帝王院高等学校
悪魔が図に乗ると勇者に討伐されます
「馬鹿な娘。…一度限りの機会だったのに、どうして戻ってきたの?」

叩きつける様な雨の中、烟る世界でその一部分だけが真っ赤だった。
雨傘を手に、上等な布地で設えられた細身のドレスが濡れる事にも構わず座り込んだ女の目の前には、真紅の水溜りに突っ伏している血の気が失せた肌がある。

「ユエの手が届かない日本へ帰れば、こんな目に遭わずに済んだのに」
「…可哀想で寂しい男だ、と、判っていたんです。あの人を忘れて他の人に心を譲り渡せるものなら、ふ…、一生逃げ回ったって構わなかったのに…」
「…戻ってきてしまったと言う事は、そうする事が出来なかったのね。お前はなんて可哀想な娘」
「め、いりー、様」
「小蘭、もう喋っては駄目。すぐに私の恋人達がやって来るから」

どうしてこんな非道な真似が出来るのだろうかと、祭美麗は綺麗に引いた口紅ごと唇を噛み締めた。
一度は心を許した相手ではなかったのか。自分と言う妻がありながら、子供を産ませた愛人だと言うなら、多少なりと情があるのではないのか。

「子供は?」
「…国に置いて来ました。私は…母親失格ですから」
「どうして家に戻らなかったの」
「…故郷の母が亡くなっていて。狭くて貧しい島で、たった一人で。離れて暮らしている伯母達が供養して下さったそうですが、亡くなってから発見されるまで何ヶ月も懸かって…」
「…責められたの?」
「違うんです…誰も責めなかった。…責めているのは多分、私自身」

そうではないと言うのであればどうして、この国に繋ぎ留めたりしたのだ。
何度も故郷に帰らせてくれと懇願していた事を、美麗は知っている。息子の美月にとっては良い父親だろうが、少なくとも美麗にとっても、目の前で夥しい血を流している女にとっても、あの男は善ではなかった。

「老いた母を残して勝手に飛び出した癖に、こんな時だけ頼ろうとしたりしたから…。楼月の傍で過ごしている間は母を思い出す事もなかった親不孝者だから、きっと罰が当たったんです」
「…それは違う。お前は家族を想っていた。何度も帰りたいと言っては、ユエから手を上げられていたでしょう」
「どうして…」

我が家の恥と判っていて、美麗は浅からぬ縁の大河白燕に何度か泣きついた。幼い頃の話ではあるが、結婚の話が出た事がある程度の深くはない縁に縋って、遥か格上の相手にお粗末な頼みをするのだ。どれほど恐れ多い真似か、後になって何度も後悔した。
中国全土を支配していると言っても過言ではない大河家と、香港の管理を任されているに過ぎない祭家では比較対象にならなかった。本社社長に対し、支店長が直々に物申す様な事だ。普通ならば有り得ない事だが、幼馴染みの縁で話を聞いてくれる白燕社長には感謝してもし尽くせない。

「気紛れに耳打ちしてくる者がいる」
「え…?」
「洋蘭が助けなかったのは、お前に救いを求める意思が感じられなかったからと言っていた。…既に美月は、手の施しようがないほど怒り狂っているわ。お前が死んでしまえば、私の息子は己の父親を殺しかねない」

それでも大河の当主が仕事に関係しないプライベートな問題で、幹部とは言え下位の祭に直接何かを言う事は出来なかった。出来ないと言うよりは、格好がつかないと言った方が正しいだろう。
大河を支える『大老』と呼ばれる最高幹部は四家あり、元を正せば王族だった大河に仕えてきた歴史が長い家名ばかりが肩を並べている。後継に恵まれない李家の当主がかなりの高齢であった為、数年前に養子を迎えるまでは引退か代替わりの話が頻繁に出ていた。その混乱の隙に、野心のまま上り詰めていた祭楼月が若くして名乗りを上げたのだ。
経済状況が安定している香港で、若輩ながら財産を築いた楼月は間もなく香港全域の支店を管理する頭取に任命された。異例の出世だったが、それを期に幹部扱いされる事になっている。大半は『若い割には良くやる』と言う評価の様だが、楼月の人となりを知っている者は語るまでもない。

