帝王院高等学校
ゆらぐ闇くゆる影くすぐる脇腹
「知恵と、引き替えに、罪」

くるくる、指先で髪を弄びながら近付いてきた黒髪に気付いた。声を聞くまで気配など感じなかったが、心の内の動揺を悟らせはしない。それは育ちに因るものだが、だからどうと言うわけでもなかった。

網の向こう、足の下。
見上げてくる人影は一つ。

「ふふ、赤い眼鏡、見ぃ付けた。」
「…何だね、君は。此処は奇しくも懲罰棟なのさ」

艶やかな黒髪をさらりと掻き上げ、自称『天の君親衛隊隊長』宰庄司影虎は日本人形めいた無機質な面表の、黒々輝く双眸を眇めた。

「僕?僕は…そう、コード:ジェネラルフライア。組織内調査部、仮初めのマスター」
「ふむ。僕は宰庄司影虎、左席委員会生徒会長であらせられる天の君親衛隊隊長さ。覚えてくれたまえ。それで君も、脱獄して来たのかね」
「脱獄?」

白い肌、癖のない艶やかな黒髪、冷え冷えと煌めくサファイアの双眸。美しい人間だと、やはり表情には出さず心の内で評価するが、誰かに似ている様な気がしてならない。
どちらにせよ、こんな所に居るのはどうしても異端だろう。

「僕は何処にも逃げるつもりはないよ」
「それは変な話だね。捕まえに来た様でもなく、逃げもしないとは」
「だって十年も懸かったんだ。起き上がるまで三年、それからの七年は地獄の様だった。脱獄するならそうだね、牢獄よりも地獄からが良い」

上手い事を言うな、と。頷けば足元で笑う気配。大きな動きは良く見えるが、小さな変化は判らない。この暗さだ。

「でもそれからの八年は楽しかったんだ。そして今は凄く楽しい」
「君の話は余り面白くない様だね。済まないが僕はこれから此処を出なければならないのさ。さようなら、ジェネラルフライア君」
「ねぇ、君は神に逆らおうと考えた事はある?」

ふらふらと、揺れた細い体。
まるで女性の様だと冷ややかに眉を寄せたが、その動きには見覚えがあった。日舞の一節に、この舞がある。

然し、会話と動きは何ら関係ない様だ。

「成程。先刻の台詞は『創世記』アダムとイブだったのか。知恵と引き替えに罪、蛇に唆されたイブは神の言い付けに逆らい禁忌の実を口にした」
「ふふ。そして羞恥心を覚えたんだ。ねぇ、君ならどうする?」
「どう、とは?」
「君はさっきの子とは違う。君は、僕と同じ、この世の地獄を知っている」

ゆらゆら、ふらふら。
決してまともな動きではない。
何処か機械めいた動きだと思うがそれだけだ。愉快な話ではないと思うが無視しなかったのは、単に幼馴染みがフェミニストだからだろう。

「君は大切なものを失ったでしょう?僕もそうだから判るよ」
「可笑しな事を言うね。だから何だい?そろそろ時間なのさ、失礼させて貰うよ」
「僕は家族を守る為に好きな人を手放したの。ねぇ、君は何の代わりに何を失ってしまったの?」

大分執拗い人間だ、と。思ったがそれだけ。
何年か前にもこうして苛められた事がある。あの時は…そうか、溝江が初めて人を叩いたのではなかったか。
初等科に入寮したばかりだった。クラスが違った相手の顔はもう覚えていない。

そうだ。
確か、誰とも話さないあの偉そうな大河朱雀が庇ってくれた覚えがある。
初めて人を叩いた溝江はその後暫く自己嫌悪で落ち込み対人嫌悪になったものだが、何度話し掛けてもその後一度も相手にしてくれなかった大河に対しては彼が謹慎になるまで話し掛けた。


家族を失った人間など、幾らでも居る。


「それを君に話した所で、僕には何の得もないのさ」
「そうだね」
「僕はパシフィスタでもリアリストでもない。フェミニストの友を紹介するから、彼と談義してくれるかい」

平和を祈る趣味はない。
だからと言って理想を描く事もない。
金や富に溺れ自滅した哀れな一族、彼らは平和を望み理想を追い掛け、そして自滅した。今になっては冥福を祈る事もない。

「僕は誰からも唆されやしない。僕は禁じられた実に手を伸ばしたりしない。もう、話は終わりで良いかな」

パシッと。
胸元に飛んできたのは風紀の腕章だ。懲罰棟に放り込まれる際、外されたままだったもの。

「じゃあ、君は何故マジェスティに逆らったの?僕はね、カエサルより恐い人間なんか知らないよ」

マジェスティ。
ああ、成程、皇帝か。
カエサル、つまり我々はブルータスだと言われているらしい。笑い話だ。

「それは禁忌の実だったからでしょう?目の前に美味しそうな林檎があれば、誰だって欲しくなる。君もそうでしょう?宰庄司影虎君…いいや、最後の、影」
「君はカエサルの別名を知っているかい、ジェネラルフライア君」
「…シーザー、かな?」
「そうさ。だから僕らは皇帝に忠実な腹心のまま、裏切ってなど居ない」

家臣が従う皇帝は一人。
宰庄司は滅びたのだ。遥か大戦前までは華族として長らく栄え、平成に入ってからはどん底の生活を送ってきた。
それら全て、自業自得なのだ。

「残念ながら、僕は林檎は苦手でね。梨派なのさ」
「…ふぅん。シーザー、ねぇ。判った、良いよ。君は僕とはやっぱり違う。とても似ているけれど。僕は騎士を。君は皇帝を。それぞれ守る、ポーン」
「ポーン?」
「ああ、君を迎えに来た。…ふふ、声が聞こえる。じゃあね、影虎君」

