帝王院高等学校
その光は全てを呑み込むかの様でした。
(泣いている助けてくれと声がする
(約束を守る為に使い捨ての駒、いつか殺す為に
(掛けた魔法独り歩きして今や乗っ取られそうだ


こんなに静かな我が家は何年振りだ、と僅かに目を細めた。
揚げ物の残り香、いつも付けっ放しのテレビは珍しく沈黙し、冷蔵庫のモーター音が嫌に耳に付く。

「…耳が痛いな」

目の前がぐにゃりと歪んだ。
だからと言って気分が優れない訳ではない。ただ、最後に此処で仕掛けた小さな魔法が解けただけだ。


「ただいま」

囁いた。
このくらいの小声でも、すこぶる地獄耳の母には必ず届く筈だ。賑やか過ぎる程に賑やかな足音を発てて、おやつの時間よ、と。一時間刻みに大声を上げる。

「ふむ。誰も居ないのか」

判っていた事を繰り返してみた。
家に入る前から無人には気付いている。母親譲りの地獄耳だ。あの騒がしい母親の気配なら、1キロ離れていても判るだろう。

「お祖母さんに、電話しよう」

無駄に存在感が薄い父親ならまだしも、母の存在感は公害レベルだ。
夫婦でこうも違うのかと嘆いた祖父は、リビングの一角に添えられたサイドボードの上で生真面目な顔をしたまま佇んでいる。

「母は買い物にでも行ったのか?雨の日はぷよぷよフィーバーだとか言ってた癖に」

留守番設定になっていない電話機へ手を伸ばし、短縮ダイアルへ掛けた。すぐさま応対したのは祖母でも同居している叔父でもその妻でもなく、通いの家政婦だ。

「お久し振りです、ばあちゃん。そっちに母がお邪魔してませんか?」

弾んだ声音で応対した祖母へ問い掛ければ、昨日から全く連絡がないらしい。マイペースな母の事だから、放っておいても問題ないだろう。
幾らか世間話宜しく近況を報告し、顔を出しなさいと言う言葉に頷いて受話器を置いた。久し振りの我が家だと、喋るのに酷く体力を使う気がする。

「ヒロキおじさんに小遣い貰った事、伝えておいた方がイイだろうなァ」

ダイニングテーブルに風呂敷を乗せ、呟きながら何ともなく自室へ向かった。スチール製の階段を折り曲がり、正面のドアが開いている事に気付いて瞬く。

「弱ったな。部屋には入らないでくれと言ったのに」

リビングの炬燵に散らばった漫画には気付いていた。だから息子の自室へ入った犯人は十中八九、母だ。
四角い部屋を丸く片付ける余りにも大雑把な母が、律儀に息子の部屋を掃除する訳がない。エロ本の隠し場所を教えろなどと、中2の息子にニマニマしながら脅迫してきた様な女だ。

「ああ」

あの時は泥棒が入った様な有様だった。
残念ながら、その頃はまだBLには目覚めていなかったので、週刊漫画と少女漫画くらいしかなかった筈だ。月2200円の小遣いでどうやってエロ本を買うんだと問えば、派手に舌打ちした母は「バイトしろ」と横柄に吐き捨てた。

「本棚の順番が、見事にめちゃくちゃだ」

我が家の家計は食費だけで火の車ですよ、と言うのが、遠野家で最も食欲旺盛な母親の言い分だ。

カルマと関わる事になってから、少な過ぎる小遣いでは余りにも心許ない為に始めたアルバイト。中学卒業と同時に辞めたホストクラブのオーナーは、元気にしているだろうか。

「同人誌まで読んだのか。…雑誌のアンケート葉書まで書いてる」

眼鏡萌え!と殴り書きされた書きかけの葉書を見れば、読者コメント欄に「孫の顔は見たいけど息子がホモだったら萌ゆります☆BY高校生の母」やら、「浮気するなら眼鏡上司として欲しいBYリーマンの妻」やら、言葉を失う文章が綴られている。
別に隠れ腐男子ではないが、流石に親にバレるのは抵抗があるではないか。然も息子と旦那をネタにするとは何事だ、いつの間に母は貴腐人になったのだろう。

「…親父が右側なのは、息子として少々寛容出来ない」

息子や旦那の人権など、あの母の前ではミジンコ程もないので不可抗力としか言えない。
そっとアンケート葉書を雑誌の中に挟み直し、散らばったポテチの袋を拾う。明らかに母が食い散らかしたものだ。

