帝王院高等学校
王子様と王子様の大渋滞中です!
お前の所為で死んでしまったのだと繰り返された日々は、今はもう遠い。
お前を産まなければ死なずに済んだのに・と。遺影の中で微笑む母親が、いつからか責めている様な気がした。

「…あてを恨んではるんどす?」

けれど貴方は何も答えない。
傍らに寄り添う様な、写真の中の少女さえも。

どんなに望んでも死んだ人間と会話する事は出来ない。
どんなに惨めでも、他人の命を引き換えに産まれてしまった自分に許されているのは、彼女らの代わりに生き続ける事だけ。

「産んでくれなんて言ってないのに」

だからこれは、ただの逆恨みなのだろう。














「また八つ当たり同然で殴られたんですか」

いつもの様に笑いながらやってきた男は、人の不幸が楽しくて堪らないと顔に書いていた。

「こんなちっぽけな餓鬼を殴って喜ぶなんて、相変わらず小さい男です。でも仕方ないでしょう、諦めなさい。あんな小さい男がお前の父親なんですから」
「…ぅ」
「現実は容赦がないものです。幾ら肉親の優しさを望んでも、親を取り替える事は出来ない」
「煩いっ」
「広東語も日本語も満足に話せないお前には、此処から逃げ出した所で生きる術がない。お前は本当に可哀想ですねぇ、青蘭。同情の余り涙が出そうですよ、笑ってしまうくらい惨めな子供。ふふ」

そんな事は知っている。わざわざ言われるまでもない。
父親から命じられるままに素直に従っても褒められる事など一度もなかった。失敗すれば蹴られ殴られ、泣けば煩いとまた暴力を振るわれるだけだ。必死で唇を噛み締めて、怒りが過ぎるのを待つしかない。

「楼月はお前を殺せない。お前の母親の一件で社長に睨まれていますからねぇ、ただでさえ機嫌が宜しくない今の大河社長の癇に障る真似はしないでしょう。…但し、自分の手では」

大人が居ない、子供だけの世界。そんな夢物語を一緒に叶えようと約束してくれた子供が居た。
たった一つしかない自分の特技を、特技ですらなかったと思い知った日に、他人の才能を妬んだりしたからだろうか。音に色の洪水を乗せて奏でる事が出来た本物の天才が、目の前で真っ赤に染まる光景を見たのだ。

「お前は世界中から呪われている」
「ぁ」
「ゼウスの楽器とまで称された高野健吾は、こんな無様な子供を庇ってその恵まれた栄光を失ったんです」
「あ、ぁ」
「美月が日本へ行ってしまった今、お前を守ってくれるのは美麗様だけ」

罰を受けなければならない事など知っている。
蹴られようが殴られようが耐えられる。あの時の真っ赤に染まった景色を忘れない限り、自分が自分を許しはしない。

「その美麗様も、最近出来た新しい恋人に夢中で香港への足が遠のいてしまった。朱花様が亡くなって、大河は過去になく不安定な状態です。お前を友人の様に扱ってくれていた朱雀も、先月アメリカに送られたそうです」
「…僕、は」
「楼月から命令されたんですよねぇ。自分の手が汚せないのだから、想定内ではあるんですが」

悪魔が笑っている。他人の不幸が楽しくて仕方ないとばかりに。


「さぁ、どうしましょうか?」

咲き綻ぶ胡蝶蘭より艶やかに、嗤っている。



























『Don't be afraid.(大丈夫)』
『うぇ、うぇぇぇん』
『貴方が眠りに就くまで、私が傍に居ますよ』
『ひっく』
『お休みなさいアレクサンドリア。貴方を傷つけるものは何もないのですよ』

