帝王院高等学校
彼が守ってきた宝物だけ残りました。
早速浮気か?
と、小首を傾げながら見つめてきた双眸に、首を振るだけで答えた。
余りにも強く唇を噛み締め過ぎたらしく、下唇から鉄の味がする。
「…あーあ。マジKY、帰ってくんの早過ぎっだっつの」
腹を片手で押さえながら、吹き飛ばされたばかりの男は笑う。その悪びれない態度に苛立った瞬間、
「罪状」
鈍い音。
「不敬罪」
断続的に続くそれは、ベッドの上からでは判らない床から放たれている。
目の前の光景についていけず、誰も聞いていないのに「不経済」などと呟き掛けて、上体を起こした。
「っ、やめろよ!」
しなやかな背が足を振り上げる度に鈍い音、潰れた蛙の様な悲鳴を最後に沈黙した床は、見る勇気がない。
「も…もう、いい」
「それは命令か?」
何故止めるのか判らないと言った、無邪気な眼差しが瞬くのを見た。これは、誰だ。
「アンタ、だ、誰…?」
「誰?」
「っ」
「ああ。確か、城の上に立つ裸の狼」
彼は底冷えする眼差しを笑みで歪め、囁いた。
「ネイキッド、ヴォルフスブルク=ディアブロ。裸同然の何も持ってない餓鬼が、悪魔に魂を売って得た名前だ」
「…」
「何処から抉りたい?選ばせてやるよ。お前さんの言う通り、順番に潰してやる」
誰だ。
これは、誰だ。
二葉とまるで同じ顔をした、けれどまるで違うこの男は、誰だ。
「腕か脚か目か口か頭か。ああ、頭は最後にした方が良いな」
「叶、先輩」
「死ねば痛みが判らない。楽な死に方だ」
無表情、と言うよりは、まるで無感動な表情で、片腕だけで持ち上げた西指宿をベッドの上に転がす。
凄まじい握力と腕力が判ったが、今はそれ所ではない。
「無期限の拷問が良い。狂い死にさせない程度の手加減が面倒なだけで」
「俺は…っ、こっ殺したいとか、思ってない、です!」
「あっそ。不愉快」
ぷいっとそっぽ向いた二葉が、リビングへ向かうのか背を向けた。何やら怒らせてしまった様だが、助けてくれたには違いないので、慌てて立ち上がり、
「おわっ」
腰から力が抜け、ベッドから落ちる。
ああ、ぬるぬるする股間が気持ち悪い。無理矢理広げさせられた最奥にも僅かながら違和感が残っているが、幸い大したダメージはない。
「ふ、風紀委員長」
シャツの裾を押さえながら呟く。
眉を寄せた二葉が戸口で振り返ったまま、双眸を鋭く細めた。幾ら即席エセカップルでも、一応、恋人同士と言う立場なのだ。
少しばかりバイオレンス過ぎるが、一応、彼の厚意があったから貞操は守られた。まずは、お礼を言わねば。
「えっと、有難うございました。お陰で痔にならずにすみましたー」
「…」
「えっと」
「…」
「だからって、殺したいとか思ってませんから。死ぬほど痛めつけてやりたいとは思いますけど、」
尻餅付いたまま、ベッドの上で腹を押さえながら唸っている西指宿を見やる。ズタボロの体に引き換え、イケメンな顔は無傷だから何とも言えない。
「…怖い子だねぇ、アキちゃんは〜。マスターに口答えするなんて、知らないぞ」
「アンタは一生黙ってろっ」
西指宿の頭を両手で掴み、息を吸い込みながら頭を後ろへ傾ける。
ゴッ!