「…縁起でもない」
「私とお前は他人でも、美月と青蘭には切っても切れない縁がある。お前が死ねばユエは青蘭を探し出し、きっと殺す。あの男はそう言う男」

大老格の古い幹部達は『威勢がいつまで続くか』と静観している様だが、大河の繁栄に尽力している間は多少のトラブルは『若気の至り』で見逃している節がある。それほど豪胆な人物が集う大老を従えた大河にとって、祭の内情など語るまでもなく些細な事だ。
中国全域の金融市場を監視している大河白燕に暇な時間はないに等しく、幾ら妹の様な幼馴染みの頼みだとは言え、出来る最低限の加勢と言えば、仕事にかこつけて『ちょっとした小言』を伝える事くらいが関の山だ。何しろ、基本的に北京か上海に腰を据えている白燕社長が楼月と直接会話する機会など、年に数えるくらいしかない。グループ総頭取の社長ほど多忙ではないにしろ、楼月は楼月でそれなりに忙しい身の上だ。

「…今回の件では朱花様が激怒なさっているから、ユエは社長から厳しく叱られるでしょうね」
「朱花様が…?」

けれど白燕は何も、それほど効果が期待出来ない小言だけで片づけるつもりはなかった様だ。
アメリカ育ちで中国語に苦労している妻の話相手として美麗を紹介し、大河朱花が出産した頃から美麗は定期的に彼女とお茶会を開いている。とは言え頻繁に会っている訳ではないが、電話連絡は欠かしていない。父親に似て聡明で、母親に似て活発な大河家の一人息子は自宅の周辺に同年代の友人が居らず、美月と李家の養子である上香を遊び相手にすると楼月の前で言い放った。
恐れを知らない大河朱雀の傲慢なほどの命令に逆らえる者は祭には存在せず、以降『朱雀様がいつ遊びに来るか判らない』祭家の本宅では、愛人とその子供を押し込む様な形で部屋が増設された。気軽に大河朱花が祭家を訪れられる様になった事と引き換えに、愛人達の僅かな自由は消滅したのだ。

「私の我儘で朱花様にお越し頂く様になってから、お前達は酷い目に遭ってきた。私も朱花様も常々それを悔いていたの」
「…そうだったんですか…」
「朱花様は大河が直接手を貸せないのであれば、ドイツのお姉様に今回の件を話すと仰っているわ。貴方が望むなら、サニア様が我が家に圧力を掛ける事も出来るでしょう。…圧力に留まらず、潰す事も難しくはない」

手段を選ばない傲慢な野心家が築き上げてきた財産を、アメリカ将校の娘は容易く握り潰してしまえる。彼女の夫がステルシリー最高幹部である限り、この国で最も恐ろしいとされている大河白燕でさえ手が出せない相手だ。

「朱花様とサニア様には、お前と同じ日本の血が流れている」
「…」
「日本人は非道な民族だと聞かされて育ったが、私にはお前が非道な人間には見えない。何故こんな目に遭ってまで、お前はユエを憎む言葉を言わないの?」

寛大な心で許してやれとは言わない。けれどここまでする必要はない筈だ。
男と逃げた愛人がそれほど憎かったのか。結局は逃げずに一人で戻ってきた女の前で、捕らえてきた相手の男を拷問する様な真似が、まともな人間のやる事なのか。

「私はあの人を憎んでいません…」
「私には本心を隠す必要はないのよ…?青蘭の事だって、私に一言言ってくれれば」
「そんな、事。…美麗様にこれ以上の迷惑は掛けられません。どうか、私などに構わないで下さい…」
「いいえ、構わせてちょうだい。私が一度として愛せなかったあの男を、お前はこんなに慈しんでいる。これほど心優しい娘をこんな所で死なせてなるものか」
「ではこうしましょう」

世界は激しい雨が叩きつけ、灰色に等しい暗さが全てを包み込んでいる。
そしてそれは音もなくやって来た。

「っ、お前は此処で何をしているの?!」
「ユエの愛人を連れ出した男が拷問中に死んだので、下々の我々が掃除を任されたんです。放っておいてもこの雨が片づけてくれるでしょって言ったんですけどねぇ、折角ステルスの入口を特定したと言うのにユエは僕を褒めてくれませんでした。どうも更年期障害の様ですねぇ、イライラしちゃって。男のヒスは見苦しいですよねぇ」