夜だ。決まって静かな夜だった。

『Don't be afraid.』

子守唄などなくても平気だった。
抱き締めて貰えなくてもきっと、安心していた。

『Don't be afraid, my sweetie.(大丈夫よ、私の愛しい子)』

その声さえあれば大丈夫だと、訳も判らず信じきっていたいつか。





「初めまして、アレクサンドル」

あれは何処だったか。
覚えている筈なのに思い出せないくらい昔、自分は確かに彼の声を聞いた事がある。

「初対面が瀕死状態とは思わなかったけどねぇ」
「昔と変わらず判り難い息子だ。怒っているのかな?」
「嫌やわぁ、あての夫がそない狭量な男に見えはるんどす?」

いつだったか。何処だったか。
動かす事も出来ない小さな手を、誰かの大きな手が握り締めてくる。

「髪色は僕と同じ」
「目ぇは似てはらんどすなぁ。あーさんはこの子より鮮やかで、濃い蒼どす」

キラキラと何かが煌めいて、青い何かが笑った。

「アレクサンドルの瞳の色は…母さんに似たんだ」
「可笑しい事言わはるえ。公爵の瞳は真っ青どすやろ?」
「セシルの瞳はね、近くから覗き込むと緑に見えるんだよ。虹彩の部分が黄色いんだ」

手を握られたまま額を撫でられる。その二つの手は、別々の誰かのものの様だった。

「それにしても驚いたなぁ。顔も知らない妹のアレクサンドリアが死んだと聞かされたばかりなのに、今度は弟ねぇ?」
「マチルダにも驚くなんて人間らしい感情があったのか」
「死に掛かっている幼児をセスナで連れ回すなんて、相変わらず卑劣な真似をする人だ」
「あての夫をマチルダ呼ぶんはやめとくれやす。日本には年功序列ゆう戒めがありますけど、手元が狂うて殺してもうたら大事どすえ?」
「OK、老いては息子の嫁に従えと言う事だね。了解したよプリンセス」

女性の声が笑っている。
ぱちぱちと何かが音を発てていて、幼い声が「王手」と言った。

「お母さん、大和撫子は人様を脅さないものです」
「おや?アンタ、勝たはったん?」
「お母さんが『殺す』と言ったから、お祖父さんは飛車と桂馬を間違えて打ってしまいました。待ったは2回までと決めています。今のお祖父さんのミスは、三回目です」
「ははっ!冬臣は強いねぇ、僕が一度も勝てないお義父さんに勝ってしまうなんて!」
「…黙れアレックス、品のない馬鹿笑いはやめろと言っているだろう」

あの場には一体、何人の大人が居たんだろう。覚えている筈なのに思い出せない事は、歯痒さを残す。

「日本語で会話されると疎外感を感じるよ。チェスなら付き合えるんだけどね、ジョーギは何度ルールを聞いても全然判らない。駒に漢字が書いてあるからいけないんだ」
「冬臣、その男は何と言った?」

英語と交互に、違う国の言葉が聞こえてくる。女性の声は一人だけの様だった。

「チェスだったら勝負したいと言ってます。将棋はルールが覚えられないと」
「ふん。私が負けるのは宵の宮様と冬臣だけだ」
「お父さんはいつも6枚落ちですよ。お祖父さん、そろそろお父さんと仲良くして下さい」
「誰が誰と仲良くしろだと?」
「叶不忠が叶アレックスとです」
「冬臣は優しい子だねぇ、僕に似て」
「冗談はやめとくれやす。冬臣があーさんに似てはるんは、顔だけどすえ?」
「それと、守矢叔父さんとも仲良くして下さい。叔父さんはずっと怒ってる」

賑やかな何処か。香ばしい香りが漂っていて、風と水がせせらぐ音が絶えず世界を包んでいる。

「幼児に論破される龍神も乙どすなぁ。守矢の事に関しては、あても冬臣に賛成どす」
「…私を殺そうとしたんだぞ。不出来な息子に跨がせる敷居などない」
「自業自得どす。普段から信用を築いてたら、あんな馬鹿げた勘違いしはらんえ。血を分けた我が子に疑われるくらいやさけ、お父さんには人望がないんどす」

