帝王院高等学校
時間を巻き戻して執務室を覗きましょ
水曜日、午後。

積み重なった書類の山の向こう、漸く人の気配が消えたのを認め、中指のリングへ目を向ける。


「…プライベートエリア・クローズ」
『了解。只今より半径50メートル圏内のゲートをロックします』


本当は、する事など何もない。
たった二日で今季中の業務を片付けてしまった。なのに執務室から出ないのは、窓を開くと学園内の雑音が聞こえてくるからだ。


雑音。
つまり何かが奏でる音。
ノイズ、耳障りでしかなかった、それ。


「せんぱーい、お昼にしましょうよー!」
「おーい、一年集合ー。短距離タイム測るぞー」
「また経費削減かよ!ったく、工業舐めてんのか?ドリル一つ幾らすると思ってんだよっ、自治会は!」

彼はこうして、他人を観察する事が好きだった。いつも楽しげに他人を眺めては、声を弾ませていた。

「お前、体育科の地味〜な二年と付き合ってんだって?神帝陛下はどうたしたんだよ」
「理想と現実は違うんだよッ!つか地味って何だよッ、失敬な!」
「ま、精々風紀の世話にはなりなや」
「おう」

耳を澄ませば、雑音の中にはこんなにも幸せに満ちた声がある。煩わしいとばかり排除していた今までが遠い昔の様だ。


「…俺の、学園」

中央委員会生徒会長と言う役職の価値に、今更気付いている。
手放そうとしている今、漸く、自分の名の元に生きている他人を知った。雑音は全て、帝王院学園内の、生きとし生ける命の旋律なのだ。

箱一杯に詰め込まれた煌びやかな書籍を開き、開け放した窓の向こうの雑音、そう、生命が奏でる旋律をBGMに、紙面の文字を読み進める。
数日後には、彼が待ち焦がれた式典の開幕セレモニーが行われ、西園寺学園からやって来た生徒らと共に賑わうのだろう。

日曜日だけ一般公開され、専修コースの生徒によるフリーマーケットや、技術発表などがある。
文化系部活動の日の出舞台でもあり、演劇部の公演や、合唱部のオペラなど一般向けの催しが予定されていた。この日はほぼ全ての生徒がホストとなり、一般客をもてなす。

月曜日からは生徒が楽しむ為の催しとなり、まずは帝王院側が西園寺学園をもてなし、火曜日には西園寺学園側の催しが発表されるそうだ。
各自治会役員を率いた日向が、西園寺側と綿密な話し合いを交わしていると言う。向こうは中等部・高等部生徒のみの参加だが、帝王院は分校を含め、初等科から最上学部までの全校生徒が参加を許されていた。

本校の中等部生徒、高等部生徒、最上学部有志が行事準備に取り掛かっていて、普段は余り姿を見掛けない数少ない大学の女生徒を見掛ける事もある。
彼女らからすれば年下の男子など子供だろうが、女性に免疫のない生徒らは大変だ。今のところ風紀の目があるので暴挙には出ていないが、まさか叶二葉が失踪中だと判ればどうやなる事か。

「さっき李が裏庭に居たぜ。パイシーズ噴水の水路んトコ」
「マジ?祭の犬だろ?一人だったんかよ?」
「誰か待ってるみてぇだった。雑誌みたいなの抱えてたけど、ビビって逃げ出しちまったぜ」
「年中、夏も黒一色だもんな。得体が知れねーよ、アイツは」

保険医は受けの方が萌える、と首を傾げながら、耳に流れていたBGMを聞いていた。

金髪、蒼眼。グレアムである証をひた隠しにしているあの男と、脆弱な皮膚と目を持つ自分は、恐らく似ている。

「…双生児ならば、似ていて当然か」

自分の顔が大嫌いだろう。
鏡を見れば憎悪が湧くだろう。
悪魔に似ている自分、自分を捨てた身内全てを恨む弟。たった数分、遅く産まれただけで殺され掛けた弟は可哀想だ。

けれど、ただそれだけ。
同情にすらならない感情はそこから変化する事なく、恐らく彼も、同情して欲しいとは言わない。
勿論、こちらも言わない。何とも思わないからではなく、意味がないから。


