帝王院高等学校
宇宙の外側には何があるんでしょ?
高望みは自覚している。
望みが一つ適う度に欲は増し、それはもう際限なく繰り返し繰り返し。人の欲求に果てなどないと思い知る。繰り返し。

崩れ落ちる螺旋階段を昇る様に、ひたすら前しか見ていない。真後ろは真っ暗な奈落、振り返るのが怖いからだ。
(次の欲求に従順なのは)
(得たばかりの幸福を失った時の保険)
(何もないまま失うのか怖いからだ)


「正方向へネガティブなお前と」

これは自分?
(何処から何処までが本当の自分なのか判らない)

「曰く、負の方向へポジティブな俺と…」

どれが自分?
(境目は白濁して曖昧だ)
(ひらり、ひらり)
(身に纏う半透明のドレスの様に)



「臆病で脆弱、そして凡庸な遠野俊。…お前はいずれ、消えてしまうよ」



神様、
(生まれた感謝の後には)
(新しい欲求が生まれました)
(人間とは、何処まで欲深い生き物でしょう)








死にたくない。
(と、声高に叫びながら)
(一人の例外もなく、人は天寿を迎える運命)









「チェック」



顕になる素肌へ口付ける度に囁いた。
まるでチェスの様だと目を細め、日本的に言えば詰め将棋だろうと身を屈める。

「…チェック」

最後に口付けたのは、臍の窪み。他人の体内へ侵入を果たした指は、始めは中指だけだった筈だ。
今や人差し指までをも咥え込んだ後孔の抵抗は、眠っているからか余りにも無防備だった。始めから。

「ゃ」

小さく、吐息の様な声を放った唇を見た。屈み込んでいた上体を起こし、左手はそのままに右手だけ伸ばす。

「俊」
「ふ、ぇ。………み、さま…」

するり、と。
擦り寄ってきた頬が右手の甲を撫で、はらはら、零れ伝う水滴の感触が続いた。
助けて神様、と。哀れにも存在しないものへ救いを求める、声。同情を誘うにはこれ以上ない。

「夢を観ているのか」

掻き上げた前髪、閉じた瞼の裏側が蠢いている。はらはら、次から次に滴る体液は、舐めれば恐らく塩辛いだろう。ただのナトリウム、少しばかりのアンモニア。

「寂しい夢ばかり、観ているお前は」

何度、眠りながら声も発てず泣く姿を見ただろう。その度に口付けた。その度に割り開いた体の最奧は、まだ知らない。

「…いずれ、私と同じ様に諦めるのだろうか」

絶望の果てを知っている。
微かな希望に縋り、それすらも失った人間の末路を知っている。



七歳の、あれは夏。
蝉時雨、スーパーの袋を抱えた女性の隣に。ずっと、思い描いていた男の微笑。

包帯の下で焦がれたのはいつ。
夜遅くまで響き続けるキーボードの音、まだ起きているのか、と。静かに優しく落ちてくる声音、名前を付けてくれた、人。


それが皮肉だと気付いたのは、いつ?
神への威嚇、背徳に等しい銘、ユダかブルータスか。


どの道、安普請なアパートに並んで入って行く二人を追い掛けた自分は、微かな希望を失っただけ。
玄関脇にベビーカー、仲睦まじく寄り添っていた二人は仲良くドアの向こうへ消えた。


電車に乗ったのは初めてだ。
行きも帰りも大人達の群れに揉まれ、いつ帰りついたのか覚えていない。


(そうか)

約束をした。
見上げれば雲一つない黄昏の空に、浮かぶ丸い月。近付いていると報道されている台風など嘘の様に、西日は神々しく緋色だった。

(白と黒の袴。あれは、…弓道だ)

背が高い男だった。
もしかしたら余り変わらなかったかも知れない。
蝉時雨の日陰、木々の隙間から差し込む僅かな光。酷く一方的な約束、自信に満ちた唇は反古など考えてもいない様に。

「チェック」

思い出したからと言って、何が変わる訳でもない。その日、一日中歩き回った後遺症で逆上せていた頭、焼け爛れ水泡だらけの皮膚、公園に辿り着いた時、分厚い雲が空を覆っていた。
吹き荒ぶ風、近付く嵐の気配、もう帰ろうと、近所の子供達。誰かを探している様な二葉は、ベンチに横たわる神威に気付かない。

