帝王院高等学校
沈着、その果てに救いのない、喜劇
余裕がない様に思えるなんて。後から気付いた事だ。

尻に違和感がある。ああ、俊が喜びそうな台詞じゃないか。けれどこの違和感は以前、暗い螺旋階段で囚われた時にも感じた事がある。旅行と言う名の軟禁中には決して触れられた事はないが、二度目だ。


(俺なんかのお尻でも誘惑出来ちゃうもん、みたい。なーんてねー)

ただ今は、真っ青な空を見ていた。
室内なのに変だな、と。他人事の様に声なく呟いたのは、声が声となる前に唇を容赦なく塞がれたからだ。

ワンワンとまるで犬が哭く様に、頭の中が鈍い音で戦慄いている。もしくはグワングワン。どちらにせよ、発狂していないのが奇跡だとしか言えない。

約束を、した。
但し中身は未だ思い出せない。ほぼ全ての記憶を取り戻して尚、幼い頃に自らが投げ付けた脅迫にも似たそれの、重要な所が。戻ってこないままだ。


「…」

ネイキッド、と。
不愉快なのか単に真顔がそれなのか、初対面の自己紹介とは到底思えない愛想のなさで彼は、その美貌がなければ殴っていたに違いないだろう偉そうな態度で宣った。
今になればあれは、「名無しのごんべい」と言ったも同然だったのだろうが、いかんせんそこまで回る頭を持った幼児でなかった。拗ねてひねくれていた事は多分に認める所とは言え、だ。

可愛くなかった。
特にあの頃はもう、今思い出しても恥ずかしい程に自分は、可愛くなかった。それはもう、ほとほと愛想が尽きるまでに。

父親の浮気癖に逐一苛々していた母親は若かった。それで子供に八つ当たりする様な女ではなかったが、子供と言う生き物は肌で感じるものだ。よそよそしい父親の態度も、張り詰めた母親の表情も、全て。そう、その全て、が。
痛かった。けれどどうすれば良いかまでは判らなかった。チクチクと弟を苛めては罪悪感から逃げ出して、両親の前では純粋な子供の振りをする。何も知らない子供なのだ、と。何も気付いていない子供だから、安心していて、と。


父親は次男ばかりを可愛がった。
否、可愛がったと言うよりは、連れ回した、と言うのが真実か。双子の弟は近所でも有名な「賢い子供」だったので、苛めても苛めても兄さん兄さんと戯れてきた。


『大人って馬鹿だよね』

気に食わない。
全て。何がではなく、恐らく全て、が。

『僕とアキちゃんの区別もつかない癖に』

同じ日に同じ母の腹から産み落ちた、同じ細胞を持つ片割れ。但し例え双子だろうが、世間からは区別される。早いか遅いかだけの違いで、兄と弟、と。


甘えてくる弟が邪魔でならない。
甘えたくても母親は思い詰められていて、父親は滅多に帰ってこないとなれば、頼られるしかない『兄』は、誰に頼るべきなのだ。

いつも賑やかな大人達に囲まれて、友達は一人も居ない癖に楽しそうな子供が居た。装備はサッカーボールと眩いばかりの金髪、一度転がってきたボールを拾ってやれば照れ臭げに「サンクス」と宣ったので、「サークルKか!」と怒鳴ってボールを顔に投げつけてやった。
以来怯えたのか否か、向こうからは近付いてこない。隙を見て泥団子や虫の死骸などを投げ付けてやったが、機敏な相手は紙一重で避けては涙目で捲し立ててきた。大半が英語なので意味が通じていなかった事は、向こうも気付いていたに違いない。