『カイちゃん』

彼は言った。
自分は口下手で、対人スキルもない寂しい人間だから、せめて心で思っている事を文字にするのだと。それはまるで日記の様に、創作小説にするのだと。

誰も見ないなら無駄ではないかと言えば、

『自己満だもの。でも、最初はちょっとずつアクセスがあって、カウンタ増えてくると泣いちゃうくらい嬉しかったにょ』

けれどその反面、心無い書き込みや、更新の催促が増えていき、精神が疲弊していく。

『好きだから自己満で始めたのに、気付いたら他の誰かの為になっちゃってて、自分の生活が二の次になっちゃうくらい焦って、大切な作品がどんどん雑になっても気付かなくて、思い入れも薄くなって…好きだからやってるのに、やめたくなっちゃうなりん』

どちらかと言えば表情は余り変わらない彼は、声音が雄弁に感情を伝えてきた。
好き、なのに、嫌い。ああ、今ならその意味が判る。


愛しているのだ。
(漫画や小説の様に数ページで語り尽くせるほど生易しい感情じゃない)
愛しているのだ。
(心の中はもっとずっと複雑怪奇、思うまま文字で語れば、際限なく溢れ出てしまうだろう)
(積み重なった書類の山すら可愛く思えるほど、)
(この地球上を原稿用紙で埋め尽くしてしまうかも知れない)

けれど、憎い。

(こんな醜い感情は要らなかった)
(繰り返し何度も何度も悪夢を見る)
(愛しいお前を抱き締めて、飢えた動物の本能で貪り続ける、夢)


荒れ狂う渇望のまま抱いた癖に、傷つけてしまわないよう細心の注意を払って優しく、そっと。
己の欲望のまま抱いた癖に、凄まじい後悔で欲を吐き出す事は出来なかった。

「『やだ、触られてもないのにイっちゃうー』」

漫画の中で主人公が言った台詞を何の感慨もなく呟けば、読む気が失せてしまう。何と三流漫画だ。

「挿入した上に繰り返し腰を打ち付けて尚、射精しなかった俺は何者だ」

不能なのだろうか。
早漏過ぎる攻めはいけないと俊は言ったが、遅いどころか吐き出せない攻めはどうだ、終わりがないからずっと揺さぶり続けるだろう。
しつこい、面倒臭い、早く終わって。きっと、普通一般の人間は、そう怒るだろう。

「…今までは、こんな事態はなかった」

殆ど覚えていないが、アメリカに居た頃は多い日に数十人の女性と交わった事がある。
大抵が向こうからの誘いだが、興味があった頃は自分から誘った事もあった筈だ。だが、興味が薄れるに連れて一回の行為で吐精する数は減っていったものの、不発はなかった。

気乗りせず萎えた事はあったかも知れないが、俊が意識を失うまで律動を止めなかった『動物』だ。
死にたい。死んでしまえば良い。くたりと何の前触れもなく意識を飛ばした俊は、最後まで縋る様に抱きついていたのに。

いつもより高い体温が彼の異常を教えていた筈なのに。
荒い寝息に気付くまで、己の欲望をひたすら押し付け続けた動物。ああ本当に動物なら飼われる事も出来たのではないか、などと考えている時点で愚か過ぎる。こんなペット、誰が欲しがるのだろう。

『綺麗なお顔ねィ。いやん、その角度ってば色っぽ過ぎます!ハァハァ、おじさんを誘惑するつもりかね?怖い子だょ、チミは』

二人きりになると、俊はいつもそんな台詞を口にした。

『あらん?お目めだけで笑ってるのもイイけど、不器用ながら唇も笑ってるカイちゃんはもっとイイね!ハァハァ、おじさんは君に首ったけですょ!』

分厚いレンズ越しでも判る柔らかな眼差しで、よしよしと頭を撫でてくれた。

『平凡受けとはまた一味違ったエロさがあるにょ。たまに見せる不器用な笑顔だからこそ、センセー辛抱堪らんのです。判りますか?』
『俺はお前の生徒じゃない』
『はいはい、ポテチの油で唇テカテカなカイちゃん、拗ねても可愛いなんて流石ざます。ちょっとおじさん、その固い太股触ってもイイかしら?お小遣いあげるから』

あれはきっと、太陽辺りが聞けば変態だの痴漢だの罵るだろうレベルだった筈だ。
なのに、その眼差しが自分へ向いていれば何でも良かった。気付けばすぐ他人に関心を向ける俊の目が自分にだけ向いている瞬間は、ありとあらゆる醜い感情が満たされた様な気がした。

