帝王院高等学校
主よ、未だ彷徨い続けし者に導きを
畳が軋む音。
肌寒さを増す暗闇の中、閉じたままの瞼は聴力を研ぎ澄ませる。微かな呼吸の音を聞いた。

開け放した露天風呂側の窓から、水の音が耐えず漏れている。

「ん」
「起こしてしまいましたか?」

暗かった。
細過ぎる月は近い新月に向かって密やかに、漆黒の空を僅かだけ彩るばかり。

「…何処か行ってたの?」
「いいえ、居ましたよ」

襖の向こう、暗い茶の間の座椅子に腰掛ける背中は振り向く事がない。
網膜が暗さに慣れるより早く、彼の台詞が嘘だと直感した。直感、と言うには語弊があるだろうか。

「テレビくらい付けたら?」
「まだ朝には遠い。もう少し眠ってらして良いですよ」
「んー」

もぞりと布団から這い出し、乱れた浴衣を直すのが面倒で逆に脱ぎ捨てる。

「目が冴えた」
「薄々気付いては居ましたが、寝起きが宜しい様ですねぇ」
「毎朝7時前には起きてるんです。ルームメイトが早起きなんで」
「安部河君ですか」
「朝飯作ってくれるんですよ。何か手伝いたいんだけどねー、俺がキッチンに立ったら物凄い止められて、結局上げ膳据え膳です」

そのまま、茶の間ではなく庭へ続くバルコニードアを開き、裸足で降り立った。

「流石、馬鹿高いスイート。夜中も源泉掛け流しって、素敵だなー。寒っ」

小走りで風呂に飛び込む。
バシャン!と派手な音を発てたのは濡れた石畳で足を滑らせたからに他ならない訳だが、尻を打った場面は気付かれていない事を願うばかりだ。

「ふはー」
「何回入るつもりですか。良く飽きませんねぇ」
「温泉は日本文化の極みだよ。って、カヲル君が言ってた」
「誰ですかそれは」
「エヴァ知らないんですか?ガンダムの進化版みたいな。俊の部屋に新劇場版の四部作が揃ってるんで観たんですけど、結構面白いっすよー」
「アニメの影響で温泉を語られましてもねぇ」
「漫画もゲームも素晴らしいと思いますけどー、風呂に入った事がない日本人なんか居ないんじゃないかなー」

一人では余りにも広過ぎる岩風呂を、たゆたう様にぐるぐると回る。

「あ、藤倉は3日くらいお風呂入らなくても平気って言ってなかったかな?」

無礼講万歳と息を吸い込み、ほんの数秒程度湯船に潜った。

「っ、ぷは!あはは!楽しーなー。俊がラウンジに行きたがる意味がちょっと判るかも。狭い風呂じゃ、こうは行かない」

全身、余す所なくずぶ濡れだ。
前髪から滴り落ちる湯を弾きながら髪を掻き上げれば、いつの間にそこに居たのか、茶の間境の窓辺に佇む長い足。
暗くても、その表情が判る。

「エッチ」

肩まで湯船に浸かり、じっと見つめてくる男を見つめ返す。裸など今更恥ずかしがる訳ではないが、無言で見つめられるのは、ともあれ性欲に身を任せている時以上にいたたまれない。

「変態」
「男は須くそう言う生き物です。君もね」
「えー、確かに俺は変態ですけども。…や、誰が変態やねん。失敬な。あんま見るなら鑑賞代取りますよ」
「お幾らですか」
「んー、一分一万円!なーんてね」