辛辣な言葉を微笑みながら吐き捨てた女の声には邪気がない。沈黙した男達はどんな表情をしているのだろうか。

「あーさん、お茶にしませんか?」
「僕はミルクだけで良いけど、父さんは砂糖も要るかな。イギリス人にいきなり抹茶を飲ませると、毒と間違えるから」
「うふふ。そないな阿呆、あーさんだけや思いますけど」
「冬臣…お前はおやつを食べなさい。ほら」
「お祖父さん、僕はまだ2歳なので酢昆布は食べられません」
「何?桔梗は2歳で生肉を貪り食っていたが…」
「お母さんは人類に含まれません」
「うふふふ。冬臣、今の悪口はばっちり聞こえとりますえ?それとアンタはまだ1歳や言うてますやろ。鯖読んだらあかん」
「丸1ヶ月意識がなかったからねぇ。宮様が生まれて下さったゴタゴタで、あれやこれや誤魔化せて良かったね」
「マチルダ、私の顔を見つめながら日本語で喋るのはやめてくれないか。君は私を仲間外れにして面白がっているな?」
「That's right.(正解)」

聞こえてきた言葉の意味は辛うじて判る。
けれど、此処にはあの人の気配がない。いつだって、眠る時には優しく歌いながら頭を撫でてくれた、白い手の人が居ない。あの人の声は優しくいつも、『怖くない』と囁いてくれるのだ。

「いやぁ、お義父さんに2回も待ったを使わせて勝つなんて…流石は僕の天使。ご褒美にたまごボーロをあげよう。君はまだ1歳だからね、戸籍上は」
「有難うございます」
「…これで2歳か。我が孫ながら、アレクサンドルより一つ下には見えないねぇ」
「冗談はよしとくれやす。あーさんには、アンタの血ぃなんか流れてませんやろ?」
「流れているよ。戸籍上はね?」
「ちゃらんぽらんでプレイボーイの名無し公爵夫君。20年前から各紙のパパラッチが別居疑惑と離婚間近を報じているけど、今まで一度だって一緒に暮らした試しはないんだよねぇ。犬小屋から拾ってきた子供だけを妻に押しつけて、自分は自由気侭に世界中を点々としてるんだ」
「お前は父親を傷つけて喜ぶ酷い息子だったんだな、知っていたけど」

香ばしい香りが漂ってきた。
何処かでカポンと鹿威しの音がして、吹き込む風の音が鼓膜を揺らす。

「そうだよ、妻の家には私の部屋なんてないんだ。結婚した時に建てた中庭の新居には、たった一度しか入れて貰った事がない。結婚式で皆に祝福されながらしたキスと、新居での初夜で二度目のキスをした次の瞬間には眉間に銃を押しつけられて、『そう言う行為がしたければ外でどうぞ』と来たもんだ」
「そう言う行為と言うのはどう言う行為なんですか?」
「冬臣、律儀に通訳するのはやめなさいね。文脈を読み取ったお義父さんがオロオロしてるから」
「嫌やわぁ、ええ歳しはってウブなおっさんどす。外の女を孕ませたんは、うちかて同じやろ」
「桔梗!お前は冬臣の前で何を言…!ごほっごほっ」

けれど此処には、あの人の気配がない。

「ええ歳して騒ぐから噎せるんどす。冬臣、男女の股と股を繋いだら子供が出来るんどすえ?」
「股と股?」
「桔梗!」
「うぇぇぇん」

ほら。怖い夢を見た時だって、意味もなく泣いてしまった時だって。あの人はすぐに駆け寄ってきて、優しく撫でてくれるのに。
どうして居ないのだろう。いつから居なくなってしまったのだろう。悲しくて寂しくて堪らないのに、宥めてくれる手は、あの人のものとは全く違う。

「アリーが泣いちゃった」
「ほんま余裕がない男。こんなヘタレやさけ、琵琶湖のマーメイドに先立たれるんどす。魚と女盛りは足が早いんどすえ?」
「それは困ったなぁ、今夜は子作りに励まないと。僕の桔梗ちゃんは永遠の18歳だけどねぇ」
「…マチルダ」
「何ですか?」
「お前は自分に疑問を持った事がないか?」
「僕?」
「急に現れた男に父と名乗られて、拒否する権利を与えられないまま屋敷に連れて行かれた日から十数年、ヴィーゼンバーグはお前に自由を与えなかった」

