帝王院高等学校
後悔と未練は親戚同士なんですか?
「死因は適当に、若年性心不全とでも吹聴してくれ」
「…こんな時まで馬鹿抜かしてんじゃねぇ。殴るぞ」

全く、口が悪い男だ。
年々遠慮がなくなっているなと肩を竦めれば、体の奥から走る様な痛みが襲って来た。痛み止めで誤魔化せなくなって来ているのだから、残った時間は知れている。

「世界広しと言うが、私を馬鹿と言うのは貴様ら母子だけだ。…あの子はどうしている?」
「迎えを寄越して先に帰した。母親が医者を揶揄って苛立たせてるだけの場所に、長居させられる訳がねぇだろう」
「…苛立たせたつもりはなかったんだがな。彼らが提示した治療方法に有用性を感じられなかった」

生真面目で実直な医師との押し問答は、何時間続いただろうか。貴方の為を思って言っているんです・と言う、日本人医師の言葉に嘘も偽りもなかったに違いない。珍しい症例だと頭を抱えながら、大の大人が雁首揃えて、あれこれ意見を交わしあったのだろう。

「技術班が40年も前に実用化に至った空飛ぶ車を、地上の人類は未だ手に入れていない。近頃漸く、自動運転技術が絵空事ではなくなってきたがな。実用化には少なくとも20年は要するだろう。…あの子が大人になる頃か」
「…だったら医療班に、」
「答えはノーだ。地上では奇跡と呼ばれる日常を、私は自ら捨てたんだよ」

自分の様な女にも必死になってくれた彼らには、心から感謝している。
けれど、差し伸べられる手を掴む事は出来なかった。所詮は地上の医者達だ。どれほどの熱意があろうと、地上で起こる奇跡は奇跡でしかない。

「貴様にとっては苛立たしい4年だったろうが、私にとってはそう悪くなかった」
「…ふん」
「ふ。悪魔の分際で幸せだなどと、どの口が言えるんだろうな。だが私の性分は流石に理解してくれているだろう?」

痛みを押し殺したまま微笑み掛ければ、ふいっと目を逸らされた。

「すぐに絆される貴様の性格を、一般的に甘ちゃんと言う」
「煩ぇ」
「無視されると嫌われていると思い込み、構われると無下に出来ない。全く、そんな甘い考えだから私の様な悪女につけ込まれるんだ」
「…テメーにだけは言われたかねぇ」

髪も瞳も鮮やかな真紅の男は、真っ直ぐ見つめられる事に慣れていない。それは幼少期のトラウマなのか、単にシャイなのか。

「本当に貴様は可哀想だな。今は少しだけ同情しているよ。私には手に入れられなかったイブの愛を、お前は手にする権利があったのに」
「今更」
「ああ、そうだな。私は醜い嫉妬に身をやつした、魔女の子孫だ。お前からイブを奪っただけではなく、…最愛の人から初恋を奪ってしまった。クリスは私を憎んでいるだろう」
「未練があるなら手術を受けるべきだ」
「…それは出来ない」

人の身に選ばれし者の烙印を押された、犯罪者。
嵯峨崎嶺一が落とされる筈だった深淵は、烙印と共に刻まれた。クライスト・アビス=レイ、深淵に選ばれた光。皮肉な話だ。

「言っただろう、公表する死因は何でも良い。ああ、会社に変なイメージがつかない理由にすると良い。我が社には既に、代表取締役社長がニューハーフだと言う風評がついているからな」
「…」
「葬儀や告別式は盛大にやってくれ、機体に私の顔をプリントして飛ばしてくれても構わない。ああ、出来ればドメスティックが良いな。国内線は距離が近いから、何回も往復出来るだろう?但し、私の死を確かめたら体はすぐに燃やしてくれ」
「っ、テメェ、いい加減にしろイール!」

