帝王院高等学校
美形は何の前触れもなく低気圧に入る
「…此処までが大まかな流れだ。何か問う事はあるか?」

書類を片手に、空いた片手で耳元の生え際を弄ぶ男の指先にふるふる震えながら、ズレ掛けていた眼鏡を押し上げる。

「はいっ、カイカイ先生っ!」

ついでにしゅばっと右手を挙げれば、無駄に高い神威の鼻先を擦った様だ。

「あ、あ、痛いにょ痛いにょ飛んでけ〜!痛い痛いホストパーポーのジャージに飛んでけ〜。…ごめんにょカイちゃん、めそり」
「俊」

大きな手が頭を撫でてくる。無事らしい高い鼻を撫で、ついでに未だ赤みが引かない頬を撫でながら肩を落とした。
ちぅ、と耳元に高級明太子の感触。

「カイちゃん、」
「式典に際して、何か問う事はあるか?」

明太子は好物だが、出来たらこの明太子は太陽に吸い付いて欲しい。
オタクのささやかな願いである。

「えっと、理事長ってイケメンですか?それとも美人系?秘書が眼鏡で隠れドSだったりします?デジカメっても怒らないなり?」

何故か神威の膝の上から下ろして貰えない今現在、B型特有の面倒臭さが災いして今や寛ぎまくりだ。これが太陽か訳あり変装受けなら絶賛悶絶したものの、変装は変装でもこれと言ってシリアスな事情もないただのオタクである俊では、萌にイマイチ欠ける。
残念でならない。

「あ、あと、僕を合格にしてくれて有難うございますって言わなきゃいけないかしら?ワラショクで1パック690円の高級明太子を持って行かなきゃオタク門前払いかしらっ!
  ハァハァ、俺様理事長でも無関心理事長でも主人公にだけ優しい身内のおじさんでも大丈夫ですっ、好物です!ハァハァ」
「理事長は帝王院帝都、…現会長の実父だが、式典には出席しない」

しゅばっと立ち上がったオタクは、やはりちょこんと座り直す。中々うまくいかないものだ。

「はァ、ミカドインミカドなんて大変覚え易いお名前にょ。お顔見たかったなりん…ハァハァ」

切ない溜め息は脳内妄想で怪しい息遣いに変化した。俊の妄想に気付いているのかいないのか、神威は何処までも冷静沈着である。

「何故?」
「萌に国境は無いにょ。つまり萌に隔たりは無いにょ。理事長も立派な萌の証!一目合ったその時に恋は始まるんです」
「一目、か。…理解出来なくもない」

漸く、神威の腕が離れた。
抱え直した俊をソファに座らせ、静かに立ち上がる。

「経験があるのか?理事長に会いたいが為に今この場に在るのか、お前は」
「ふぇ?理事長に会うのはタイヨーですにょ。僕は密やかに密やかに見守るんですっ、蜘蛛の巣だらけの天井裏からっ!」

輝く眼鏡を一瞥した蜂蜜色の瞳が、僅かだけ和らいだ。

「そうか」
「もしかしたら理事長がタイヨーに無理矢理チューしたりしてっ?!ハァハァ、鬼畜秘書から迫られて会長から攻められてハァハァ、時々不良で総長なイケメンから告白されちゃうのかしら?!
  ハァハァ、もぅ、タイヨーはやっぱり萌の宝箱にょ!僕は毎日ハァハァがハァハァして心停止寸前っ!」

目前に近寄ってきていたらしい神威が跪く様に片膝を落とし、左手で右手を奪った。
あ、と思う間もなく手の甲に落とされた口付けに硬直する。


「楽しいか、俊」

奪われた右手はそのままに、空いた手で頬を撫でられて。急速に背中が強張った。

「楽しい、にょ」
「お前は笑っている方が良い」

まるで口説かれているみたいだ、などと馬鹿な事を考える。口説いた事もなければ、口説かれた事など一度もないのに。

「かぃ、ちゃん」

伸び上がってきた綺麗な顔を、無意識に左手で押さえた。僅かに細まった双眸が、何処か不機嫌そうに見える。

「チュー、め。」

だから俯きたくなるのを耐えながら、呟いた。

「カイちゃんは美形だから、えっと、親衛隊の人とか二葉先生くらい美人な人とチューしなきゃ、めー」
「…」
「えっと、あにょ、主人公はえっと、純粋じゃなきゃいけないんです。えっと、僕もぅチューしたコトあるオタクだから、平凡受け違うにょ」

