帝王院高等学校
堕落せし煉獄の揺り籠
久し振りに接見を許されたのは、夥しい警備に囲まれた部屋の中だった。
まるで機械人形。
無表情の黒服達が守っているのは部屋の中央、歴代最年少で三位枢機卿へ登り詰めた神の子だ。
罪深きユダをいつでも殺す為だけに、彼らは息を潜めていた。物音を嫌う主人の忠実な部下として、まるで機械の様に一切の物音を発てない。
「義兄様、俺は日本に行くよ」
痛々しい包帯とその上の真新しい鉄面は、鈍色に妖しく煌めいている。
近頃お気に入りのロッキングチェアに身を委ねたまま、彼の表情は包帯と冷たい仮面で徹底的に覆い隠されて、かもすれば眠っているのでないかと思うほど静かだった。
「もう、此処には戻らないよ」
賭け、だったのだろうか。
自分の所為でこの人の命を危険に晒してしまったのだと、聞かされて尚、心は離れたくないと叫んでいたのだ。
「…グレアムは、俺なんか必要じゃないでしょ」
「真の兄が恋しいか?」
紅い、紅い。
印象的な双眸を封じた今、余すところなく白い彼の体で色付いているのは、唇だけだった。
その艶めいた唇から漏れた静かな囁きを、この耳が聞き漏らす事は決してない。
「あの島が気に入ったのか。紅蓮に彩られたそなたに、あの国は良く似合う」
「義兄様を灼いた太陽の色だから?」
「エデンズアップル。禁忌と知りながら、人は欲を抑えられない」
それは絶望的な賭けだった。
許されないと知りながらそれでも、引き留めて欲しかったのだ。一度の慈悲を、例え社交辞令でも嘘でも構わないから、一度で良い。
「俺は邪魔だった?暑苦しい太陽と同じ、毒林檎の色だから」
たった一言で、良かった。
「義兄様には、誰も何も必要ないんだね」
必要だ・と。
何処にも行くな・と。
お前が居ないと生きていけない、なんて過ぎた言葉を望んではいない。
「…聡明なそなたらしからぬ事を言う」
ただ、何処にも行くなと。
その一言さえ与えて貰えたなら、どんなに辛く悲しくても、離れられた。
自分が彼の妨げになるなら、たった一言与えて貰えればすぐにでも、喜んで死ねたのだ。
「俺らしいって何」
「私には些細な酸素、並びに膨大な量の水素化合物が必要だ」
血の絆など信じていない。
誰よりも強く在ろうと努力した。決して得られない母の関心をいつまでも追うほど浅はかでもなかった。
彼が現れるまでは、子供じみた望みを持つ事さえ禁忌だと。子供の癖に、思っていたのだ。
「ただの人で在る限り、その現実は変わらない」
知っていたのに。
何を悲しむ必要がある。事実を再確認しただけだ。絶望の淵へ落とし込む鋭利で無機質な声音を憶えている。忘れる事は決してない。
「は、ははは、…そうか、そうだね」
彼は揺りかごに揺られたまま、顔を向けてくる事もない。その態度そのものが煩わしいと告げている。知っていた。そんな事は出会ったその瞬間から。
自分だってそうだったのだ。
自分より弱い者を認めなかった。誰よりも強く在ろうと努力し、だからこそ弱者に甘える他人を許せなかった。
「何が不満だ、私の可愛いルビーよ」
人間の枠の中で『優秀』と呼ばれる脳は、永劫忘れる事を知らない。
神の子、大地の中で何より神々しく存在する白亜、プラチナの化身を。忘れる事は決してない。
初対面でその美しさに目を奪われた。
つまらない意地悪で覚えている全ての言葉で罵った。けれど彼は物の見事に全ての言葉を覚え、それに負けまいとまた、新しい言葉を覚えては繰り返し、繰り返し。
神の化身は全ての言葉を知っている。
何故ならば自分が、そうだから。彼の傍で彼に負けまいと惨めに足掻いて、努力した結果。
「俺はダイヤモンドになりたい」
「ほう、金剛石か」
神よ。
この身は愚かにも卑しい、所詮人間と言う動物でしかなかった。
神よ。
愚かな賭けに興じた罪深き子供に与えたもうその鋭利な裁きは、容易く柔らかな肉胞を貫いた。目には見えない傷痕から、惨めにも血を流している。
ひたひた・と。
ひたひた・と。
「世界で一番固いダイヤモンドに、なるんだ。もう義兄様にも母様にも誰にも、俺を捕まえる事は出来ないんだよ」
形無き心が砕けていくのだ。
弱い弱い、人間の心は肉と血で出来ている。高価にして強固なダイアモンドには決してなれない、脆弱な獣。
「あれは炎の前では無力なただの石だ」
けれど神の子にはそれさえ、届かない。何も届かない。誰も届かない。
「そなたの背に、紅蓮の翼があるならば。…何処へなりとも、飛び立てよう」
大地の下、空から遠く離れたキングダムに。神の祝福たる日の光から見離された『ノア』の子孫は、ゆらり、ゆらり。
「ねぇ、義兄様。俺は義兄様の何だった?」
私はユダなどではない。
貴方の命を危険に晒した愚かな動物だった。けれど命に替えても貴方を守る決意は、確かにあったのだ。
「そなたは気高く聡明な猫だ」
それでもやはり貴方には、つまらない言い訳に聞こえたのだろうか。誰の言葉も全て、ただの雑音でしかなかったのだろうか。
「………さようなら、嘘吐きな義兄様。」
