帝王院高等学校
輝ける名を持つ者のカルマ
『哀れな。
 哀れな。
 なんと哀れで悲しい、宵の宮。

 世界の全てが信じられない、寂しい宵の宮。

 お前の愛は本物か?
 お前に与えられた愛は本物か?
 誰がそれを証明する?
 お前の疑心は廻り続けるばかり、もう純粋な愛は歌えない。

 金や。
 黄金や。
 黄昏色の空の果て。
 紅蓮の紅葉も敢えなく闇に沈む。

 哀れな。
 哀れな。
 哀れな宵の宮。
 秋を司る豊穣の皇。

 お前の悲しみを知るのは明の宮だけ。お前の孤独を読み取れるのは明の宮だけ。
 その悲しみを知った明の宮さえも、お前が遠ざけるその時は、恐ろしい孤独は永劫のものになるだろう。
 明けない冬が来るだろう。
 涙も凍てつく永劫の絶望がお前を待つだろう。

 哀れな宵の宮。
 黒く塗り潰された灰色の社で少陰白虎の家紋がお前を睨んでいる。金色の秋。永遠の空き。お前の心は空っぽだ。一つの光も存在しない、宵闇の空蝉。

 金や。
 鈍色の黄金や。
 黄昏に染まる逢魔が時に、人を食らう鬼が現れる。
 お前は遂に呑み込まれたのか。

 哀れな蝉。
 孤独な蝉。
 空の名を許された悲しい宵の宮。
 神に等しい力を与えられた宵の宮。
 力と引き換えにお前は、何を失ってしまったのか。

 お前の声が奏でるのは愛ではなかった。
 お前が信じられるのは、決して届かない天だけだった。


 哀れな。
 哀れな。
 哀れな宵の宮。
 ああ、空っぽな宵の宮。
 永劫満たされない宵の宮。
 迷い込んでしまった宵の宮。
 二度と戻れはしない、孤独な宵の宮。

 命が眠る真夜中に、どれほど喉を枯らして嘆こうとも、生命は等しく眠っている。





 聴く者のないお前の寂しい慟哭は、闇から何を誘うか?』












不良なんて大嫌いだ。

「喧嘩だ!」
「あっちで凄い事になってるってよ!」
「ちょっとそこ退いてよ、邪魔なんだけど!」

例えどんなに人気があろうと。まるでアイドルの様に持て囃されていようと。
誰かが『良く知りもしない癖に』と眉を潜めようが、自分の価値観を人に押しつけるな・だ。良く知りもしない人間の為に良く知りもしない人間に対して、まるで自分の事の様に受け止めようとする人間も好きではない。

「三番街の方だって!」
「ケンゴが居るってホント?!」
「間違いないって!もうSNSに上がってる!」
「十人に囲まれたフェニックスの髪型が変わってるらしいぞ!」

正しい人間が、正しく生きていく為に形成された社会で、己の思うまま傲慢に生きる事の何処に崇拝する要素がある?
明るい空の下ではなく、夜を好む夜光虫の様な生物。誰かの迷惑になろうが自分が楽しければ良いと、改造したバイクで酷い雑音を放ちながら首都高を駆け抜けていく。
正義に燃える警察は、深夜だろうがサイレンを響かせて罪のない誰かの安眠を妨害している。因果だ。尽きない矛盾の証。

「いやーっ!本物?!」
「間違いねぇ!あんな派手な奴らを率いてる銀髪なんか、都内の何処にも居ないだろ?!」
「しゃ、写真撮らなきゃ…!」
「おい、近寄りすぎると巻き込まれんぞ!」

世界には等しく矛盾が犇めいていて、大人が作った社会のルールの殆どが子供には適用されず。そんな大人を煙たがっていた子供も、いつか全く同じ大人になる。皆判っているのに誰も注意しない。本当に正しい声はいつだって響かない。

