帝王院高等学校
エゴってナルって紆余曲折の叙事詩!
最近、悩みが増えた様な気がする。
などと己の人生について熟考するには多少早い気がしなくもない12歳の夏は、例年になく慌ただしかった。

「今の所、腎機能の著しい低下は見られませんねぇ。ああ、残念」
「そっスか」

本気で言っているのか冗談なのか、相変わらず良く判らない微笑を浮かべている男を横目に、ウォーターサーバーの水を紙コップに注いでみる。他にやる事がないので、手遊びの様なものだ。一応、健康診断を受けている最中と言えるだろう今現在、炭酸キレッキレのサイダーが飲みたいなどと宣った所で、目につく範囲に自動販売機もなければ徒歩圏内にコンビニエンスストア様もない。

「富士山から流れる雪解け水…とは全く関係ない、安倍川の近くにある宍戸環境開発の静岡支店で新しく始めたレンタルサーバーのお水の味は如何ですか?」
「あー、果てしなく水の味しかしねー」
「水ですからねぇ」

帝王院学園の所在地は、市街地の外れから車で数十分上り詰めた山奥にある。どのくらい山奥かと言えば、基本的に進学校扱いながら体育科の評価も高い所にあるだろう。平地から1000メートルは高い位置にある山間部で生活していれば、然程運動をしない生徒も、無意識に低酸素状態で暮らしている事になる。普段からトレーニングの一環で山道を走り回っている生徒であれば、地区予選で敗退する事は滅多にない。

「下水処理施設の定期メンテナンスに来ていた担当者に、運んで貰ったんです。一般客は配達の度に送料が必要だそうですが、何せうちの学園には定期的に本店から担当者が派遣されていますからねぇ。そのついでと言う名目で、送料はサービスだそうです」
「殆ど誰も来ねー下水処理場の中にウォーターサーバー設置する方が、送料ケチるより遥かに無駄じゃねーのかよ」
「付き合いと言うものですよリッキー」
「リッキーって誰だよ」
「おや、自分の名前も忘れてしまいましたか?」

専用道の一本道なので道から逸れない限り迷わないとは言え、草木も眠る夜間となれば車での走行も躊躇する様な場所だ。徒歩で山を下りようなどと言う物好きは、あのFクラスにも存在しないだろう。美味くもなければ不味くもない、極普通の水を飲み干して紙コップを握り潰し、何の面白味もない窓の向こうへ目を向ける。
24時間オートメーションで稼働している下水処理場の建物の正面玄関部分は、学園の校門より少しだけ下に位置する山中にあるが、建物の内部は学園の敷地の地下にあるアンダーラインの最下層、下水が集められているエリアにも食い込んでいた。校舎や寮などの主要生活圏で排出された下水だけでなく、学園の至る所に流れている水路や噴水の水なども定期的に此処へ流れてくる仕組みになっていて、普段は無人の処理場監視施設の建物には監視カメラ映像や日々の水質検査の記録が保管されているそうだ。水質に異常が見られた場合、自動的に外注企業に通知が届く仕組みになっていて、担当者達がやってきては処理された水が上水として相応しいかの検査を行なったり、巨大な浄化槽の定期清掃などを行っている。
生徒教職員合わせて数千人が生活しているのだから、水源の確保は最優先事項だ。

「物忘れが酷いリヒト君の癒着が悪化する可能性が出てきたので、エデンの投与は一旦中止にします。細胞を活性化し過ぎると、早期のヘイフリック限界を招きかねないのでねぇ」
「つーか、そのエデンっつー錠剤の原料は何なんだよ」
「エデンはエデンですよ。あの赤いタブレット1粒には、魔女テレジアの呪いが込められているのです」
「…訳判んねー」

男だと知っているのに性別が判らなくなる奇妙な男は、食パンの袋から抜き取ったパンにチューブのバターを塗りつけて、適当に砂糖を振り掛けたかと思えば躊躇いなくそれを頬張り、殆ど噛まずに飲み込んだかと思えば二枚目のパンにまたバターを塗りつけている。目元に掛かる前髪と眼鏡で左右非対称の瞳の色が殆ど判らない男は、然しそんな出で立ちでも端正な顔立ちだと知らしめる高い鼻筋と、白い肌に色づく紅色の薄い唇があった。

