帝王院高等学校
お姫様の職務は男を振り回すコト☆
「時が満ちた」

お前が巣立つ時がやってきたのよ・と。
真夜中に揺さぶり起こした母は、家から離れた暗い山中で呟いた。いつもと何ら変わらない穏やかな声音だ。記憶している限り、母親が冷静さを失った事はない。

「…母ちゃん、外は冷えるから家に帰ろう?」
「お前は渡り鳥。燕を産む事を天網に刻まれた、白き雀」
「つばめ?」
「宿命から逃れたいなら、力を示さなければならない」

か細い女の腕が、男でも重い大きな斧を握り締めているのが見えた。冬の方が長い乾いた山奥で、僅かな緑と言えば竹林だけ。
深い宵闇を照らすのは巨大な白い満月だけで、鈍く光る大きな刃が闇を裂いた瞬間、漸く少年は己の命が風前の灯である事に気づかされたのだ。

「例え今死んでしまったとしても、お前が絶望する必要はないのよ。脆弱な蝉は鴨川を下り、十口に葬られる。二度と羽ばたく事がない宮無しの皇は狗として、天神に命を捧げるの。私には雲隠と榛原、そして冬月の血が流れている。けれど私に榛原の力は与えられていない。そう、私は雌だからよ」
「…」
「雲隠は榛原の力を得られない。雌は雄にはなれないからよ」

闇をたゆたう女の影は、本当に母親のものだろうか?

「私は16歳で鳥籠から出て、18歳で巣立った。巣立つと言う事は、守られる権利を手放すと言う事」
「俺を殺すのか」
「いいえ、それは違うわ。これは雲隠では日常的な、当たり前の試練よ。お前が運命に従うと言うのであれば、私は家に戻りましょう。けれど逆らうと言うのであれば、お前はこの場で力を示さなければならない」

誕生日だった。寝る瞬間まではいつもと変わらない、平凡な一日だった筈だ。
いつも通り父親から修行を課せられて、くたくたになったら読み書きの勉強をして。近頃体調が悪いのか寝てばかりだった母親に起こされた時は、寧ろ嬉しかったけれど。今は違う。

「優しい芙蓉さんは悲しむでしょうね…。でも心配しなくて良いのよ、私のお腹に新たな鳥が宿っているわ。この子はお前とは違って、強き雌になるでしょう。そしていつの日か、私の系譜は待ち焦がれた光を手に入れる」
「…光?」
「お前に宿っているのは炎よ。それは雲隠焔の血によるものなのか、それとも、私の所為で羽根を折られてしまった可哀想な弟の呪いなのか…」
「何を言ってるのか、俺には判らない」

一体、何処へ逃げれば良いのか。この深い闇の中から悍ましい殺気が全身を包み込んでいる。

「お前が死ねば、お父さんは悲しむでしょうね。けれどあの人の悲しみはすぐに癒える。十口では身内の死は有り触れた『普通』だもの。捨てられた焔が十口では蓮と名乗った様に、不要の烙印は息子の代にも継承された。天網に記された宿命のままに」
「…」
「生まれる前から定められていた。…お前の魂は日本ではなく、この国に繋がれているのよ」

住み慣れた景色がまるで異次元の様だ。父親が一人で眠っている筈の家は、そう遠くない所にある筈なのに。

「…哀れな白雀、定めに逆らえなかった弱い私を恨みなさい。日本では私は母にはなる事が出来ない宿命だった。だから私は、永遠の別れを認めた手紙を緋天大宮に届けた。お父様を苦しませる事になると、知っていたのに」

けれど今この瞬間は、何処にも逃げられそうな気がしない。

「お前は昨日までの日常を普通だと信じていたんでしょう。でも私は今日が来る事をお前が生まれる前から知っていた。宿命には逆らえないのよ。私でさえ、結局は従ってしまった」
「母ちゃん…」
「ねぇ白雀、愛は尊いものよ。この静かな山の中では、お前の番を見つける事は出来ない。判って頂戴、これは定められた試練」

