様な表情で心臓を押さえ、ガクッと崩れ落ちた男は泣いている。可愛い可愛いと呟いているが、ナチュラル男装中の妻はシカトした。いつもの発作だ。
息子にも遺伝してしまった為に、彼女は慣れている。

「あらん?見て見てシューちゃん、あそこに!イケてるオジサマが居るわょ!」
「浮気は許さんぞシエ」

唐突にハァハァし始めた嫁が宣えば、ギラッと目を光らせた旦那はしゅばっと立ち上がり、ギラギラと辺りを睨み付けた。
目と目が合ったのは白髪混じりのダークグレーの髪の男、微かに目を瞠った男は「ナイト」と呟いて、足早に近寄ってくる。

「…いや、ナイトではないか。違う、やはりナイトの様だ。失礼した、この様な所で何をなさっておいでか、閣下」
「かっか?…おかか?おかかのお握りは…そうね、好きょ」

イケてるオジサマに話し掛けられても天然は通常営業である妻は「鮭も好き!」と元気良く答えたが、男二人は沈黙した。

「義兄さんは…一緒ではないんですか?」
「陛下は恐らく御所に。…此処では人目もありましょう、」
「ねね、シューちゃん。お知り合い?」
「…ナイト、失礼だが、こちらは?」

二人同時に尋ねられたオタク父は、まず見上げてくる嫁に鼻の下を伸ばし、

「そうだな、ほぼ他人に近い知り合いだ」
「あら、そうなの?どうも初めまして、シュー…ジンがお世話になっておりますん」
「囚人?」
「オホホ、主人ですのょ、オホホ」

幾ら天然だろうが、初対面の相手にシューちゃんでは格好が付かないと、無理矢理軌道修正したのが不味かったらしい。
華麗に「主人」へ変更したつもりだったが、誰が聞いても今のは「囚人」だった。残念ながら。

「それでは、メア=クイーンでらっしゃるとは存じ上げず、大変な失礼を。ご挨拶が遅れた旨、謝罪申し上げる」
「メークイン?芋姉ちゃんって事?やだ、確かに失礼しちゃうわね。私、こう見えても東京生まれ東京育ちなんですのょ。ま、7区なもんで、下町臭がするのは否めないけども…ぶつぶつ」
「は?」
「はィ?」

会話は成立する気配を見せない。
然し唯一の通訳は嫁可愛さに鼻の下を伸ばし、お子様ケータイでバシバシ写メを撮りまくった。

所でこのお子様ケータイ。迷子になりまくる所為で、妻から押し付けられてしまったのだ。かなりボロボロだが、セレブは自ら機種変したりしない。
誰かがやってくれるのを待つばかり、である。

因みにスマホなど扱った事もない佑壱と同じ機種を何となくずっと使い続けている俊は、ネサフとTwitterが出来ればそれで良かった。写メの画素数など、妄想補完で何とでもなるのである。

尤も、山田太陽の携帯電話は、ケチな母親が昔使っていた機種で契約した為、かなりの年代物だが本人は全く気にしていない。意外と漢らしかった。

「あ、ああ、私も日本の米は素晴らしい食品だと思っている所だよ」
「ぇ?有難うございます?」
「失礼、名乗るのが遅れましたが、私はヴァネッサ=カミュー=F=ネルヴァ。…日本名ではカミュー=藤倉と申します」
「ご丁寧にどうも、藤倉さん。遠野俊江です、宜しくどーぞ!」
「…成程、オリオンに目鼻立ちが似ている」

ブカブカな眼鏡を髪の生え際までずらし、カチューシャ代わりにしたオタク母はきょとりと首を傾げたが、オリオンと言えば以前ご近所さんに頂いたオリオンビールだと、一人訳知り顔で頷く。
口には出さなかったので、幸いながら突っ込みはない。