社会が育むのは不用品ばかり。健全な魂など肺に酸素を取り込んだ瞬間に消え失せる。生まれた瞬間から汚れていく。じわじわと。じわじわと。じわじわと。
それでも徐々に蝕まれていく純粋さが煌めいている内に大きな夢を抱いた子供は、荒んだ目をした大人に打たれ、打たれ、打ち殺されて。挫折と絶望の果てに諦めを覚えた荒んだ目で、新たな子供達を迎え入れるのだろう。

そう、いつかの自分と同じ目に遭わせる為に。



「生涯に於ける掛け替えのない時間を、ほんの一時お借りする無礼。どうか寛容にお許し下さい」

その男は異様だった。叫んでいる訳でもなければ歌っている訳でもないのに、誰もが打ち合わせた様に彼を見つめている。

「これより我が楽団のコンサートはライブスタイルへ移り変わります」

上空にはぽっかりと掛けた半月。
星より明るい東京のネオンで濁った夜空は純粋な黒ではなく、深夜には随分早い時間なのに酔っぱらいが真ん中を歩いているメインストリート。主役は酔っ払ったサラリーマンでも、ましてや楽しい事に群がる夜光虫の様な人間達でもない。

「…テンポはデスメタル、再び雲が月を覆い隠す前にお聞き届け下さい」

まるで歌う様に。踊る様に。その体だけで奏でる様に。彼らは夜の街を駆け抜ける。
悲鳴の様な女性の声を他人事の様に聞いていた。山奥とは違い一日中騒がしい街の中で、誰の目で見ても明らかに不良と呼べるだろう集団の中央。ライブと言うよりオーケストラの様に、彼は腕を広げたのだ。

「仮初のタイトルは、【月の褥に抱かれ逝く魂】」

オーケストラで唯一、楽器を持たない存在を知っている。鮮やかに踊る生きる楽器を、人形師の様に操る存在を知っている。
凶暴な狼の群れを率いるその男だけが、きっと誰の目にも異質な存在に映ったのだろう。そうでなければ、夜を賑わせる不良などに目を奪われる筈がない。
彼らは社会が生んだ不用品だ。虫けら同然の存在だ。ああ、そうだ。虫なのだ。ほんの一時鳴いてはすぐに死んでしまう、何の為に生まれてきたのか判らない、脆弱な虫けら。



「月へ祈り、己が過ちを悔いるがイイ」


夏が過ぎれば死に絶える、哀れな蝉の様に。












『哀れな宵の宮』
『一人ぼっちの宵の宮』
『寂しいお前は賑やかな世界から隠れたがる』

『人を信じられない』
『己を信じられない』
『膝を抱えて眠る』
『一人の夜に怯えたお前の眠りは浅い』
『光から逃げたがるお前は誰よりも』
『光り輝く場所を求める蝉』

『お前が負った灰色の業は竹林に潜む猛虎の如く』
『お前の体を世界から覆い隠すのだろう』

『お前は寂しい虎』
『狗にはなれない蝉』
『陽の系譜でありながら』
『お前の心には常に木枯らしが吹き荒んでいる』

『豊穣の秋を司る神の系譜』
『白き虎を掲げる宵の宮』

『金や金や』
『あまねく降り注げ、金色の光の如き天神の威光よ』
『灰原の舞いが神に捧げられたぞ』
『天神は益々光り輝くだろう』
『灰原の負った陽が霞む代わりに』

『ああ、孤独な蝉』
『太陰の声が聞こえるか』
『お前の対を為す陰の系譜』
『眩い闇の系譜』
『灰原の為に生きては死んでいく白虎の陰』
『知略の将』
『老いた女』
『太陰は白虎の妻』