父は、母が差し出したもの以外は決して口にしない。病的なまでに警戒心が強い男だ。息子の部屋でスナック菓子など貪りはしないだろう。


「ふむ。…母が侵入した割りに、片付いているなァ」

中々愉快な状況、だろうか。
締め切ったカーテンを力任せに開き、舞い踊るカーテンが頬を撫でるのを甘んじて受け入れながら灰色の空を見上げる。

母は医者だった。
研修を終えた頃に出産し、最後まで結婚に反対した祖父から逃れるべく、数年前まで県外で暮らしていた事がある。今にも潰れそうなアパート暮らしは、宝くじが当たったと無表情で宣った父の一言で覆り、居ないと思っていた祖父母に初めて会ったのはその直後。



男子校に行きたいと言えば、目を輝かせた母が親指を立てた。その頃からもう、息子の本棚を漁っていたに違いない。今になって思えば。

三者面談にやって来たのは何故か父親で、久し振りに見る担任は体調が悪いのか顔色も口調も色褪せ、ひたすらとある進学校を奨めた。
まるで最初から受かるのが判っていたかの様に。まるで最初から仕組まれていたかの様に。一人でペラペラ聞いてもいない学校案内を聞かせる担任は、最後まで一人で喋り続けた。

『本当に、その学校で良いのか』

帰り際、漸く口を開いた父は一言呟き、頷いて返せばもう何も言わなかったと思う。
卒業式には一人で出た。不登校生が、唯一の帝王院学園合格者と知らされた同級生達は。

伸ばし続けた前髪をセットし分厚い眼鏡を外した途端に、揃って惚けた顔をしていた筈だ。



「鬼さんこちら、雷が鳴る方へ」

空が光った。
鈍い唸りがゆっくり近づいてくる。ああ、まだ遠い。

(約束をしたある嵐の夜に
(幼い子供は濡れそぼり腕の中に誰かを閉じ込めたまま
(血塗れの王子様は血塗れのお姫様を護るように横たわり
(助けてくれと等価交換しようと

(約束を破ったら殺すよと意志の強い眼差しで呟いたピエロ)


(まぶしいほどに)
(まっすぐ、まっすぐ)



「…駄目だ。お前はもう、要らない」

暗い空。
(強くなる為に弱くなる為に
暗い部屋。
(そして生きる為につまり殺す為に
叩きつける雨粒に耐えている窓に、見慣れた顔が映っている。けれど、それは今にも泣きそうな表情で。
(魔法を掛けた自己暗示と言う名の


「僕は要らなくないにょ」

なんて愚かな意志表明だ。
偽物の癖に。独り歩きし過ぎだ。もう、こんなものは要らない。どうせもうじき条件が満ちるのだ。現にもう、あの時の約束は効力を失っている。

「学校も楽しくて、お友達も出来たにょ」
「可哀想に。お前は俺を忘れて、お前と言う一個体だと思い込んだのか」
「盗んないでちょーだい」
「俺はもう、お前の全てを受け入れているよ。哀れで惨めで凡庸で幸福に憧れる、脆い子供を」
「僕は生きてるにょ」
「何を勘違いしているんだ?」

暗い部屋。
(雷が近付いてくる魔法が解ける日は近い
暗い空。
(空が光る度に、白濁する己の顔)
弱くなる為に魔法を掛けた
自分と言う生き物を殺す為に魔法を掛けた

「約束を果たす為だ。俺がお前を作ったのは、彼へのささやかなプレゼントに過ぎない」
「僕は」
「お前は心酔しただろう?呆れる程に凡庸な外見で、焦がれる程に気高い一人の少年に。無意識の内に、出会った瞬間から服従した」
「お友達が出来て」
「物語は悲劇であるからこそ儚く美しい。後世まで語られるシェイクスピアは天才だ。凡人には理解し難い魅力に溢れている」
「毎日、楽しいにょ」

