帝王院高等学校
密やかな約束を覚えていますか?
「…時間です」

囁く様な声音が隣から伝わってきた。高かった日も西に傾いて幾許経っただろう。
楽しい時間が過ぎるのは早いものだと、誰が言ったのか。決して楽しくなどなかったのに。

「も、そんな時間だっけ?」
「行きましょう」

橙の日差しを背景に、振り向いた男の眼差しは逆光に遮られ、


「…山田太陽君?」

ただ、見上げるばかり。

伸びてきた手が頬に触れる。
近付いてくる、逆光の影に隠された美貌。


「俺、さ」

時間は決して止める事など出来ない。
巻き戻せもしないし、ただ見知らぬ一秒先の未来へ流されるだけだ。天国か地獄か、行かねば判らない。
後悔はいつも辿り着いた先で得るものだ。引き戻れない所でしか手に入らない。

それが現実。
だからこそ現実。

「結構、アンタのこと好きになったよ」
「ふふ。見直しましたよ」

それでもまだ見上げるしか出来ない自分が、その時考えていた事はと言えば、



「真顔で嘘を吐くなんてねぇ」

やはり、決して楽しい時間などではなかった・と。













皮膚が剥がれていく(音を視た)
一つ一つ、この指先から作り出した世界のカケラ達(そう言う自分も世界の欠片)

剥がれていく(壊れていく)
元素に戻ろうとしている(そして全て粉々になったとしたら、)


(後悔)
(も)
(絶望)
(も)

二人を隔てる
(皮膚2枚の)

空間

(も)


下らない記憶(しがらみ)も、目を覆いたくなる様な悦楽を誘う禁忌も、何も彼も(全て)が(如何にもつまらない事の様に)、忘れてしまえるだろうか。

答えはない。


「ぇ」

気付いたら、第一講堂の倉庫に居た。すぐ近くにステージの暗幕が見えたので、演劇部の荷物らしいダンボールを掻き分ければ、見慣れた大好きな男の短い銀糸が見えたのだ。


両手で口を塞いだのは、こちらからは背中しか見えない誰かを彼が抱いていて、その首筋に顔を埋めていたから。

「何するんだ、離せよ…!」
「逃げるな、顔を見せろ」
「や、」
「ノイズで鼓膜が麻痺した。もっと、近くに」

大切な宝物を離さないと言わんばかりに掻き抱いて、口づけようとしているのが見えた瞬間、踵を返し駆け出した。


「ゃ、やだ、やだやだやだ」

心臓が爆発しそうだ。
血液が沸騰して、血管が焼き切れてしまう。

助けて。
(あの見知らぬ背中が憎い)
助けて。誰か、今すぐに。
(怖い。嫌だ、愛してると言ったあの唇が、他の誰かに触れるのは我慢出来ない)

「み、見てない!見てないっ、何も見なかったっ」

死にたい。
(憎い)
消えてしまいたい。
(殺してしまいたい)

「カイちゃんはチューなんか、してない!」

助けて。
(駄目だ)
怖いんだ。
(自分が自分でなくなってしまう)


「むにょ」

階段を踏み外し、頭から転がり落ちた。
冷たいリノリウムに倒れたまま、見上げた天井が霞んでいく。

痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い、それ以上に、怖い。


「カ、カイちゃん。…う、ふぇぇぇん」

打ち付けた頭も背中も心も全てが、痛い。


あれは誰。
誰を抱き締めていたの。
愛してると、言ったのに。

怖い。
あの腕が抱いていた他人を恨みたくなってしまう、怖い。助けて。助けて。

「天の君?」

助けて。

「天の君が倒れてる」
「え?こんな所に居る筈が…って、本当だ」
「大丈夫ですか?」

声と共に駆け寄って来た小柄な生徒達が、寝転がっていた俊に眉を寄せながら近付いてきた。

「ふぇ」

ズレ落ちた眼鏡を乱れた前髪の隙間から何ともなく眺めれば、複数の足音が聞こえてくる。

「光王子親衛隊に苛められたんですか?可笑しいな、あそこは最近大人しかったのに…」
「近頃は閣下がお相手なさってたからね、頻繁に」
「怪我はないみたいだ。左席の皆さんはどうしたんですか?」
「皆が戻ってきた。此処じゃ通行の邪魔になります」
「それ以前に、猊下のこんなお姿をあの方が見てしまったら大変だよ」
「天の君、立てますか?」