ぼったくりー、と歌いながら二葉に背を向けた。湯船の縁に背を預け、水面から出ている濡れた頬に触れる夜風に身を震わせる。

「はー…」

何時なのだろうと真っ暗な空を見つめながら息を吐けば、バラバラと上から何かが振ってきた。
何だ、と水面に落ちた四角い何かを拾い上げれば、紙らしい事に気付く。

そして、それが、


「ゆっ、諭吉先生ー?!」

バラバラ、バラバラ。
耐えず振ってくるそれが一万円札である事が判り、何十枚と暗い湯船に浮かんでいる事実に狼狽えながら立ち上がる。

「な、なん、何だこりゃー?!」
「とりあえず、三百万ほどあります」

ぱっと。
岩風呂の隅に設置されていた照明が灯った。明るくなった湯船から登る湯気、風呂一杯に散らばる札、札、札。

「な、ん、ななな、な!さっ、さんびゃ、く?!」
「単純計算で、五時間分の鑑賞費用ですか」
「かかか鑑賞って、ばっ、まさかさっきの本気にっ、」

お金を掻き集めながら振り向けば、風呂の縁まで近付いていたらしい男が屈み込んでいる。

近い、と。
脳が認識するより早く、浴衣のまま湯船に降りてきた長い足。


「茶色いですね」
「うぇ?!」
「君の瞳は、近くで見ると色素が薄い」

ああ、そんな事かと、無意識に裸体を隠す様に身を捩りながらぷかぷか浮かぶ紙片を拾う。恐ろしい枚数だ。
文字通り金風呂、どんな成金趣味かと頭を疑われるレベルではないだろうか。

「母親が茶っこいんで、夜景でフラッシュ撮影すると、かなりの確率で赤目で写るんです」
「そうですか」

濡れそぼった手で眼鏡を放った二葉は、多分無表情だ。

「つーか、冗談だって判るでしょ」
「何がでしょう」
「お金!アンタ悪乗りすんなよ、心臓に悪いから!」
「ああ、冗談でしたか」

何となく見られなくて水面ばかり見つめてしまうのには、意味がある。

「…何か、臭い」

沈黙している二葉から、離れる様に尻這いで端まで進む。ビシバシ視線を受けている気がするのは、自意識過剰ではない。
部屋とは真逆の真っ暗な景色を見つめるつもりもなく眺めたまま、握っていた紙幣から手を離した。

「つーか、俺はこんな端金で買える様な安っぽい人間じゃないんですよねー」

細い細い、今にも雲間に消えそうな月。そよそよ穏やかな風は酷く冷たかったが、明日は晴れるだろう。
口から零れ落ちる台詞は自意識過剰を極め、庶民のチキンハートをチクチクつついていた。けれど台詞はまだ、零れ落ちる。

「見るぐらいで金取る様なあざとい奴に思えたなら、見込み違いってゆーか。…んな平凡な奴で良ければどーぞ、一生見てたらいいんじゃないですかねー」

ムカムカするのだ。腹の下が。
これ以上喋ればロクな事にならない予感がするのに、ああ、この唇はきっと黙る事が出来ないのだろう。

「気前が宜しいですね」
「まーね」

嫌な予感しかしない。でも回避出来ない。

「明日、日が沈むのを待って学園へ戻ります」
「ふーん」
「予定を変更せざる得ない事態になったので」
「あっそ」
「明日は、何が食べたいですか?」
「っ、」

水面を掻く様に腕を薙ぎ払いながら振り返り、掴み集めた紙の塊を投げつける。

「馬鹿にしてんのか!」

濡れた為にはだけた二葉の胸元に当たったそれは、弾いた反動でまた、湯船に落ちた。

「何処の女の匂いだか知らないけど、ぷんぷん異臭撒き散らしながらほざいてんじゃねーよ!」

ぱちぱち瞬いた男を荒い息遣いで見つめ、一瞬で『しまった』と凄まじい後悔に襲われる。

ああ、やってしまった。
判っていたのにやはり、耐えられなかった。
これではバレバレではないか。自分が抱いている感情が、世界中の誰にでも判るに違いない。


「は…。何やってんだか、ホント…」

ああ、もう。
二葉が居なかった事は知っている。寝入って一時間ほどで肌寒さに目が覚め、すぐに居ない事に気付いた。何処に行ったのだろうと静まり返った廊下に出れば、スーツ姿の男達が向かいの部屋の前に立っていて。

平凡な子供の存在などには気付かず、ボソボソ話しているのを聞いたから。

皆まで聞かずとも、先生と呼ばれている女性と若い男が何をしているのかくらい判る。
トドメに、じっと部屋の玄関に座り込んでいたら、ドアを隔てた廊下側から女性の声と二葉の声が聞こえてきたのだ。