「おや、何が判らないんですか?」
「魔女発言とアンタの咀嚼回数の少なさだよ」
「口に入れるとすぐに飲み込みたくなるんですよねぇ。ご存知ですか、働き者は食べるのが早いんですよ」
「過労死しやがれ早漏野郎」
「いえ、こう見えて実は遅漏気味なんです。なので基本的に射精する前に面倒臭くなるんですよねぇ、ピストンが」

これが彼の有名な中央区の左元帥の行いかと疑いたくなるが、つい最近知り合ったばかりの『野暮ったい長さの黒髪』で恐ろしい目つきを隠している男もまた、丸呑みしているのではないかと疑うほど食べるスピードが早く、また食べる量も異常に多いので、叶二葉が異常と言う訳ではない様だ。麗しい微笑みつきの下ネタに関しては聞かなかった事にした。

「開発中の治験薬は二種類ありましてねぇ。エデンとは全く正反対の効能がある真っ赤なカプセルには、金の魔女の呪いが込められています」
「ステルス謹製じゃなく、魔女謹製っつー事は判った」
「ふふ。そう、エデンとヘブン、双方の薬のプロジェクト名は『ウィッチドラッグ』と言います」
「趣味悪ぃな。名付け親は誰だよ」
「勿論、現特別機動部長ですよ。何か文句がありますか?」

藤倉裕也に文句があるとすれば、人様の視界で6枚切りの食パンをバターシュガー味のみで完食した事くらいか。定期診察と言う名目で毎週呼び出される事にはいい加減慣れているので、その事に関しての文句はそれほどない。いや、既に言い尽くしたと言った方が良いだろう。

「文句はあるぜ。少しは野菜も食えや」
「私がこの世で最も嫌いな食べ物は野菜なんです」

大抵レントゲンだのエコー検査だの、人間ドックの様な幾つかの行程を耐え忍べば速やかに解放される。今日の様に、時々二葉がやってきては、気紛れの様に薬を出したり減らしたりする事もあった。

「早々に引退なさったネルヴァ卿が時折寄越す連絡は、見事に君の事ばかり。君が帝王院学園に入学すると決まってからと言うもの、ネルヴァ閣下の職権乱用は目に余りますねぇ。出向中のシリウス卿を呼び戻したかと思えば、技術班だけでなく医療班に籍を置くんですから」
「オレはンな事情知らねーっつーの。シリウスなんざ会った事もねーってのに」
「時々来日する事もありますが、今現在はセントラルに常駐してますからね。彼の知識を手放すのは少々惜しいので、ノヴァが退役した後も、シリウス卿には我が部署に残って頂いています」

極稀に聞かされる二葉の世間話には、今の様にグレアム統治下の話が出る事がある。ついうっかり口を滑らせた、なんて失態はこの男に限って絶対に有り得ないだろうから、恐らくわざとだろう。裕也がいずれ、ルーク=ノアの配下に収まると見越して聞かせているに違いない。そんな気は微塵もないが、それを言った所で無駄だろう。二葉には言葉が通じない。

「つまり排除したくても排除出来ねーってか」
「おやおや、お子様が大人の事情を察するんじゃありません」
「アンタも餓鬼だろ。パンなんか丸呑みすると、異常に喉が渇くんじゃねーかよ。水飲めや」
「消化に必要な最低限度で良いんですよ。人生で何万回するか知れない食事なんて時間の無駄ですからねぇ。脳の働きには、糖質の補給で足りるんですよ。バターはタンパク質の宝庫で、これに更に卵があれば完璧と言っても良い」

二葉は真顔で『フレンチトースト万歳』と呟いた。ゆで玉子じゃ駄目なのかと突っ込みそうになったが、裕也は口を閉ざす。どうせ言葉が通じない相手に何を言っても労力の無駄遣いでしかない。

「実は、私は合理主義者なんです」
「実はの使い方な。つーか、それ合理的って言えんのかよ?」
「仕事が出来る男は早食いなんですよ」
「世俗っぽい事言ってんな」
「遅漏より早漏の方が女性の負担も少ないと言う事です。あ、君はまだ精通してませんでしたか?」
「とっくに勃起しまくってっから安心しろや」
「下手に撒き散らして子供を作ったりしたらお父様がお祖父様になってしまいますよ、どんどん撒き散らしてきなさい」
「後輩に過ちを犯させる様な事ほざくなや、性悪パイセン」
「君の場合、子作りは早い方が良いと言ってるんです」

