帝王院高等学校
この目に貴方を映す限り、世界の全てが
まるで天国。
もう言葉もないのか、瞬き一つしない鋭利な美貌を上から眺めるのは酷く気分が良かった。眼下全てに彼を映し込み、彼の吐く息でこの肺が埋め尽くされれば良いのに、などと。本気で猟奇的な事を考えている。



もう我慢の限界だ。



「いっつもそっちばっか触って、俺にはあんま触らせてくんないの、ずるくないですか?」

浮気、と言う言葉は本来間違っている。
相思相愛で、例え婚姻関係にあったとしても、結局は意思と意思だけで繋がっているに過ぎないのだから。好いた相手からの関心を常に引き止めておけば、恐れる事はない。何が本気で何が浮気だと言う。誰がそれを決める?

全て本気かも知れないのに。


「ね、先輩。面白い話してあげよっか」

結ばれて慢心して我こそは王だと努力を忘れるから、相手は浮ついた気持ちで他の誰かを見てしまうのだ。

「一緒の部屋でいけない事やって、その直後に部屋を出てった男は暫く帰ってこなくて、次に帰ってきたら香水の匂いぷんぷんさせててさー、なのに図々しく人様を金で買おうとする話だよ。ど?…面白い?」

きっちり結ばれたままのネクタイを解いて抜き取り、くるりと自分の喉に巻きつける。余った両端を掴んで、それでヒラヒラと喉元を撫でれば、目を見開いたままの男が唇を少しばかり震わせる。

「どうも山田家は男運に恵まれてないみたいだねー。父さんもうまくやってるつもりだろーけど、今まで何回うちに愛人が怒鳴り込んできたか。はー…お母さんが電話口で立ったまんま無言を貫いてる姿を見ちゃうとねー、男の自分が申し訳なくなってくるんですよねー。どうせ女の人の気持ちなんか判りっこないし」


ぽた、と。
その綺麗な顔の白くなだらかな頬に、落ちた水滴は鼻水だろうか。などと、へらっと笑って素早く拭い取ってやったつもりが、どうもうまくいかない。
次に次に落ちてくる。


「…俺の努力不足なんです。ごめんなさい。ゴリラ退治して慢心してた。向かいの部屋もお土産屋さんも、警戒しとかなきゃなんないって知らなかったんです。ほ、んと、すいません」

浮気は男の甲斐性だ、なんて。羨ましさと共に少しばかりそう思っていた事がある。つい最近まで。
そのままそう思えていれば、ボタボタと悔し泣きなどしなかった筈だ。ずっと忘れたままだったら、せめて、思い出した過去の記憶がそれ以降の記憶に混ざり、薄まっていたなら。


「勝手に押し付けて自分だけ忘れて、…違う、ア、アンタはもうとっくに忘れてるかも知んなくて、ぐすっ、だから盛り上がってるのは俺だけで、でも思い出さなきゃよかった思いたくないんだもん、ずるい、ひっく、俺だけ覚えてるのズルい、う、うぇ」

泣く必要など、何処に。何処にあったのか。

もっと早く、そうだ、それこそ愛の奇跡でも起きていれば忘れてもすぐに思い出してハッピーエンドだったんじゃないのか。どうしてこうも簡単に全て忘れて今の今まで、どうやって。

生きてこられた。


「ひっく。もうやだ、ずずっ、仮にもカルマ総長なのにダサすぎ…、でもやっぱ浮気するなんて、酷い…っ」
「君は一体何を、」
「ぐす、アンタから貰ったものを返すって言ってんの、こほっ」

携帯。
そうだ、携帯。
ポケットから取り出した携帯から古いストラップを引きちぎり、呆然と見上げてくる男の唇に、チャームの石を押し当てた。漸く瞬いた二葉の喉が一度動き、何か言いたげに動く唇には冷たい小さな、石。

「も、これ要らない…」
「な、にを…」
「いつから持ってるか覚えてないまんまずっと何となくお守り代わりにしてたけど、もういいや。返す。俺なんか要らないなら、これ、引っ張って」

放り捨てた携帯には見向きもせず、首に巻きつけたネクタイの両端を二葉の手に片方ずつ握らせて、その両手を握ったまま身を屈める。



「…キスしたまま好きな人の上で死ぬとか、カッコイイでしょ?」

薄い唇に乗っていた石を舌で弾き落として、ペロリと舐め上げた唇は柔らかい。


「お前さんは忘れてるかも知れないね」

いや、そもそもあの頃の自分とは違う。

「どうしたって思い出さないかも知れない。覚えてる方が負けなんだ。だから、愛されるコトに慣れた白百合様に、片思いがどれだけ惨めか思い知らせてあげる。俺は根に持つ男なんだ」