「時にお二方、先程は何かお困りの様だったが、如何がなされました?」
「あ、そうなんですのょ。実はこの自動販売機が壊れてるみたいで」
「定期的にメンテナンスはさせていたと記憶していますが…失敬」

ふわり。
薔薇の香りを嗅ぎ付けた主婦…否、主腐は再びハァハァし、びとっと夫に張り付いた。

「シューちゃんんん!!!イケてるオジサマはっ、イイかほりがしましたのょー!!!ハァハァ」
「ママはパパの加齢臭を嗅ぎなさい」
「くんくん。あらん?シューちゃん、おっさんの匂いしないわょ?何か香水っぽい匂いがちょこっとする、かも?浮気したの?これ女物じゃないわね。何処のイケメンと浮気したの?え?」
「何を言うんだシエ、俺は浮気なんかしてないぞ。オオゾラの匂いじゃないか?」
「くんくん。何かしら、高級なエステサロンみたいな…高級なホテルみたいなかほりが…うーん。高級なエステもホテルも言った事ないから判んない!」

ゴトン。
旦那を嗅ぎまくっていたオバサンの額からデカい黒縁眼鏡がポテっと落ち、再び目元に戻ってきた。それと同時に振り返れば、自動販売機からコーヒーの缶を取り出した男が怪訝げに立っている。

「故障している様ではないが…」
「あらん?」
「む」

天然夫婦は揃って目を瞬かせ、事情を事細かに説明し、最終的に呆れたらしい男からそれぞれジュースを買い与えられた。

「藤倉さんはお貴族さんなんですかァ。シューちゃん、お貴族さんは優しいのねィ。ごっきゅごっきゅ、ぷはん!ゲフ」
「かたじけない。ごっきゅごっきゅ」

揃って腰に手を当て飲むヨーグルトを一気飲みした二人は、喉に絡むと咳き込み、益々見ている者を呆れさせたが、どちらもステレオタイプなのでまるで気にしていない。

「藤倉さん、ご馳走様でしたァ」
「いや、気に留める程の事では」

あ、と何かを思い出したのか、クネっと腰を揺らしたチビが眼鏡をくいくい押し上げ、空き缶をゴミ箱に捨てた。

「思い出した。シューちゃん、そのイイ匂い、あの時のイケメンと同じなのょ」
「何処のイケメンだ?シエ、俺の目の届かない所でイケメンに近付くなと言っているだろう」
「ぇ?そうだっけ?あの子はイケてたわょー、背なんか天井に当たりそうでねィ、苦学生だと思うとこう、母乳が出そうになっちゃって」
「何だと?!」
「ま、出なかったから、代わりにコーラ買ってあげたの。あの子も自動販売機の前で突っ立ってたからさァ」

因みに、病院の自動販売機は誰でも購入出来る様に、低い位置に対応した商品の番号を振り分けたボタンがついている。
あれを押せば商品が出てくると言う程度の知識はあるものの、商品の下にあるボタンを押さなければならないと言う一般的な知識はない。これが遠野スタイルである。

「髪の毛なんかサラッサラで、苦労してるからか真っ白でねィ。あ、もしかしたら難病だったのかも知れないわねィ。でも頑張ってるなんて、見習わなきゃなんないざます。愚痴ばっか言ってちゃ人生おしまいだもの!」
「苦学生、か。パパも仕事をしながら大学に通いました。誉めてくれ」
「よちよち。それにしても、神様は二物を与えないのねィ。うちの馬鹿息子はイケてないけどそこそこ勉強は出来るみたいだし、コーラも買えないほど苦労はさせてない、し…?」

その時、視線を感じたのは彼女だけだった。
振り返り見上げた先、巨大な宮殿めいた建物が聳える青空を眼鏡越しに見上げ、眩しげに目を細める。



「…気の所為?」

頂点には、燦々と煌めく太陽が、一つばかり。














室内へ足を踏み入れた瞬間、奥一面の窓辺のブラインドが自動的に巻き上がっていった。
完全防音に徹したこの部屋では、空中庭園程ではないが観葉植物を幾つも揃えており、酸素発生装置も設置してある。つまりは、換気ダクトですら望めば塞ぐ事が出来るのだ。