ああ、尊敬している父親ですら両手で持ち上げなければならない大斧を、父よりずっとか細い母が片手で振り回している光景なんて、悪い夢に決まっている。

「お前が望む『普通』は、もう何処にも存在しない。さぁ、生きている内に選択しなさい、私の愛おしい小鳥ちゃん」
「っ、ぐ…!」
「常世は常に片道切符。鳥居を潜った者は二度と戻らないが世の道理」

月明かり以外は果てしない闇の中で、的確に急所を掠めた刃が鈍く光った。


「死んでしまったら、選ぶ事が出来なくなるでしょう?」

いつもと何一つ変わらない母親の穏やかな声音はまるで、悪魔の囁きの様だった。










(月明かりに照らされた鮮血は、誰のものだ?)
(酷い悪夢だ)
















「世話になった。それでは私達は失礼する」
「ふわぁあああ。…朝までお騒がせしました主にレヴィが…。皆さん、さよーなら…」
「ナイト、眠いなら私の腕の中で休むと良い」
「むにゅむにゅ。…誰かさんが尻揉むのやめてくれたら…寝る予定…」
「諦めろ。お前の尻を揉まない私は存在しない」
「諦めて堪るかァ!………グースカピー」

大量の吐瀉物の上でバタリと倒れた男の豪快な鼾が響き渡る中、客人をげっそりした表情で見送った男達は、去っていく瞬間まで騒がしい客人の輪郭が肉眼で見えなくなるなり、一斉に壮絶な息を吐いた。それはそれは壮絶な溜息だった。

「やっと帰ったな…」
「ああ、長い一日だった…」

嵐が去った事による安堵の嘆息なのか、それとも今から待ち受けている大掃除に対する絶望の嘆息なのか、恐らく本人達にも判っていないものと思われる。

「…何処から手をつけて良いか判らないが、片づけるか…」
「そうだな…」

突き詰めて考えれば思考の迷宮に突入するに違いないので、彼らは早々に忘れる事にした。今は帰っていった客人達が戻ってこない事を願うばかりだ。

「…ゲロ塗れの王様はどうする?」
「王様じゃない、社長って呼ばなきゃ殺されるぞ」
「…あの恐ろしい客人の影響をモロに受けてたもんなぁ、たった一日で…」
「幾ら飲んでも涼しい顔してた客人に負けじと酒を煽って、吐くだけ吐き散らかして寝ちまったくらいには…」

グゴーグゴー、まるで地響きの様な鼾を奏でている本人はボリボリと腹を掻きながら豪快な寝返りを打つついでにブッと男らしい屁を一つ。一晩を費やした宴だけでは決してない様々な要因で、どう見ても半壊している集落を見回した男達は、ふらりふらりと片づけ始めた。

「そう言えば、暴れ回ってた白はどうなったんだっけ?」
「社長のお嬢さんが牢屋にぶち込んだんじゃなかったか?」
「白だったら簡単にぶち破れるだろ、所詮ただの櫓だ」
「姿が見えない所を見るに、お嬢さんが見張ってるんじゃないか?」
「…それなら出て来れやしねぇか」

ちらほら目覚めて姿を現した女性陣が加われば、宴の片づけはそれほど難しくはない。どうにもこうにも一日で終わりそうな気配がしないのは、数年懸けて皆で築いた集落の半分ほどの建物が、何らかの支障を来たしている所だった。
天災でも起きたのではないかと言う程には、酷い有様だ。これがたった二人の人間の、殺し合いじみた大乱闘によるものとは、口が裂けても言えない。昨日の地獄を思い起こさせるからだ。