あ、と小さな声を発てた二葉へクルリと向き直り、声もなく悶えている西指宿の太股の内側を後ろ手に抓った。
重力を味方にしたメテオ頭突きによるデコダメージが半端ないが、ぐりぐり抉る様に太股を暫し抓りながら、ニコニコと二葉を見つめ続ける。
「脳味噌の中身すら平凡な21番ですが、頭の使い方って色々あるんですよねー」
「…勇ましいですねぇ」
「ヘタレてたら、毎日毎日クソつまんない嫌がらせされながら左席副会長なんかやってられませんよ」
「成程、道理です」
ベッドへよじよじ登り、トドメとばかりに西指宿の腹の上に飛び上がり、ニードロップ。
口元を片手で覆った二葉が眼を丸めているのが判ったが、捲れたシャツの中身を見られたかも知れない事には目を瞑ろう。
「悪い子はお仕置きだよー」
「ぐぇ」
潰れた蛙の声を放ち気絶したらしい金髪に、往復ビンタをぺちぺち喰らわせてから、よじよじベッドを降りた。
先程のジャンピング膝小僧アタックで、下半身から全ての体力が失われたらしい。
「ほわっ」
最早、立てない。
ブカブカなTシャツ一枚で落ちていた下着を拾い、いそいそ座ったまま履き替え、ぼーっとしている二葉を見上げる。
「抱っこ」
「…え?」
「抱っこして下さい。立てない」
瞬いた二葉の視線が、ゆっくり太陽に焦点を合わせていく。
「命令ですか?」
「お願い、です。何かさっき膝がゴキッて鳴ったんです。骨折したかも。アンダースタン?」
「…全く、気が強いのはともかく、肉体は弱々しいのですから少しは考えて行動なさい」
ひょいっと抱きかかえられて、いきなり高くなった目線に耐えられず、腕を無意識に二葉の肩へ回す。
近くに、少し驚いた様な蒼い眼差しが見えた。いつ見ても、人形じみた美貌だ。
「先輩。コンビニの従業員、雇い直した方がいいと思う」
「頼まれても彼には任せません。そもそも、私が命じたのは彼ではない」
「…野郎、勝手に来たんですか。もうちょっと叩いとけば良かったっ、シャツもダサいし!」
「無駄な体力の消耗。小学生でもあんな平手打ちはしませんよ」
「尻に指突っ込まれました」
リビングの惨状が見えた。
二葉が寄越したのか否か、ルームメイキングにやって来たらしい従業員が、転がる酒瓶や濡れたカーペットなどを片付けていくらしい。
「そうですか」
「蟯虫検査だと思う事にしました」
「ホテルを変えましょう。新しい部屋を探させますから、君はこの部屋で待っていて下さい」
三つある寝室の一つ、恐らくカップル向けと思われる広いベッドの上に下ろされた。
背を向けようとした二葉を無意識に捕まえ、今更カタカタ震える指先をどうする事も出来ずに、眉を八の字に歪める。
「広い部屋って、何か落ち着かないってゆーか」
「…忘れたんですか?ウエストが犯した暴力は、私が貴方にした事と何ら変わりない」
「ぇ」
「アンダーラインでの事を、覚えてらっしゃるでしょう?」
ああ。
あの時、二葉の白い肌に真っ赤な何かが滴り落ちて、世界が狂う音を聞いた。
「あの時、そうだ。傷…治ったんですか?」
「話を聞いてらっしゃいますか、山田太陽君」
「見せて下さい」
「やめなさい」
「やだ。見せて」
「いい加減、怒りますよ」
ぎゅむぎゅむ、二葉の両手首を掴んで引っ張る。口ほどには怒っている様に見えない美貌は、どちらかと言えば困惑している様に思えた。
振り払う事も突き飛ばす事もしない二葉は、もしかしたなら優しいのかも知れないと考えて、
「傷、見せろ」
真っ直ぐ、蒼を視た。
「…それは」
「命令だけど?」
「今回は容赦しましょう、役員同士は不敬に値しませんからね。手を離しなさい」
「だったら何?アンタ会長の言うコトだけ聞いて、グレアムの為だけに生きてくって言うの?」
目を見開いた二葉が、すぐにいつも通りの愛想笑いを張り付ける。
何故知っているのかと考えて、佑壱に気付いたのだろう。賢い相手は鉄面皮なので、推測だが。
「服従と依存は違う、と。思います」
「…言ったでしょう。何も持たなかった子供に、神は名前を与え給った」
「アンタには名前があるじゃん。叶二葉、それがホントの名前じゃんか」
「捨てられた私に、その名は相応しくない」
いつもの笑みが、歪んだ。
「姉の遺言である二葉と言う名は、タカハと名付けられた彼女の影武者である証です」
「影武者?」