落雷。
いつの間にか真上にまで近付いていたそれは、紫色の光を落とす。


「…全ては、仏の御心のままに。」

まるで天の裁きの様だと笑って、今にも泣きそうな表情の自分へ手を伸ばした。

「彼との約束を果たすまでは、好きにするがイイ。但し、お前は俺の一部でしかないが、俺はお前の全てだよ」

光る。光る光る光る、世界を白く染める様に。

「可哀想に。いつか、お前は己の過ちを悔いるだろう。不幸を嘆く脆弱な子供、真の幸福には一生気付かない…」

チャイムの音。
叩きつける雨の音に紛れて気付かなかったが、どうやら来客らしい。我が家にチャイムを鳴らす様な家人はいない。



「…煩ェんだよ、陰険野郎が。」

窓の向こうで笑う唇を殴り付ければ、一瞬早く光った空に掻き消された。

ぐにゃり、と。
視界が歪む。誰かの笑い声が鼓膜を震わせる。鳴り止んだチャイム、ひび割れた窓の向こうに、門前で佇む異国人達が見えた。


「携帯」

リビングから着うたが聞こえてくる。ああ、これは彼からの電話だと転がる勢いで階段を駆け降りた。
何だか酷く眠たい。何だか酷く体が怠い。そう言えば、太陽達は何処に行ったのだろう。マンホールに落ちてからの記憶が曖昧だ。

「もしもしカイちゃん?」

何処に居る、と。
声音まで無愛想な男の声に少しだけ笑い、眉間を押さえながら炬燵に潜り込む。

「タイヨーのお家に行って、皆でバスに乗って、アニメイト寄ったけどお金が足りなかったから諦めました」

強まった雨の音、引き替えに雷はもう聞こえない。

「今はお家に居るにょ。雨さんがドバーで雷様がドドーンでマンホールがシュバーンで、大変だったのょ!」
『そうか』
「まァ、カイちゃんが居なくてもBL活動には支障ありませんけども!くしゅん」
『体が冷えているのではないか?』
「お母さん居ないからもう行こうと思ってた所ょ。タイヨー達とはぐれちゃったから、僕ってば独りぼっちなり」
『…そうか』

酷く元気がない声音だと。何の根拠もなく瞬いて、もぞりと寝返りを打つ。テーブルの上の煎餅の缶に手を伸ばし、胡麻煎餅を噛った。

「カイちゃん、何かあった?」
『何もない』
「今、何処に居るにょ?」
『判り切った事を聞く。お前の傍には居ない』
「もう。ちゃんと答えなきゃめーでしょ。僕はちゃんとお家に居るって言ったのにィ」
『どうした。俺が居なくとも、問題ないだろう?』

ネガティブな発言だ。
いつもなら俺を構え構えと煩いくらいなのに、何処か可笑しい。今朝まではいつも通りだった筈だ。

「カイちゃん」
『お前には俺以外の興味対象が幾つも存在し、俺が占める存在価値は極めて低い』

ああ。
トイレに行きたくなった。再び鳴り響いたチャイムには気付いたが、雨降りの来客など訪問販売でなければ新聞の勧誘だ。両親が居ない今、応対したくもない。

「カイちゃん」
『…すまない、忘れてくれ。また掛ける』
「寂しいにょ」

一人でトイレに行くのは久し振りだ。リビングに近いトイレは扉を開けておけば母の声が聞こえてきて、怖くなかった。
昼間なのに暗い家の中はまるで夜の様で、冷蔵庫のモーター音もいつからか消えている。トイレの照明を付けようとして漸く停電に気付いた。

「電気付かないし。何か変な人がさっきからピンポンしてるし。おしっこ我慢出来ないヘタレチキン野郎ですし」

雨音、渦を巻きながら流れていく便器の中をぼんやり見つめながら呟いた。返事はない。


「カイちゃん」

かちゃん、と。
玄関の方から音がした。

「独りぼっちは寂しいにょ」

開けたままのドアから顔を覗かせれば、玄関の方から複数の気配がする。太陽達だろうかと考えて、鍵を掛けた事を思い出した。


「カイちゃん」

母親か、父親。
あの母ならば慌しい足音で凄まじい存在感を振りまいている筈だ。

喉が渇いた。
背中がぞくぞくする。
また、外が白く染まった。
大気を揺るがす雷鳴が鼓膜を震わせる。この凄まじい轟音は、受話器の向こうにも届いているのだろうか。
目には見えない電波となって、傍に居ない人の元へも届いているのだろうか。


暗い家の中。
背後に誰かの気配。
振り向く前に、世界は白濁した。

轟音は最後の囁きを届けてくれたのだろうか。それとも、誰にも届けずに儚く消えたのだろうか。




「会いたいにょ」

ぐにゃり、と。
足元が歪んで、崩れた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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