「しっかし、腕は立つわ面は良いわ、あんなに恵まれてる男でも苦手なもんはあるもんだ。冬虫夏草で悲鳴をあげる様なお嬢さんに、頭が上がらねぇっつーんだから」
「お嬢さんはまだ五歳になったばっかだっつーのに、社長は本気で白を婿にするつもりなのか?そもそも内戦中に拾った傭兵崩れだろ?」
「ああ。人民軍に占拠された城から逃げる時に、生まれたばっかのお嬢さんを抱えてたお后様が、自分の目を抉って差し出すからっつって、白に助けを求めたらしい」
「…目か」
「あの目の所為で、お后様は王様を誑かした悪女呼ばわりされて戦争が起きたんだ。父親も兄弟も目の所為で殺された、可哀想な人なのによ…」
「白の奴、本気でお后様の目玉貰ったつもりか?」
「『そんなものは要らないから食いものをくれ』って断ったって話だろ?」
「傭兵紛いの稼ぎをたんと持ってた癖にな、内戦で街中の店が閉まってたから餓死寸前だったんだ。山育ちって聞いてるが、都会には肉になる獣も居なければ、田畑は革命軍に荒らされて酷い状態だった」
「素性が知れない世間知らずってだけなら珍しくもないが、言葉を知らないから無口なのかと思えば字は書けるってんだから、奴は得体が知れねぇんだよ。ぼーっとしてるかと思えば、敵と見なした相手は躊躇いなく殺せる覚悟がある」
「…味方の内は良いが、いつ裏切るか知れない。年寄り共はすぐにでも追い出すべきだって何度も社長に進言してるらしいが、当の社長は『仲間が信じられないんだったら、自分で死んだ方が良い』ってもんよ」

小声で話しながら片づけに勤しんでいた男達は、自らの吐瀉物の海で気持ち良さげに眠っている主人を見遣った。あの状態では、耳元で会話しても起きないだろう。

「自分が追われてる身だって判ってんのかね、俺らの大将は…」
「…グレアムっつったか。どうやって此処の存在を知ったのか、あっちの社長は最後まで喋らなかったな」
「白と銃撃戦繰り広げておいて、白が居なくなるなり笑顔で酒の席に加わりやがった。一緒にいた日本人が殴ってなかったら、俺があの銀髪を殺してたぞ」
「あの白が殺せなかった相手に、お前如きが敵う訳ないだろうが」

何とも情けない状態ではあるが、素面の彼は素晴らしい人だった。魑魅魍魎が蔓延る王族の中でも清廉潔白で人望にも恵まれていたが、彼以外の王族はお世辞にも褒められた人間ではなかった為、長年の鬱憤を募らせた貧民を中心に民主化運動が始まるに至ったのだ。彼らにとって王族は一人残らず排除対象だった、理由はそれだけの事だ。特に前王の政治は上流階級の人間に忖度していた為、貧しい者に無慈悲だった。
数年前、王が変わると聞いて希望を持った者達の中に、新しい王の妻はとんでもない悪女だと言う根も葉もない噂が広まるなり希望は憎悪に変わり、混乱は動乱となって戦火を巻き起こす。

「つーかアイツ、昨日客人に18歳だって言ってなかったか?」
「白の事か。確かに言ってたな。数年前に社長が拾ってきた時も18歳って言ってた筈だ」
「普通の馬鹿じゃねーか」
「ただの馬鹿なら可愛げがあるんだがなぁ、あの日本人が何か言ってから、白の様子が可笑しくなったんだ。…単純に考えりゃ、山育ちの世間知らずに日本語の知識がある筈ないだろ?」
「五歳のお嬢さんにビビってるくらいだから、賢くはねぇだろうよ。銀髪とドンパチ始めてからは、白の怒りは日本人からイギリス人に綺麗さっぱり移ってた。キレた白は『殺す』しか言わねぇから、冷静に会話なんざ出来やしねぇ」
「駆けつけたお嬢さんに『やめないと叩くわよ!』って怒鳴られるまで、社長もお手上げ状態だった。仲裁に入ってとばっちりを受けた怪我人は何人居る?」
「十人を超えてるのは間違いない」
「被害を受けてない家の中で休ませてる。畜生!それもこれも、元はと言えば何にキレたのかさっぱり判らねぇ白が青龍刀なんざ持ち出すからだろ?!」

