帝王院高等学校
欲しいのはチート上等のRPGソフト
信じられない、と。
確かにそう象った唇から、声は音にならなかった。


駄々を捏ねる子供が母親に縋る様に、大切な宝物へ本能で手を伸ばしてしまったかの様・に。


彼は強くきつく、この身を掻き抱いたのだ。



「…覚えてた、んだ。凄い嬉し。苦しいけど、もっとぎゅっとして欲しい」

あの痛いほど降り頻る雷雨の、闇にも似た暗い黄昏時を思い出させる。

「お願いだったら、…怒らないで聞いてくれる?」

哀れなほど小刻みに震える体躯を感じていた。覚えていたなんて、信じられない、忘れていたのかと、などと。圧し殺した声は独り言の様に、何度も、何度も。
だからその度に何度も何度も背を撫でた。
腰の細さとは裏腹に隆起した背筋がシャツ越しに、しなやかな肩甲骨、無駄な肉のない背中はその美貌を裏切り明らかに雄だ。

着痩せするね、などと。
裸など何度も見た様な気になっていたが、良く良く考えてみると一糸纏わぬ姿は殆ど見ていない。触りっこ、などと言う可愛らしいものではない触れ合いの最中も乱れまくるのは自分と自分の浴衣ばかり、それも事の最中は常にジェットコースターだ。冷静に観察する余裕など、一時たりともなかった。

「ね、二葉先輩」

信じて貰えないかも知れないけど、と。
前置きは掠れた声となり、無我夢中で抱き締めてくる凶悪な力加減を弱めさせる事に成功した。

唇を貪られて、柔らかな肉を包む薄い皮を食む様に噛まれ、舐められて。歯並びを確かめる様に口腔を這う舌、その合間に僅かだけ離れると彼はまた、信じられないと呟くから。
何一つ、偽りたくないと思ったのは誠実である為に。

「俺がアイツの所為で忘れてたのは、ほんと」

一度、長い睫毛を瞬かせた麗しい美貌には伝わらなかったらしい。何処から話せば良いか暫し考えながら、寝たまま拾い上げた眼鏡を掛け直してやる。

「ほんとはまだ思い出してない。今の俺はルール違反ぎりぎり、偶然としか言えない裏技、…違うか。これ殆どバグだよねー。最初に不安定にされて、だからお前さんからどうしても目が離せなくなったんだ」

三年御三家、この聡明な男は理解してくれるだろうか。この途方もない夢物語の様な話を。嘘にしては陳腐な話を。三流芝居じみた、粗筋を。

「去年まで…や、先月までなら先輩に近寄ったりしなかった。実際中等部の時は会話するつもりなんてなかったし、」

中等部時代の一件以来、学園の配慮なのか度々二葉が声を掛けてきた。入学式典の時と同じく嘘っぽい愛想笑いで話し掛けてくる度に、不愉快を何とか飲み込み礼儀として頭を下げはするが、そそくさとその場を離れた。逃げるように。勿論、追い掛けられた事はない。隼人が行方不明だった時、までは。

「休み明け早々アンタが俊に会いに来た時はほんと、真っ先に逃げたかったのに」
「つまり、その時は覚えてなかったから、と」
「ほんと、理解が早くて俺泣きそ。…何処から話せば良いか全く判んないんです。つーかどう説明しても嘘っぽくなる様な、嫌な予感がする。俺の嫌な予感は当たるんです。知ってました?」

へにょり、情けなくも眉を下げた自分の面白い顔が、神秘的な蒼に映り込んでいる。眼福だと暫し眺めて、黒とばかり思っていたもう片方の瞳が濃い赤の様に見えると、ぱちぱち瞬いた。

「…これ、何で色が違うの?思い出してない時もそう思ったんだ。いつだったか…こっちは、綺麗な翠だったのに、って」
「角膜を提供しました。ああ、これでは少々語弊がありますか。角膜の一部、上皮だけ」
「角膜は五層あるんじゃなかった?あ、でも人はほぼ固有質部分で景色を見てるんだっけ…曖昧だけど」
「網膜剥離の手術を受けた事があります。貴方に会う以前に」

頬を撫でる指、誘われている様だと瞼を閉じれば笑う気配、くすりと。

「術後、安静にすべき時期に少しばかり怪我をしたんです。処置痕が定着していなかったので、失明寸前にまで視力を失った様です」
「怪我、って…まさか」

宥める様に頬を撫でる男は淡い微笑を浮かべただけで答えなかったが、それが肯定ではないのかと思えた。ならばその右目は、自分の所為で。

「お、俺の所為、」
「勘違いなさらないで下さい。須く、悉くが自己責任でしかない」
「でもっ、」
「提供した細胞は医療記述の発展に貢献し、一人の人間の視力保持が叶った。決して無駄に失った訳じゃないのです」