流石に怒らせたかと、エアリアス=アシュレイは口を閉ざした。こんな時まで態度を変えない自分とは真逆に、今日の嶺一は大人し過ぎる。いつもの調子に戻そうと気遣ったつもりだが、お陰様で予想通りの展開だ。

「…クソっ、零人はどうするんだ!アイツはまだ4歳だぞ?!勝手に押し掛けて勝手に産んで、今度は勝手に置いてくのかよ!」
「判っている」
「いいや、テメーは何も判ってねぇ!身勝手で我儘で自己中で、賢い癖に後先考えねぇ大馬鹿野郎だ!」

返す言葉はなかった。
自分がやった事の悍ましさなど言われなくとも判っている。最後の最後までとんだ重荷を背負わせようとしている事も、目の前の男が口汚く罵る理由が憎悪ではなく心配だと言う事も、全て判っているのだ。

「それでも出来ないんだ。…私の体には、流れてはならない血が流れているから」
「…あ?血?」
「お父様は知らない。…お母様と最後に交わした約束なんだ。勝手なのは判っているけれど聞き分けてくれ、レイ」
「下らねぇ、何が約束だ!娘の命をどんな言葉で縛るってんだよ!」
「シルビア=アシュレイ。私の母の旧姓はホワイトだが、祖父の旧姓はフェインだ。…お前も知っているだろう、サラの事を」
「いっぺんお前に会いに来たって言う、栗毛の餓鬼の事だろう」
「私はハイスクール時代、人見知りだったあの子の家庭教師だった事がある。…まぁ、身内の付き合いの様なものだ」
「明らかに向いてねぇアルバイトだ」
「ふふ、あの頃は私もそう思った。フェインはスコットランドの貴族だが、前当主には妻の他に愛人がいた。私の祖父は、その愛人が産んだ婚外子だ」

言うつもりはなかった。けれど今、20年胸に仕舞い続けてきた秘密を明かそうとしている自分に、他でもなく自分が一番驚いている。

「…嵯峨崎嶺一」
「何だよ、急に」
「日本語はどれも発音に苦労したが、貴様の名前は特に苦労した。麻酔が効いている今は特に、舌が捻れそうだ」

絆されているのは自分の方だったのかと、エアリアスは他人事の様に考え、今にも吹き出しそうな唇をきつく結んだ。冗談で誤魔化してみたが、流石に今この瞬間は笑ってはいけない。笑えない話を聞かせようとしているのだから、当然だ。

「アナスタシア」
「あ?」
「アナスタシア=セシル=ヴィーゼンバーグ」

そっぽ向いていた嶺一の目が見開かれた状態で、真っ直ぐ見つめてきた。何を言われたか良く判っていない表情の嶺一に、エアリアスは持ち上げた腕で豊かなガーネットヘアを掻き上げた。

「エリザベート=マチルダ=ヴィーゼンバーグの一番上の姉で、王族に嫁いだ女だ。絵に描いた様な仮面夫婦だった。マチルダがレヴィ=グレアムに捨てられロンドンへ戻った後ともなれば、姉のアナスタシアは身の置き場がなかっただろう」
「それがお前と何の関係があるんだ」
「言っただろう。フェインの三男、小国の子爵にあるのは名前ばかりでロンドン議会の発言権はないに等しい。アシュレイに比べれば爵位でも領地でも、資産でも遥かに劣る。父親がフェインの姓を与えられたからと言って、婚外子の三男だ。祖父はウィスキーを作っていたホワイト家に婿入りし、私の母が生まれた」

どう見ても赤としか表現出来ない嶺一とは違い、赤毛と評されるエアリアスの髪は赤みが強い茶髪だ。妹の様に可愛がっていたサラ=フェインは明るい栗毛で、幼い頃、くすんだブロンドだと揶揄われた事から引っ込み思案な性格になってしまったらしい。学者だった大好きな父と離れ離れになると、とうとう部屋から出て来なくなってしまった。