出るわ出るわ、鬱憤が溜まっている皆が吐き捨てるのは愚痴ばかり。然しそのお陰なのか、愚痴を零しながらも機敏な動きを見せている。怒りが彼らの原動力になる様だ。

「つーか初対面の時は片言だった癖に、さっき帰る時にゃベラベラ喋れる様になってたあの銀髪は何者だったんだ?!」
「全然判らんが、イギリス軍から命を狙われて亡命してるって話を社長の前でしてたぞ」
「亡命中の奴が気軽に亡命中の王様を訪ねてくるんじゃねぇよ!」
「ほんで日本人なんか連れてくるなよっ!」
「しっかり監視しろGHQ!」
「おい、力仕事は白にやらせるぞ!そもそも殆どアイツが刀振り回した所為で壊れたんだ!」
「結局日本人には一撃も与えられなかった白の奴には、社長のゲロを片づける義務があるッ」

ほぼ満場一致で『面倒臭い事は白さんに丸投げ』で決まった男達は、すぐに終わりそうな所から整理する事にしたらしい。何処からか良い匂いが漂ってきたので、女性陣が朝食を用意しているのだろう。

「白の野郎、大人しく牢の中に入ってれば良いが…まさかお嬢さんに手ぇ出したりしてないだろうな…」
「恐ろしい事を言うな、多分大丈夫だ」
「…野郎、女嫌いかと思えばそうでもないからな。得体は知れねぇが顔は良いだろ、聞いた話じゃ誘われたら断らねぇらしいぞ」
「社長が勝手に決めたお嬢さんの婿候補っつったって、お嬢さんはまだ五歳だからなぁ…」
「いっそバレちまえば良いのにって思うけど、お嬢さんも結婚の話は満更じゃねぇってんだから、成長を見守ってきた身としてはお嬢さんを泣かせたくない気持ちもある」
「…最低十年は手を出すなって言っておかないとな」
「馬鹿言え、二十年は出させねぇよ」
「おいお前達、いつまで無駄話をしているんだ」
「っ、おはようございます黄首長!」

異国からの来客で、昨夜の宴会に強制参加させられた男達は大半が疲れきっていたが、一人だけピンピンしている男の姿があった。元は宮廷で相当な権力を持っていた武人だが、クーデターが起こった際に王の殿を努め、現在に至るまで共に生活している。
以前は頑固で実直な性分で知られていた人間だが、逃亡生活が続く中で嫁を貰い子供が生まれると、角が取れて丸くなってきたと皆が噂していた。とは言え、小さな集落では『社長』よりも恐れられている人物だ。仕えている主人の傍らにそっと寄り添っている時はまるで隙がなく、結構な年齢だがかつての栄光は今も尚、色褪せていない。

「…白の姿が見えんな。血気盛んなのは良いが、こうも散らかされては堪らん。奴を引っ張り出して後始末をさせろ」
「はは、俺らも今そう言ってた所です。広場で社長が転がってるんですが、起こしますか?」
「流行病で奥様を亡くされたばかりで気落ちなさっていた所に、思いもよらぬ来客で箍が外れたのだろう。目覚めるまで放っておけ、どれほど深酒をしても寝込む事はない御方だ」
「判りました」
「おーい、白を突っ込んだ牢屋の中でお嬢さんが寝てるんだが、起こしたら可哀想だよな?」
「すぐさま起こして差し上げろ!うら若きお嬢様が薄汚れた男と同衾など、あってはならん!」

丸くなったと言われている無骨な武人は珍しく声を裏返らせたが、この集落では日常茶飯事だ。可愛らしいお姫様を中心に世界が回っているも同然だったので、厳しい男達数人は『吊るす!』と叫んで家畜用の檻を兼ねた櫓方面へ走っていった。