あの頃はこんないやらしい口付けなど、知らなかった。

「覚悟しろ。今からお仕置きしてや、」
「あ、なたが、根に持つ男だと言う事など、初めから知っています」

手の中から逃げていったしなやかな男の手が、頭の後ろと腰に伸びて、天地が変わる瞬間。





どさり、と。
落ちた先は布団から僅かに逸れて、砂の上。見上げた先には彼しかいない。


ああ、どう足掻いても天国でしかなかった。






「…ね、叶先輩」
「何度も言ったでしょう。私は、」



「浮気しないで、ネイちゃん」






信じられない、と。
呆然と呟いた男の唇が、噛み付くように落ちてきた。

















砕け散らんばかりに掻き抱かれて、じゃりじゃり擦れる砂の上がまるで、楽園の様だと。






























欲しがるならば見返りを、と。
口癖の様に繰り返したのは紛れもなく自分。

あるもので我慢出来ない子供とは違う。欲しい欲しいと地団駄を踏み、手に入らねば喚き散らし泣き叫ぶだけの幼子と自分は、違う筈だ。


愛が憎しみに変わる事は実にままある茶飯事。けれどその逆はどうだろう。


いつか煩わしいとさえ感じていた赤毛の猫は、今や自尊心高い狼へと姿を変え、その目に思慕などではなく憎悪、或いは自責の念さえ宿し真っ直ぐこちらを見据え、頭を垂れた。迷いなく、懇願する為に。



求めるなら見返りを、と。身内にさえ躊躇なく吐き捨てたのは自分。それはただの気紛れに等しかった。
彼は床へ額を擦り付ける様に、そして血を吐くかの様に何度も、何度も。



何一つ知らせず宙へ還せ。
何一つとして遺る事なく宙へ還せ。



けれどそれは、言われるまでもなく、私と言う一個体の生命が最も恐れるものであるのだ。























判っているのか。
お前は最早私など見てはいない。お前は最早、その紅蓮に燃え盛る翼を威嚇で染めて、他の誰でもない、彼にそう従順に付き従っている。
判っていないのか。
跪きしお前のその懇願は他でもない、私自身の最たる望みでもあるのだと。


人も神も決して過去へ戻れはしない。
今少しばかり考えるのは、あの桜舞い散るあの場所で、もう一度出逢う事が叶うのであれば今度こそ、何ら一点の曇りなくただ、あるがままに。









その手を取れたのだろうか、と。



































「…」

沈黙はどれほど続いたのか、数えてはいない。
独りきりなら気にもならないこの静寂は、傍に誰かがいるだけで急に気まずいものへと姿を変えるのは何故だろうと考えてみても、殆どが日本人であるからだで答えとなる。皿に残した最後のいなり寿司を掴み取る勇気があっても、それとこれとは話が違う。

ちらりと盗み見た傍ら、ベンチの上で膝を抱えている男は何処を見ているのか、薄暗い煉瓦造りの道並みを眺めたまま一向に大人しく、月のない肌寒い夜は寒気すら感じると身震いしたものの、此処で立ち上がって良いものか否か。そこんとこどうなの。15歳、難しい年頃です。


今になれば何故、要を追い掛けてしまったのか。裕也や健吾に任せておけば確実に決まっている。幾ら泣きそうな顔をしていたからとは言え、結局は追いつけずへたばった挙句、追いかけていた本人がやってきてしまう始末。益々ダサい。心から恥ずかしい。


カルマで一番の身長を誇る神崎隼人であるが、中身はぴっちぴちの高校生なのだ。羞恥心と気まずさでにっちもさっちも行かない状況へと追い込まれ、彼こそが泣きそうである。



「え、えーっとお、あは、あの、えーっと…」

何か言おうと口を開いてみたものの、会話の糸口を掴んでいなかったのが敗因だ。賢い頭を急速回転させ、ハードディスクが火を吹きそうな寸前で何とか会話の手掛かりを見つけ、要からは見えない所で拳を握る。

「チョーバツトー、どーすんだろーねえ。つーかその話し合いに行くんじゃなかったっけー。どーしてこーなった」
「…ユウさんから報告が来てたそうだ。シロには」
「ほい?何でシロップ?」
「さぁ?…アイツが親衛隊だからじゃないのか」