殴りつける様な雨の中に現れた、濡れそぼる蒼と碧の双眸の主は、果たして天の使いなのだろうか。

「そんなに睨まないで下さいますか、美麗奥様?」
「お前…!」
「ご安心下さい。僕がその女にとどめを刺して、ユエに首を献上するんです。そうすれば奥様がユエから殴られる事はありません」

鼓膜を揺さぶる幼子の悍ましい台詞は、轟音の様な雨音を容易く掻き消したのだ。













“沢山の獣を抱いた男の足はボロボロで、”
 “いつか神の龍に気がついた非凡な人の子は”
  “己が母なる龍の鱗から産まれた命だと知らなかった”

“その腕に抱いている異形の兄弟の骸は動かない”
 “彼だけが鳥居を潜っていく”
  “天へ、天へ、天へ”


覚えていますか、母なる光の化身よ。
いつか光を追い続ける貴方の踊る体に気づいた私は、貴方が零した嘆きの雫を掻き集めたのです。
いつか再びあの時のまま、神々しくも勇ましく空を駆ける貴方を見上げる事が出来たなら、人に捨てられた私の哀れな生涯にも一片の意味があったのだと。

けれど掻き集めた母の鱗はどれも、命を宿していました。
そのどれもの命が大地を駆ける、獣の形をしていました。空を駆ける者は一つとして。



「天元は川の畔で歌っていたんだ」
「…ふん。赤子は泣くものだろう」
「お前さんは猫なのに喋っているじゃないか。この世には不思議な事が沢山あるんだよ」
「引き籠もりの帝が言うんだから、説得力がある」
「あはは」
「天元は何処へ行った?」
「俺を追ってきたつもりはないんだろうね。でも同じ様な足跡だった」
「それなのに辿り着いた先がまるで違うのは?」
「あの子の愛は、純粋だったから」
「お前様は」
「…前世で間違ってしまったからだよ。生まれた時からずっと、俺を呪う女の啜り泣きが聞こえるんだ」
「ただの罪悪感だろう」
「本当に聞こえるんだよ」
「俺が恨んでるって?」
「前世のお前さんが」
「下らねぇ。この俺が捨てられて嘆き悲しんだ上に、逆恨みすると思うか?」
「じゃあ、俺は何に怯えてたって言うんだい?」
「俺が知るか、馬ぁ鹿」

光に焦がれ、大地に生まれた陰陽師は天神の元に辿り着いたそうです。
けれど彼は山を降りた先、何一つ覚えていませんでした。そう、失った家族とのささやかな記憶すら。



“一匹の狸を抱いた男の体は寒さで凍え、”
 “いつか神の生まれ変わりとされた天孫は”
  “己が犯した罪に苛まれ続けた”

“その腕に抱いている愛しい命は二度と息吹かない”
 “未練だけが鳥居を潜っていく”
   “天へ、天へ、天が駄目ならいっそ、…宙へ”


『…またこじ開けたのか。箱から出てきた、あの時の様に』


そこで彼は初めて、永遠に続く虚無を視た。
認識する形を持たない何かがじっとこちらを見つめている気がした。興味深げに、無関心に。



「…あれは神様だったのかな」
「俺が知るか」
「何かが俺に話しかけて来たんだよ。退屈で仕方ないから体を貸せって言うんだ。俺は女の泣き声から逃げたい一心で、体を譲ってしまった」
「そこに俺が来た」
「俺は此処で見てたよ、じーっと。お前さんは狸の癖に猫の振りをして、俺の形をした何かに話し掛けてた」
「『出てこい引き籠もり』」
「俺だったら無礼者めって剣を投げてたかもね」
「でもお前様は出てきただろう」
「だからあれは、俺じゃないかったんだよ」
「でも体はお前様だ」
「肉体の所有権を譲り渡したんだから、どんな使われ方をしても文句はなかったんだろう?一生誰にも関わらず生きていくつもりだったなら、幾ら逃げたいと思っていても、『それ』と関わる必要はなかった筈だ」
「…そうかな」
「でもお前様は選択した。心の何処かで望んでいたからだ」
「…そうかな」
「だから俺が死んだ瞬間に、体を返せと望んだんだろう?」