「黄首長は相変わらず朝が早いな。朴首長はまだお休みか?」
「あれだけ飲めば無理もない。浩宇様は祭の若い衆を数人引き連れて、空が白んだ頃に買い出しに出掛けられた。…幾ら市民に顔が知られていないとは言え、あの方は王弟君であらせられるんだがなぁ」
「血を分けた兄達から妬まれて幾度となく命を狙われた社長に残った兄弟は、腹違いの弟と従兄弟達だけか。お可哀想に…」
「李宇辰殿は社長の従弟であらせられるが、母方の叔母が再婚した相手の連れ子だから血の繋がりはない訳だ。折角香港くんだりまで逃げ延びて一息ついたと思ったのに、ああもあっけなく奥様が亡くなるとはな…」
「…幾ら追っ手の目を眩ませる為とは言え、亡くなった奥様の眼球を抉り取って遺体を街道筋に捨てておくなんて…社長はお辛い選択をなさったものだ」
「新聞は、王族の生き残りは全員死刑にしたって嘯いてやがった。社長が企んだ通り、奥様を『赤眼の悪女』つった奴らはまんまと騙された訳だ。…目ん玉が真っ赤になるのは奥様じゃなくて、社長の母親だってのに」
「前王には逆らえなかった馬鹿共は、今までの不満を全部社長に押しつけたんだろ。実の兄達に何度も殺され掛けて、最後はテメェらで殺し合って死んじまった糞みてぇな兄貴達の尻拭いで、戴冠せざる得なくなったってのに」
「下々の奴らに国政の何が判るってんだ。今は人民主体の新体制で浮かれてるだろうが、その内気づくだろうよ。何も彼も全部自分達でやらなきゃならないって事は、裏を返せば失敗すれば全部自分の責任って事だ。今までは朝廷を憎んで紛らわしていた不満が、誰にも押しつけられなくなった」
「責任転嫁の矛先が変わるだけだろう。どうせすぐに政治の舵取りをしたがる奴が出てくる。出てこなきゃ、誰かが誰かを犠牲にして人柱にするだろう。結局は、元の木阿弥だ」

ぼーっとした表情の男が、寝ぼけ眼を擦りながら歩いている幼女に手を引かれて櫓方面から歩いてきた。一体何処を見つめているのだろうかと言うくらいぼーっと集落の景色を見つめていた男は、昨日自分が破壊しまくった町並みをどんな気持ちで眺めているのか。

「パイチュエ、宜しくて?」
「…何が?」
「何がじゃないでしょう。そこもあそこもぐちゃぐちゃにしちゃって、ちゃんと反省しなさい」
「悪かった」
「何が悪かったか、ちゃんと判ってる?」
「う?うー…俺が村を壊したから…悪かった?」
「きょとんとするんじゃありません。私もお手伝いするから、パイチュエは元通りになるまで、しっかり働くんですよ」
「働かざるもの食うべからずだな。俺は知っている。灰汁抜きをサボると、腹が痛くなる」
「貴方は何の話をしているの?」
「筍の話だ」

お姫様の蹴りが、ぼーっとしている男の股間に見事に決まった。
目撃していた男達は一斉に目を逸らしたが、蹴りを決めた幼女に悪気はなかったに違いない。

「ああっ、脛を蹴るつもりだったのに目算を誤ったわ!何で寝るのパイチュエ、起きなさい!」
「俺にも…鍛えられない部分が、あった…」
「また訳が判らない事を言って!子供じゃないんだからさっさと起きなさい!」

いや、子供じゃないから崩れ落ちたのだ。男達の心の声が重なった様だが、年齢の割に相当大人びているお姫様は早速瓦礫の後片付けを始め、慌てた大人達に危険だからと窘められている。

「俺は子供ではないが、今は起き上がれない事情がある…」
「しっかりしなさい。貴方、いつか自分の会社を作るんでしょ?」
「そのつもりだ」
「だけど傭兵みたいな仕事しか見つからなくて、思う様に稼げなかったのよね。どんな事情があるにしたって、今は父様に雇われてるんだから、ちゃんと働いてちょうだい」
「面目ない」