「セントラルライン・オープン、セキュリティリブート」
『コード:ルークを確認、新規セキュリティを起動しました』
「報告を」
『了解。特別機動部ステルス班、ランクBマスター・ジャックポットに通信を開始します。………48%、』

暑くはない。
年中25℃に保たれたこの部屋では、二葉ですら半袖で過ごす事が出来た。けれど無意識に襟のカフスを外し、脱ぎ捨てた式典衣装をソファへ放ったのは、何かから解放されたかったから、だろうか。

『ウィー。おはようございます、愛しのマジェスティ。挨拶もそこそこに報告行かせて貰ってもOKですか?』
「ああ」
『ラジャー。こないだの馬鹿共ですが、やーっぱりファーストん所の餓鬼共でしたわ。ドイツもコイツも口が固くていけない。絞めても泣き脅しても吐きゃしないんで、ちょーっと手荒な真似させて貰いました』
「そうか」
『で、時間にして半日前に謹慎を解いたんですけど、どうもこっちにはもう居ませんね。そっちに行ってると思いますが、監視は?』
「構わん」
『じゃ、偵察は外しときます。続いて、ハーバードから連日要請が来てるのでどうにかして下さい。特に理事と一部の教授が面倒臭いんで』

少しばかり眩しい。
そうは思ったが、立ち上がる事も、システムに命じる事もせず、衣装を下敷きにソファへ横になる。

「リチャードか」
『あー、ミッドナイト…何だっけ?とにかく、コード:ディアブロを出せ出せ煩いんですわ。自分如きがセカンドに通信なんか出来ないっつってんのに、スミス教授の名前を出されたらお手上げって所です』
「苦労を掛けたな。良かろう、セカンドには私から伝えておく。暫くは、リチャードがそなたらを騒がせる事もなかろう」
『これは本当にお願いしますよぉ、マジェスティ。マスターネルヴァの耳に入れない様に動くのも、そろそろ限界だったんですからぁ』

広い応接セットの3人掛けソファだが、片方の肘置きを枕代わりにして尚、反対側の肘置きから足がはみ出た。また、身長が伸びたのかも知れない。最後の測定では189cmだった筈だが、今はどうなっているのか。

『スミス教授はともかく、フェイン夫人からも何度か面会要請が入ってますが、そっちはネルヴァ卿側でシャットアウトしてるっぽいです。ランクAに直行する要請なんざ、大統領以上ですわ。何者なんですかねぇ、フェイン夫人』
「セカンドの悪戯だろう。私が渡米した頃から面会要請は入っていたが、余りに執拗だったが故に、セカンドへ任せた」
『あ、あー、あぁ…。面倒臭くなったCEO閣下が、つまりマスターネルヴァへ押し付けた、って事ですか』
「私の回線はアメリカにある。日本の回線へ綱渡しすれば、結果は見えるだろう」
『ひーっ、キング=ノヴァ前陛下に丸投げ…正気ですか!』

楽しげな声が室内に響く。
騒がしいと片目を細めて、気怠いまま上体を起こした。今は何もしたくない。

「他に報告がなくば、」
『ちょーっと待って下さい。中央情報部のサーバーにハックする程の度胸は自分にゃないんで、こそこそ嗅ぎ回った情報なんですが…』
「ああ、真偽は問わん。聞こう」
『例の組織内調査部、確かに18年前から妙な動きが見られた様です。自分が入社したのは12年前なんで、眉唾物の話で恐縮ですが…』
「18年前?ならば私が産まれた頃、か」
『あー、マジェスティまだ18歳でしたね。ついつい忘れる…。それで、その頃から組織内調査部の名がセントラル中に触れ回る様になった様です。それまでは部署こそあるものの、社員が口にする事はほぼない、公然の架空部署的な扱いだったそうですよ』