もう帰るの?まだ良いじゃない、などと媚びた声音の女性に、弟を残しているので、と囁いたのは良く知る声。

へぇへぇ、仮にも恋人には触りっこで、見知らぬ女性には営む訳ですか、これだから男って奴は。

「今のナシ、なかった事にして下さい」
「…何がでしょう?」
「アンタ、鈍いって言われない?」

二葉が戻って来る前に布団に潜り込み、全身を焼く様な感情をひたすら耐えた。

「ああ、確かに陛下からは似た様な事を言われますが…」
「…クソ」

これは、紛れない嫉妬だ。その権利もない癖に、自分は呆れるほどに嫉妬している。

「何、だよ畜生。性悪陰険鬼畜二重人格の上に最低卑劣、加えてニブチンですと?!」

ざばざば湯を掻き分け、ぼーっと浴衣のまま湯船に浸かっている男の目前まで近付き、胸元に頭突きした。

「この野郎、叶二葉さん」
「はい、何でしょう山田太陽君」

額に喰らわしてやりたかったのだが、身長差があるのだから仕方ない。

「三百万あるんだって」

ぽつり。
額を二葉の胸元に当てたまま呟いた。

「実はそれ以上あります。数えてないので正解には判りませんが」
「これで帰るまでの時間を売って下さい。足りなかったらローンで払いますから」

事実上、二葉から監禁されている事も、復讐目的だった事も今はどれも忘れている。

「…私の時間、ですか?」
「そう。こんなトコすぐに出ましょう」

デートだ、と。
睨む様に見上げれば、蒼い眼差しだけが微かに歪んだ気がした。














「珍しい」

囁いた男の声に肩が震えた。
足元で戯れる白猫が愛らしい鳴き声を発てたが、今はそれすらも慰めにはならない。

「それが懐くのは、私と祖母だけだ」
「…ふーん」

極力低い声を意識すれば、棒読みじみた無感動な声になった。今は逆に良かったのかも知れない。
見つかっても構わないと強がっていた癖に、やはり怖いのだ。この男は、去年の誕生日に見た時もそうだった様に、怖い。

「会長の癖に準備サボってイイのかよ。打ち合わせも出てなかっただろ、アンタ」
「私が欠けた程度で罷り通らぬなら、役員一同、所詮その程度であると言うだけ」
「…偉そうだなァ、相変わらず。俺はアンタみたいな奴が大嫌いだ。反吐が出る」

屈み込み猫を撫でれば、何故か笑う気配を感じる。だからと言ってそちらを見る勇気はない。

「気が合うな。私も己を厭う」

何かを諦めた様な声だった。
無意識に俯いていた顔を上げようとして、すぐに足元へ視線を戻す。

「スコーピオの立ち入りは許可されていない。早々に立ち去るが良かろう」

そんな事は初めて聞いたと反論し掛けて、そんな事を佑壱が言っていた様な気がすると口を閉ざした。

「俺が何処で何をしようがアンタには関係ないだろ」
「この学園を統べる理事の一人として、無為に生徒への罰を望むものではない」
「此処で散歩してただけで捕まるのか。日本は怖い国だね」
「校則に基づいた風紀に、その言い訳は通用しない」
「判ってら。…退散すれば良いんだろ」

背を向ければ、待てと呼び止められた。何だと振り返れば、フードの下から長い足が見える。

「アダムが懐くのは珍しい」
「俺の方こそ、猫がこんなに寄ってきたのは初めてだよ」
「私とお祖母様、学園長だけだと思っていた」

柔らかい声音、だ。
恐る恐るフードを被ったまま顔を上げれば、屈み込むプラチナブロンドの旋毛が見える。
白く長い指先が、白猫へ差し出される光景。

「いつの間に、こうも人に馴れたのか。…アダム」
「にゃあん」

幸せそうに喉を慣らしながら擦り寄っていく猫の尻尾が揺れる。仮面で隠されたプラチナブロンドが、今どんな表情をしているのかと考えて、頭を振る。

「…アンタ、いつ髪切ったんだ?」
「つまらぬ事を聞く」
「神様が猫なんか撫でるのか。親衛隊が聞いたら寝込みそうな話だ」
「斯様に脆く愛らしい。最も醜きは、人それこそだ」
「似合わねーなァ、正論過ぎて殴りたくなる。でもま、…猫好きに悪い人は居ないってさ」
「そうか。…ふ、そうだろうな」

短くなったプラチナブロンド。
長い手足。
たった数メートル先に、白が二つ。暗くても眩いばかりに、それは。

すぐ、そこに在った。


「行くが良い。夜風は体に悪い」

囁く声。
無抵抗の猫を抱き上げ、優雅に背を向けた男の背中を見ている。

「かいちょ」

ポケットに手を突っ込んだまま、呟いた。

「神帝陛下」

何も答えない背中。
細い細い、猫の爪より細い月明かりは今にも闇に呑まれそうな儚さで、



「本当に神様なら、カイちゃんに会わせて」

世界を密やかに、照らしている。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!