『綺麗なのに格好良くて可愛いなんて何処まで最強なんでしょ、僕のカイちゃん』
『もっと誉めろ』
『最高、エロくて可愛くて美人なのに筋肉付きまくりの固い太股も極上、うっかりセンセー狼さんになってしまうかも知れませんょ!』

擦り寄れば抱き締め返される。そんな当たり前な日常が、如何に幸福だったのだろう。

『僕ってばご存じの通り地味平凡ウジ虫オタクな童貞ですけど、雄の本能が唸る時もあるんじゃないかしら…ハァハァ』
『俺に欲情したのか?』
『浴場?お風呂ならさっき入ったでしょ、カイちゃん。アルツハイマーかしら?』
『…童貞には所詮、通じない。俺が馬鹿だった』
『よちよち、童貞でも強く生きていくのょ?もう俺様攻めじゃなくてもイイにょ。小悪魔受けでも美味しく頂きますにょ』

子供扱いするな、と。
無理矢理唇を塞げば、困った様に笑いながら、けれどやめろとは言わない。
頭を撫でていた手で神威の腹を撫でながら、まだ赤ちゃん大きくならない、などと本気か冗談か判らない声音で繰り返す唇。

『あんなにご飯食べてるのに、ちっとも大きくならないなんて…。早く稼げる様になったら、いっぱい食べさせてあげるから待っててね、カイちゃん』

ああ、この生き物から囲われるのか、と。期待せずには居られない。
囲いたいのは自分の方だと本音は口にする前に、優しい手にまた、頭を撫でられて。

口付けの合図の様に。
子供扱いするな、と拗ねた振りで抱き寄せた。何度も、何度も。


本当に。
文字にしたら宇宙中埋め尽くすのではないだろうか、自分は。自己満足の吐露と判っていてもきっと、止められないのではないだろうか。



撫でられると嬉しい。
自分だけを見ている黒曜石の双眸に舞い上がる。
他人を見るな。
他人の話を聞くな。全ての神経を余す所なく帝王院神威と言う、たった一人にのみ注げ。

五感全てでただの一瞬たりとも逃さずに、肢体全てでただの一瞬たりとも離れない様に、捉え続けろ。

お前と言う存在が産み出した牢獄の中に、きっと自分は一生囚われたままなのだ。
何処に居ようがきっとずっと一生、憎まれても忘れ去られても飽きる事なく永劫、自分は彼の全てに囚われたままなのだ。

脳内に想いの文字を書き連ね、神経全てに積み重ねて行くのだろう。
楽しかった日常、憤った瞬間、幸せだった過去も、絶望に満ちた現在も全て、文字にすれば少しは楽になるのたろうか。


『でもやっぱり好きだから、辛くても悲しくても、書いちゃうなりん。誰か一人でも楽しいって言ってくれたら、空が飛べちゃうほど嬉しいのょ』

思い出すのは、たった一人の事。
死ぬまで永遠に忘れる事はないだろう。これから誰を抱いても誰と過ごしても、日本を離れても、もう一生、会えなくなってしまっても。

「…私が愛しているのはそなただけだ、俊」

初めはただの好奇心から。
桜舞い散る風景の中、笑う唇を見た瞬間から。

去年夏、叩き付ける様な雨の中で見た、銀髪の傲慢な生き物に何故か似ていると思ったのが始まり。

けれど会話してみれば全く違った。
いつも周りに気を遣い、他人の為なら惜しまず涙を零し、無償の救いを与え、笑った端から怒る。けれどそのどれもが、本当の彼ではない様な、底知れない何かを隠している様な、そんな気がしていた。


素顔を晒し、言葉遣いを変え、偽名を名乗ってまでも、傍に在ろうとした半月前の自分。
ほんの数日前まではまだ、好奇心を満たすペットの様に思っていた、無知な動物だった自分。


今なら、それに近付くなと教えてやろう。あの日へ戻る事が叶うなら、そのつまらない好奇心を捨てろとなりふり構わず叫んだだろう。

可哀想なルーク=フェイン、神たるお前は醜い動物へ成り果て、我が身に渦巻く底知れない感情を持て余す運命だ。



「…けれど哀れにして愚かなお前は、どう足掻いても運命には抗えないのだろう」


必ず出逢い、必ず愛してしまう。
人である限り、姿無き本能の欲求に刃向かう事は出来ないのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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