地面をミミズの様な風体でにょろにょろ這っている男は、見た目は二十代そこそこに見えるが髪の殆どが白髪で、全身に幾つもの古傷がある事で知られている。話し掛ければ返事をするのに会話が通じない男曰く、鼠だの虎だの山賊だのと戦って負った傷が殆どだと言うが、最も酷い喉元の大傷については頑なに語ろうとしない。

「貴方は香港の事に詳しいんでしょうけど、それだけで他の皆と同じお給料を貰えると思ったら大間違いよ。私達の村は、女性達が工芸品を作って、男達が家畜を育てて田畑を耕して、外に出られる僅かな人達が町で売ってくれて成り立っているんだから。私が着ている服だって、皆が頑張ってくれるお陰で得られたものなの。判るかしら?」
「…ん。大きい瓦礫は俺が運ぶから、置いておいてくれ」
「まだ起き上がれないの?そんなに痛かった?」
「人生で今が一番痛い」
「その喉の傷より?」
「…これはもう痛くない」

幼い割にしっかりしているお姫様は教師の様に朗々と語りながら、ミミズ男の背中に背負わせた竹籠の中に散乱している瓦礫を放り込んでいった。

「おえええええっ!…臭っ、何なんだこの異臭は?!」

食事を運んできた女性陣の呼び掛けで作業を小休止した男達は、聞き慣れた男の絶叫に揃って振り返る。
果たしてゲロ塗れの曰く社長は、鼻を押さえながらゴロンゴロンと地面を転がっていた。早めにゴロンゴロンを止めないと全身に悪臭が染み込む心配があるだろうが、既に時遅しでもある。

「おはようございます社長、残念ながらその悪臭は社長の口から出たんです」
「客人は長年懸けて蓄えてきた酒樽を片っ端から空にして、あっさりお帰りになりましたよ」
「何ぃ?!我の酒を片っ端から空にした上で、挨拶もなく帰っただと?!何て血も涙もない奴ら…うっぷ!」

しゅばっと立ち上がった男は、起き上がった瞬間に『うぉえええええ』と盛大に催したが、昨夜吐くだけ吐いて死んだ様に崩れ落ちた後も、寝ながらゲロゲロしていたので流石に出せるものがなかった様だ。完全なる二日酔いの酷い表情で『…やっぱり暫く酒は要らない』と呟いて、女性達が運んできた水をちびちび舐めている。

「奴ら、人民軍に我々の情報を売ったりしないでしょうか?」
「…その心配はないだろう。出来る限りの協力を約束してくれた。命よりも重い密約だがな」
「条件は?」
「中国に奴らの拠点を置かない代わりに、互いの国情には干渉しない繋がりを持つ。但し我の代に限った話だ。あの男が先に死んでも、盟約は終了する」
「…王が断れない立場だと判った上での取引だとすれば、向こうの望みは他にもあるのでは?」
「金持ちが考える事は判らん」
「一度は王になった方の台詞ですか」
「たった一年で城を奪われておれば、とんだ笑い話だわ。王位継承権5番の我がよもや担ぎ上げられる羽目になるとは…。嫌だ嫌だと言いつつも折角やる気になっていたのに、何もさせてくれんとは非情な民共よ」

口で言っている割に晴れやかな表情なので、王座に未練はないのだろう。

「浩宇には既に話をしたが、香港に落ち着いた後、我は上海の支配を目指す。無論、国の主として表舞台に出るつもりはない。目的は水面下での支配だ」
「水面下?」
「我の生き残った家族は娘と弟達、死んでいった者達の方が遥かに多いが…こうして仕えてくれる汝らにも恵まれている。今後この限られた命を、我は生涯を懸けて守りたい」

昨日の急な来客で盛大な宴を催す事になり、ろくな食料が残っていないのか今朝の食事は稀に見るお粗末なものだったが、彼らは誰一人文句を口にしなかった。それどころかゲロ塗れで水を舐めている男の台詞に感極まって、泣いている者も少なくはない。