優しい声音に泣けてきた。
可愛らしい生徒達に、こんなにも優しくされたのは初めてだ。チワワのデレ、けれど今はそれに萌える余裕がない。

「う…おぇ」
「あぁ、どうしたんです?!も、もしかしてあの方に苛められたんですか?」
「そんなっ、彼は猊下を愛してらっしゃいますのに!酷い事を言わないでっ」
「カ、カイちゃんが…っ、うぇ、うっうっ」
「泣かないで天の君、ああ可愛い…いやいや、可哀想に…」
「カイちゃんがどうしたんですか?苛められたならボクらが懲らしめてきますよ」
「彼が猊下を苛めるなんて有り得ないよ!」

憤る者に狼狽える者、チワワ達の表情が二転三転する中、ぐしょぐしょの顔に更なる涙を溢れさせたオタクと言えば、

「ぼ、僕のこと愛してるって言ったのに、ふぇん、違う人とチュー、うぇ、チューしてたにょ。ふぇぇぇん」
「な」
「そ、んな」
「あの糞野郎、見込み違いだったか…!」
「チンコちょん切ってやらぁ!」

目を見合わせたチワワらが凄まじい表情で『制裁だ』と呟いた。それにビクッとしたオタクに、チワワらは態とらしい笑顔へ切り替える。

「ひとまず此処から離れましょう」
「今から西園寺学園生徒の校舎案内があります。目立ちますから」
「天の君は親衛隊室に身を潜めて下さい」
「チワワ室?ふぇ。痛い。うぇ、転んだトコ、痛いにょ。うぇん、びぇぇぇん」
「あぁ、お可哀想に。大丈夫です、ボク達はABSOLUTELY『キャピタル』」
「表舞台にこそ出ない諜報係ですが、長年培ってきた漫画研究会の腕と!」
「神帝親衛隊の名に懸けて、猊下を御守りしますからっ」

キリッと眉を凛々しく吊り上げたチワワらが、数人掛かりで俊を抱える。
無防備の頭が揺れ、首がグキッと鳴ったオタクは血を吐いた。が、チワワらは気付かない。

「まずは手当てをしましょう。あ、猊下の眼鏡を拾って!大変だよ、猊下の素顔をバイスタンダーに見られたら一大事だっ」
「そうだね、天の君って…」

やや声を潜めたチワワに、キリッと眉を寄せた別のチワワが首を振る。

「それ以上言っては駄目だよっ、陛下は猊下を寵愛なさっているけれど、同時にシーザーを血眼で探されてるんだから!」
「そうだね!特にバイスタンダーのウエストは下半身バカだから、何するか判んないもんねっ」
「セフレが居るイーストも要注意だよ!」
「簡単に見つかってしまったら愛が深まらないからねっ」
「天の君!」
「え、あ、は、はいっ?」

キッとチワワ達から睨まれたオタクは真っ青で震え、

「バレない様にご注意下さい!ボクらも協力を惜しみませんからっ」
「え?え?バレる?」
「猊下がシーザーと同一人物と判れば、光王子も油断出来ない…。気を引き締めていかなきゃっ」
「ほぇ?何で知って…え?え?!」
「ボクらはABSOLUTELYのランクC、諜報と漫画に命を捧げたキャピタル。判らない事なんかありませんよ」
「猊下が学園に入学すると聞いた時から、ボクらは猊下の味方です。はぁ、変装主人公…いい…」

恐ろしいチワワ達だ。
カルマにも知られていなかったのに、入学時から知っているとは。震えるオタクが尊敬の眼差しで彼らを見ていると、

「ふふふ、試練が必要だ。特に浮気攻めに転向しやがった糞マジェスティには、熱いお灸を据えないと…くっくっ」
「にっちもさっちも行かない所まで追い詰めてやろうよ…ふふふ」
「今ならマスターは全く役に立たないからね、山田君の所為で…くっくっく」
「あ、あにょ」

小柄で可愛いチワワ達が何故か恐ろしく見え、涙を忘れた遠野俊は震えながら彼らを見つめるばかり。
チワワの一人が学籍カードを片手に、掲示板を何やら弄った。すると、防火シャッターがギコギコ降りてくる。近付いてくる足音が遠のいた。