見た目の儚げさが台無しの粗野な仕草でバターと砂糖をトッピングしている14歳は、今夜顔を合わせた瞬間に『来週誕生日なので祝いなさい』とほざいた。知るかと思ったが、サラリーマンの社交辞令の様におめでとうございますと言ってやった。完全に棒読みだったと自覚しているが、二葉は満足げに有難うございますと宣っていたので、正しい行動だったのだろう。二葉の意に反した行動をしていれば、問答無用で殴られているか床に叩きつけられている筈だ。

「ネルヴァ卿とは血液型も遺伝子型も異なる君は、この治験が今後成功する見込みがなかった場合、或いは肉体に何らかの不具合が発生した場合、移植を受ける以外に方法がない事は説明したでしょう」
「だから何だってんだよ」
「適応する臓器は作ろうと思えばすぐにでも作れますが、神経に近い箇所にあの時の破片は埋まっています」
「それも知ってる。オレの成長期が凄まじすぎて、やべー位置に巻き込んでんだろ?」
「ええ、かなりやべー位置です。摘出自体は簡単ですが、神経に万一トラブルが起きれば半身不随、悪ければ今はビンビンに立ち上がっている君の分身が、一生寝たきりに!ああ、何と言う悲劇!」
「笑顔で下ネタくれてんじゃねー」

どうしてこの状況で笑えるのか全く理解出来ないが、だからこそ魔王なのだろう。人間味がない。一心不乱に食パンにかぶりついている以外、性別すら曖昧な人間だからか。

「ですので、快楽を伴う合体による子作りと、快楽など欠片もなく心身共に苦痛を伴う体外受精による子作りでは、そこに快楽があるかないかと言う大きな違いがあるのです。男ですからねぇ、痛いより気持ちが良い方が良いでしょう?勃起しなくなってから嫁探しを始めると、妥協に妥協を重ねた結果、腐った鮟鱇の様な女性しか選択肢がないかも知れません」
「そもそも、オレに結婚する気はねーんだけど?」
「勿体ないですよ?一度しかない人生でしょう、好きな人と結ばれたいと思いませんか?」
「死ぬほど結婚が似合わねー奴に言われても、込み上げてくる忍び笑いを忍べねーオレが居るぜ?プ」
「失敬な。私はとっくにプロポーズされているんですよ?」
「アンタの外見に騙された馬鹿が先走っただけだろ。つーか、アンタ他人のプロポーズなんざ素直に受けそうにねーわ」
「おや、酷い言われよう。私だって一人の男ですから、刺激的な愛に振り回されてみたいと思っていますよ?」

それが本心だったら、何処かにこの男を振り回してくれる悪女は居ないものか。
そんな女が万一存在すれば世界中の男が絶滅する可能性もあるが、裕也にとっては他人事でしかない。曰く『刺激的な愛』などなくとも、裕也にはひっきりなしに彼女候補が現れる。断るのも面倒だと一人に肯けば、二人目を断る理由はない。然し数ヶ月前までは、それを悩んだりはしなかった。所詮は山奥の寮生活だ。出掛ける事が面倒になれば用事があると言えば済む話で、毎週末のカルマの集会に参加する時だけは街に出るので待ち伏せされてしまえば逃げられないとしても、どうせ長続きはしない。いや、『続く訳がない』が正解だろう。そうなる様に仕向けているのだから、余りにも当然だ。

『はぁ?また振られたんか?(´_ゝ`)』
『男が出来たってよ』
『…あー、今回は3ヶ月保っただけマシか?』

最近、悩みが増えた様な気がする。一人に対して頷いてしまえば、二人目三人目を断る理由はないのだ。
一度『慰め』と言うご褒美を知ってしまえばもう、それを手に入れる為の流れ作業同然だった。王子様に憧れる無知な女のおままごとに付き合ってやって、自分の理想とは違ったと諦めさせるまでの期間。対価を得る為の仕事だと思えば、耐えられない事もない。

「神妙な表情ですねぇ。何か考え事でも?」
「…刺激的な愛ってどんなんだ?」
「さぁ。一般的には、どんな手を使っても欲しいと思う人間の事ではないですか?」

だとすれば該当するのだろうか。いや、判らない。
絶対に欲しいかと言われれば、どうだろう。清水の舞台から飛びおりる様な表情で付き合ってくれと言ってくる初々しい少女でも、ベッドの上で恥じらうのは最初だけだ。ホテルに入る事にも躊躇するのは最初だけで、二回目三回目ともなれば野外でも拒否された事はない。結果はいつも同じだ。何をしても許してくれる女は存在しない。
もしかしたらそんな女性が現れて、逃げられない様に縛られるのを待っているのだろうか。自分は。捨てられて慰めて貰うまでの『仕事』と言っている癖に、いつか捨てられなくなる日が来たらどうするかなんて考えもしない。