大丈夫?
と、覗き込んできたのは日向。サッカーボールを抱えたまま、車を回しに行った組員を待っている。

怒鳴り声。
それは英語、酷く聞き慣れた子供の、声。


『誰だろ?痴漢かな?』
『ファーストの声、だ』
『誰?兄弟?』
『私に兄弟は居ない。…いや、一人だけ』
『ふーん』
『恐らく、男だ』

隣県郊外の昭和建築、今にも潰れそうなアパートまで寄り添いながら歩く二人。
迷ったのよ、と朗らかに笑うショートボブの小柄な女性に、柔らかな笑みを浮かべて頷く男。数メートル後方の子供には、まるで気付かないまま。

『ファースト、を』
『ん?』
『庇護せよと、セカンドに伝えてくれないか…』
『ひご?』
『私を追って来たに違いない。…少し、疲れた』

閉じた瞼、判ったと頷いた日向が走り去る足音。唸る空、降り始めた雨、叫ぶ声が増えて、銃声。

『貴方にも同行願いますよ、ブラックシープ』

誰かが嘲笑った。
浮かんだ体、力が抜けた肢体はだらりと垂れ下がり、悲鳴のすぐ近くまで運ばれていく。

『もー、それ返してよー!あきちゃんのだよっ、返してよー!』
『貴様らっ、俺が誰だか承知の上でやってんのか!』

黒服に囲まれた子供が二人。
もう一人は羽交い締めにされている。右手に何かを掴んだまま、流暢な英語で喚いた。

『大人まで使って、ずるい!あきちゃんのストラップ返してよー、赤ずきんちゃん!』
『誰が赤ずきんだコラァ!餓鬼の癖に調子乗るなっ』
『ネイちゃんに貰ったんだよっ、あきちゃんが貰ったんだからー。返してよー、ばかー』
『状況見てからほざけ!お前も死ぬぞ!』

ずぶ濡れの子供が涙目で手を伸ばしている。金髪の子供は状況が判らないながらも大人達を警戒し、走ってきた黒髪の子供は血を吐く様な声で、


『っ、アキから手を離せ!』

銀に煌めくナイフを突き立てられたのは赤毛の子供、闇を引き裂く銃声は真っ直ぐ自分を狙っていた筈だ。


『あああぁああぁあああああ』

凄まじい悲鳴、崩れ落ちる黒服の一人。銃を握る右腕に突き刺さる、矢。


『子供相手に大人が数名。恥ずかしくはないのか』

頭が痛い。
頭が痛い。
頭が痛い。

『可哀想に。折角綺麗な肌が、水脹れになってしまって』

ナイト。
そう、彼はナイトと名乗った。

『ルーク。東西南北を十字に貫くツインクロス。…君は双子なのか?』

頭が痛い。
頭が痛い。
頭が痛い。



『俺は、』


頭が痛い。


『…貴様を兄とは認めない。』

自分に良く似た声がする。

『同じ日、同じサラの腹から生まれていたのに。後から生まれたと言うだけで、俺だけが弾かれた』

ブロンドで、

『生まれながらに神と呼ばれ、何一つ苦労する事無く生きてきたお前』

サファイアの双眸、

『ただの気紛れで、俺を殺さなかった男』

無感動な顔に表情はない。

『けれどその男も死んだ。会長の女に手を出して、逃げようとしたから』

自分に良く似た、別人。

『俺を殺しておけば生きていられたのに』

九歳の春に現れた、彼には名前がないと言う。

『会長の子を自分の子供と思い込んだまま、死んだ』

助けてくれた中国人の男の名字を名乗り、上海から香港に流れ住んだと言う理由だけで、自分の名を付けたと言った。


『日本の入り口で』

同じ顔をした別人。
中国語を喋る、全くの別人。

『ブラックシープ。
  お前も俺も、生まれてはならない命だ』

殺してやる。
無感動のまま吐き捨てた男は、やはり無表情の二葉によって囚われた。
頭を擦り付ける様にして土下座した長髪の子供に、処分を保留にさせたのは自分。

『感謝などしない。恩を売ったとは思うな、吾は貴方を許さない』

涙で濡れた頬、ぐったり横たわるブロンドを力一杯抱き締めた子供が睨み付けてくる。



許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。
ステンドグラスの向こう、赤い月、滴り落ちる赤い体液、振り返った男は無感動な眼差しの下、無機質な笑みを浮かべていた。