「兄は、必要以上に私を女性として扱っていました。幼い私に女性ものの着物を着せ、髪を結い、言葉遣いから仕草に至るまで、周到に」
それが如何に可笑しい事か知らなかった、と。
小さく呟いた男が、ベッド脇に膝を落とす。手首を掴んだままだったから、太陽の目線には二葉の両手があり、その向こう側に前髪で隠れた美貌がある。
「次男の知人だった家庭教師役の大学生から文字を習い、通いの弟子から茶や華を習う。大して覚えて居ませんが、三歳まではそんな生活だったのでしょう」
「地獄って…何?言ってましたね、地獄を見たって、あの時」
『二年。地獄と言う言葉すら生易しい生活を強いられ、人として備わる一切の感情を破棄された。
与えられたのは身を守る術、人間を虐げる術、そして自分が人間ではない事を知らされる五歳。
神の元へ招かれた子供は、それからずっと唯一神の忠実な下僕。
平伏するより他無い圧倒的な存在を前に、敗者のまま、今も尚』
あの時、笑いながら歌う様に吐き捨てた彼は、どんな眼をしていたのだろうか。
「懐いていたそうですね。私は、その家庭教師に」
「そっか」
「着物を脱がされ体中を弄ばれるまでは」
記憶が曖昧だ。人間の記憶など、一秒後には当てにならない。
「私らしい名を、神は与えて下さいました」
「ネイキッド、なんて。ちっとも自然じゃない。…馬鹿にしてる」
「名など単なる個体識別記号に過ぎない。日本での記憶が朧げだった私には、久し振りに聞いた陛下の日本語に安堵した」
「インプリ」
「…それは鳥の話しでしょう」
「白百合、か。皮肉な話だねー、華やかな学園の女神は、そうなる様に育てられたお陰で生まれたんだ」
二葉の手首を離し、乱れた前髪ごと頭を撫でる。
ざらりとした頭皮に触れて、ああ、ここが傷跡かと顔を近づけた。
小さい頭だ。
隼人くらい、小さい。
「薄くなってるけど、まだ痙き攣れてる」
「…痛みはありません。そもそも、私には痛みと言う感覚が判らない」
「え?」
「拒絶の果てに淘汰したんでしょうか。今では倒れるまで起きていないと眠る事も難しいので、大抵一週間程度は起きています」
「嘘でしょ」
「痛みが判らないので、暑いか寒いかの判断も難しい。急激に冷え込めば肉が固まり神経の動きが鈍るので、25度以下の環境は好ましくない」
ああ。だからあのエアコン設定だったのか、と。頷いて、ちょこんと見える旋毛に顔を近づけた。
「可愛い旋毛」
チュ、と。
無意識で落とした唇、ビクリと目に見えて震えた二葉が信じられないものを見る様に恐々見上げてくるから、今更恥ずかしがる事も許されない。
開き直る以外に、何が。
「俺が主人になりますから、要らないの全部捨てたらいいんじゃないですか?」
『ね、ネイちゃん。僕のお嫁さんになったら、僕がご主人さんになるんだよー』
「そしたらアンタ、誰の言いなりにもならなくていいでしょ。奴隷みたいな生活、今すぐ辞めた方がいい」
『ネイちゃんと一緒に居れたら満足だからー、おいしくないご飯でもいいよー。アイスもお菓子も何でも買ってあげるからねー』
呆然と、見つめてくる二葉の眼鏡がズレていた。それに気付き、笑いながら手を伸ばす。
「アンタは自由だよ」
『ネイちゃんは自由にしてていいよー』
「嫌な事は嫌だって、言う権利がある」
『嫌いなお野菜は食べなくてもいいからねー』
二葉の眼差しが、何処か遠くを見ている事に気付く。
頭の中で、幼い自分が誰かと指切りをする光景が、まるで映画の様に映し出された。
雷の酷い夜。
キラキラ光る宝石がついたストラップを誰かに取られて、追い掛ける自分。
黒服の男達がストラップを握ったままの子供を捕らえて、異国の言葉で喚く。
稲光がストラップに反射した。
黒服の一人がナイフを突きつけてくる。ずぶ濡れのまま身を丸めるしかない自分に、覆い被さってきたのは、誰。
「…先輩」
腕の中の二葉を見つめながら、潤んできた眼球を開いたまま。
「どうしよう」
「山田、君?」
「『俺』が、消えちゃった」
左胸の奥に際限なく溢れてくる、これは愛しさ以外の何でもない。
「消えた?」
「どうしよう、ホントに、何処にも居ない」
愛しい人を騙している自分に、約束を果たす権利などあるのだろうか。
『ネイちゃん』
あの日。
彼と指切りしたのは、自分ではないのに。
←いやん(*)(#)ばかん→
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