『懲りないっスね、アンタ』
『あ?』
『また女出来たんでしょ?』
『あー、盛大に羨ましがれや』
『大丈夫ですよ。今回もすぐ振られますって』
『何で振られる前提なんだよ。殴られてーのかよ』
『ふーん。じゃ、捨てられたくないんスか?』
『…うぜーな、何が言いてーんだお前は』
『舎弟如きが勝手に行動したって、ユーヤさんにゃ、何も関係ねぇっスよね?』

これは悩みと言えるのか。
ご褒美が欲しいから、しない方が良いに決まっているつまらない時間の浪費をし続けて、罪悪感がない訳ではない。泣いている女性を見れば可哀想だと思う。お前が悪いと詰られれば謝るだろう。世間一般では酷い男だと呼ばれても仕方ない事をしている自覚はあるが、自分から誘った事は一度もない。冗談でも、何とも思っていない人間に『好き』だの『愛している』だのは、言えないからだ。

『だって俺らは、ケンゴさんの舎弟なんスから』

好きだとか愛しているだとか、男が女に、女が男に言うのは至極普通だそうだ。判っている。
だからこれは悩みでも何でもない。依存しているだけだ。一緒に居る時間が長くなり過ぎて、今はもう、離れる事など考えもしない。離れられないのであれば離れないまま暮らしていれば良いだけだ。引き離される可能性を全て潰していけば、離れる理由はなくなるのだから。

『そんなん勘違いだって。俺もお前が好きだけど、兄弟の好きみたいなもんだ』

彼が言うならそうなのだろう。彼は一度として間違わなかった。自分には出来ない事をやってのける勇気と聡明さがあって、いつだって笑っている。こんな下らない悩みを抱えていると知られれば呆れられるか、笑い飛ばされるだろう。


『また魘されてんのか』

悪い夢を見る日はいつも、誰かが頭を撫でてくれる。
悪い夢を見る日はいつも、誰かが優しいキスをしてくれる。
そんな夢とも現実ともつかない世界に流れ込んでくる子守唄はいつも、神に愛された神童が奏でている気がするのだ。確かめる勇気もない癖に。

「もう少し体が成長すれば、手術で取り除く事も出来るんですがね」
「…は?」

考え事をしている間に一人で喋り続けていたらしい男が、優雅に甘い匂いのするミルクティーを啜りながら呟いた。プリンターからガーガーと音を立てて吐き出される診断結果の紙を一枚ずつ引き抜いては、あーだのこーだの、裕也には判らない専門用語で説明してくるが、理解する気は全くない。いつもの事だ。
生きながら死んでいる様だった。母親を目の前で失った日からずっと、眠る度に繰り返される悪夢をいつからか見なくなった。今では悪夢を見る為に眠っている様な気もするが、自分でも呆れるほど良く眠れる。最近では夢も見ない程に。

「急激な成長期では良くある事ですが、血液濃度と骨密度が置き去りにされる事があるんです。今後は、カルシウムとポリフェノールを積極的に摂取する事をお勧めしましょう」
「ポリフェノール?」
「葡萄に含まれる成分です。今後、君の水分補給にはワインがおすすめですよ」
「オレが中学生だって知らねーのかよ」
「まさか。何せこの私も中学生なので、知っているに決まっているでしょう?」

裕也より遥かに背が高い男は眼鏡を押し上げ、クリップで留めた診断結果を寄越してきた。受け取った裕也はそのままゴミ箱に投げ入れる。

「繰り返しますが、タンパク質の過剰摂取はいけませんよ。君は観察対象であると同時に、ベルフェゴールのシンフォニアなんですから」
「…耳にタコが出来るっつーの」
「ランクDでもない君がランクAの役に立てるんですから、誇らしいでしょう?ネルヴァ卿は早々の手術を望んでいる様ですが、下手すれば下半身不随になりかねないリスクを負っている。今の状態で生活に問題はありませんし、若い身空で焦る必要はありませんよ」
「都合が良い事言って、結果的にオレを献体にしたいだけだろーが」
「それほど難しい遺伝子の持ち主なのですよ、ベルフェゴール卿は。骨髄の型が一致する確率は親族間でも低いんです。グレアムでもなければヴィーゼンバーグの血を引いている訳でもないのに君は、珍しい型を持っているんですよ」

