帝王院高等学校
失恋したり怪しかったりご多忙中どすえ
「変わりませんねぇ、此処も」

運転手の差し出す傘を片手で遮り、大分弱まった雨の中へ身一つ投げ出した。
閉じられたドア、一礼し去っていく運転手から渡された傘を開いて、目前の古びた公園を見やる。

先程着替えたばかりだからか、襟が高いジャケットは何となく息が詰まる気がした。喉元を軽く抑え、人気がない公園の中へ足を運ばせる。

薄暗い公園の外灯はまだ沈黙したまま。近頃随分日が落ちるのが遅くなったと思っていたのに、この暗さは黄昏時の6時とは思えない。
邪魔にならない様に気を遣ったのか、折り畳み傘はサイズが小さかった。滴り落ちる雨が肩口を濡らす光景を横目に、東屋の中へ足を向ける。

此処にはいつも、井戸端会議好きの母親達が集まっていた。その中の一人に小遣いをねだる小さな背中、南口で販売中の移動冷菓の車に真っ直ぐ駆けていく。
安いアイスキャンディーには、当たりがあると言う噂があった。一度も当たらなかったから真偽は確かではないが、一本150円だった事は覚えている。

『ねー、おねえちゃん。ブランコいこー』
『お姉ちゃんじゃないっつってんだろ。蹴り飛ばすぞ』
『じゃー、お名前教えてよー。教えてくんないから、判んないもーん』

小憎たらしい子供だった。
いや、もしかしたなら悪知恵が働く賢い子供だったのかも知れない。幼い振りをしていただけなら、まんまと嵌められた訳だ。

『言いたくねぇ』

女みたいな名前も、名字も、顔も全て嫌いだった。世界が憎くくて、目障りだった。

『なんで?あきちゃんは、ヒロアキってゆーの。あのねー、お日様なんだよー』

アイスキャンディの棒で砂場に描かれた巨大な太陽も、太陽と言う漢字も、下手すぎるまではいかずとも、上手くはなかったと思う。
口笛が吹けないと零していた。仮面ダレダーは冴えないグリーンが好きらしく、シンデレラの姉二人がお気に入りだと言っていた気がする。

「つくづく、…残念な人ですねぇ。改めて」

再会した彼は、自分を見ても気付かなかった。当然だ、髪型も違うし、身長だって随分伸びた。
綺麗美人と、会う度に誉めてくれた子供は、何処にも居ない。記憶より大人びた、昔の様に純粋にして傲慢な表情もなく。久し振りに会話らしい会話をしたのは、風紀室。

呆然、と。
引き裂かれたシャツをそのままに、椅子に腰掛けたまま微動だにしない生き物。
小一時間前に「近寄るな」と拒絶された自分は、震える指先を手袋で隠したまま話し掛けた筈だ。

「然し、良く降りますね今日は…」

見上げた空はとうとう闇一色に染まった。パパパッと光を灯す外灯、濡れそぼる犬と自転車に乗った飼い主が公園を横切って駆けていく。
物好きな人間も居るものだと、雨の散歩を鼻で笑った自分こそ、物好きだろう。雨の中、こんな所で何をするでもなく佇んでいる男、不審だ。


携帯が鳴っている。
ずっと、ひっきりなしに耐えず。昔の知人、性悪な下の兄、そして、優しい上の兄。

物心付く前から茶道を叩き込まれ、華道・習字・合気道、毎日の生活はそれの繰り返しだった覚えしかない。
幼稚園に行かせない代わりに長兄が手配した家庭教師は、大学生だった次男の知人だ。親しかったのか否かは知らないが、他人と言う程ではないだろう。

どんな男だったかは覚えていない。
意地悪な次男は、カスだの馬鹿だのひっきりなしに暴言を吐いて苛めてくる。可哀想だろ、と庇ってくれていた家庭教師が、いつからか性的な触れ方をする様になった。

恐怖よりも嫌悪を覚えたのは、素っ裸に剥かれて尻を割り開かれた時だ。近くにあった固い何かを掴み、力一杯投げ付けた。
ガシャンと甲高い音を発てたそれに、真っ先に気付いたのは意地悪な次男。

何を騒いでやがる、と。
苛立たしげに障子を蹴り開けた次兄は、光景を見るなり頭を抱えて呻いている家庭教師の首根っこを掴み、いつもの表情で壁へ叩きつけた。

『こんな雑魚相手に何てザマだ、カス。良いか、人間には急所っつーもんがある』

ボールペンをくるりと回し、いつも通りの意地悪な表情で家庭教師の太股に突き刺し、微笑みながらぐりぐり抉る様に、彼は。

『可哀想になぁ。お前がちゃんと仕留めておけば、兄さんへ差し出す羽目にならなかったのに』

ぐったりした男の髪を掴み、背を向けた次兄を見たのはそれが最後だ。
優しい長兄の言葉で留学する事になり、連れていかれたのはアジア最大の国だ。地獄としか言えなかった、最悪の記憶。