『十口は灰原の為に死んでいく』
『非力な虎の為だけに死んでいく』
『天神の威光は増すばかり』



『空を名乗る気高い虎に』





『名を持たない負の系譜は、恋焦がれたのか?』












嫌な予感がする時はいつも、首の後ろ側がチクチクと痛む。
例えばそれは後ろ髪を引かれる、と言う表現に近い様な気がするのだ。

「…は、初めまして」
「何を言ってるんですか、貴方。昨日も会ったじゃない」
「あ、そうだ、間違えてしまった」

皺はあるものの端正な顔立ちに優しい目元。
優しげに見える最たる理由は下がり気味の眉だと思われたが、微笑むと益々垂れ下がる。小学校入学前の子供が使う表現であるかは甚だ疑問だが、凄まじい既視感だ。即ちデジャブ。
鏡に映った自分の眉毛に似ている様な気がするけれど、大人達の沈黙に耐えられず逃げてきた自分に確かめる事は出来ない。などと、山田太陽5歳は訳知り顔で息を吐いた。大気に白く溶けた息は、立派な料亭の縁側から庭に飛び出した弟の背中には、流石に届かない。
店の玄関で靴を脱いでいる太陽には、真冬の中庭に靴下で降りる勇気はなかった。寒さが嫌いなタチではないものの、タンクトップで跳ね回る様な子供でもない。中庭に降りる為に置かれていたのだろうサンダルは一足だけで、弟の夕陽が履いている。

「ヤス、いつまで拗ねてるんだい?上がっておいで」
「僕は拗ねてないよっ」
「拗ねてるじゃん」
「拗ねてないっ」

ムスリとした表情を隠さない双子の片割れの気持ちが判らない訳ではない。
幼い頃は一回り小さかった夕陽は、二次成長期に差し掛かるとどんどん背が伸びていき、公立の小学校に通う事が決まっている太陽とは違って小学校入学で受験を経験していた。
5歳の年始と言えば夕陽の受験を控えていて、正月の賑わいを逆手に取った母親が、父方の祖父母に息子達を会わせようとした時期だ。いつまで経っても己の両親に会わせようとしない旦那に、焦れたのだろう。孫の小学校入学を伝えたかったのかも知れない。

「二人共優しいじゃん、お母さんより」
「お母さんと比べたら誰だってマシに見えるよっ」
「あはは、ひっど」

いずれにせよ陽子は滅多に帰って来ない旦那に見切りをつけて、同居している父親に話を持ち掛けた。
間もなく他県に住んでいる義両親と電話連絡する仲になった陽子は、山田大空の意識が仕事に向いている内にさっさと用意を始めたのである。多忙を極める年末だったのが功を奏したのだろう。小学校の手続きをする合間合間に大空には話を持ち掛けていた様だが、のらりくらりと躱した大空は、仕事を理由に帰宅頻度が落ちていた。逃げているんだろうと太陽ですら考えるくらいだから、妻が気づかない訳がない。

「でもさ、今日のお母さんはおめかししてて大人しいじゃん」
「ふん、念入りにメイクしてたからでしょ?喋ったら落ちちゃって、ブスがバレる!」
「ブスって、お母さんは女の子だよ?そうゆーコトは言ったらダメでしょ?」
「…ごめんなさい」
「実は俺も緊張してるんだよねー。だってさー、うちのじーちゃんと違うんだもん」
「違うって?」
「ちょいとかっこいいじゃん」
「何処が!」

初めて見るもう一人の祖父と、初めての祖母と言う存在は何処か他人の様で、母方の祖父とはまるで違う雰囲気にもしかしたら圧倒されていた覚えがある。全て太陽に限った話だ。
朝からむくれていた夕陽は一言も喋らないまま、陽子に叩かれてもフンっとそっぽ向いていた。自分を曲げない主義は幼い頃から一貫している。

「兄さんの方がかっこいいよ!」
「ありがとー。でもそれは言い過ぎだって」
「何で兄さんは平気なの?!」
「何でって言われてもなー」
「身内に会社を乗っ取られて息子に罷免される様なおっさんが、今更僕らに何の用があるんだよ!」
「コラ、言っていい事と悪い事があるよ」
「でもっ」
「お前さんは喘息があるんだから、大きな声出したら発作が出ちゃうよ?」