一目で判るくらい、神威の表情が変化する。

「何だと?」
「えっと、えっと、カイちゃんに会う前にチューしちゃったから、もぅばっちいにょ」

小説も漫画も主人公は好きな人とだけ結ばれるのだ。誰とでも構わないなんて嫌だから、総受けは苦手。キスもそれ以上も、ただ一人とだけ。ずっとずっと、大好きな人とだけ。

「だから僕にチューしちゃ、駄目」

顔を押さえていた手を掴まれて、鋭利な眼差しが真っ直ぐ射抜いて来た。二葉が可愛く思える程の双眸が、真っ直ぐ。


「どう言う事だ」
「ふぇ?」
「…相手は、敷地内に生息する人間だな」

ギリギリと掴まれた右手が軋んだ。余りの握力に怯み声も出ない。
恐怖、だろうか。明らかな怒りを帯びた静かな声音に震えてしまう。



怖い、なんて。
言ってはいけない。見た目で人を決め付けてはいけない。だから、


「答えろ、…今すぐ」
「カイ、ちゃん」


震えるな、弱虫。


ほら、傷付いた様な絶望した様な眼差しが判る。
緩やかに離れていく手、瞳、激情の跡形もなく冷えていく温度が肌を刺した。


「カイ、」
「…構うな、もう良い。何処へなりと行くが良かろう」

背中が拒絶している様に見えて。
無意識に伸ばし掛けた手は、何がしたかったのだろう。

「火に入る虫に興味を得た所で、入ってしまえば最早用は無い」
「カイちゃん?」
「…良く似た別人に血迷うただけか。下らない」
「あにょ、」
「神帝ならば式典に参加する。望むならば行くが良い、天の君」

肩越しに振り返った瞳の冷たさに肩が震えた。嫌われる事に慣れた精神は、すぐにその瞳の意味を悟る。


ああ、またか、と。
同然の事の様に受け入れてしまえ。

「えっと、あにょ、お邪魔しました。お紅茶ご馳走様です」

立ち上がって一度頭を下げる。
振り返らない背中を一瞥し、くるりと踵を返した。早く入寮してしまおう。まだ部屋の荷物も片付けて居ない。

「あ、あにょ、もしタイヨーが理事長のコト好きなんだって勘違いしてるなら、違います」

ドアノブに手を掛けて、もう一度だけ振り返る。自分が嫌われたからと言って太陽まで嫌悪されては堪らない。

「えっとえっと、タイヨーはまだBLにハマってなさそうなので、大丈夫です。カイちゃんの方を好きになると思います」
「…」
「えっと、あにょ、だから好きな人としかチューしちゃ駄目です。す、好きな人としか、駄目で、す」




駄目だ、目が痛い。




「理事長に会ったら、有難うございましたって伝えて下さい。…さようなら」

唐突に思い出したからかも知れない。
唇に触れた柔らかな何かの感触とか、抱き締められた胸の温度とか、力強い腕とか、いっぱい、思い出したからかも知れない。

野良猫や野良犬に手を差し伸べてはいけないと誰かが言った。人の温かさを覚えてしまえば、二度と一匹では生きていけなくなってしまうから。





「犯された町娘の様な風体ですねぇ、天の君?」

誰も居ない廊下は酷く静かで、壁に寄り掛かって腕を組む男の姿に気付くのに時間が懸かった。

「ぁ、こんにちは、二葉先生」
「ふふふ、私をそう呼ぶのは実家の教え子と、あと二人だけです」
「ふぇ?」
「とても同一人物には思えませんがね。まぁ、今は宜しいでしょう」