「実の娘を弟の嫁に寄越すつもりとはねぇ。…相変わらず、何を考えているのか」

とっとと身を固めて帰って来い、などと。17歳で父親になった次兄の、傲慢な性格が如実に現れたメールには見合いのリストアップが延々続いている。
笑えるのは、姪二人の名前が並んでいる所だ。つい最近までヴィーゼンバーグの家で暮らしていた双子は、何を教え込まれたのか、神威や自分との縁談を望んでいる。

「馬鹿馬鹿しい」

何も彼も、面倒臭い。
永い永い約束は風化間近で、そろそろ効果がない様だ。
希望がある内は、果てしない地獄の中に在っても我慢出来た。縋り付いている内は、生きていく事が素晴らしいものの様に思えた。けれど実際、当の本人は何も覚えていない。仕方ない事だ。彼は四歳だった。仕方ない。
言い聞かせて言い聞かせて、ほんの僅かな希望を探していた数日前までの自分。

目の前に居るから気になるのだ。手が届く距離にあるから、手に入らず苛立つのだ。そう考えて、学園から追い出そうとした。
折角、他人を拒絶していたのに。他の誰にも笑い掛けず、いつも空気の様に一人だったのに。だから我慢する事が出来たのに。


「どうでも良いか」

目を離した隙に、あの子の心の中へ割り込んだ他人が羨ましかった。妬ましかった。たった一日で彼の全てを奪った略奪者、黒髪に眼鏡を掛けた男。

「子供が出来る訳でもない。大好きな山田君じゃないなら、姪でも甥でも同じ事だ」

どう違うと言う。
綺麗だと言うから守り続けた蒼眼、誰にも触るなと言うから身に付けた手袋は体の一部だ。
言われるままに生きてきた。大人になったら結婚しようと、何の根拠も実利もなく宣った子供を笑い飛ばした癖に、それだけを頼りに生きてきたのだ。

何故、今頃。
あんな訳の判らない部外者に。もう一度見たかった笑顔も欲しかった信頼も、奪われなければならない。


「…無意味に疲れた」

湿った木椅子に横たわり、屋根の裏側を見上げる。視界が歪んだのは、疲労からだろうか。

「早い話が失恋。生きる気力も、死ぬ気力もねぇ」

きっと一生。
何処に逃げても、幼い約束に縛られたまま生きていくのだろう。惨めな自分。愚かな自分。弱い自分。

「俺の何が駄目なんだ。顔、は…ねぇな。…性格か?仕方ねぇだろ、好きな子苛めて喜ぶ変態だ。餓鬼だ餓鬼、阿呆過ぎる…」

死んでしまえば良いのに、今尚、幼い約束に縛られている。砕け散った希望の欠片を掻き集めようとしている。

「11年も餓鬼の戯言真に受けて、馬鹿だ。お前は根っからの阿呆だ、叶二葉。死んでしまえ」

目尻から滑り落ちた何かが耳たぶを濡らした気配。顔を覆った仮面がある限り、誰にも気付かれないだろう。



「…馬鹿は死んでも治らない。」

歪んだ視界は疲れているだけだ。
零れた塩分の成れの果てなど、少し眠れば、乾く。








「よいしょ」

掛け声一つ、背負っていたリュックサックを下ろし、圧力鍋を抱えカウンターへ入った男は、皆の沈黙に気付いていない様だ。

「榊ぃ、そのバスケットに焼いたばっかのバケットとクロワッサンの生地が入ってっから、宜しくな」
「じゃ、先にクロワッサンから仕上げますか?」
「や、あれは焼きたてのが美味いだろ。バケットスライスして、カナッペスタイルにしとけ」

いち早く我に還ったマスターが頷き、日向が運んできたバスケットの中を一瞥する。カナッペなら確かに見た目も鮮やかだ。

「じゃ、クロワッサンは夜に焼きますか。…具材は?」
「任せた。角煮とグリーンカレーは圧力鍋の中に入ってっから、俺は唐揚げの準備に入る」
「了解、っと」

レジ下の引き出しからヘアゴムを取り出し、手早く結い上げた佑壱が厨房へ消えた。引き続き従業員出入口に消えたマスターを横目に、ぽかん、と口を開いていた山田太陽と言えば、