誰かに強いられた訳ではなかったが、いつの頃からか太陽は自分を偽る様になった。生まれてから暫く病気に悩まされていた夕陽が、成長すると共にその聡明さの頭角を現す様になったからだろうか。
夕陽が西園寺学園を受験すると決まった頃から、父親が会社関係の行事に夕陽を連れて行く様になった。初めからそうだった訳じゃない。来るかい?と必ず尋ねてくれる大空に、太陽が「行かない」と答えたからだ。そして夕陽は「行く」と頷いた。たったそれだけの事だ。

「…もう喘息は治ったよ。だから今日だってお出掛けしてるじゃない」
「発作の数が減っただけだろ。寒いと出やすいんだから、俺にひっついてないでさ、暖かい部屋に戻ろ?」
「他人とご飯なんか食べたくない。兄さんと家で留守番してた方が良かった。雪だるま作ろって約束したのに!」
「ドラマに出てきそうな料亭の個室だよ?雪だるまより絶対上じゃん」
「僕は雪だるまが良い」
「俺と料亭でご飯食べるより?」
「どうして意地悪言うの?!兄さんが一番に決まってるじゃん!」
「ゲフ」

大空が太陽を軽視している訳ではないが、社長の息子が双子だと知っている人間は不思議に感じるだろう。例えば「表舞台に出てこない長男は出来が悪い」などと噂されても、拒絶を選んだ太陽に否定する権利はない。

「ほんと大きくなったよねー。急に飛びつかれると苦しいよー?」
「うう、兄さんの猫かぶり…!何だよさっきの『じーちゃん』って!」
「そう呼んでくれって言われたからさー。だって俺らのお祖父さんだし」
「僕の前だけ『俺』って言う癖に、大人の前だけ馬鹿な振りしちゃってさ!本当の兄さんは賢いのに!」
「はいはい、今日のお前さんはしつこいなー。すっぽん食べたからかなー」
「僕が食べたのは茶碗蒸しだけだよ!」
「おいしかったねー、あれ。湯葉も好き」
「うん、僕も湯葉好き」

元旦に顔を合わせたばかりの榛原夫妻は、別れた後で何処かのホテルで宿泊したらしい。朝早くから誰かと電話していた陽子に用意しろと促され、積もった雪で遊ぼうと思っていた太陽の思惑は掻き消えた。

「お前さんは父さんから何か聞いてるのかい?」
「何かって何?」
「榛原のコト」
「…僕より兄さんの方が詳しいでしょ」

榛原夫妻と食事をする事になっていて、陽子と共に榛原優大が予約した料亭に立ち寄った。余り饒舌なタイプではないらしい優大と、控えめに微笑んでいるだけの美空は子供の目で見ても似合いの夫婦だ。流石の陽子も、夫の両親の前では緊張するらしく明らかに口数が少ない。
正月三が日も休みなく働いている村井和彰は途中で合流する事になっている様だが、小一時間前に陽子の携帯が鳴り、予定より少し遅れるとの事だ。榛原夫妻の話では、和彰とは太陽達が生まれる前から交流があると言う。大人達の前では「年相応の子供」を装っている太陽が根掘り葉掘り聞き出すのは不可能に近いので、この数時間で陽子と優大の会話を盗み聞きして知った事だ。

「昔からちょこちょこ聞いてるけど、俺が知ってるのはあくまで宵の宮の事であって、お祖父さん達の事は知らないんだよねー。大体さー、声の力だとか催眠がどうだとか言われても、ピンと来ないってゆーか。俺にそんな力ないよ」
「あったんだよ!」
「それいつも言ってるけどさー、お前さんは弟だから勘違いしてるんじゃない?もし俺にそんな力があって、いつからか急になくなったって言うんだったら、父さんも母さんもじーちゃんも大騒ぎしてる筈だろ?」
「…それは」
「じーちゃん達が知り合いだったのは判ったけど、あんな緊張してる母さん初めて見たよ。俺が空気読まずに騒いだって水を差すだけだから、賢いお前さんが皆の仲を取り持ってくれた方がいいと思ったんだ」