「サラの祖父と、私の母方の祖父が腹違いの兄弟だった。サラの祖父はフェインの爵位を継ぐと、私の祖父を家から追い出したんだ。けれどサラの母親はそんな事も知らず、親戚面して私を娘の家庭教師に指名した。お願いと言う言葉の裏にどんな野心があったか知れない」
「勘繰り過ぎだろう。下手に賢い奴はどうでも良いを悩む」
「ああ、今のは自分に向けた台詞か?」
「殴るぞ」

口が悪い男だ。良い人に囲まれて育ったのだろうと、初対面の時から思っていた。
だから来日する直前に体外受精を済ませていたエアリアスは、脅迫じみた取引を持ち掛けたのだ。

「なぁ、レイ」
「何だよ」
「子供の産んでやる代わりに女装しろと言われた時、どう思った?」
「今更」
「良いから答えろ童貞、女は度胸だ」
「そりゃ男だろうが。…テメェが勝手に妊娠した癖に何で俺が脅されてんだ、みてぇな事は思った様な気がする」
「そうだろうな、私もそう思う。何故あの時そう言わなかった?」
「抜かしやがって、言わせるつもりなかっただろうが!よりによってクリスの子を堕せなんざ言えるか!」
「ああ、それも判っていた。クリスを連れ出そうとした犯罪者の処分保留を円卓を納得させる為には、私達が結婚すると言う理由が適していたのは判るだろう?」

盲目のシスターと囚われのお姫様。特別機動部技術班の初代班長であるマリア=アシュレイは、勤務中の事故で視力を失うまで区画保全部で勤めていた。
区画保全部は僻地に住み着いたマリアに支援物資を搬送していたが、神の弟妹が住み着いた頃から距離を置く様になっている。本来ならば、生きた神のドナーでしかなかった二人を、実の子の様に育てていたマリアに引け目があったのか、世代交代でマリアに対する尊敬が薄れていたのか。理由は定かではないが、来訪者が減った事で寂れた教会で暮らす母子はお穏やかな数年間を過ごしたのだろう。コード:アダム、コード:イブ、年が離れた彼らは純粋な性格に育った。

「アダムが14歳の時にイブはやって来た。シンフォニアで女児が誕生したのは初めての事だったが、幼い頃皮膚疾患が多かった兄とは違って妹には先天性疾患もなく健康そのものだった。劣化版の烙印こそ押されたが、シリウスシンフォニアの最高傑作だったろう」
「…良いのか、ンな事まで話して。機密だろう?」
「バレたら私もお前も消されるかも知れないな」
「…」
「神のドナー。ノアの為の臓器。テレジアが二人をバックアップとして育てていれば、お前達が愛し合う事もなかっただろう」
「どうだかな。どんな育ちだって、俺はクリスを好きになってたと思う」
「乙女思考め。お前はそうかも知れないが、クリスは違っただろう。空に憧れる事も、お前の手を取る事もなかった。自分がノアの為に生きていると教えられていたなら」

口篭った嶺一から目を離し、腕に刺されている点滴のチューブを見やる。ゆったりと落ちている生理食塩水は脱水防止の為だけで、麻酔が完全に切れるまでの繋ぎの役目しかない。この細い針ですら自分は一度拒んだ。半ば激昂する医師達の強くなっていく声に不安そうな表情をした零人が、エアリアスの脇腹を叩いたのだ。

『母ちゃん、先生の言う事ちゃんと聞きゃあ。大人だろ?』
『ゼロがママをお子様扱いしとりゃーすだに。どえらいこったで、初めての暴力だがや!』
『ばーちゃんが馬鹿は叩かな治らんって言ってた。次また我儘言ったら蹴ったるで?』
『怖い4歳デース。親の顔が見たいデース。鏡下さーい』

細い針。これを抜いた後、果たして血は止まるだろうか。
出産後一日も出血が止まらなかった自分の体は、たった4年で死を目の当たりにしている。20数年も生きて来られただけで満足した、とは流石に言えない。本音と建前は別腹なのだ。