猫。そう、何一つ命じて貰えないただの愛玩動物だった。何処にも連れていっては貰えない、甘える事しかできない愚かな猫だと、思われていたのだ。
それならばまだ、命令を待つだけの機械人形の方がどれほど良かったか。
揺り籠は、ゆらり、ゆらり。
姿無き傷痕からは、ひたひた、と。
「望むままに征くが良い。私の可愛い、ファースト」
無慈悲な神よ。
貴方の関心が欲しかったのだ。不相応にも、貴方の寵愛を望んでしまったのだ。一言で良かった。
他には何も、望んではいない。
堕
落
せ
し
煉
獄
の
揺
り
籠
私は、貴方の忠実な犬になりたかった。
「参りましたよ…」
心療内科の医師から相談を受けたのは、留学先から喧しい娘が帰国して然程経たない頃だった。
当初産婦人科を訪れたと言う初診患者は可笑しな事ばかり言い、これでは問診にならないとたらい回しされた様だ。
「何処にも想像を超えた人は居るもんですねぇ…。本当に今日は参りましたよ。海外の方なんですけど、わんわん初めから高圧的に捲し立てられて、もう。ヒアリングがやっとでしてねぇ…」
有名大医学部を卒業していたかと言って、全ての医者が英語を理解している訳ではない。
度々耳にする患者曰く『ミミズ文字』、カルテに書き込むドイツ語もスペルミスは良くある話だ。それどころか書いた本人も読めないほど酷い殴り書きも、ないとは言えない。
「会話が成り立たないとどうしようもないでしょう?とりあえず、留学経験のある若手に任せて逃げてきちゃいました。…はぁ。僕ら医者も人間なんですけどねぇ」
穏やかな性格で多くの患者の支持を集めるベテラン医師のぼやきに、医局に集まっていた他の医師や看護士から励ましが掛かる。
理由は、単に暇だっただけだ。
オペは入念なスケジュールを組み、各々担当の医師がチームを組んで執り行う。
救急外来の様に突発的な執刀は専門の担当医と、各医局からローテーションでシフトされる医者が急遽バディを組む事もあるが、急を要する搬送には大半がレスキュー要請を受けて対応を始めるものだ。
この日は何の連絡もなかった。
久し振りに院内を一人で巡回していると、入院歴の長いお喋り好きな年配の女性患者から笑われた程だ。
ドラマではぞろぞろと医者をお供の様に引き連れて歩いてたのに、しょぼい、などと。にやにやにやにや。
テレビの中は嘘だらけだと鼻で笑ってやったが、彼女はただの巡回を総回診と勘違いしているのだと、通り掛かった看護士から耳打ちされた。
単に暇だっただけだ。
偶々その日は定例のミーティングがあり、偶々その日は提携している大学に出向している教授らも揃っていた。
「榊第二外科部長、居るか」
「はい院長、どうされました?」
「総回診だ」
「…はい?」
「手の空いている者はついてこい」
「総回診、ですか?今から?え、でもそろそろ夕食の時間ですが」
「征くぞ」
自慢ではないが、総合病院の医局は一通り回るだけでも大変な労力だ。先代が大規模に増設した新しい棟にはコンビニやカフェまで併設されており、長年営んでいる展望レストランは客足が減っているらしい。
ドラマではあるまいに、馬鹿げた総回診よりも各々の担当医が熱心に毎日患者とマンツーマンで話し合う方が合理的だ。
単に暇だった。
いや、暇な医者が本当に存在したなら、この国は平和だろう。
娘が帰国した。
研修に向かった先の病院で、看護士にセクハラをしたと言う上司を殴り倒し、相手は顎を骨折し全治二ヶ月。そこの院長が顔見知りだったから良かったとは言え、どちらが犯罪者か知れたものではない。
渋々赴任したばかりの馬鹿娘は、同僚と患者を覚えるだけでいっぱいいっぱい。先日は院内で迷子になったらしく、何人もの患者に連れられて戻ってくる羽目に陥り、ちょっとした騒ぎだった。
「…俊江、お前もついてくるが良い」
「あ?やだね、俺ぁ今から3012号室の藤崎さんの診察に行、痛!あだだだだだだ、っ、んの、離しやがれ馬鹿親父ィ…!」
「喧しい、騒ぐな馬鹿娘。二度と己の病院で道に迷う羽目にならんよう、しっかりこの空っぽな頭に叩き込んでくれるわ!」
痙き攣る医師らをお供の様に引き連れて、思った以上に伸びる娘の頬を引っ張ったまま。
にやにやと、お喋り好きな年配の女性患者が手を振ってくる長い廊下を突き進む。
忘れていた訳ではなかった。
寧ろ、それだけは決してないと確固たる意思を以て断言出来ただろう。偶然だったのだ。
その偶然が人に罪を犯させるなどとは、あの時、一体誰が想像出来ただろう。いや、その偶然が起きていなかったとしてもいずれ、そうなったのだろうか。
切っ掛けが何であれ、忘れる事など出来ないのだから、いずれは。倫理も道徳も捨て去り、理性を失った本能の獣は涎を垂らした。
「シリウス?」
神よ。
だからそれは、因果だったとしか言えまい。
極上の餌が罠に掛かっていた。
禁忌と知りながら何故、手を伸ばす事をやめられなかったのだろうか。
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