ルーク=フェイン=ノア=グレアムの円卓では、顔が知られていない枢機卿が少なくない。
組織内調査部は勿論、欧州情報部のマスターも会議には音声通信を用いて参加しており、加工された機械音声だそうだ。全て二葉から聞いた話なので信憑性はなく、円卓を離れた父親がルーク政権について知っている事は、恐らくそれほど多くはない。それなりに監視している筈だが、仕事の話を彼が息子にする事は過去に一度もなかった。

「褒められてる気がしねーな。じゃ、帰らせて貰うぜ」
「近頃うちの陛下が君の従兄を可愛がっているそうですが、嵯峨崎財閥の嫡男と大河の嫡男が良からぬ関係になっては困りますねぇ」

帰ろうと踵を返した途端、二葉は愉快げな声を出した。

「何せあの二人の共通点は、貞操観念がない所ですから」
「…文句があんなら朱雀本人に言えや」

渋々振り返ったが、顔には全力で『うざい』と書いているつもりだ。にやにやしやがってと睨んだ所で、性悪陰険ドSを喜ばせるだけだろう。

「冷蔵庫に葡萄ジュースが入っています。それを飲んでからでも遅くはないでしょう」
「金は払わねーぜ」
「ツケでも構いませんよ。君が望めば、ノアは円卓に君の為の席を用意して下さる筈です」
「テメーの将来はテメーで決める」
「ああ、ラドクリフ=フォン=シュヴァーベンの領地には未だに数々の資産が残っていますからねぇ。ネルヴァ閣下がお捨てになられたのは爵位だけで、1万haを超える葡萄畑もワイナリーも薔薇園も、これと言ったトラブルなく続いている」
「さーな。親父からは何も聞いてねーぜ」
「私には親が居ないので判りませんが、進路の話はしないんですか?ああ、まだ中学生ですもんねぇ」
「初等部卒業前の進路相談の時に『楽して暮らせれば何でも良い』っつったら、『判った』って言われたっきりだ」

息子のやる気のなさに呆れたのか、単に返事の意味での『判った』なのかは定かではないが、ほんの一年前の話を持ち出される事はない。直近での親子の会話と言えば、『中等部では何かと入用だろう』と言って、小遣いが増えたくらいだ。現金送金の他にも限度額が判らないクレジットカードを渡されているが、大食いでもなければ趣味がある訳でもない裕也の浪費と言えば、近頃通い始めた美容院くらいだ。
染める事は出来るが免許がないので切る事は出来ない竹林倭の母親は、美容師の免許の他に理容師の免許も持っているやり手経営者なので、都内で理美容店を数店舗経営している。気が向くままに髪型を変える裕也は近頃ベリーショートにハマっているので、相当な腕がある美容師に任せなければ大惨事だ。

「陛下は君が懐いている紅蓮の君のお兄さんですが、ご存知ですか?」
「…ずずず、ぷはっ。アンタの話し方、いつ聞いても苛々するぜ」
「好き嫌いはいけませんよ?大きくなれませんからねぇ」
「アンタは5大栄養素じゃねーだろ」
「お子様には判らないかも知れませんが、私の美貌はタンパク質にも勝るカロリーがあるのです」
「マジか」
「惜しむらくは、己の美貌を己の肉眼では確かめられない事ですかねぇ」
「アンタよりケンゴの方が美人だろーが」
「審美眼に著しい支障がある様ですが、視力検査もしておきますか?」

小さな紙パックのドリンクを一気に吸い上げた裕也は、ぐしゃっと握り潰したパックを書類の上に投げ落とす。

「冗談じゃねーぜ、オレはとっとと帰って寝る」
「子供は9時には寝るものです。お休みなさいリヒト=エテルバルド君」
「うぜー」
「横暴にして傲慢な『エンジェル』に食い殺されないよう、精々油断しないで下さいね」
「あ?」
「ランクAに坐す神の柱は、君如きに飼い慣らせる存在ではないのですから」
「テメーが悪魔なら、対抗馬は天使しかいねーだろ。一人で食い殺されとけや、クソナルシスト」

くすくすと笑う二葉の声には振り返らず、ドアノブを回して体を滑らせた。もう振り返るつもりはない。


「全く、高坂君の様な事を仰いますねぇ」

こんな男に付き合っている暇はないのだ。どうにもならない悩み事がある。
一度口づけを許されてしまうとそれ以上を求めてしまうのは、やはり過ぎた望みなのだろうかと。









何も望むな。
誰かに期待するな。
子守唄など必要ない。


(だってこれは愛ではない)


贖罪を。
この身を以て血で贖え。
眠り続けろ。
出来るものなら永遠に。


(穢らわしき人間の欲の証だと言う事だ)


忘れるな。
自分の所為で神の楽器は死んでしまった。





(それなのに何故自分は、まだ生きている?)



