「技術班はランクB以下、殆どがランクCの研究員で構成されている。中央情報部に登録されるランクCの個人情報は指紋、網膜…お前は対外実働部のランクBになった時、DNAも保存されているんだったな」
「ああ、口の中の細胞と毛髪を提供した」
「医療班は特別で、全ての社員が個人情報を全て保管する。シンフォニアプロジェクトの全治験を担当する医療班の研究員の多くは、自分の細胞を培養して作ったクローンで実験している…と言う事は?」
「…あんま知りたくない話だ」
「だからこそ医療班の技術は地上より百年は進んでいるんだ。私の寿命を伸ばす事も不可能ではないだろう」
「だったら、」
「母は己の身の上を隠したまま父へ嫁いだ。それが如何に悍ましい事か、彼女は初めから知っていたのに」

死が近いと知って今、焦りはない。いつかこんな日が来るだろうと、薄暗い地下で嶺一に銃口を向けた日から知っていた。悪は裁かれるものだ。地下でも地上でも、共通して悪が栄えた試しはない。

「婚外子だった祖父を成人まで育てたのは、アナスタシア=ヴィーゼンバーグが産んだ子供だったからだ。50歳を迎えられずアナスタシアが亡くなり、他の妹達も出産を迎えると20年以内に亡くなっているが、80歳まで生きたのはマチルダだけ。王族の一員として迎えられたアナスタシアには3人の子供が居るが、どれも夫が他所の女に産ませた子供だと言う中央情報部の調査に誤りはないだろう。彼女が亡くなったのは、私の祖父を産んだ2年後」
「…お前も同じ理由、なのか?」
「やめろ。今は私が話している」

認めない。認める訳には行かない。
体に流れる血を証明してしまえば、母の約束を裏切るだけではなく、愛おしい息子に母殺しの汚名を着せてしまう。それだけは絶対にあってはならない事だ。例えそれで死ぬ事になろうとも。

「お父様には打算があった筈だ。お母様はひたすら愛を注いでいたが、報われないと思わないか?子爵の正統な血筋の娘では、アシュレイの権力を分ける結果になりかねない。然し婚外子の血筋であれば、直接的な交流がなくとも抑止力にはなる。サラの母の様に、考え違いするお気楽馬鹿も居るが。お母様が生きていた頃から私は、それを知っていた。お父様は私には優しく接して下さったけれど、」
「夫婦としてはどうだったのか、って?」

エアリアスの父は多忙な男だったが、海に行きたいと言えば運転手つきのクルーザーを用意してくれた。ロンドンを歩けば、誰もが認める執事養成校の優秀な生徒達がエアリアスをエスコートしてくれる。お姫様扱いされる事に喜びを感じない性分だったエアリアスには何の感慨もなかったが、友人の誰もが羨んだものだ。

「…昔、クリスから話を聞いた。母親との関係が希薄だったお前は、父親に育てられたんだろう。私とは逆だ。…だが、可憐がつれない態度を取ってしまったのも無理はない。話を聞く限り陽炎は、言葉が足りなかった」
「足りなかったなんてもんじゃねぇ、説明くらいしろってんだ」
「どうアメリカへ連れて行ったかは不明だが、中央情報部のデータに狂いはない筈だ。嵯峨崎可憐は中央区で卵子摘出手術を受けている。お前は、陽炎と可憐の子だと示された」
「…親父が死ぬ前に教えて欲しかった」
「可憐が覚えてないと言うからな。可憐本人は私の話をすんなり受け入れていたが、ハイバラには本当に魔法じみた力があるのか?」
「良く判らねぇ。確かめようにも俺達が帰国した頃には、学園には陛下の姿があった」
「正確にはノアではなく、アダムだがな。クライスト・アビスの烙印を押されたお前が立ち入るには、東京は危険な場所だ」