それが何故、今は畏れられる対象になったのか。
そう声を潜めた男は、推測ですが、と前置いて、

『誰かが敢えて、情報操作したじゃないか。や、推測ですけどね…』
「突拍子のない話、ではないな。そなたの想像は十二分に可能性は有り得よう。だが、憂慮する程の話ではない」
『然しジェネラルフライアなんてコード、稼働してんの聞いた事ないですよぉ?怪し過ぎるじゃないですか、マジェスティの前に単身で乗り込んでくるなんて…』
「憶測ならば、一つ。死者を甦らせる術などこの世には存在しない。可能性としては、複製か、模造だろう」
『クローンかミュータント?マジェスティ、すみませんが…それは何の話です?』
「あれは、セカンドの姉を名乗った。当のセカンドへはまだ伝えておらんが」
『は?』

喉が乾いた。
唐突に感じた喉の乾きに仕方なく立ち上がり、ドリンクサーバーへ足を向けた。据え付けのホルダーから紙コップを取り出し、久方振りに、ペーパーフィルターを手に取る。

『それが本当の話だったら、益々面倒臭くないですか…?いや、本当にそっちはどうなってるんですかマジェスティ』
「さぁな」
『さぁな、って…。最近問題ばっかじゃないですか…』

日向の趣味である紅茶の缶に紛れ、挽いたコーヒーの粉末が入った缶が並ぶチェスト。抽出したコーヒーをサーブするポットは敢えてそのままに、缶だけを取り出す。

「ああ、社内通告はしておらんが、キング=ノヴァを除籍した。そなたは最早、ネルヴァに気遣う必要はない。好きに動け」
『?!冗談にしては笑えませんけどっ?!』

紙コップの上にペーパーホルダーに設置したフィルター、缶から直接落とし込んだ豆の香りが漂ったが、湯を差せば香りは益々強くなった。

「そなたが言う様に、面倒になってな」
『え?!』
「私に結婚する意思がない事に気付いた」
『え?え?えぇ?!待って下さいよ、それじゃ、後継ぎはどうなるんですか?!ファーストを養子に?!あ、いやいやいや、違うか、セカンドに乗っ取られるんですか?!え?!』
「誰が後継に据えられようが知った事ではないが、」

湯気を発てる紙コップ。
ホルダーから落ち切った褐色の水滴を眺め、温かいそれを持ち上げた。たから、窓辺へ向かったのは偶然だ。何も考えず、ただただ、無意識に。

『やー…まぁ、考えは人それぞれだと思いますけど…やー、元老院が黙ってないんじゃないですかねぇ…』
「そうだな。どうせ子を作るなら、五つ子などどうだ」
『待って下さい、結婚したくないのかしたいのか、どっちなんですか!』
「好きに解釈しろ。もう良いか、切るぞ」
『あーっと、最後に一つ!偵察からクリス閣下とアビスがそちらに向かったと報告を受けましたので、気を付けといて下さい!また何処の馬鹿がドンパチ始めるか判りませんので!以上!』
「大儀だ」

途切れた通信に未練はない。
緩く目を向けた眼下、疎らな人の群れが幾つも幾つも、まるで地を這う蟻の様に。


「…父上と、あれはネルヴァか?」

ふと。
それを見つけた事に、理由などなかった。目立つ二人の男は、これほど離れた天空からでもそれと判る。

「ならば、あれは」

黒い液体。
口に含んだそれは、香ばしいばかりの、温かいコーヒーだ。



『ねね、パパ』
『今晩のおかずは何がイイ?』
『じゃ、唐揚げ沢山揚げましょ』

『ね、パパ』


けれど今、頭を占めるのは冷たい、弾ける炭酸と。



『新しい絵本、きっとあの子喜ぶわよ』


お前の父親ではないのだと、いつか知らしめられた、幼い頃のセピア。

←いやん(*)(#)ばかん→
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