どうもそう言う割に機嫌が悪いのではないかと片眉を跳ね、確かに付き合いの長い要より新米の獅郎が選択されればさもあらん、と瞬いた。実際はそれだけではないだろうが。

「あのさあ。ABSOLUTELYのセントラルって、いんじゃんかー」
「俺じゃありません。お前が信じられないならそれで構わない。…別に」
「んー?不貞腐れてんのお?」
「誰が」
「じゃ、ユーヤかねえ」

睨んできた筈の要が真顔で沈黙した。盗み見るに、彼自身はそれを知らないのは本当だろうが、今の今まで考えた事もなかったのだろう。まさか、と。口が動いたが、声にはなっていなかった。

「だってさあ、カナメちゃんが神帝と繋がってんのは…まぁ、そーじゃないかなーとは思ってたのよねえ。伊達に左席代理やってた訳じゃないしい、隼人君ってばオージ先輩のセフレに手ぇ出しまくりですしい」
「良くもまぁ、誰にも悟らせず隠しきれましたね。お前の化けの皮に驚かされた」
「あは。お陰でイーストは敵じゃないってのは判ってたからあ、喧嘩しなくて済んだよお。あの人も面倒臭げだもんねえ、こじらせすぎで。さっちん与えとけば大人しいみたいだけどお?」
「お前は何で、」

じっと。見つめてきた要がすぐに目を逸らし、膝を抱えている両手に力を込め直す。恐らくそれは、隼人が何故裕也を疑問に思ったのか問う台詞だった筈だ。

「アイツだきゃあ、本気で意味不明。いっこも判んないの。だあって、多分、アイツほんとは俺らの中じゃ間違いなく一番強いんじゃない?」
「ユーヤが?」
「アイツだけじゃんか、ボスの寝返りで怪我してないのも、『居なくなっても気付かれない』のって」

とうとう、膝から手を離した要が下へ足を下ろし、瞬いた。その頭の中は先程の隼人の様に回転している事だろう。ぐるぐると、火花を散らしながら。

「居なく、なって、も…」
「そ。だって明らかにおかしーでしょ。あんなにいっつも猿と一緒で、どっちかに聞けばどっちかの居場所が判るわけ。よい?例えばユーヤが居ないって気付いたら、いつもどうしてたっけー?」

健吾に聞けば。または、どうせ寝てるだの、どうせ彼女の所だ、と。誰かが囃し立てる。いつも。いつも。

「特に月曜日、一日の大半寝てんの。だーかーらー、日曜日に何やってっか調べても結局判んね。この隼人君に調べられない事があんなんて、ちょー腹立つーっ!って、感じー?」
「日曜…か。確かにそれなら恋人の所でも可笑しくはない、な」
「特に今回はねえ。Aクラスだもん、土日はガッコ居なくてもよい訳よねえ。どーよ、何かないの?イーストじゃ判んない事をさあ、カナメちゃんなら知ってても可笑しくないでしょーがよ。ねえ?」
「…俺が知る訳ないだろうが。第一俺は、ファースト…ユウさんの警護だったんだ」
「へえ。ボディーガードねえ」
「………ユウさんは服用しなきゃならない薬があるんだ。恐らくこれはお前も、他の誰も知らないだろうが」

そんなものあるのか、と首を傾げ、もう一度今の言葉を反芻する。しなきゃならない、と言う事は、しなければどうなるのか。

「流石に俺も、それに何の効能があるのかまでは知らされていない。ただ毎週、向こうの人間がユウさんに接触してる。薬を渡す為だ。ただユウさんが大人しく言う事を聞く人ではない事くらい、判るだろう」
「あー…だよねえ、あんな殺しても死にそうにない人があ、薬なんか素直に飲みそうもないもんねえ」
「実際、殆ど飲んでいない様だ。下手したら受け取ろうともしない。俺は渡し役の彼らが接触できなかった時の代理と、ユウさんの近況を伝える役目が殆どだった」
「なーんだ、やっぱ監視役なんじゃん」
「あの人はグレアムの一位枢機卿だ。全ての行動を把握するのは、当然だろう」
「一位とか何とかって、どうなってんの」
「右元帥、企業役職で言えば幹部役員の専務辺りになる。正式には外交局対外実働部部長、コードはそのままファースト。万一マスタールークに何かあれば、グレアムの次期男爵はユウさんが務める事になるんだ」

