帝王院高等学校
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Himmlische dein Heiligtum(天上高く煌めく華の聖域を踏み散らす)
決して狭くはないカフェの中に響き渡るのは、交響曲第九番。世界は全てクラシックオーケストラに支配され、誰が叫ぼうが妨げる事は出来なかった筈だ。

繊細且つ緻密な指使いで、普段インテリア宜しく飾られているだけのグランドピアノを這う指が、陶酔する様なまるで何かに乗り移られている様な表情を晒している。


カウンターの一角で足を組み目を閉じる男は長い指で膝を叩き、煙草代わりの禁煙パイプを挟んだ右手で指揮を取った。


「O Freude, nicht diese Tone, Sondern last angenehmere Anstimmen, und freudenvollere!」

なぁ皆、つまらない歌を歌うのはやめて歓喜に満ちた子守唄を歌おう。
恐らく日本語訳ではそんな表現だろう異国語で、滑らかに歌う少年は先程の乱闘騒ぎを彷彿とさせる擦り傷を頬に幾つか。
愉快げに目を瞑りリズム良く頭を振りながら、滅多に披露しないバイオリンを操り口ずさむ。

「Freude,Schoner Gotterfunken」
「快楽、それは美しい皇帝の火花」

追い掛ける様に、同じく瞼を閉ざした少年が寝ている様な風体で呟く様に口ずさんだ。恐らくこの中で最も低いだろう声音で、染み渡る様な歌声を響かせる。

「Tochter aus Elysium, Wir betreten feuertrunken,」
「気高きエリュシオンから来た花だ。オレらは炎のように酔い痴れて、」

狂い踊るピアノ、引き裂くバイオリン、心地好いコントラバス。上り詰めるオーケストラは、



「天上高く煌めく華の聖域を踏み散らす」


囁く様な日本語で、ピタリと止んだ。
最奥のソファ、王者の様に腰掛けたロングコートの男。

「ん…」
「起こしたか?グラスを持ったまま寝たら、危ない」
「だっこー…」

ぎゅ、と。腹に巻き付く腕を前に、

「Himmlische dein Heiligtum、か。ベートーヴェンは愛の狩人らしい」

膝に大きなシェパードを寝せて、背凭れに預けた腕で頬杖を付いたまま。素肌の上に羽織っただけの襟に黒いファーが付いた純白のコートを弄び、しなやかな胸元を覗かせた。
ふ、とコートから外した指でキャラメルブラウンのサングラスを押し上げ、

「Deine Zauber binden wieder(その聖なる魔力で再び繋げるのだろうか)
  Was die Mode streng geteilt(世の理が引き裂いた、唯一を)」

静かな世界に落ちた囁き。
シルバーアッシュ。雄々しく整えられたオールバックを掻き乱し、膝の上から手を伸ばしてくるシェパードへ緩く笑む。
頬を滑る手の感触をどう感じたのか、その手からグラスを奪い、溶け掛けた氷が小さく鳴くのと同時にグイっと煽り捨てたのだ。


「─────甘い。」


乳白色のカフェラテ。

「それ、隼人くんの」
「甘いな」
「ブラック、美味しくないじゃん。ボスはオッサンだから飲めるのお。隼人君はヤングなヤンキーだからー、…冷たっ」


甘い甘い蜂蜜味のそれを飲み干して、グラスから滴った水滴が額に落ちたシェパードを眺めながら口元を拭う。

「オッサンは、酷いな」

そのまま屈み込み、額に落ちた水滴を舐め取れば見開いた灰色の眼へ笑った。
セクハラ、と声もなく呟く唇を指で撫でる。益々沈黙したシェパードは、恐らくカルマ1の照れ屋だ。


「酷く愛らしい猫に逃げられた」


囁く声音はカフェを支配する。
狂い叫ぶオーケストラよりも確実に、春風よりも穏やかに。灼熱よりも明確に、凍土すら穏やかだと思えるほど急激に。
世界を凍らせ燃やし尽くすのだろうか。ただ囁くだけで、こうも容易く。

「捕まえるのは容易いが、」
「浮気しちゃ、めーにょ」
「こうやって、…猫ばかり可愛がると拗ねてしまう。可愛い可愛い俺のワンコ達が」

全ての視線を集めた男が立ち上がり、縋る様に伸ばされた手首を掴み、メタリックイエローの煌めきにキスを一つ。

「ちゅーだけじゃ、足んない」
「ほう?何が足りない?」

擽る様に灰色の目を細めた男が満面の笑みを浮かべ、

「口付けと、葡萄酒?」
「いつか滅ぶ魂と?」
「その歌詞、嫌い。好きなのはボスが歌ったあと。Alle Menschen werden Bruder, Wo dein sanfter Flugel weilt.」
「慈悲に満ちた翼に抱かれ全ては一つになる。…そう、早いか遅いか。死の運命は皆同じ」