帰国翌年に零人が生まれ、嵯峨崎の社長に就任した嶺一は多忙を極めた。エアリアスが亡くなればクライストの烙印はどうなるのか、新たな監視役がつくのか、今度こそ刑が執行されてしまうのか。
一縷の望みは、エアリアスが残した零人に懸かっている。

「先日、サラが帝王院秀皇の子を妊娠したと聞いた。国内でのステルスは勢いを増すだろう。…アダムを心から慕っているあの子は、私と同じ過ちを犯した訳だ」
「止めてやれば良かったのに」
「愛を押し殺す事は難しい。お前だって、寝言でクリスの名を呟いているんだ」
「嘘つけ」
「嘘だと思いたいならそれも良いだろう。クリスに会いたいと思ったら、ゼロを餌にお父様に頼んでみたら良い」
「出来るかそんな事。ンな時まで人を馬鹿にしやがって、ろくな死に方しねぇぞ糞女」
「どんな死に方か見守ってくれ。私は確かめられないからな」

エアリアスの辞職と時同じく、中央情報部から退いているフルーレティ=アシュレイに、エアリアスは先日手紙を書いた。父親に当てた娘の手紙だ。孫の誕生などとうに知っているだろうが、今の所、エアリアスの元に父からの便りはない。
人生最後の願いだと書き添えて置いた。父親を騙すのは忍びないが、母親との約束で既に一つ隠し事をしている。娘が産んだ子供が自分の孫ではない事など、いつかは明らかになるだろう。彼は中央情報部長だった。人の心の中以外は全てを記録する部署だ。

「可憐が仏前で手を合わせている所を見る度に、私は父の背中を思い出していたよ」
「何で」
「ヴィーゼンバーグの呪われた血を継いでしまった母は、私を産んだ直後から体調を崩す様になっていた。滅多にロンドンには戻らないお父様は、陛下のお膝元である中央区に詰めている。衰弱していく妻の報告は受けていただろうに、母の生前は変わらなかった。…変わったのは、亡くなってからだ」

そう、コード:ベリアルに知らない事はない。だとすれば彼は、己の妻の素性を本当に知らなかったのだろうか?娘の体内に流れる血を、欠陥を、本当に知らなかったのか。然し最後まで尋ねる事が出来なかった。
グレアムを絶望の業火で焼いた呪われし公爵家、キングを産み落とした奇跡の娘はレヴィ=グレアムの妻ではあったが、結婚式を挙げていない。レヴィ=グレアムは4人の伴侶の内3人と結婚式を挙げたが、神の前で永遠の愛を誓ったのはたった一人だけだ。

「お父様はお母様の部屋をそのまま残した。帰る度に無人の部屋を覗いては、花を飾る様になった。家の隣には執事の卵が通う学校があってね」
「知ってる」
「彼らが手入れしているイングリッシュガーデンを眺める事が、ベッドから離れられないお母様の楽しみだったんだ。きっとお父様は、それをご存じだった」
「俺は納得しねぇぞ…」
「お前はそれで良い。これは私達の問題だ」
「…父親に嘘をついたまま、助かるかも知れねぇ命をみすみす捨てるってのか」
「我儘は重々承知している」

ナイト=メア=グレアム。世界でたった一人、神に愛された真実の伴侶。
神と共に海を渡り、神と共に死んだ黒髪黒目のランクS。まるで神話の如く語り継がれる、生きたノワール。

「…本当は、技術班に入りたかったんだ。区画保全部に配属された当時は肩透かしを喰った気分だったよ。テレジアが作り上げた技術班で、彼女を超える発明を残すのが私の野望だった」
「クリス達の世話役の婆さんの事だな」
「結局、野望のまま潰えてしまった。最底辺の部署とは言え中央区付きだ。数年我慢して結果を残せば、十分昇進は狙えていた筈なのにな」