外が暗くなると怖くて堪らない。
ベッドの中で布団に潜っていると、いつも『怖くない』と囁く声がする。優しい女性の声だ。

「不自由だった訳では。寧ろ普通より良い暮らしをさせて貰っていたと思います。…今になってみればですけどねぇ」
「セシルを恨んでいるか」
「お門違いでしょう?恨むなら貴方だ」
「くっ。確かに」
「…大殿に言われたんですよ。この国の住人にして貰う時に、全てを捨てる覚悟はあるかと」
「おーとの?」
「帝王院駿河さん。同世代とは思えないくらい、しっかりした方だ。僕は悩む事なく頷きました」

ああ、早く帰りたい。
彼女の声しか聞こえないあの寂しい部屋の中に、今すぐ帰りたい。

「だから僕は、この子を犠牲にしてでも自由を選びます」
「…そう。私にお前の決断を否定する事は許されないのだろうな」
「申し訳ありませんが、僕の事は諦めて頂けますか。今の帝王院財閥を敵に回す事は得策ではないでしょう?」

そうして優しく。
いつもと同じ様に背中を撫でて貰えれば、恐怖なんてすぐに消えるだろう。

「そうだね。ランクDを拝命した背徳のユダになった今、私が此処に居る事は禁忌に等しい行いだ」
「…今度は何を考えているんですか?自分の立場を考えれば、有り得ない選択でしょうに」
「可笑しな事を言うね。王室から排除され続けた私が、イギリスを呪っているとは思わないのか?」
「貴方が国を呪っているなら、公爵家の娘に人生を捧げる様な真似しないでしょう?」
「セシルを利用して報復したかったとも考えられるんじゃないか?」
「それこそ変な話だ。だったら貴方は、彼女を喜ばせる良き夫を演じるべきだった。間違っても余所の女に子供を作らせる様な真似をしてはいけない」
「本当に、君は賢く育ってくれた。私の想定を遥かに超えているよ」
「褒め言葉ではなさそうですねぇ」
「…ああ。残念だマチルダ、君にはこの国で死んで貰う」
「望む所です」
「二度とセシルの前には現れるな」
「判りました」

かさついた男の手が、汗で張りついた髪を払ってくれた気がする。

「…お前のたった一度の我儘のお陰で私は、彼女の子供を作る事が出来た。お前を拾ってきた価値はあったと言う事だな」
「それについては褒め言葉として受け取りますよ。引き換えに貴方は、ユダの烙印を背負った。冷徹な公爵から首を落とされる覚悟をなさった方が良い」
「それこそ望む所だ」

けれどその優しい手は、あの人のものではなかった。


「私の生涯は欠片も残さず、神の前でエリザベート=セシル=ヴィーゼンバーグに捧げているのだから」

月光を帯びて神秘的に光る銀髪のあの人は、何処へ行ってしまったのだろう。




























「また買収したのね」
「何の話だ?」
「ロンドンは遠からず、EUから離脱するでしょう。でもそれは、貴方が望んでいる事なんでしょう?」
「さぁ、どうだろうな」

口づけは決して許されない。挨拶に親愛を込めて唇を近づけても、彼はいつも迷惑そうに顔を逸らすからだ。だからと言って頬や額に落とすキスを煙たがられた事はない筈だと、過去を振り返る。
今も、頬に口付けた瞬間に腰に回された腕から引き寄せられた。

「…人馬宮の四大元素は火。貴方には強い火の力が宿っているわ」
「白羊宮と獅子宮も火だったな」
「人馬宮サジタリウスの対極は、双児宮ジェミニ」

近頃屋敷に増えた双子の姉妹は、叶文仁の娘だ。アレクセイの孫に当たり、乙女座を司る悪魔の姪に当たる。
小悪魔じみた物言いに、単純な男達は容易く誑かされる。二人のタロット占いは良く当たると宮殿でも評価が高く、セシル=ヴィーゼンバーグと言えど、双子を軽視出来ない状況にあるらしい。月に何度か行われるお茶会に同行させる程度には、彼女達は公爵家に馴染んでいた。

