帝王院高等学校
その時、眼鏡はただ静かに傍観した。
「…は、馬鹿馬鹿しい。見下げたぜ、テメェを」

刺々しく吐き捨てた長身が苛立たしげに出て行った。
忽ち広がる静寂にきゅっと眉を寄せ、然し安堵に似た小さな吐息を漏らす。


「俊」

けれどまるで何事もなかったかの様な静かな声音に名を呼ばれ、逃げる間もなく伸びてくる腕に捕まりながら、

「カイちゃん」
「どうした」
「ピナタ、居なくなったにょ。」

己自身が確認する様に零れた台詞で、涙腺が壊れたらしい。

「ピナタ、ぼ、僕の事、嫌いだから、…居なくなったにょ」
「俊」
「にゃんこもピナタも皆、僕の事、嫌い…」

頬を伝いポロポロ落ちていく雫も、ぐずぐず煩い鼻もまるで他人事の様だった。
眼鏡を外せば恐がられて、眼鏡を掛ければ同等に見て貰えない。いつもいつも、同じ事ばかり繰り返している気がする。


「皆、…僕の事嫌いっ」


いっそ違う誰かになれたら良いのに。


全てに自信を持てる人間に。有りの儘の自分を受け入れて貰える誰かに、今すぐ。
生まれ変われたら、きっと今よりずっと楽しい毎日が待っている筈だ。小説や漫画の主人公になった気分で物語の世界にばかり逃げ場を求める事も、いつか偽りばかり重ねて今にも断ち切れそうな危うい吊橋の上を進む様な生活に逃げ場を求める事もない。

街角で見掛ける普通の学生と同じ様に。下校途中メインストリートを蛇行して、道草した事を保護者からこっ酷く叱られてしまう様な普通の子供に。





「うぇ」

ああ、頬に滝が現れた。

分厚い黒縁で辛うじて留められていた雫が、何の障害もなく溢れ落ちていく。自分と言うこの世で最も嫌いな顔を覆い隠す眼鏡は長い指の中、自分と言うこの世で最も嫌いな生き物は、暖かい何かへ。



「俊」


包まれて、頬を舐め上げる舌が囁く呼び声に喉が痙攣した。

「ひっく、ぐすっ」
「誰が言った」
「ひっく、ひっく、ふぇ?」
「仮に人間と言う生命がお前を嫌悪すると言うなら、」

甘い甘いハニーゴールドの瞳の中に、醜い顔をした漆黒の瞳が映り込む。

「俺はやはり人間には不向きだろう」

そのハニーゴールドが穢れてしまったのだと思った。全てを塗り潰してしまう黒に呑み込まれて、神々しい月が悲鳴を上げる事さえ許されず新月と化す様に、

「俊」
「き、たなぃ、にょ」
「俊」
「ばっちぃから、あっちいって」

生まれて初めて見たその秀麗な顔が、魂が。穢れてしまうのは、嫌なのだ。

「カイちゃん、ばっちぃなっちゃうにょ。っ、…あっちいって!」

抱き締めてくる腕を振り払い、胸元を強く押す。後ろに傾く我が身は、何の受け身も許されず不様に転げ落ちるのだ。

寧ろ打ち所が悪ければ良いのに。一生目覚めなければ、一生穏やかなままだ。





当然の報い、だから。
福、と言う言葉は辞書の中だけに)
(幸福、と言う言葉は他のかの元に)

    (存在して)
            (きらきらいて)
        (眩しいくらい)
たしてしまうのだろう)
              (心もも)




      (少しの隙間もないくらい







「俊」


ああ、何故。
不様に打ち付ける運命の背中に力強い腕を感じて。眼鏡を外している筈の自分は、鼓動が聞こえるくらい強く・強く、


「小さいな」

広く温かい胸元に包み込まれているのだろう。

「菓子はどれが良い」

擽る様に耳の付け根に鼻先を寄せる男の腕の中、目一杯暴れているつもりなのに拘束する腕が離れる気配は皆無だ。

「西洋焼き菓子か、和菓子か。此処に用意していないものならば取り寄せよう」
「あっち、行って、カイちゃん」
「懐かない猫は、構い倒せばやがて諦めを覚える。…高坂の扱いを違えた事を悔やむのか?」

覗き込んできた瞳に怯え、台詞の意味を理解する前に右手が動いた。
躊躇する暇などない。我に還ったのは、神が創り上げた最高傑作と言えるだろう秀麗な左頬が目に見えて赤みを帯びた時だ。





耳障りな音と、右拳に痛み。


「ぁ」
「…清涼飲料が望みならば、運ばせよう。アールグレイは菓子の相性を選ぶ」
「カイ、ちゃん」

今すぐ消え去りたかったのかも知れない。目の前が黒く白く曖昧な灰色に濁って、崩壊した涙腺はただただ水滴を滴らせるばかり、

「炭酸水は無糖、人工甘味料を用いたもので良いか」
「カイちゃん、ほっぺが…」

神威が日向の表情を歪めさせた時、どうしようもなく腹が立ってその両頬を抓った。
けれどこれはそんな可愛いものではない。無意識だからと言って、利き腕で殴ったのだ。口の中が切れていても可笑しくはない。なのに殴られた本人は顔色一つ変えず、まるで気にしていなかった。