永遠に続く虚無に耐えられなかった神様は、己とそっくりな半身だけを残して人間になろうとしたけれど。
退屈をほんの一時紛らわせてくれた猫が死んだ瞬間に、再び絶望してしまった。どうして命とはこんなに儚いのか・と。

「神様は空っぽになる事を選んだんだ。絶望した神様は虚無へ帰ってしまった」
「今あそこに座ってるアレは?」
「…抜け殻だよ。神様と同じ形をした、空っぽな何か」
「アレは何を待ってる?」
「多分、本当の終わり。作る事しか出来ない半身が消えてしまったから、新しいものは生まれないんだ」
「世界は輪廻で繋がれていて、魂は繰り返し生まれ変わる。終わりは本当にやってくるのか?」
「知らない。始まりと終焉を繰り返す事を知っているのは、神様だけだから」
「神は消える事なんて出来るのか」
「…知らない。でも俺の体を返してくれた神様は、もう何処にも居ないんだ」
「人の王は神が一番最初に作った人間だろう」
「そうだよ。俺は神様が作った物体の中で、初めて自分の意思を宿した人形だったんだ」
「意思はいつ宿った?」
「回り続ける光と闇を見つめている内に」
「本当か?」
「…赤い実を食べさせたんだ」

迷信じみた夢物語の信憑性は皆無だ。真実は誰にも判らない。

「最初に実を貰った俺は怖くて食べる事が出来なくて、あの子に食べさせた」
「あの子」
「美味しいって笑ったんだ。だから俺は安心して口をつけた」
「で?」
「すぐに判ったんだ。ああ、これは食べてはいけないものだったんだって」
「どうして判った?」
「愛してしまったから」
「誰を」
「たった二人しかいない世界で、片割れを」
「始まりの女」
「…妹だった。俺達は同じ神の木から生まれた兄妹だったんだ」
「生まれた子供は」
「…最後の子は俺が殺した。あれを生んだから、妻は死んでしまったんだ」
「そんなに愛していた癖に、他の女に乗り換えたんだろう?」
「だって黄泉比良坂の扉は固く閉ざされていたんだ。それにあそこには永遠の奈落が広がってる。俺は…怖くて」
「怖くて?」
「忘れてしまえば楽になれる、って。思ったんだ」

純粋に。ひたむきに。ただただ実直に、例え愚かでも。
自分の意志で何かを守り抜く事が出来る力があれば、己の罪悪感が作り出した幻影に苦しまずに生きられたのか。

「天元みたいな男になりたかった。助けてくれって、誰も助けてくれなかったとしても、…叫べば良かった」
「うん」
「…もし神様が消えてしまったこの世界で、輪廻がもう一度巡ったら」
「巡ったら?」
「今度こそ強い男になって、お前さんを守るよ」
「どうだか」
「神の最初人形でも天孫でもなく、ましてお飾りの帝でもない。お前さんを愛するだけの男になる」
「どうだか」
「…信じてくれなくてもいいよ」
「傲慢な蛇に騙される様な馬鹿だもんな」
「蛇…?って、何で知ってるんだい?」
「女は男よりずっと打算的な生き物なんだ。だから女狐って言葉がある」
「え?え?」
「狐に化かされた様な面だなぁ、箱入り人形さん」

生きる事に疲れたのだと、絶望する者は一様に繰り返した。

「ささやかな未練だな」
「え?」
「…俺の半分にも届かない」

感情があるから絶望するのだと、結局いつも、同じ結果が繰り返される。
どんなに切実に約束を積み重ねても、死ねば全てが虚無の果てに埋葬されて、終焉の先で悼む者は存在しない。



「覚えておけ。狸も化かすのは得意なんだ」






















「そんな所で初等部の生徒が何をしているのかと思えば、中等部の生徒でしたか」

今週は一度も会わずに乗り切れるかも知れないなどと、淡い期待を抱いた月曜日午前中の自分を殴り飛ばしたい気分だ。つまりは今日の午前中の自分の事だが、今更嘆いた所で時間を巻き戻す事は出来ない。