「博識だな。お前、最近騒がしい双子の子守りさせられてんだろう?」
「…あの子達は無知で純朴な、ありふれた少女達だわ」
「は。んな慈悲深い評価を下すのはテメェくらいだよ、アンジェラ」

細い首、絹糸の様なブロンドに、けれど大きな掌。まだ12歳とはとても思えない少年の膝の上に乗せられたまま、大きな手からブラウス越しの背中を撫でられる。普通の女にはある筈の柔らかさがない体を、余す所なく撫でてくれる彼は正に『王子様』だ。

「…レオの対極は宝瓶宮、気をつけて。貴方はアクエリアスと相性が悪いわ」
「へぇ。二葉は乙女座なのに、相性は良くねぇんだがな」
「処女宮の対極は双魚宮、ヴァーゴと相性が悪いのは魚座のパイシーズよ」
「…魚座?ああ、道理で。くっく」
「何が可笑しいの?」

それでも今の様に、口づけを求めるて唇を寄せれば、そっと顔を逸らされた。
誘えば応えてくれる癖に、たった一度のキスも許してはくれない非情な男を非難する権利など、一介のメイドにはない。

「奴が玩具代わりにしてる餓鬼が魚座だ」
「…子供?」
「名前に『青』がついた、可哀想な餓鬼の事だなぁ」

誰の話だろうと沈黙を守れば、聞きたがっている事に気づいたのか、琥珀色の眼差しが歪んだ。麗しい微笑と言うよりは、明確な嘲笑だ。この場で猫を被る必要がないと判っているから、金髪の悪魔は本性を隠す気配がない。

「決して逃げられない相手から逃げる為の手段は、それほど多かねぇ」
「?」
「悪魔は人の理性を奪う存在だ。奴に魅入られた人間に待つのは、地獄しか有り得ねぇ」

何がそんなに面白いのだろう。乙女の二つ名を持つ少年が悪魔ならば、同じ血で繋がっている目の前の少年もまた、同様ではないのか。

「…ヴァーゴはマダムの前で、自分には子種がないと言ったんでしょう?マダムが珍しく眉を顰めたって、ライラから聞いたわ」
「ライラは、見た目はともかく中身は5歳児だ。信憑性に若干疑問はあるが、二葉から似た様な話は聞いてる。アイツに隠し子が居るかどうかまでは知ったこっちゃねぇが、俺が言う餓鬼ってのは赤の他人の事だ」
「そう。あのヴァーゴが誰かを特別視するなんて、珍しい事だわ」
「特別視?悪趣味なだけだろ」
「ヴァーゴが悪趣味なのはいつもの事よ」

綺麗な顔。小さな頭には煌く金糸、大きな琥珀色の瞳は陽光に照らされると蜂蜜よりも濃い黄金の様だ。
見れば見るほどの天使の様な美貌の主は獰猛な獣を思わせる嘲笑を浮かべながら、その繊細さを感じさせる美貌には似つかわしくない雄の手で、背骨を伝う様に撫でてくる。

「テメェがやった悪戯を、その餓鬼の所為にして面白がってんだ」
「…酷い子。ヴァーゴはきっと、地獄に落ちるわね」
「ああ、数年前からドイツじゃヴォルフスブルクの魔王って呼ばれてるらしいぜ。ヒトラーとどっちが酷いか」
「何をしたの?」
「軍を仕切ってた将校が、シチリアのマフィアを飼い慣らしてた。ベルリンの政府はこれを危険視したが、貴族の直系だった所為で手をこまねいてた訳だ。二葉は取引を持ち掛けて、マフィアごとそいつの命を吹っ飛ばしたんだよ」
「…殺したの?」
「いや、簡単に殺す訳がねぇ。生きたまんまどっかの医療機関で飼い殺されてるか、…ステルスの餌か。社会的には『不慮の事故』で処理されてるっつー話だ」
「可哀想に。一思いに殺された方がマシだわ」