ふにふにと頬を摘まむ指は優しい。揶揄う振りで宥めている高度な優しさに泣けてきた。人間の器が違いすぎる。

「…こっち、全く見えてないの?」
「いいえ。人工膜移植を受け、辛うじて失明には至りませんでした。極めて弱視ではありますが、日常生活に不自由はない」
「目が濁る眼病があるって、聞いた事あるけど…。綺麗な青緑だったのに」
「移植直後の拒絶反応が酷く投薬を受けねばならず、その副作用で光彩のメラニン量が変わったそうです」

この色は嫌いですか、などと。
問われて頷く筈がない。ふるふる頭を振れば微かに安堵の息を吐いた二葉がまた、頬を撫でてくる。これが現実なのか確かめている様にも思えた。


「あの、さ。昔した約束、覚えてる?」

夢の中で頬をつねっても痛くない筈だ、とでも考えているのだろうか。ならばもっと強くつねれば良いものを。出来れば、自分の頬を。

「ええ。最後まで教えて下さらなかった、あれでしょう?」
「そう、そのお陰で俺は詰んでます。もう打つ手なし、それを思い出さないといつまで経っても俺は不安定な、バグったまんまなんです」
「…今の貴方は貴方であって、貴方ではない。何が起きたのかは知りませんが、心当たりなら一つ。近頃、何度か考えていた疑問があります」
「え?」
「あの時、何故我々は生きていたのか」

怖いとさえ思えた。恐らく彼はほぼ理解している。この意味不明な説明で、信じて貰えない所か、既にその脳内で内容を組み立てているのだろう。喜ぶべきか、震えるべきか。

「仮定1、相手側が目的を果たし満足した。けれどあの場に存在した全ての人間が生きているのはどう鑑みても不自然ですねぇ。実際、事件の首謀者は法的措置を受けています。仮定2、第三者による介入が起きた。…然し、それなら我々が誰一人としてそれを覚えていないのは何故か」
「…イチ先輩から聞いたけど、大学教授より探偵の方が向いてそうだねー。…で、白百合探偵はどうしてだと思う?」
「記憶改竄、でしょうかねぇ。人は己の許容量を越えた被災を記憶から消す事があります。PTSDとも呼ばれますが、それが物心定まらぬ幼い子供ならば尚の事」
「説得力あるね。でも納得してなさそう?」
「当然ですよ。貴方ならばともかく、この私が死にかけた程度で記憶を飛ばすとでも?」
「ありゃ、説得力が神。…ですねー、何人も居たのに全員忘れてるなんて、変だよねー」

だからそれは偶然ではなく必然、人為的なものだ。と、囁いた唇、サファイアの瞳を見上げながら、


「俺に近寄んな」

己の口から放たれた言葉と頭の中の台詞が一致しない事に目を見開いた。

「ち、違うっ。…や、今のは違うんです、俺は好きですって言いたかっ…あれ?!違うんです!あ、や、今のは違わないけどっ!あれー?!」
「どうしたんですか?ゆっくり、落ち着いて下さい」
「あーもー!俺はアイツの正体を言いたいのに…!くっそ、カルマでも言えなかったんだ!違う、あの時は名前を言おうとすると顔を忘れちゃって!」
「アキ」


ぼろっと、情緒不安定にも程がある。
いきなり喚き始めた意味不明な台詞に構わず抱き寄せられて、つられて布団から起き上がった背中をあやす様に叩かれた。



「口に出せないなら、頷くだけで構いません。…その相手が今は判りますか?」

腕の中、自分が外させたシャツから覗く鎖骨の繋ぎ目に額を当てて、小さく頷く。成程、声に出さなければ答えられる様だ。ただ、直接的な質問に頷けるかは判らない。

「その人物について説明しようとすると、先程の様に全く違う意味の言葉に刷り変わると?」

ああ。賢い人間と交わす会話は頼もしい。敵だと苛立つばかりだが、今は誰よりも頼もしいと思える。
コクコク頷けば鼻から水がちょろりと家出し、美しい胸元を濡らしてしまったが『この罰当たりが』と叱られる事はなかった。

「その記憶は断片的なものですか?…そう、ならば一連の状況を覚えてらっしゃるのですね。あの時、何人居たか判りますか?子供は三人?四人?五人?…そう、その通り、五人でした。私の記憶と貴方の記憶が一致していると言う事は、偽りではなく真実だと証明されました」