だから太陽は食事もそこそこに、退屈だから冒険してくると宣って個室を出た。かと言ってファミレスではあるまいに子供が騒げる場所などないに等しく、解放されている小さな中庭で何の興味もない枯山水を眺めている。

「僕は兄さん以外どうでもいい」
「そう言う訳にはいかないだろ。お前さんは父さんの、」
「跡継ぎならアキちゃんが居るじゃんか!アキちゃんが嫌って言うなら僕が継ぐけど、そうじゃないならっ」
「あはは。俺は公務員とかでいいんだよー。お前さんみたいに賢くないし」
「兄さんは賢くてかっこいいよっ」
「節穴だねー」

太陽にくっついてきた夕陽はジャンパーとマフラーで着膨れしているものの、太陽の背中に張りついて離れる気配がない。暑苦しいと言ったら拗ねて、サンダルを取られてしまった。
1・2年前までは間違いなく太陽の方が大きかった筈なのに、6歳の誕生日を控えている今は目線の高さはほぼ同じだった。数こそそれほど多くはないが、山田大空の後継者として大人社会に揉まれる様になってからは、更に大人びたのではないだろうか。これではどちらが兄か判らない。

「…ヤスはさ、段々父さんにそっくりになってるじゃんか。俺らが一卵性双生児だってきっと誰も思わないよ」
「一卵性双生児がそっくりじゃないといけないって、誰が決めたの」
「屁理屈」
「アキちゃんが大人の前で子供っぽく振る舞うのは、大人が勝手に作った物差しで子供らしさを押しつけてくるからでしょ?」
「小難しいこと言うねー。お前さん、頭いいなー」
「母さんだって、父さんに隠れて何考えてんだか。父さんの会社で働いてるお祖父ちゃんが、急に仕事を抜け出すなんて無理に決まってるじゃん」
「じーちゃんは営業だから大丈夫だって、電話で言ってたじゃん」
「僕達があの人達に会う意味ある?父さんも僕らも山田だもん。あの二人は他人じゃん」
「やめな。ヤスは家族を大事にしない子なのかい?もしそうだったら、俺のコトも要らないよねー」
「どうして意地悪言うんだよっ、兄さんは他人じゃないもん!」
「一緒に暮らしてるじーちゃんと同じ、あの人も俺達のじーちゃんだよ。家が違うだけで他人になるのかい?」
「う」
「あっちのじーちゃんが榛原で、こっちのじーちゃんが村井で、俺達は山田。名前が違うコトが他人の証拠だって言うんだったら、和彰じーちゃんも他人だよね?」
「うう」
「お前さんがそんなコト言ってたって知ったら、じーちゃん泣いちゃうだろうなー。あーあ、じーちゃん昨日お年玉くれたのに」
「500円じゃん」
「話す事がないんだったら、ニコニコしてたらいいんだよ。ほら、ニッコニコ〜ってさ」

寒いからか頬を赤く染めた夕陽は、レーザービームの勢いで抱きついてきた。グフっと呻きつつ、夕陽がぐりぐりと押しつけてくる頬擦りなのか頭突きなのか判らない頭を撫でてやる。
夏場は泥団子、冬場は雪玉を丸めたがる太陽の性格を熟知している陽子から、二人はお揃いの手袋をつけさせられているので、正確に言えばモコモコした布地でぽふっと叩いただけだ。

「憎まれ役を買って出るのは勿体ないよ。自分の価値だけじゃなく、父さんや母さんの株も下げる事になる」
「…判った。兄さんが言うんだったら、ニコニコする」
「そうそう、お前さん可愛いんだから愛想良くしてな」
「アキちゃんの方が可愛いよ!」
「そっかー、ありがとねー」
「太陽!夕陽!」