懐かしい記憶を呼び起こしたのは、何も精神的に落ち着いていたからではない。寧ろ全くの逆、そうでもしないと頭が破裂しそうだからに違いなかった。


「…次は何だ…違う、脱がす…くそ」

小さな呟き。辛うじて推測するだにそれは、まるで余裕がない初心者の確認の様ではないか。

「んな、慌てなくても…」

他人事の様な呟きは届かなかったのか。ぼそぼそと絶えず動く唇を見据え、口から漏れかけた甲高い声を飲み込む。慣れたとは言えずとも、日にちが経った分だけ、体が従順過ぎる。何処を触られても気持ちが良い、などと死んでも言えたものではない。普段の自慰が廉価版なら、これぞ純正極上品。体温と形が違うだけで、感覚はこうも違うのだ。

「んっ。…くすぐったい」

スラックスは不格好に外されたベルトを繋いだまま、下着の中には背後から他人の手が侵入していた。
性急に揉まれたかと思えば、今度は自棄に優しく撫でられる。そのつまらない、けれどこうも興奮する行為をどれだけ繰り返されているのか。この部屋に放り込まれてからもう数時間は経っていそうな気さえする。そんな馬鹿な。数時間も痴漢しているとしたら流石性悪魔王だが、されている自分はあれか、陵辱願望のあるギャルゲーの尻軽キャラクターだ。可愛い女子ならともかく、股間に異物を生やした平凡な雄となれば吐き気しかしない。せめてイケメンだったら。
そう、目の前の男くらいの美貌があれば、意気揚々と尻を振り振り、あんあん合唱してやったものを。


ひやり、と。
肌に差す冷気。


「ね」

ただの一つとして役割を果たしていない筈のシャツのボタンが、飛ぶのを見た。
まともに着衣などしていないにも関わらず、どうしてそう強引に引っ張る必要があるのか。

だからそこで、もしかしたなら余裕がないのではないか、と。思い至ったのだ。
そんな馬鹿な。何度この男の手により、呆気なく果てた事か。反して何度触っても達しない男にどれだけ焦れた事か。いつも自分ばかりが、では、立つ瀬がない。悔しくても。

「指、冷たいね」

真っ直ぐ、見上げたまま。

「寒いの?」

掴んだ指先を口許へ押し当てる。びくりとわざとらしい程大袈裟に肩を震わせた男は、乱れた前髪で顔が見えない。
左手は冷たい指先を掴み口付けを繰り返し、右手は緩やかに、けれど抵抗を許さない強引さでその、邪魔な髪を。

「…そんな顔、すんなよ。どした?」

掻き上げて、漸く露になった整った眉は見事に歪み、顔色は到底良いとは言えなかった。哀れも哀れ、およそ形ばかりとは言え仮にも恋人同士が、仲良く睦み合う瞬間の表情ではない。

「どっか痛い?」

普段呆れる程べらべらと皮肉ばかり饒舌な癖に、愛想笑いを剥がした瞬間、頑ななまでに無口と化す。
何せ目覚めて小一時間は口調も荒く、血圧が上がるまでは殆ど喋らない。旧式パソコンの機動力に似ている。こんなに無愛想な人間も居ない。初対面の記憶は朧気ながら然し、好印象とは言えなかった。

けれど今は、決して低血圧に陥る場面ではない。体の一部は最高血圧をマークし、年齢相応の情熱を見せる場面だ。違うか?厚顔不遜なネイキッドならばともかく、それを決して口にしない叶二葉としてなら、確実に。悪乗り過ぎるまてに盛り上げて、にこにこと皮肉を吐くのではないか?

これではまるで自分が、知っていたとは言え仮にも恋人である筈の自分が、ただの少しも、同情や暇潰しとしてさえ微塵も、好かれていないのだ、と。
思い知らされて、平気な振りの下で傷付いてしまう。

現実にこの男は、たった数日間の旅行中でさえ女物の香水を纏わせて帰ってきた。潜り込んだ布団の中から飛び出なかったのは、悲しかったからでも無関心だったからでもなく、目の前に居て、他の誰かに奪われた自分が情けなかったからだ。