「ダーリンに作って貰ったんだ、一時的にハッキング出来るコード♪」
「君の彼氏はネット技術研究会に入ってるんだっけ」
「えっ、彼氏…?ハァハァ」
「でも一時的だからすぐに此処を離れなきゃ。セキュリティーコードは数分ごとに書き換わるって話だし」
「じゅるり」
「それにしても、猊下が大変な時に陛下は何をしてるんだろ。許せないよ!あらあら、猊下、涙が零れてます…涎も」
「お腹空いてませんか?」
「あっあっ、らめぇ、そんなトコ触っちゃ!あっあっ、はふん」
「急ぐよ皆っ、天の君を安全な所に!」
「ハァン」

自分らより大きい俊を颯爽と運ぶ彼らは、近寄ってくる人波から逃れる様に、暗い廊下に消えていった。


「チワワァアアア!ぷはーんにょーん、ハァン!!!」

快感に喘ぐオタクが見られたそうだ。














「始まったな」

夜空に打ち上がる花火を横目に、背中に張り付く温度へ唇の端を持ち上げる。
心臓の音を聞くと安心すると言っては、こうして抱きついてくる。

こうなってしまったのは、いつからだろう。もう思い出せない。


「また、親父から電話があった」
「…」
「いい加減、俺の事なんか忘れちまえば良いのにな。実の母親からはサクサク忘れられてんのに」

硝子一枚隔てただけで、向こう側の花火などまるで別世界の様だ。

「何で優しいママは死んで、人でなしのママは長生きすっかねぇ」

遠い遠い轟音は会話すると消えてしまいそうなほど微かで、余りに現実味がない。
何の反応もない背後に笑い、力を抜いた。

「良い思い出なんか一つもねぇし。餓鬼の頃はまだ、必要とされてた気がすっけど…どうだか」
「…」
「全部、忘れちまえば楽になんのになぁ。何にも必要としなけりゃ、今にでも」
「…」
「お前も、俺なんか忘れちまえ。このまんまじゃぶっ壊れちまうよ、お前(*´∀`)」
「いやだ」
「…コラ、擽ったいっつーの」
「絶対、離れない」

後ろから首筋に埋まる唇が呟いた。意志の強い声音はいつも拒絶を否定し、従順なほど強かに傍を離れない。

「離れない」

そうしたのは紛れもなく自分自身なのに、微かに残った理性が囁き続けている。抗えない強さで、ずっと。

「駄目だ、壊れちまう。まだ間に合うんだ、お前は普通に、生きていける」
「…間に合わなくて良い」
「俺は恨んでばっかだ。許そうとするのに、何回も忘れようとするのに、うまくいかねぇ」
「だったら忘れんな」
「う、わ」

傾いた体を受け身も取れず床に打ち付け、背に覆い被さる男を身を捩り見上げた。

「おい、」
「必要だろ?」

お前には、と。
言葉なき声が聞こえたのは、錯覚だろうか。

「憎むものは全部消してやる。お前が望むもの全部叶えてやる。だから、忘れんな」
「…あんま甘やかすなや。俺が俺を判らなくなる」
「オレは、」
「駄目だ。すっげー、怖い。何も言うな」
「何でもする。お前が言うなら好きでもない女と付き合っても良い。邪魔な奴が居るなら消してやる。何でもするから」

服越しに腹を撫でられた。
無意識に殴りつければ、避けられた筈の男は無抵抗で殴られるのを許し、エメラルドの双眸でじっと見つめてくる。

「わ、悪い…」
「今更、戻れると思ってんのか?」
「…」
「もう、遅ぇよ」

初めの理由は何だったか。
そう、誰にも邪魔されない所に行きたかった。
それが彼の望みで、いつしか自分の望みになったから。

「カナメには俺なんか必要じゃないっしょ。最初から判ってたんだ…くそっ」

何処で狂った。
今はもう思い出せない。

「オレが必要とさせてやる」
「ユーヤ」
「お前はただ、待ってりゃ良い。指揮者らしく、オレを使えば良い」

タクトを咥えた狼が、胸の中心で震えた気がする。

赤い血が流れる音。
ささやかな子供の約束は時を経て歪な束縛へと姿を変えた。鎖から逃れる術は、恐らく存在しない。


「…だから二度と、オレを置いていくな」

彼がそれを誰に言っているのか、目を逸らしたまま、今も。



『誰にも邪魔されない所に行こう』
『そこだったら、ずっと、一緒に居られる?』


『そう。…指切りしよう、カナちゃん』


唸りが喉を突き破りそうだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!