聞き慣れた声に振り返れば、頭に雪を乗せた村井和彰の姿があった。笑うのを耐えているかの様な仲居に連れられて、予約していた部屋に案内して貰っている所だろう。

「遅いよじーちゃん、ご飯もう冷めちゃったよー」
「社会人が時間を守らないなんて、反省文じゃ済まないよ」
「くそぉ、6歳を迎える孫の正論に言い負かされる還暦前の気持ちをもっと考えろ。仲居さんが笑ってるだろ…」
「お鍋のご用意がありますので、お食事と一緒にお持ちしても宜しいでしょうか?」
「あ、はい。すいませんがお願いします。部屋まではこの子達に案内して貰うので…」

若干恥をかいた和彰は孫に負けないほど頬を赤らめつつ、手に持っていたビニール袋を一つずつ手渡してきた。色とりどりのパッケージが詰められているので、また企画段階の商品か、棚卸処分品だろう。

「こう言うお店の料理は子供の口には合わんだろう。お前達はそれを食べてなさい」
「ありがとー、流石じーちゃん。判ってるよねー」
「僕らにタダ同然のお菓子を食べさせて、自分達は蟹鍋を堪能するんだよ。アキちゃん、僕おしっこ行きたい」
「太陽、何でお前の片割れはこんなにひねくれてしまったんだ?」
「んー、父さんに似たからかなー」
「それじゃあ仕方ないか。ちょっと前まで片腕で抱けるサイズだったのに、時の流れたぁ残酷なもんだ…」

昔は孫を揃って抱くのが和彰の楽しみだったが、態度と同時にぐんぐん大きくなった夕陽でも、最近では抱き上げるのに苦労している。年齢が年齢だけに無理もないだろう。

「じーちゃん、ホイミする?」
「する。孫から受けた傷は孫にしか癒せないからなっ。おいで太陽、抱っこ攻撃だ!」
「あはは」

ひょいっと太陽を抱き上げた和彰は太陽から回復魔法を唱えられると、すぐに下ろした。すたすたとトイレへ歩いていく夕陽の後を追うらしい。

「あ、お母さんがあんまりがっつくなって言ってたよー。食べさせてないみたいで恥ずかしいからってさー」
「見栄を張ってどうする。中々来れる店じゃないんだぞ、腹一杯食っておかないと。じーちゃんが許す」
「昨日も今日もお外ご飯だから、おせちいっぱい余ってるんだってー」
「4月からずっとおせちの試食させられてたから、黒豆はもう見たくないなぁ…。おにぎりの試食だったら小林君に丸投げすれば良いけど、おせちの料理が美味しいのは大抵一口目だけなんだ。スイーツの試食も、楽しいのは最初の5分だぞ」
「大人って大変だねー」
「大人って言うか、企画が大変だなぁ。洋服とか小物のチェックも難しいと言えば難しいんだよ、じーちゃん流行とか判んないし」
「妻からは浮気されて逃げられるし」
「そうそう…って、じーちゃんに死の呪文を唱えたのはこの口か!いつからザラキーマが使える様になったんだ、この性悪孫め!」
「あはははははは」

こちょこちょと祖父から脇腹を擽られて笑い転げた太陽の声が思いのほか響いた為、トイレから程近い部屋の障子がシュッと開く。般若の顔で出てきた陽子の後ろから同じく顔を覗かせた優大が、ビクッと動きを止めた和彰と太陽を認めて、笑顔を見せた。

「待ってたよ、カズ君。忙しい時に無理を言って済まないね」
「いやぁ、仕事自体はそうでもなかったんですがね。三が日が明けたら節分・バレンタイン・雛祭りに卒業入学のラッシュが待ってるんで、その前に新年会をやるって言い出しまして」
「へぇ、大空が?」
「いや、年末の忙殺で人相が変わったうちの常務が言い出したんですよ。飲まずにやってられるか!ってね」
「はは、勇ましいね。道理でほっぺが赤いと思ったら、一杯付き合わされたかい?」
「とっとと逃げてきましたよ、試作品をつまみに飲むのも良いけど今日の俺は蟹が待ってるから」
「ちょっと父さん、恥ずかしい事言ってないで中に入ってくれる?開けっ放しにしてたら冷気が入るんだわ」
「判った判った、年寄りを力任せに引っ張るんじゃない。何なんだお前の腕力は、俺を殺す気か」
「誤解産む様な冗談言うんじゃないんだわ!お義父さんとお義母さんが鵜呑みにしちゃったらどうすんの!」