「ひ…光王子閣下」
「…何だ。いや、何も言うな。喋ったら殺す」

随分高い位置にある日向の双眸に睨め付けられ、素直に唇を閉じていた。だが然し、恐らく佑壱以外の殆どの人間が同じ意見だったに違いない。

「オージ先輩、ユウさんに惚れてたりすんの?」
「ぶっ」

カウンターに備えてあるミネボトルから水を注いだ日向が、一口煽るなり吹き出した。目を見開いた裕也の隣で、頭を抱えているのは健吾だ。

「は?マジかよ、んな訳ねーぜ」
「や、どう見ても黒っしょ( ̄〜 ̄;) ユーヤ、流石に今のは俺にも判るぞぇ」
「オレには判んねー」

痛々しいものを見る様な目で日向を凝視した隼人、可哀想なものを見る様な目で日向を見つめる裕也に、笑うのを耐えている健吾。
要は硬直したのか微動だにしない。

「ま、まぁ、恋愛は自由ですし…」
「黙れ後輩、中央委員権限で懲罰棟にぶち込むぞテメェ」
「えっと…」

微笑ましい表情の三年生グループが、ビビっているカルマメンバーを余所にスススと日向へ近寄った。

「こぉさぁかくーぅん、それならそうと言ってくれれば良かったのに〜ぃ」
「もぉ、ボク達同級生じゃんか〜ぁ」
「W副長の華々しいお見合い、用意するのに〜ぃ」
「黙れ三馬鹿、死に晒せボケ」
「照れるな。趣味は確かに良いとは言えないが、人それぞれだろ?お近付きの印にスヌーピーストラップやるよ、光王子」
「山田太陽ぃ、テメェの飼い犬何とかしやがれ!ただでさえ毎晩毎晩、風紀出動してんだぞコルァ!」

日向から、今の状況で睨まれても全く怖くない太陽が頬を掻く。
太陽をご主人様と崇め勝手に身辺警護を申し出たスヌーピー集団、エルドラドメンバーは、毎晩交代制で太陽の部屋周辺に張り込んでいる。

幾らやめろと言っても聞かない上に、三日に一度は回ってくる深夜の左席パトロールに出掛ければ、どっちが悪人だと言う風体でぞろぞろ付いてくるのだ。
不良を従える太陽に、俊が眼鏡を桃色に輝かせ悶え喜んだのは言うまでもない。リーダーみたいだと言われた太陽が全力で否定したのも、無理はないだろう。

「Fクラス人員率いて徘徊してるっての、時の君だったのか…」
「平田先輩、違いますやめて下さい。フォンナート先輩達が勝手に付いてくるだけですから!」
「…シュンはどうした?」

眉間を揉み解した日向が、今頃気付いたとばかりにカフェを見回す。
一瞬カフェに緊張が走ったが、近頃余り左席を敵視していない日向が俊を何と呼んでいたか、狼狽える太陽には判らなかった。
とりあえず差し障りない会話で乗り切ろうと息を呑み、

「俊なら実家に帰ってます。お、俺はカルマの総長に会いたくて…」
「ああ、無理に隠すな。判ってっから」

がたりと立ち上がった要と隼人、表情を無くした健吾と裕也、一気に凶暴な表情へ変化した他のカルマメンバーが日向を睨む。

「盛るな餓鬼共」
「アウェイで余裕カマしてんじゃねぇぞコラ!総長にゃ指一本触らせねぇからなっ」

但し、中央委員会副会長には蚊が刺した程の威力もないらしい。殴りかかった一人を片手で押し留め、軽い足払いで転がす。

「がっ」
「総長を取られるのが怖いのか、駄犬共」

転げた男の腹を片足で踏みつけ、傲慢な笑みを浮かべ首を傾げる。絶対王者の笑みだ。
誰も、隼人でさえも威圧感に圧されている様に見える。

「コラァ、何してんだハゲ!」
「痛ぇ」

騒ぎを聞き付けたらしい佑壱がパティシエ姿で顔を覗かせ、豪速球で何かを投げ付けてきた。…カレーパンらしい。

「…揚げたてじゃねぇか、道理で熱ぃと思った」
「テメーは早く焼きうどん焼け!何偉そうに世間話なんざしてやがる」
「イチ先輩、この状況の何を見たら井戸端会議に見えるんですか?」

顔に張り付いたそれを剥がし鼻に皺を寄せた日向は、無言でムシャムシャ頬張った。

「うめぇ」
「当然だ」

うっかり日向と佑壱のツーショットを撮影した要が無言で隼人を殴り付け、八つ当たりで健吾を蹴った隼人は、吹き飛んだ健吾がぶつかった裕也から睨まれている。

「あ、山田はそろそろ着替えとけよ。時間がねぇ」
「はい?」
「話は他の奴から聞け。高坂ぁ、ホットプレートは倉庫の中にあっから」
「人使い荒ぇ」

上着の裾で汗を拭っている佑壱の腹がチラリズム。目を逸らし何処ぞへ歩いていった日向を余所に、

「わー。イチ先輩の腹筋凄いっ、触ってもいいですかー?」
「ふ。尻の引き締まり具合も凄ぇぞ。見るか?」

倉庫から、何かが崩れ落ちた音がした。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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