「…高等部進学科の先輩様は、午前中の測定が終わったら七時間授業に切り替わるんじゃなかったんですかねー?」
「おやまぁ、高等部の事情に詳しいと言う事は、尊敬する先輩の行動に大変な関心があるんですねぇ」
「誰もが知ってるただの!噂話!…ですけどー?」
「おやおや、体の割に大きな声が出るものです。元気で大変宜しい」
「…ありがとーございます」
「どう致しまして」

新年度の最初に行われる身体測定。本来は午前中に初等部、午後に中等部の二部構成で行われる筈の年中行事だが、本年度の高等部は通年より生徒数が多いそうで、一般学部普通科・技能専修学部・国際学部が初等部と同じ日に測定を済ませている。先週の金曜日の話だ。
土日は休日の教職員も多く外部の病院から医師を招いて行われる診断もある為に、週が明けた今日、先送りになっていた高等部進学科と『総合学部』と言う正式名称が殆ど知られていないFクラスの測定が執り行われ、残す所は山田太陽ら中等部だけになっていた筈だった。東京本校にもう一つ存在する最上学部は、その殆どの行事を都内の別キャンパスで催しているので、基本的に本校の年中行事には参加しない事になっている。

「では、これ以上お忙しい中央委員会会計閣下の手を煩わせる前に失礼します。永遠にさようなら」
「照れなくても宜しいんですよ、中等部3年Sクラス21番山田太陽君」
「ぐふっ。ちょ、襟引っ張んないでくれます?喉が締まるんですけどっ」
「嫌ですねぇ、締まる様に引っ張ったんですよ?」
「!」

本来は教室で体操着に着替えるべき所だが、元ルームメイトに掠り傷とは言え怪我を負わされた一件から噂の的になってしまった過去がある太陽は、わざとらしいほど人との関わりを絶ってきた。現在の太陽に話し掛けてくる人間と言えば、高等部御三家と名高い中央委員会会計にして風紀局長、通称『白百合』だけだ。
午前中に測定を終えている筈の叶二葉が午後の体育館に現れる筈がないと高を括り、中等部とは違いカリキュラム数が圧倒的に多い進学科の放課時間は夜七時を過ぎる筈だと過信していた太陽は、己の浅はかさを呪った。顔には出していないつもりだが、自信は少しもない。

「好きな子につい憎まれ口を聞いてしまう、思春期ですねぇ?」
「アンタ何言ってんですか病気なんじゃないですか二度と起き上がれなくなればいいのに」
「何か?」
「いやー、白百合様は相変わらずお美しいなーって感心してますですはい」

込み上げてくる嫌悪感を必死で呑み込んでいる14歳の表情が『照れている』様に見えるのだとしたら、それはそれで心の底から吐血したい気分だ。
自称面食いの太陽が『顔を見ただけで回れ右したくなる』人間と言うのは、生涯に於いて目の前の性悪陰険二重人格腹黒眼鏡だけなのだから。

「そうでしょうとも。美しいものに心を奪われる事は自然の摂理、恥じる必要はありません」
「変なこと尋ねますけど、自意識過剰って言葉知ってます?」
「ええ。ですが私はどの角度から見ても美しいでしょう?」
「…そうですねー」

黙れナルシストがと鋭いハリセンツッコミを入れてやりたい気持ちを拭いきれないとしても、確かにこの男は美人と称するべき人間だ。
百歩譲って魔王と陰口を叩かれていようと、Fクラスの生徒が二葉を見た瞬間に180度ターンをしたとしても、二葉は美しい。黙っていれば一生眺めていられる気がするほどには綺麗だ。美人は三日で飽きると言うが、絶対に飽きない自信が太陽にはあった。

「人生の悩みは、この恵まれすぎた外見に尽きるでしょう。右から見ても左から見ても下から見ても上から見ても至近距離で見つめても美しいの一言ですからねぇ、ふぅ。ブスは化粧で変化を楽しめますが、私の顔に添加物を塗りたくるなんて神をも恐れぬ暴挙でしょう?ですから私は、365日すっぴん美人」
「男は大抵すっぴんだと思いますけどねー」
「そこはかとなく過剰に美しいだけの、つまらない男なのです」