罪悪感と言うものは、音もなく精神を食い尽くす。
じわり・じわり、


「お口…お口、開け、開けて」
「目が腫れる。泣くのはやめろ」
「ごめ、なさい、ごめ、ごめんなさいごめんなさいごめ、」
「違う、俺が見たい貌を見せてくれ」

僅かだけ細められた蜂蜜色の瞳が、すぐ目の前にある。
初めての感覚に何が何だか全く判らなかった。ただ自分の頭の下に腕があって、背中の下にソファがあって、ピントが合わないくらい至近距離に長い睫毛がある。



「む…っ、ふむ、むにゅ、…ぅ、むっ」

息が出来ない。
神威の右腕が頭の下にあって、神威の左手が頬を撫でていた。それだけは辛うじて理解出来る。けれど、

「ゃ…っ、ふむ…ぅ、うぇ、ん、ふにょ」
「…俊」
「うぇ、ぐす」

苦しさに滲んだ涙が長い指に奪われ、啜った鼻水は女々しい泣き声を響かせた。


「腹が空いていただろう」
「ふぇ?」
「食わねば式典に間に合わない」
「式典…?」

ふわふわと意識が定まらない。嫌に濡れた唇の意味も、酸素ばかり求めて喘ぐ肺の意味も判らなかった。

「全学年の帝君が式典で挨拶をしなければならない」
「ご挨拶、するにょ?テイクンさんが、えっと、自己紹介…?」
「学年総代、つまり主席生徒に課せられた義務だ。一年帝君である俊も、二年帝君である嵯峨崎佑壱も出席しなければならない」

言いながら己の左人差し指を舐める男の所為で、酷く落ち着かない気分に陥った。
無意識に唇へ両手を当てて、眉間へ皺を刻む。

「…僕が一番の筈ないにょ。確かにテスト中の記憶あんまりないけど、前の日まで入稿準備で徹夜続きだったから半分以上寝てたにょ」
「採点ミスは有り得ない」
「えっと、あにょ、だって僕、あんまり中学行ってないし…」

唇を覆った両手が、神威の左手だけで外された。何故か唇だけ隠してしまいたかった。何故か唇だけ切り落としてしまいたかった。
理由は、頭が理解していない。

「テストの時だけ行ってたけど、いっつも赤点ギリギリだったですし…。面倒臭くて名前書き忘れた事もあったですし…」
「式典に出席すれば、生徒会執行部を目にする筈だ」

まるで呪文の様な台詞だと思った。
まるで媚薬の様な声音だと思った。

「生徒会?」
「そう」
「会長も、見れる?」
「余程興味がある様だな」

首を傾げれば、揶揄めいた双眸が笑みを滲ませた様に見える。

「えっと、生徒会長は俺様で、偉そ〜で、チワワをいっぱい食べてて、でも壇上から本命を一発で見付けちゃうんですっ!」
「ほう」
「それでそれでっ、マイク越しに名指ししたり!またまた食堂に現れちゃってチワワがきゃーきゃーで会長はやっぱり俺様攻めで、ハァハァ、僕は心停止寸前っ!」
「…ふむ、面映ゆいな」
「変装訳あり受けだったら無自覚美人強気受けな主人公が実は不良だったりして、総長な俺様会長が探してたりするにょ!」
「ああ、それなら似た話を知っている」

真上から見つめてくる瞳に、今更押し倒されている格好である状況に気付いた。ああ、押し倒されているのが自分でさえなかったら今頃壁をバシバシ叩きながら感動で噎び泣いただろうに。


「…見えるか、俊」
「ふぇ?」

頭を持ち上げられて、軽々膝の上に座らせられてしまった。
抵抗した所で神威が容赦してくれる様な気がしない。無駄な足掻きは早々に放棄し、極力他人事だと思い込ませながら神威が指差す方向へ目を向けた。



「カルマ、…中央の『暗黒皇帝』が神帝の探す対象だ」
「え、え?」
「同一地区を二分するカルマ、ABSOLUTELY、それぞれの統率者は銀皇帝・銀神帝と呼ばれている」

いつの間にか饒舌に変化していた神威を盗み見ながら、ことりと息を呑む。

「ABSOLUTELY総帥、銀神帝が何を示すか判るか」
「まさか会長がそうとか言わないですよねィ、カイちゃん…」

静かな瞳が真っ直ぐ見つめてきた。いつの間にかテーブルの上へ移動していた眼鏡を横目に、痙き攣った唇へ乾いた笑みを浮かべてみる。

「当の神帝は、消えた皇帝を探しているそうだ」
「へ、へぇ。きっと会長を怒らせたにょ、ちゃんと謝らなきゃ駄目なりょ、うん」
「帝王院内に存在するABSOLUTELY、並びにカルマが必死だろう」

ああ、もう。空腹だなどとほざいていられる立場ではない事だけは判った。



「み、見付かったらど〜なっちゃいますか?えっと、あにょ、もしその人が実はこの学校に居たりしちゃったりしたらァ…」
「二十歳の人間が帝王院内に存在する筈がない」

また、眼だけで微笑んだ綺麗な顔が近付いてくる。

「そ、そ〜にょ。高校生はお酒も煙草も禁止なり、だから帝王院学校は二十歳以上お断りですっ。ホストパーポーだけおまけにょ」
「但し、神帝に見付かれば全てを奪われるだろう」
「す、全てって、な〜に?お金とかコレクションの便箋とか築何十年のボロ家とかでしょーか…」
「平穏も過去も未来も、…現在も」





また。







「狂わせた代償に、…その魂全て」


唇に、違和感。

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