花が咲き綻ぶ様に笑った男が、いつの間にか開いていたらしいエレベーターに乗り込むのを見送る。
まるでクラシックを聴いているかの様な声音だった。



「愉快な暇潰しを見付けたんです」
「ぇ?」
「タイトルは『堕落し逝く天使』、でしょうか。純粋培養の少年が転落していくお話ですよ。…面白そうでしょう?」

この目は知っている。
初めてこの男に会った時、この目が見つめてきたからだ。獲物を前にした蛇の様な、真逆に何処までも穢れを知らない女神の様な、双眸が。


「期待していて下さい、天の君。御入学のお祝いに、愉快な催し物をプレゼントしましょう」

青銅の仮面の下から、酷く印象深く輝いていたから。素顔を知らなくてもすぐに気付いた。
この男は、危ない。

「プレゼント?」
「中身は見てからのお楽しみ、ですかねぇ。お友達とご一緒にごゆるりとお寛ぎ下さい」

微笑んだ唇が閉まっていくエレベータードアに封じ込まれていく。


何だろう。嫌な予感がする。



「あ、れ?」

すぐにエレベーターパネルを操作するが、1Fで止まったエレベーターは戻ってくる気配がない。
非常口表示に向かって走りセキュリティドアを操作するが、IDカード用の赤外線パネルではなく神威の指輪を押しはめた時と同じ凹があるだけだ。叩こうが引っ張ろうが、ドアは微動だにしない。

「なーに、これ?」

埒が開かないと廊下の嵌め込み窓を掴む。けれどやはり、鍵の見当たらないそれは開こうとしなかった。

「開けて下さいっ、開いて下さいっ、お願いしますっ、開けゴマ!」

叩いても叩いても頑丈な硝子は割れるどころかヒビ一つ入らない。
嫌な予感ばかり昔から当たるのだ。なのに何故、なのにどうして、こんな時まで神様は無慈悲なのだろう。


人間は、好きな人とだけ結ばれるのだ。

「うぇ」

だけど好きになった人は皆、居なくなる。好きじゃない人と間接的にでもキスをしたら、もう二度と幸せにはなれない気がする。

「ふぇ、馬鹿ァ、ホストパーポーの、…ひっく、馬鹿ァ!」

カイちゃんは良くて、東雲先生は駄目。そんな道理が通用するだろうか。

「うぇ、僕のファーストチュー返して欲しいにょ、ぐすっ。東雲先生の馬鹿ァ!」

窓を叩き過ぎた手が痛い。
折角、生まれ変われると思ったのに。毎日が楽しくて仕方ないただの高校生になれると、思ったのに。


そうか、今日は月が居なくなる日だから。人間の欲が渦巻く日だから。所詮、不良が平凡な生活を送れる筈がないのだ。




「…もういい」


一人には慣れている。
一人には慣れ過ぎてきた。
だけど、太陽だけは守ろう。初めて名前を呼び捨てで呼んでくれた、一方通行の友達だから。

差し出された優しい手に縋れば裏切られる。だから気付かれないよう身勝手に、一方的に、危険なものから守ってあげよう。



「…飛び降りれば、間に合うな」

太陽は佑壱と一緒に寮に居る筈だ。二葉がどんなに急ごうと寮へ辿り着くまでに5分は懸かる。
確か執務室の窓が開いていた。飛び降りれば、すぐに地面の上。走ればすぐに追い付ける。

振り返り何も考えず駆け出した体が、浮いた。




人には翼などないのに。
人には空を飛ぶ事など出来ないのに。


「また、泣くのか」

二つの月が見つめてくる。

「幾ら防音設備と言え、扉を開いたままならばある程度耳に入る」

甘い甘い砂糖菓子の様な瞳が、月の光を凝縮した様な白銀糸の髪が。窓から差し込む陽光を帯びて絵画の様だった。

「相手は紫の宮か。…ならば推考する必要もない」
「カイちゃん」
「穢れを知らぬ魂に、慣れていないんだ」

目元だけで笑う綺麗な顔が近付いてくる。決して高いとは言えない鼻先に口付けられて、眉が下がった。

「謝罪の証に、望みを叶えてやる」
「ぇ?」
「叶二葉を追うのだろう?」

囁く唇を、

「タイヨー、苛めちゃ、め。タイヨー、僕のコト嫌いでも、僕は好きにょ」
「そうか」
「好き、にょ。一年間宜しくって、言ったから。テスト勉強しようって、タイヨー、笑ってくれた、から」
「ならば命じれば良い。拒否の暇を許さぬ言の葉で、従う事のみ待ち侘びる犬へ」


泣き疲れた眼球が痛い。
徹夜明けの思考回路は緊張の糸が切れて、





「…白日の元へ、征こう」


何故、唇が微笑んだのか。






「仰せのままに、…天皇猊下」


理由は知らない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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