但し、上唇と下唇をタコ糸で本返し縫い3周くらいしていればの話である。ちゃちゃっと雑な波縫いでは全然駄目だ。何重にも縫いつけてこそ、何ならワイヤーで縫ったくらいで丁度良いかも知れない。若しくはアロンアルファーでしっかり接着した後に、駄目押しのセメントで固めても構わないくらいだ。

「ああ、悲しみの余り握った襟が手放せそうにありません。このままでは3年Sクラス山田太陽君の慎ましい喉仏が引っ込んだまま出てこなくなるかも知れませんが、悲しんでいる私を慰めようともしないんですから、自業自得」
「…悲しんでる割に俺の喉仏つんつんしとるやないか〜い」
「ついうっかり。見た目は小さいのに、触ってみると中々どうしてしっかりした喉仏ですね」

いや、何で他人から喉仏をつつかれまくらねばならないのか。セクハラではないかと思ったが、風紀に訴えた所で逆に太陽が懲罰棟に投げ込まれる恐れがあった。
アンダーライン内部が活動エリアの中等部生徒にとっては、同じ地下にある懲罰棟の噂は幾つも存在し、一説によると中央委員会役員の逆鱗に触れただけでぶち込まれる所でもあると言う。流石にそれはないとは思うが、目の前の性悪二重人格魔王だけは実に有り得る話だった。これほど美しく成績優秀でありながら魔王と呼ばれているのだから、『パンがないなら私の美貌を眺めれば良いじゃない』と素面で言ってのけそうな雰囲気だろう。

「えっと、つまんなくはないんじゃないかなーと、思ったり」
「理由は?」
「理由が要るってか…?!えっと、背も高いし、足も長いし、手袋で判んないけど指もきっと長いんだろうし、うーんうーん」

他には顔が良いくらいしか思いつかない。仕方ないだろう、太陽は二葉の事など殆ど知らないのだ。
二年生に進級してすぐに元ルームメイトから怪我を負わされると言う事件に遭遇し、野生の猿の様に寮の中庭に植樹されている木から唐突に現れた怪しげな仮面の男が助けてくれたと思えば、遅れて風紀委員が駆けつけてきた時には既にその姿はなく。
入れ替わる様にやって来たとんでもない美人は開口一番、『こんな貧相なブスが暴行されたなんて世も末プゲラ』とほざいたのだ。いや、意訳するとこんな感じだった訳だが。なので太陽の二葉に対する第一印象は最悪だった。噂の白百合を目の前で見た感動など、3秒くらいですっ飛んだ。

「そんなに私に興味があるなら、根掘り葉掘り教えて差し上げましょう」
「すみません着替えて身体測定を受けないといけないので非常に心苦しい限りですが失礼します、さようなら。永遠に」
「待ちなさい」
「グフッ」
「此処で着替えれば良いではありませんか。たった今、脱ごうとしていたでしょう?」

去年と殆ど変わり映えしない教室で着替えるのは、何なく気不味いな〜などと言う軽い気持ちで、昼食を食べずに真っ直ぐ体育館まで走ってきたと言うのに。測定用の機材やブースは設置されているが大人の姿がない体育館は静まり返っていて、実はおっかなびっくり隅っこで着替えようとしていたのに。
ブレザーを脱いでネクタイに手を掛けた瞬間、魔王が降臨した。誰だこんな静かな体育館に魔王の召喚陣を用意した馬鹿は。男たる者、人生に一度や二度魔法陣を書く事はあるだろう。斯く言う太陽は何十回書いたか覚えていない。此処だけの話、初等部時代にはオリジナルの魔法陣も幾つか作ったものだ。いや、幾つかどころではない。ノート数冊を費やした。今になっては誰にも言えない過去だが、太陽が描いた魔法陣から何かが出てきた事は一度もない。まぁ、当然だろう。