「…うん?お前、また大きくなったかい?」

皺だらけの手はいつも乾燥していて、触られる度に引っ掻かれた様な刺激を感じる。それを素直に言えば、いつも瞼を閉じている人はきっと遠慮して、二度と触らなくなるかも知れない。だから言わない。
カサカサした指先も細いが、手首はもっと細い。日に何度か立ち上がった時は、壁に並んでいる本棚の中から丸く薄い板を取り出して、機械の上で回っていた同じ丸い板と取り替えている。あれはレコードと言う様だ。老婆があれを取り替えると、世界を包んでいる音楽が変わる。けれどどの音楽も曲名は知らない。誰も教えてくれないからだ。

「Kids grow up really fast.(子供の成長は本当に早いもんだ)」
「Kids grow up really fast.」

皺だらけの白い指先がゆったりと頭を撫でてくるので、自分の小さな指先を見つめながら、彼女の言葉を繰り返した。意味は良く判らないが、この場所で自分に向かって話し掛けてくれるのはいつも、濃い灰色の修道服を纏う人だけだった。自分が知っている言葉のほぼ全てが、老婆から与えられたものなのだ。

「アンタ今喋ったかい?私の真似を?」
「アンタ今喋ったかい?私の真似を?」
「っ、イブ!こっちにおいで、クリスティーナ!」

初めて聞いた大きな声に目を丸めていると、ベッドに突っ伏していた背中がゆっくりと起き上がる。赤く腫れた目元で振り返った女は幽霊の様な表情だったが、ぐしゃぐしゃに乱れたブロンドを整える素振りもない。目覚めると真っ先に枕元のヘアブラシで髪を整えるシスターとは、まるで違った。

「…マザー、大きな声を出さないで。頭に響くの」
「出産後初めての月経で体調が芳しくなくても、自分の子供が初めて喋った時くらい忘れなさい」
「…喋った?兄さんも私もいつの間にか喋る事が出来る様になっていたわ。エンジェルだって、喋る様になるでしょう」
「この子はまだ三ヶ月なんだよ」
「…はぁ。それが何だって言うの?もう私には構わないで…」

ほら、まただ。
一日中泣いているか泣き疲れて眠っているか、シスターに命じられた時だけふらりと起き上がっては、渋々哺乳瓶の用意をするか。金髪の女性は老いたシスターよりも更に痩せていて、今にも倒れてしまいそうだ。

「ああ、エンジェル。見なくても判るよ。…お前は精悍な顔立ちをしているね」
「お前は精悍な顔立ちをしているね」
「そうだ。でも自分を示すのはYouじゃない、Iだよ」
「僕は精悍な顔立ちをしているね」
「…賢い子だね」

皺だらけのか細い女の手が、ダークサファイアの瞳を煌めかせている赤子の頬を撫でた。

「リゲルが生きていたら腰を抜かしただろう。私より遥かに年上だった陛下が生きてらした可能性は低いにしても、ナイトが生きていたら何て言っただろうね…」
「ナイト」
「彼は夜にして騎士だった」
「ナイトはナイトだった」
「冷酷なノアを人間に成り下がらせた悪夢と陰口を叩く者も居たが、全員ジャックに始末されてきたよ。アイツは恐ろしい男だ。伯爵家に生まれたユダ」
「Judas」
「母を守る為にあの子は、歩けるようになってすぐに射撃練習を始めた。ユダヤ人を迫害する人間は躊躇なく殺した。14歳で王室に危険視されたが、アレクサンドル=ヴィーゼンバーグの結婚式の話で盛り上がった隙に海を渡ったんだ」

老婆の声を子守唄の様に聞いていた赤子は、うつらうつらと瞼を瞬かせる。

「…ああ、重くなった。眠いんだね」
「Aren't you sleepy.(眠いんだね)」
「子守唄を流してあげようね。言葉を覚える為には歌が一番だ。アダムもレコードを聴いて言葉を覚えたんだよ」

マリア=アシュレイは久し振りに微笑んだ。

「…大変なお役目を任されたあの子は、いつ帰ってくるんだろうね」

朽ち掛けた教会にもまだ希望が残っている、そんな気がしたのだろうか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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