小刻みにカタカタと。震えているのは自分だと、思いたかった。自分が触れている所為で震えているなどと、絶対に、認めたくなかった。どうして。

金を払うと、言われた。山田太陽と言う人間の時間を、買う、なんて。この男は。
どうして。こちらから支払ってでも逆に押し付けたいくらいだと言うのに。そう、自分の全てを。
賢い癖に何故気付いてくれない?それとも判っていて気付かない振りをしているのか。ああ、そうだろう。何の価値もない庶民が、高嶺の百合に焦がれる無様な光景は愉快だろう。それは何よりも痛烈な嫌がらせだ。

何故、他の人間と同じだと思われている?
体で、金で、喜ぶ程度の平凡な、一般的な他人と大差ないと。思われているのだ。

今、目の前でこの男が違う誰かと抱き合っていたとして。自分が悲しむ事はない。望みはただ、愛される事。誰に構わず、愛せる事。この腕に帰ってくるなら何処へ散歩に行こうが、耐えられる。


けらどこれは違うだろう。
震えるな。拒むな。嫌うな。
まるで自分が、苛めている様じゃないか。


震える胸元を押し返せば、抵抗もなく離れた男は何処か安堵の表情を滲ませ、次の瞬間、大きく目を見開いた。

「…ほら。見下されると、やっぱ怖い?」

明らかに布団ではない感触が膝に。白浜の様な粗い砂がじゃりじゃりと鳴いて、叶二葉の眉間に深く皺が刻まれていく。乱れた前髪、覗く色違いの眼差しを見つめる。セクシーだと思った。

「なんか、いい気分だなー…」

喉が鳴り、雄の欲が下半身から這い上がる過程。ぞくぞくと背を走り、脳に。

「やめなさい」
「何が?」
「私の上から、降りて下さい」
「何で?俺の上には加減なく乗っかって来たろ。痩せてても重いんだけど」
「…良いから降りろ」
「はっ」

怒りなのか悲しみなのか最早判らない。悲しい悲しい悲しい、明らかに拒まれて、どうしようもなく。どうしようもないけれど、痛い。


「…何様なの?」

鼻で笑い、泣くものかと歯を喰い縛って覆い被さる様に口付けを奪う。生娘を無理矢理犯している様だと思い当たり益々興奮しているのだから、男とは因果な生き物だ。

「っ」

弾かれた様に体を起こす。押さえた口許が甘苦い。目前の濡れた薄い唇が赤と灰で点滅し、目の前がチカチカした。

「やめろと、言ってるだろうが」

弱々しい眼差しは獰猛に、けれど顔色は依然、悪いまま。チカチカチカチカ、まるで、警告の様に。悲しい悲しい悲しい、口調を乱した男の目は笑っていない。だから本気の拒絶。

「知りたい事に答えてやるから、…お戯れは程々に」

何よりも辛い事は、好いた相手から嫌われていると再確認させられる事だ。浮気よりも何よりも、本当はこれが一番辛い。浮気で怒れる内は幸せだ。相思相愛だからこそ沸き起こる独占欲。今の自分にはそんなもの、許されていない。

「グレアムだろう?」
「何、」
「惚けるな、この俺が気付いていないとでも?笑わせてくれる」
「…は、はは。何でも答える、って?副社長の癖に、一介の平民に?」
「答えた所で、一介の平民でなくなるだけだ。喜べ、明日から命の危機に晒されるぞ」
「…いいよ。死んだって、別に。取引するんだろ、悪魔よりタチ悪い魔王と」
「ふは。…惚れ惚れする図太さですねぇ、流石は左副会長閣下」

そう、目的はそれだった。何だかんだ初めて出来た親友の為に。そうだ、

「じゃあさ、」
「何なりと」

本来の目的を忘れるな。
(思い知れ浅はかな悪魔。)
それでも優しくしたい。底無しに優しくしたい。
(ピエロの演じる舞台はいつも、)




「俺、今アンタに触りたい気分なんだけど、…どう思う?」


産まれて初めて、悪魔が絶望する瞬間を、見た。
(ほら、素敵な喜劇)

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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