「多忙を極める中央委員会役員には授業免除権限があり、隙間時間に測定を受けられるんです。私も今からなので、先に着替えておきましょう」
「お一人でどうぞ。人様の前で着替える趣味はないんで」
「逃げるんですか?男の癖に脱ぐのが恥かしいだなんて、可愛らしい人ですねぇ」

むかっと来た。勿論、人前で素っ裸になるのは多少の抵抗があるが、着替え程度を恥ずかしいと思った事はない。現に市民プールだの実家から程近い健康センターだのには、昔から弟の夕陽と何度も通っている。
昔から何をするにも苦労なくある程度はこなせる太陽と違って、小学校中学年まで泳げなかった夕陽は、夏になると泣きついてきた。仕事で滅多に帰らない父親が頼りになる筈がなく、『母さん日焼けしたくないんだわ』と言う自分本位な言い分で引率を嫌がってくれる陽子も役に立たないとなれば、最後の呪文は『助けてじーちゃーん』である。

『…じーちゃんはこれでも、器用貧乏だって褒められ続けた人生なんだ』
『貧乏って褒め言葉だっけ?』
『若い頃はかけっこで毎回3位だったし、勉強してもしなくても70点は取れたし、人の顔を覚えるのは得意だ』
『うん、それ今水着姿で仁王立ちして言う台詞かなー?とか、思ったり』
『じーちゃんにも苦手な事はある』
『泳げないんだね?』
『うん、じーちゃん鼻つまんでないと潜れないんだ』
『…だったら付き合ってくれなくても良かったのに』
『だって孫がプールって言うから、庭に出せるビニールのプールだと思うだろ?!』
『俺らもう小4だからねー』
『村井和彰、一生の不覚…っ』
『そこまで悔やまなくてもいいんじゃ?』
『こうなったらじーちゃん、売店で浮き輪買ってこようかな』
『幼児用の浮き輪しかなかったからやめときなよ。じーちゃんはシニア用歩行コースでお散歩してて』
『そんな無体な…』
『お腹空いたら呼ぶから、お財布は持っててねー』
『年々陽子に似てくるなぁ…。じーちゃん、ちょいとショック』
『男は親の背中を超えるもんだよ?』
『下の毛も生えてない癖に言う事だけは一丁前な。判った判った、じーちゃんの屍を越えていけ』
『越えない越えない、脛を齧らせてくれたらいいよ』
『ちゃっかりしとる。そんな所だけ大空に似たか』

結局、歩行コースで三回溺れ掛けた祖父は監視員に呆れられ、大人しくプールサイドで膝を抱えていた。夕陽が泳げるまでの間ずっと付き合ってくれた事には感謝しているが、あの時以来太陽は助けてじーちゃんの呪文を封印している。

ノート数冊分練習した魔法陣も唯一使える呪文『ヘルプじーちゃん』も封印した今、むかっ腹が立った太陽が取るべき行動は一つだ。正々堂々と脱ぐ。これっきゃない。
しかも普通に脱いだくらいでは魔王の顔色は変化しないだろう。ならばいっそスラックスを脱いだつもりでパンツごと脱いでみてはどうだろうか?どんなに性悪だろうが女と見間違える顔をしているのだから、きゃーっと顔を覆って逃げていくかも知れない。

ああ、変質者の気持ちが少しだけ判る様な気がする。


「…山田太陽君」
「何ですかっ。黙って着替えればいいんでしょ、着替えればっ」
「スラックスと一緒に下着も脱いでらっしゃる様ですが、体操着はノーパン派ですか?」
「へ?」

恥ずかしさと気まずさを怒りの勢いで飲み込んだ太陽が、男らしくしゅばっと脱ぎ下ろした足元のスラックスの中に、履き慣れたトランクスの裏地が見えた。何かブラブラすると両手で股間を押さえた太陽は、真顔で二葉を見つめながら足で拾い上げた下着を鷲掴むと、くるっと二葉に背中を向けていそいそ履き直す。
哀れ中学三年生は耳まで真っ赤だが、言うのは野暮だ。

「べ、別に男同士なんだから、全然平気ですけどっ」

しょぼい強がりをほざきながらシャツを脱いだ太陽は、魔王が尻を凝視していた事に気づかなかったらしい。

←いやん(*)(#)ばかん→
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