ひらり、と。白を靡かせ悠々歩いた男はピアノに腰掛けた美貌を前に、鍵盤の上で沈黙している指を掴む。

「いずれ俺もお前達も魂を残し消え、肉体は大地へ帰依る運命だ。魂は星の一つとして」

ちゅ、と細く長い指先に口付けた男がサングラスを放り投げ、カラン、と床を跳ねる音に構わず沈黙した鍵盤の右端、最も高い音を押した。

「総長、」
「弾いた事がない。ピアノは習った覚えがないからな」

見上げてくる目を横目に見やれば、目が合った途端肩を震わせた濃紺の髪を撫でる。
怖いなら離れていなさい、と無言の声に気付いたのか立ち上がった少年と入れ代わりに椅子へ座り、両手を振った。


「逃した猫へ捧げる追悼歌だ。要の旋律は優し過ぎる」


世界を引き裂く旋律が駆けた。
つい今し方、弾けないと宣言した男の両手が鍵盤を駆け抜け、全ての人間が息を詰める。
バイオリンの弦から手を離した緋色の眼差しが瞬き、無意識なのか否か、先程中断した所まで駆け抜けたピアノの音に合わせて息を吸い込んだ。


「Alle Guten alle Bosen Kusse gab sie uns und Reben, Einen Freund,gepruft im Tod;(善も悪も等しく全て。世界は生まれ落ちた我らに口付けと、甘い甘いワイン、いつか消えるだろう命を与えてくれた)」

変声期を経た少年らしからぬ純粋無垢なテノールが指揮者無き伴奏に合わせ、

「Ihr sturzt nieder, Millionen.(跪け、地を這う犬共)」

カウンターから割り込んだ威圧感に満ちた声音が、ピアノ以外の音を奪う。
灼熱を帯びた外見に似合わぬ、静かな歌声。ピアノに決して劣らぬ声が燃える眼差しが宝物を見る眼をピアニストに注ぎ、恍惚めいた表情を滲ませる。



「Ahndest du den Schopfer, Welt?(皇帝の鼓動を聞こう)」


沈黙した旋律。
緩やかに振り返ったピアノの前の背中が微笑みを滲ませ、淡い青のライトアップしか存在していない薄暗い空間を光で満たす。


「今宵は満月だ」

世界を支配する声音が、また。

「魂を狂わせる夜、…俺に跪く犬共よ。ならば俺以外の声を聞く必要も、俺以外を視る必要もない」

ああ、そうか。
この男はこの数日ずっと機嫌が悪かったらしい。普段の穏やかさなど何処にも存在しない眼差しが世界を凍らせ、なのに柔らかな笑みが天上の楽園を思わせる矛盾。

「弱い生き物に目を奪われる必要など、ほら。何処に存在するんだ」

先程の乱闘騒ぎですら、逃げた猫の安否ですら。この男にとって「何でもない事」なのだ。
だから幹部らですら受けた掠り傷に、だからいつか高々「平凡な少年」が副総長へ与えた冒涜ですら。気に喰わない。


追悼歌。
もしもあの時、この男が感情のまま動いていたら。全ての人間が、この男の奏でる旋律に看取られていただろう。


「イチ」
「…は、い」
「次はない」

笑みを消した男が鍵盤を叩きつけ、弾け跳んだ黒と白が床を転げる。

「跪け、…この世の総てが俺の目前に」

数千万はするだろうグランドピアノの最期を目前に、
  (魂が狂う刹那を視たのだろうか)
    (ああ、それとも既に)
      (微塵も迷わず、既に)


(狂っているかも知れない)




「ああ、もし今宵が新月なら…」

この世に存在しない遥か古の言葉を理解した者は、殆ど存在しなかった。



「あの勇ましい猫を、
  闇のベルベットへ包み込めたのに」


ただ、灼熱の鳥だけが。
飼い主の口元を横目に、闇夜へ浮かぶ蜂蜜色の月を。




Diesen Kus der ganzen Welt!
全ての魂に口付けを!

Bruder! uberm Sternenzelt Mus ein lieber Vater wohnen.
地を這う我ら犬共よ聞け、この空の向こうには偉大な神が待っている!

Ihr sturzt nieder, Millionen!
跪くが良い、犬共!


Ahndest du den Schopfer, Welt?
ああ、創造主の鼓動を聞いたか?


Such ihn uberm Sternenzelt!
宇宙の彼方に主を求めよ!




「Himmlische dein Heiligtum.
  美しい生き物は、…汚したくなる。」



与えたのは、口付け。

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