「その為なら、使えるものは一つ限りの命であろうが使うまでだ。我とは種族も生い立ちも違えど、異国の男爵は信用に値する男だと判断した。だが決して、アメリカの支配下に収まる訳ではない」
「それでは…」
「交わした密約は同盟だ。血の繋がりよりも重いが、命の重さを超える事はないと約束している。あちらが我を利用する腹積もりなら、我とて同様よ」
「…社長は、奴らが裏切る事はないと考えておられるのですか?」
「奴には我の秘密を喋った」
「!」
「金になるのは妻の目ではなく、…娘の目だとな。だが然し、男爵は笑い飛ばしおったわ。わざわざ抉り取らずとも、黄花の髪が一本あれば『眼球だけ作り出せる』と」
「そ、んな事が、本当に出来るのですか…?!」
「ああ、我らABSOLUTELYに不可能はない」

何処かからか聞こえてきた男の声に全員が顔を上げれば、ほぼ倒壊した建物の影から金色に煌く髪を靡かせた男が、のそりと姿を現した。その見上げるほどの長身で一体今まで何処に隠れていたのか、誰もが不信感を顕に身構えたが、男はその様子を物珍しげに眺めてると、耐え切れないとばかりに小さく笑う。

「団欒の時間を妨げたようで申し訳ない。俺はライオネル=レイ、レヴィ=ノアの忠実な従者だ」
「…貴様、今まで隠れておったのか?」
「その通り、俺の存在に気づいたのは白髪混じりの青年だけだ。君達は逃亡生活中の割に、随分平和ボケしているんだと感心したよ。だからこそ陛下お一人で商談する事に同意したんだがね。…あ、いや、一人じゃないか」

この異常事態に身構えない者は居なかったが、異国人特有の筋骨隆々な体躯を少しばかり丸めた男は金髪をぼりぼり掻いたかと思えば、申し訳なさそうに頭を下げた。

「後先考えないナイトメアの所為でうちの陛下が暴走した事に関しては、謝罪の言葉もない。円卓を代表してお詫び申し上げる」
「あ、ああ、昨日の騒ぎの件に関しては我と男爵の間で済んだ話だ。…然し男爵にしても汝にしても、容易く我が国の言葉を喋ってくれるものだな」
「故に、我々は英国から危険視されている。それでも同盟を望むのであれば、君達に生き残る知恵を与えよう。その為に俺は此処に居る」

空を封じ込めた様な瞳を細めて笑った男は、幼女に叱られながら木材を運んでいる少年を一瞥し、肩を竦める。

「本音を言えば、あのキレた陛下に銃口を向けられて生き残ったあの少年が欲しい所だが、断られてしまったからなぁ」
「白の事か?」
「姫の承諾がなければ答えられないと言うから朝まで待ったが、寝起きのお姫様に聞いたら『白は私のものだからあげない』と言われてしまった。中国の男も嫁の尻に敷かれている様で何よりだ」

皮肉だろうかと誰もが首を傾げたが、『こら、パイチュエ!』と言う少女の声が聞こえてきた瞬間、誰もが沈黙した。

「貴方また女の人と何処かに行こうとしてたでしょ?!」
「だ、駄目なのか?」

目が真っ赤に染まった少女の前でオロオロと体を揺らしている男は、腕に抱きついていた女を振り払ってその場に座り込んだ。一体いつの間に誘われていたのか不明だが、幼いお姫様に睨まれた女は慌てて逃げていく。

「片づけてからじゃないと駄目よ。男にはやむにやまない事情があるのは知ってるけど、この間だって洞窟でいやらしい事をしている時に生き埋めになった事を忘れたの?6日間も閉じ込められて、もう死んじゃったと思ったんだから…」
「俺が死んだら困るのか?」
「困るわよ。私まだ5歳なのに未亡人になるなんて嫌よ」
「そうか」
「こんなに髪の毛が白くなっちゃって、今の貴方はおじいちゃんみたいね。元々白髪は多かったけど」
「俺の髪が白いと困るのか?」
「何も困らないわ。父様も白雀も、纏めて私が介護してあげる」

敷かれているのか無邪気に振り回されているのか、正解を知っている者は恐らく何処にも居ない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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