行為とは程遠い会話はきな臭い。勿論、愛の言葉もない。
今この瞬間に拒絶を示せば、彼はすぐにでも手を下ろすだろう。お前の嫌がる事はしないとばかりに紳士さを装って、初めからその気がなかった事など悟らせもせずに。

「ドイツは厄介払い出来て、二葉はベルリンとコネを持った。3年前ステルスのランクAに昇格した二葉の傘下に、ドイツが国ごと収まってる訳だ。…ドイツにはもう一人、吸血鬼の王が居るそうだが、二葉はバンパイアに正面から喧嘩売る準備をしたってな」
「ゲルマンのヴァンプ…ふふ。フォン=シュヴァーベンでしょう?バイエルンを支配していたあの家は途絶えたわ。アウグスブルクの屋敷は、何年も無人よ」
「へぇ、ヨーロッパのデータはこの小さい頭に入ってんのか」
「貴方の頭も小さいじゃない。このくらい、大した事じゃないわよ」
「ライラは服を着る事も忘れるのになぁ。真っ裸で歩き回って、何度クソ共に犯されても懲りやしねぇ」
「ライラはセックスが好きなのよ。神が与えたまった人の快楽は、決して罪ではないわ」
「ったく、慈悲深い事で。流石はアンジェラだ」
「私の体は貴方の為にあるのよ、サジタリウス」

射手座と呼ばれている男は本来、誕生月は獅子座だ。乙女座と呼ばれている叶二葉のそれが彼の誕生日を表しているのであれば、ベルハーツもまたそうあるべきだった。けれど彼はレオではない。ヴィーゼンバーグの家紋に刻まれた獅子は当代公爵のみに与えられた称号で、現在の当主はアレクセイ=マチルダ=ヴィーゼンバーグのままだ。

「ヘーラクレースの誤射によって死んでしまった哀れなケイローン。貴方は聡明な賢者」
「随分、おべっかが上手くなったな」

前公爵エリザベート=セシル=ヴィーゼンバーグは、アレクセイが失踪した後に代理として復帰したまま、事実上は公爵権限を任されているだけだった。今の彼女は抜け殻だ。
二度と戻らない公爵の代わりにその椅子に座り続け、男子として育てた筈のアレクサンドルが出産した事を今も尚、頑なに認めない。

「覆い隠した貴方の牙はきっと毒の矢。…誰もが貴方を無視出来なくなる日は、遠くない」
「ギルガメッシュみたいにか」
「叙事詩にはノアの方舟が描かれている。貴方は洪水を起こす神なのか、嵐をたゆたう一隻の船なのか」
「くっく。お前が毒矢だって言ったんだろう?」
「…貴方の星に宿命づけられた『火』は、禁断の果実より赤いのよ」
「毒を食らった人間が流す血の色の様に。…なんてな、お前は創作小説の読み過ぎだ」

ヴァーゴを後継者に任命する素振りは伺えるが正式な発言ではなく、酷い目に遭わされた筈のロンドンへ身一つで戻ってきたベルハーツの事は見て見ぬ振りで、必要がなければ話す事もなかった。当の日向が言うには『追い出されないのではなく、居ないものとして扱われている』そうだが、実際の所は誰にも判らない。

「いついかなる時も、思い通りに支配して構わない。…だって私は、貴方が居なければ死んでいたのだから」
「テメェを安売りするんじゃねぇ。胸の一つや二つないくらいで、女の価値は変わりゃしねぇよ。待ってろ、その内俺がお前の胸を元通りにしてやる」
「…ねぇ、ベルハーツ」
「それで呼ぶな。わざとだな?」
「無用な争いは避けるべきよ」