エアリアスは彼の様になりたかった。無理だと知っていても、愛を告げる勇気すらないまま、ただ願った。祈る様に。一度は工学を志した理論主義者らしからぬ、馬鹿な真似をしたものだ。

「私は、好きな人の子供を産んでみたかった。恋を知るまで考えた事もなかった癖に…二度と目覚めないお母様の安らかな顔を見つめていた時ですら、愚かだと見下していた癖に」
「零人にも言うなって言うつもりか」
「必要ない。言うつもりはなかったんだが、少し実験したんだ。ゼロに呪われた血は受け継がれなかった」
「クリスの血が流れてる。同じヴィーゼンバーグの血だろうが」
「…だからだよ。アダムとイブ…ロードとクリスティーナは、レヴィ=ノヴァとマチルダの保存遺伝子に多少手を加え、優性遺伝要素を可能な限り抑えて作られた。本物の神は奇跡的な確率で生まれた唯一なんだ。コード:シリウスは奇跡を諦め、実現性を重視した」
「不完全じゃないから『贋作』っつー事だろう?」
「そう。過去何度となく試行されたが、キング=ノアのシンフォニアは成功せず。本人も、生後間もなくから何度となく死の誘惑を乗り越えている。奇跡が天文学的数字で続いた結果、生きているに過ぎない」
「…」
「今更恐れを知ったか?ステルシリーに倫理、道徳を求めても無駄だ。人間が作った価値観とは、思考の稼働を狭義に抑えつける枷でしかない。日本では特に、正月、受験、色んな場面で神仏に祈るだろう?追い詰められている時なら恐らく、何でもするから助けてくれ」

今この瞬間、エアリアスも、きっと嶺一も。神に祈ろうとしている。口には出さないだけだ。

「けれどステルシリーは祈らない。助けを求めない。神は男爵を指し、神を救うのは自らでなければならないからだ。彼らは人の世界から淘汰された影の存在。人に見放された彼らは人を救わない。人が作った神を信じない。望むのであれば祈らず、何をしてでも実現する。求めるのは結果だけ」
「…」
「私には心地好い国だったが、クリスには地獄だったろう。けれど人の世界を知らないあの子に、地上の光と闇は余りにも強過ぎる。…まるで毒の様に」
「嫉妬だけじゃねぇだろ。お前は最初っから最後まで、クリスの無事しか考えちゃいねぇ」
「綺麗事で慰めているつもりか?似合わない真似をする、だから貴様は愚かだと言うんだよ、レイ。やはりお前は神にはなれない、ナザレのヨサフだ」

俯いた男の旋毛が見える。
その優しい性格が鼻についた事があるが、あれは嫉妬に他ならない。自分には出来なかった愛の告白を、嶺一は臆面なくクリスティーナに捧げた。振られたらどうしようなどと、彼は考えなかったのだろう。

「泣いているのか?」
「…ざけんな。お前なんかの為に泣いて堪るか、ずずっ」
「童貞が強がるな、みっともない」
「処女が図に乗るな、生まれ変わっても独身の呪いを掛けてやる」
「ああ、そうだ。私の死因は美人薄命で頼む」
「どうせ死ぬならクリスに殴られてから死ね。くそ、思い出すだに怒りしかねぇ。俺の戸籍を糞女なんぞで汚しちまった…!」
「男が小さい事でグズグズ言うな。おみゃあみたいなヘタレ男が、この私を妻に据えられた事を末代まで感謝しろ」
「この手で首絞めたい」

女に手を上げる性格ではない癖に、また憎まれ口を叩く嶺一に笑った。
自分達の恋愛を引き裂かれ、恋敵に脅されて女装する羽目になっても彼は、涙を流してくれている。呆れるほどに甘い。呆れ果てて笑ってしまうくらいに優しい。