本当に、器が違いすぎる。性悪だの鬼畜だのと何度罵ったか判らないが、幾重にも謝らねばなるまい。

「貴方の改竄された記憶は、恐らく私達のものとは性質が違う。多かれ少なかれ事件前後の記憶を有している私とは」
「え?」
「あの日の記憶が曖昧であるだけの私が思い出せない光景を、貴方は記憶している。それだけでも随分異常と言えます」

背中から離れた手が肩に置かれ、少しばかり体を離された。
汚い顔をしているに違いない自分を色違いの目で笑いながら見つめた男の白い指が鼻を撫で、その指先をぬらりと汚した不埒な体液は、大抵嫌悪される鼻水だ。普通一般的に、他人のものを触ろうとは思わない。

「今までで十年以上思い出せなかった四歳の曖昧な記憶を取り戻し、且つ断片的ではないとすれば、然るべきタイミングで一切の劣化なく浮上する暗示を掛けられた、とでも。…幾らか非科学的だろうと、そう仮説を立てるより他ない」
「好きです」
「ふ。刷り変わっているだけと理解していても、良い言葉ですねぇ」
「貴方が好きです」
「核心に近い質問には頷く事も出来なくなると言う事ですか。弱りましたねぇ、有る筈のない魔法の存在を信じてしまいそうになりますよ」

困った様に笑いながら首を傾げた男の手を掴み、汚れた指先をゴシゴシ擦る。
ハンカチは制服の中、西園寺との合同式典用に買った健吾曰く『笑えるほどハイセンス』なシャツと原色を配したフルーツ柄のハーフパンツでは、拭きたくないからだ。例え自分の分泌物だとしても。
それなら素手の方がマシな気がしたのは最初だけで、摩擦で蒸発しただけのしなやかな指先を握ったまま自己嫌悪一つ、

「好きです」
「けれどこれは、…もう少し解けない方が宜しいかも知れませんねぇ」

また誤解したらしい男が揶揄いめいた眼差しで宣った。そうじゃないのに。芸人がオチの意味を解説する時に似た、言い訳じみた情けない説明などしたくないから、汲み取ってくれないか。

「好きです」
「無理に話そうとしなくて宜しいのですよ?何がどうあれ、今は貴方に掛けられた暗示を解く手掛かりを探りましょう」

賢い人間と交わす会話でも、コミュニケーションの相違はある。むやみやたら賢い癖に事此処に至って何故、鈍さを発揮するのだ。カマトトなのかギャップ萌えを狙っているのか、と、疑ってしまっても仕方ないだろう。

「好きです」
「もうこんな時間ですか…。私は良いとして、一般公開の開幕式典まではまだ時間があります。貴方は少し休まれた方が、」
「絶対、思い出すから。お願い。待ってて、ネイちゃん」

例えばまた、忘れてしまっても。
例えばまた、目の前の男を憎らしいと思ってしまっても。

忘れたんじゃない。脳が不具合を起こしただけで、全ての記憶は血液となり体中を巡っている。そう伝えようとして、感極まり洟を啜って咳き込む。


「…これも演技でらっしゃるなら尊敬すら覚えますが、」
「ちがっ、」
「お願いであれば、一つ残らず聞いてあげます」

賢い男。ちゃんと伝わったらしいのに、知らん顔をしているに違いない。
どうしてそう、美人は泣き顔も美人なのだ。自分の様に洟を啜りもせず、ただ。はらはらと。桜の花弁が舞う様に、静かに。

「六歳の時に受けた傲慢なお願いのみに、従順に従ってきました。本来、私は他人から命じられる事が好きではないにも関わらず」

いつまでも待ちましょうと、言葉ではなく指が、撫でる唇に語り掛けて来ている気がした。気恥ずかしさに話題を変えるより、見窄らしい自分に何が出来るのだ。

「…眠れそうにないから、夜更ししませんか。懲罰棟に肝試しでも」

ぱちくり、双眸を瞬かせた男はすぐに意味を理解したらしい。

「左席副会長は同級生想いでいらっしゃる。ですがこの場合、肝試しと言うよりロールプレイングですねぇ」
「あはは。勇者と魔王が旅するゲームなんか聞いた事ないけど」

ぼふっと胸元に飛び込んだ。背中を撫でる男が鈴を転がす様に笑う声、


「望む事をおねだりなさい。あの日、アイスをねだる貴方に遠慮など欠片も見当たりませんでした」
「…うわ、図々しい。イケメンで懐の広い風紀委員長、お願いします。中央委員会の鼻を明かしてみたい」

聡明な男は意地悪げな笑を唇へ刻み、何の変哲もない平凡な後輩の無防備な首元へ顔を埋めながら、まるで唆す様に。



安いアイスを噛み砕いたあの日と同じ偉そうな言葉遣いで、楽しそうだ・と、囁いた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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