ゆらり、と。
闇に溶ける黒髪。

メッシュ状の配管は恐らく空気孔で、だからこそ外の人間と会話が出来た。
だからこそ遠くから呼ぶ声も聞こえる。

「おーい、助けに来たよー。聞こえたら返事してー」
「おーい、えー…何でしたっけ?」
「溝江と宰庄司!野上クラス委員長!もー、そろそろ覚えて下さいよねー。溝江と宰庄司は風紀委員だって言ったでしょ!」

賑やかな声だ。
彼は知っているだろうか、小銭を稼ぐ事しか出来ない愚かな叔父が昔、富を手にした本家を羨んでいた事を。

血など遥かに薄い。最早他人だ。
だけどもし知っていて尚、助けに来てくれたのだとしたら。やはり、彼こそ相応しいのだ。

「えー、ミゾエ君、サイショージ君、ノガミクラス委員長、聞こえたら返事を…別にしなくても良いが…」
「え?何か言った?」
「コホン。聞こえたら返事をして下さい。尚、風紀委員は速やかに投降する様に」
「投降って…。何するつもりですか、もう」

羨みはしない。
今は何処に行ったのかさえ判らない叔父が昔、酒の席で暴露した話。幕末、帝王院に仕える家が散り散りに分かれた。

一つは灰皇院。
一つは冬月。
一つは『名無し』。

没落した冬月の末裔は逃げる様にまた分散し、一人は名無しの枝分かれに当たる西指宿へ嫁ぎ、一人は宰庄司に仕えた。判っているのはこの二人だけ。
宰庄司に仕えた女中は妾として子を産み、大戦を経て妾の子が跡を継いだが、昭和末期には没落。冬月は断絶。

なのにどうだ。
いつからか西指宿は政治に関わる様になり、灰皇院は加賀城に並ぶまでに成長していた。華族の旧家である宰庄司は最早、家名ばかりの貧乏暮らし。

見栄っ張りの両親は子供を帝王院へ通わせる為に互いに多額の保険金を掛け、互いの命を金に変えた。笑い話だ。

「時の君」

網の下、見上げてくる顔が笑みを滲ませる。
影。空に憧れる一族に最も多い名前。
皇が空を直接名乗れるのは、帝王院に仕えた者だけだと。知っているのだろうか、彼は。

「宰庄司君!良かった、無事かい?何処からそんなトコ入ったの?!」

何の見返りもなく優しくしてくれる人間などそう居ない。産まれてからずっとお金持ちの家柄で育ってきた溝江はナルシストに近いフェミニスト、母親を目の前で亡くした大河朱雀は恐らく同情。だから。

「君の隣に居らっしゃる方は?」
「あはは、何て言うか、白百合っつーか…」
「どうも、ユリコです」
「あは。眼鏡ないひと、本気できもい」

誰にも気を許さずまるで世界を拒絶する様に、空気を装っていた彼が、容易く気を許した外部生は。

「ナイスタイミング…と言いたい所だけれど、もう少し早く来て欲しかった。君達に話があるのさ」
「話?えっと、幾ら何でもここじゃちょっと」

幾ら血が薄まろうが幾ら没落しようが幾ら惨めな人生であろうが、主なのだ。

「宰庄司君、そこから出てこれる?見た所、溝江君と野上君は一緒じゃないよね」
「野上委員長は判らないが、溝江は間違いなく脱獄している筈さ。彼は物事を楽しむ性格だからね。ボーイスカウト経験もある」
「…ボーイスカウト?」
「困りましたねぇ、では各々バラバラですか」

丁度目の前で外れた空気孔から飛び降り、やや着地に失敗したが気にせずズレた眼鏡を押し上げる。ぱちくり瞬いたアーモンドアイを見つめ、宰庄司影虎は久し振りに笑みを浮かべた。

「ふむ、皆様を差し置いて四番席の僕の目線が高いのは申し訳ないと飛び降りたが、降りてもやはり僕の方が目線が高い人が居るのだよ。気遣いも中々難しいのさ、山田左席副会長」
「宰庄司、俺がチビだって言ってる?」
「あは」
「おや」
「ハヤト、俺の背後に隠れるな」

思い出した。
昔、彼をチビと呼んで階段から蹴り落とされた男が居た。その時に肋骨を骨折したまま、風紀委員長に手を出して全身骨折させられたのだ。

「ユリコ。宰庄司は今、俺をチビだって言った?」
「そうですねぇ、私にはそう聞こえました」
「神崎、今お前さん笑わなかったかい?」
「サブボス、隼人くんはカメラの前でしか笑いませんにょ。スマイル百万円のイケメンモデルなのです」

あれはそう、大河朱雀と言う大馬鹿野郎だった。そして今、間違いなく大馬鹿野郎は自分の事だ。

「錦織会計、宰庄司を捕獲」
「了解」
「叶会計、今からゆっくり60秒数えてくれますか」
「了解。いーーーーーーーーーーち」

ああ、星河の君が珍しく同情めいた表情をしているが、彼は大河朱雀と違い命知らずの馬鹿ではなかった。錦織要に関しては期待するだけ無駄だ、知らん顔している。

「宰庄司、脇腹くすぐりの刑に処す」
「ま、待つのさ、っ?!おひゃひゃひゃひゃ!」
「にーーーーーーーーーーーーーーーい」

眼鏡美形の風紀委員長は不在らしい。
自称ユリコは荒ぶる山田をにこにこ見守るだけの、ただの美形だった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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