ぐいぐいと父親を引っ張っていく陽子は和彰の脛を蹴っている。部屋の中で座っている榛原美空には見えていないだろうが、廊下で立っている優大には一部始終見えている筈だ。
苦笑いを浮かべた口元に拳を当てた優大と目が合った太陽は、へらっと笑みを浮かべる。和彰より背が高いもう一人の祖父は、セーターを着ていてもスラっとした体躯が判る。自分はどっちに似たのか、月末に6歳の誕生日を迎える太陽には判断がつかない。どうも夕陽の骨格に似ている様な気がしなくもないが、だとすれば太陽は中肉中背の和彰側なのか。

「夕陽君はトイレかな?」
「じーちゃん、呼び捨てでいいよー。ほんとは呼び捨ては駄目なコトなんだけど、アキちゃんはおデコが広い男だからー」
「おでこ?」
「お父さんが言ってた。じーちゃんはフトコロが広くて、アキちゃんはおデコが広いから、いい男なんだよ」
「そうだな、懐が広い男は出世するんだよ」
「でもじーちゃんはうだつが上がらないサラリーマンだよ?」

部屋の中から「また死の呪文か」と言う声が聞こえてきたが、トイレから出てきた夕陽がピタッと背中に張りついてきたので、太陽は位置を入れ替える様に夕陽の背後へ回る。

「じーちゃん、ヤス抱っこしてくれる?」
「えっ?アキちゃん、急に何言ってんの?!」
「さっきアキちゃんだけ抱っこして貰ったじゃん。ヤスも抱っこして貰いたかったでしょ?」

にこっと弟の前で微笑んだ太陽に、パチパチと瞬いた夕陽はすぐさま首を振ったが、太陽は「照れてるー」とほざいた。何処か目を輝かせている優大が腕を広げたり下ろしたりしているので、先程の陽子とは真逆にぐいぐいと夕陽を押した太陽は、そっと夕陽の耳元へ唇を寄せる。

「…兄ちゃんのお願い、聞いてくんないのかい?」

兄のお願いを聞かない山田夕陽はこの世の何処にも存在しなかった。
果たして後に西園寺学園の女王様扱いを受ける事になる5歳児は、彼史上三本指に入るだろうしょっぱい顔で父方の祖父に抱かれる羽目になったが、抱いている方はこの上なく幸せそうな表情だったと記しておく。

「ばーちゃん、ヤスだけ抱っこずるい。アキちゃんも抱っこしてー」
「まぁ、太陽ちゃんは甘えん坊さんね。お祖母ちゃんの腕で持ち上がるかしら?」
「ちょ、やめなさい太陽!抱っこなら私がしてあげるんだわ!」
「お母さんのおっぱい邪魔なんだもん、ばーちゃんの方がいい」
「何ですって?!」

丁度良いサイズの美空の胸に飛び込んだ太陽は、蟹鍋が湯気を発てるまで祖母の膝の上に座り続けた。向かいに座る母親の顔に「許さん」と書いてあったからだ。
然し大好物の蟹が良い匂いをくゆらし始めた頃には、怒りをすっかり忘れていた。この単純さは誰に似たのだろうかと母親を横目にお菓子を齧った太陽は、あっと言う間に気を許したらしい片割れを見やる。

「お祖父ちゃん、僕のお皿に蟹とお豆腐とお葱取って」
「うん、良いよ。他に食べたいものがあったら、何でも注文するんだよ」
「アキちゃんはお鍋よりお蕎麦派だから、特上天ざる蕎麦と湯葉…」
「夕陽!アンタは黙ってなさい!」
「まぁまぁ、お正月は無礼講ですよ陽子さん」

夕陽の単純さは母親似だろうと思われた。
然しながら本日一番騒がしいのは、誰の目で見ても確実に山田陽子だ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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