嘲笑を湛えたハニーブラウンの瞳が瞬いて、笑みを深めた。

「貴方は屋敷を出るつもりでしょう?」
「何の話だ?」
「リンとランが屋敷にいる間、マダムの後継者の話は絶対に纏まらないでしょう。ヴァーゴを崇拝する者は少なくないけれど、危険視する人間も多いわ。リンもランも同世代の少女に比べれば大人びてはいるけれど、ヴァーゴの抑止力にはきっとなれない」
「成程、同感だ。で、それと俺が屋敷を出るのとどう繋がる?」
「自分達に力がない事を思い知らされれば、双子は足りない力を求める。女の武器は単純だもの。王室が最も危険視しているのはヴァーゴじゃない。貴方も判っているでしょう?」
「さぁな」
「英国全土が恐れているのは、ノアの報復よ。ルーク=ノア=グレアムはあのヴァーゴを従えている、地球上最強の支配者。マジェスティルークを落とす事が出来るとすれば、非力な少女は神に等しい存在になる」
「出来れば、な」
「貴方は出来ないと思っている癖に、そうさせようとしている。リンとランを生贄にして、英国に叶わない期待をさせたいのよ」
「何の為に?」
「…自分が全てを奪う為に。貴方はリンとランを火種にしてイングランドを掻き回して、追い詰められた王室が救いを求めるのを待っているの。今の貴方にはヴィーゼンバーグを従わせるだけの財力があるのに、貴方の野望にはきっと、それだけじゃ足りないのね…」
「随分買い被ってくれてる様だが、全部お前の想像でしかねぇ。俺にそんな大それた野望なんざねぇよ」
「無用な争いは避けるべきよ、マスターベルフェゴール」

わざとらしく首を傾げて意味が判らないとばかりに肩を竦めているが、目の前の少年は見た目通りの子供ではない。天使の様な美貌の中に、恐ろしい猛獣を飼っている。
年齢に似合わない笑みの中に辛うじて香る狂気に、人は惑わされるのだろうか。

「…アンジー、今のは危険な考え方だぞ」
「何が危険だって言うの?」
「避けるべき、って所だ。馬鹿みてぇな綺麗事じみてはいるが、一見じゃ正論に思える」
「正論なら間違ってはいないって事でしょう?」
「何にせよ『べき』で断定すれば、考えはその時点で停滞するっつーこった」
「…意味が判らないわ」

公爵家は崩壊寸前だ。忠実なマダム=ライオネスの従者は、少しずつ犯されていく。
ケンタウロス族の賢者、ケイローンを示す射手座の悪魔は天使の外見で躊躇なく毒を振り撒き続けていて、屋敷の中には悪魔に魅入られた人間が果たして何十人存在するのか。

「確かに無駄な争いは避けたいと思うのが、普通の人間の考え方だろう。その考え方を正当化してそれだけに縛られると、本当の意味で火の粉が降り掛かった時に判断を鈍らせる。偽善者は偽善的な自己満足に囚われて、むざむざ焼き殺されるって訳だ」
「…変な事を言うのね。無駄死にしたがる人間なんて居ないわ」
「結論的にはな。そう判っていても、そうなるとは限らない」
「え…?」
「現にお前の台詞がそっくりそのまま世の道理だったなら、何で人は簡単に死ぬ?」

金獅子に巣食う毒矢は息を潜めて静かに、己の野望が熟す日を待っている。
人間は誘惑に弱い。アダムとイブが禁忌の果実を齧って繁栄した種族にはもう、神の慈悲に守られた楽園に住まう権利はないそうだ。

「目前に迫る火の粉が『避けるべき無用な火の粉』なのか『立ち向かうべき火の粉』なのか、現実に向き合った局面で誰もが間違わずに選択する『に決まってる』なのか、選択する『だろう』なのか」
「…意地悪な質問をするのね」
「どっちにしてもそれは、お前の価値観に過ぎねぇだろう?だから俺は、初めから全てを振り払うんだ」
「無駄死にしない為に?」
「…他人に殺されて堪るか」

耳元で甘く囁かれた瞬間、それ以上の言葉を紡ぐ事は出来なかった。


「俺が死ぬのは、天使が迎えに来た時だけだ」

獣の背中に刻まれた古傷が時折、真紅の血を流す事を知っている。

←いやん(*)(#)ばかん→
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