「言っておくが、お前があの時もう少し利口な逃亡手段を講じていれば、特別機動部が出動する事もなかった。特別機動部に拿捕されていればノアの面前で罪状を認めなければならない。…円卓がクリスに一定の自由を与えていた事が、そもそも有り得ない事だったんだ」
「…判ってる。俺はお前に命を救われた」
「あの時、本心では殺してやりたかったよ。…クリスが愛した男を殺して、彼女の憎悪を浴びながら生きる…それも良いと思った」
「一発撃たれたぐらいじゃ死なねぇってんだ。アビスだか何だか知らねぇが、こっちは落としてくれて構わなかったんだ。這い上がって奪いに行った」

禁忌の林檎は赤い。重力の存在を解明しても人間は、飛ぶ事を諦めなかった。
柘榴は苦手だと言ったお姫様は、新鮮な林檎は大好きだった。チェリーも好きだった。すぐ枯れてしまうのに、薔薇の花を欲しがった。
優しい兄が去り寂しかった生活の中で彼女の目には、嶺一が王子様の様に映った事だろう。こんなに優しい男は滅多に居ない。

「私を母親にしてくれて有難う」
「おま、ふざけんな…!全然今日じゃねぇからな、テメェが死ぬのは!もっと苦しんで、く…苦しんでから…っ」
「今のはお前にではなく、海の向こうのクリスに言った言葉だったんだがな。まさかお前が泣くとは」
「…クソが!」

この呪われた体から生まれたとは思えないくらい利発で優しい零人は、嶺一と同じ様に愛情深い男性へと成長していくのだろう。その過程を見られない事は未練になるだろうが、結果は見なくても判っている。結果しか必要としないステルシリーの元社員がそんな台詞を宣えば、正気を疑われるだろうか?

「口が裂けても私の死がゼロを産んだ所為なんて言うんじゃないぞ。万一ゼロに知られる様な事があれば、天国から駆けつけて貴様を童貞のまま殺す」
「天国に行けるつもりか、図々しい」

涙か汗か、化粧が剥げて醜い顔をした男の鮮やかな髪の色が、強く目に焼きついた。
大切に育てられたのだろう。底抜けにお人好しで愛情深く、そしてとことん馬鹿な男だった。下らない嫉妬で人生を狂わされたと言うのに、殺したいほど憎い女の命を惜しんでくれている。

「死ぬまでにどれほどの痛みに襲われるものか、今から胸が躍っている。マリー=アントワネットは一瞬で首を落とされたが、私にはあんな楽な死に方は似合わないだろう?」
「自分で言ってりゃ世話ねぇな」
「後悔らしい後悔と言えば、入院している可憐の見舞い中に倒れてしまった事か。…心臓を悪くしている彼女を驚かせてしまったな。久し振りにあんな大きな声を聞いた」

未練と後悔は別物だと知った。
コード:テレジア、親愛なるマリア=アシュレイ。エアリアスを自分に良く似ていると言った彼女は、どうだったのだろうか。

「レイ、私の野望を知っているか。まず男に生まれたかった。遺伝情報を保管されてしまうBYSTANDERに上り詰めるつもりはなかったが、技術班には入りたかった」
「今からでも入ろうと思えば出来るだろ。うちの整備士が困ってたぞ、社長夫人が格納庫に忍び込んではメンテナンスが甘いだの何だの指摘するってな。それが逐一合ってるから文句も言えねぇって」
「Yes、アイアム16歳で入った理系最高峰の大学を2年で卒業した天才技術者デース」
「テメェと話してると頭痛くなる。…こんな時まで馬鹿ばっか言いやがって」
「…くっく。ステルスは結果しか求めない」
「何笑ってんだ、痛むのか?」

後悔は数え切れない筈なのに、麻酔がまだ効いているのだろうか。やはり焦りも、姿なき地上の神に祈る言葉も、今は少しも見つからない。


「…本当に、良い人生だった」

全身を鈍い痛みが包み込んでいるのに、とんだ笑い話だ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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