『私は生涯許さない。…悪魔め』

誰も何も許してくれない。
何かを手に入れると、また次の何かが欲しくなるのだろう。だから、何も望まなければ良いのだ。

どうせ手に入らないと思えば良い。生み出した好奇心は飽きるまで放っておけば、次に得るのもただの好奇心止まり。
本気で欲しがる前に飽きるくらいの、些細な興味。依存したい癖にそれを許さないのは己、死ぬまで。


「ふぇ」

抱えた両足、引き抜いた指の代わりに押し当てた熱の塊。身動いだ頭がふるりと震え、薄ら瞼が開いたのが判る。

「な、に…」
「俊」
「ん、カイちゃん」

にっこり。
微笑んだ唇、急速に背を駆け抜けた感情に、何と名付けるべきか。誰が教えてくれるのだろう。
本を読む事で得られる知識など微々たるものだ。当たり前の、至極簡単な事を何も知らない。誰も教えてくれなかったから。

「酷い男だと、罵り諦めてくれ」
「ぅ、…ん?」
「お前は俺を、生涯許さないだろう」

微睡みながら右手に擦り寄ってくる頬、力なく持ち上げられた両腕が両頬を撫でて、首の後ろに回る気配。

「一度、くらい。許されても良い筈だ。望むものを手に入れる、一度ならば許容範囲だろう?」
「ね、んね。まだ、暗いにょ…」

寝惚けているらしい。
外は3時とは思えない暗さで、未だ雨が止む気配もない。バイパス沿いを走る車の音、マット脇の目覚まし時計がカチカチ時を刻んでいる。

「失う恐怖も虚無感も全て、俺が一人で攫っていく。…須く忘れてしまえ」

世界に二人きり、
狭い部屋にたった二人きり。
桜舞い散る誕生日翌日、校庭で見付けた黒髪の生き物はたった二週間でこんなにも、こんなにも大きな存在になってしまっている。

いずれ手放さなければならないなら、早い方が良い。
本気で欲しがる前に飽きてしまわなければ戻れなくなってしまう。許してしまう。許されない事なのに、見ない振りをしてしまう。


「カィ、ちゃ…」

ぽん、ぽん。
首の後ろを優しく、撫でる様に叩く他人の手。

「まだ暗い、にょ」
「お前だけだ」
「…ネンネ、ょ」
「我が名を呼ぶ事を許したのは、恐らく生涯、…お前だけだ」

恨めば良い。
あんな男など始めから居なかったのだと忘れてしまえば良い。どうせ、始めから嘘だったのだから。
ほんの好奇心で始めた小さな嘘、それはきっと、この時の為にあったのだと、許してやれる。

「すー…」

健やかな寝息、規則正しい鼓動、柔らかな皮膚から放つ、仄かに暖かな体温。
頭の痛さが霧散し、耳鳴りが止んだ。歪んだ視界、眼球から滲み落ちたそれは、ただのナトリウムでしかない。

「二度と困らせる事もない。…そなたが嫌う生徒会長は、授業免除を許された三年生だ」

自分から会いに行かなければ、わざわざ会いに来てくれる事もないだろう。一年生の教室へ足を運ばなければ、もう、同じランチを囲む事もない。

一袋のスナックへこぞって手を伸ばす事も、
毎朝のスープバーのメニューに一喜一憂する事も、
夜更けまでベッドに並んで本を読む事も、
同じテレビを横になって見る事も、
耳掃除されながら眠りに就く事も、
向かい合って髪を洗い合う事もない。



「お前が現れなかったら」

走馬灯の様に短い過去を思い起こした。抱えた両足、押し当てた自らの欲の証に目を伏せる。

「私は、斯様にも愚かしく成り下がらず済んだ筈だ。但し、それは幸いとは言えない」

どうせなら。
眠っている時ではなく、起きていれば良かった。
憎悪に満ちた眼差しで、激しい罵倒を繰り返しただろうか。絶望に満ちた眼差しで、声もなく泣き続けただろうか。


「俊」

割り開いた他人の粘膜が、凄まじい抵抗を見せる。

「ぃ、た…っ」
「…これで最後だ」
「カ、ィ…ちゃ、っん?」

苦痛に歪んだ眉間、緩やかに開いた瞼の向こう側で、信じられない光景に狼狽する黒曜石。



「俺を構え」

全身を包む幸福の外側に、真っ暗な宇宙が広がっている気がした。
(これが)
(これが『愛』と言うものなら)

(滑り落ちる汗も涙もただの塩分ではなく、)



(魂が流す血なのかも知れない)


←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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