要は半ば開き直ったらしい。そんなにべらべら喋っても良いのかと思うが、そう言えば実家と縁を切ると言っていた様な覚えがある。勇気ある行動ではないか、あの二葉相手に。画面を通してであり、本人の前ではなかったが。

「ファースト、ねえ。あー成程、佑壱の壱?」
「あの人は来日するまで自分の日本名を知らなかった筈だ。…洋蘭が、叶二葉がそんな事を言っていた」
「あ、そっか。こないだ本名聞いたよねえ。えーっと、エンジェルが通称で…エデンが略称で…なんだっけ?ややこしいなあ、外人って奴はよー」
「エアフィールド=グレアム。ファーストはただの継承順位で、アメリカに戻れば嵯峨崎佑壱の名前は消える。…と言うより、グレアム一族には国籍がない」
「はあ?」
「住んでいる場所も、本社が何処にあるのかも俺には知らされてないくらいの、本当の意味で秘密結社だ。それとなくユウさんから聞いた話じゃ、区画保全部が『天気を決めている』から天気予報は百発百中らしい」
「…どゆこと?」
「さぁな。お前の優秀な頭で考えろ、俺には判らない。…ああ、それと知りたくなかっただろうが、叶二葉の自室は常に常夏の砂浜だぞ」
「はい?」
「アイツの部屋の壁一面に液晶シートが貼られてる。それに映っているのは常に青空で、天井付近に落書きじみた太陽のマークがあって、部屋中に何処ぞのビーチの砂が敷き詰められてて、バルコニーから部屋の中央まで緑茶の水路が伸びてる。どうだ、意味不明だろう」
「意味不明」
「…ふん。ステルシリーなんざそんな妖怪だらけって事だな。叶二葉が理解できない内は、ノアに歯向かうなんて考える方がどうかしてる」

そう言われると、学生の二葉と神威しか知らない事に気付いた。然しあの二葉よりあの庶務が強いとは、やはり到底思えなかった。

「三年帝君だもんねえ、一年で帝君なんか楽勝だよねえ」
「御三家の光王子を除いて、どちらも大学院を卒業してる。そうだな、お前がまだおねしょをしていた頃には中央委員会長は博士号を取得していたんじゃないか」
「隼人君はおねしょなんかしませんー、一回もしてませんー」

しゅばっと立ち上がり、あっかんべーと舌を出して要に背を向けた。小学校入学まで布団を濡らしていた記憶を呼び起こされ、何となく気まずくなったのだ。こればかりは人と比べる事が出来ないので、自分が遅かったのか早かったのか判らないだけ後味が悪い。

ずかずかと無意識に寮入口まで近付いて、アンダーラインの入口に気付いた。ちらほら出てきた数人の生徒らが、眠たげな目を擦りながら寮へ戻っていくのを何ともなく見送り、

「…くっそー、メガネーズと委員長が入ったまんまなんだよねえ…。ぐぬぬ、Wサブボスは戦力外にしたって、ボスがどうにかなんないと無理だろ…一人じゃ無理すぎる…」
「あの二人は明日どうにかなる」
「おえ?!」
「何だ、その不細工な面は」

声に驚いて振り返れば、髪に絡んだピアスの羽根を弄びながら眉を跳ねた要が訝しげに見遣ってくる。まさかついて来ているとは思っていなかったので、油断した。

「さっきから気になってたんだがハヤト、お前の尻が光ってる」
「ヒィ」

守り抜いてきた操を狙われている?!と震えたものの、ずり下がりに下がった腰パンをぎゅっと元の位置に戻してから尻ポケットを漁れば、狭い布の隙間一杯にギチギチつまっていたスマホが確かに点滅している。メールだ。

「あら?サブボスだあ」
「ユウさんから?」
「違う、チビの方。新しいカルマのボスの方。21番君」
「ああ、何だ山田君ですか」
「おのれ、いつの間に隼人君のメアドゲットしやがったんだアイツめー………んんん?」
「どうした?」

ぎこちない顔文字を申し訳程度に織り交ぜた送り慣れていないメールを読む内に、隼人は眉間に皺を刻んだ挙句、とうとう空を仰いだ。スマートフォンを渡され怪訝ながらもその文面を見遣った要はすぐに硬直し、意味もなく何度も読み直している。
そうか、お前も見間違いであって欲しかったか。だが残念だな、と。乾いた笑みを浮かべたのは隼人一人。


「あ、あは、あは。こりゃ案外、ボク達だけでも何とかなりそーだねえ?」

何がどうして、こうなったのか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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