帝王院高等学校
ご一緒に歌って踊り狂いましょう!
“通りゃんせ、通りゃんせ”
 “細く長い千をも超える階段の先、朱色の鳥居は今、何色?”

キラキラと、あの日はまるで宝石の様に光っていた。

『お前なら何処へなり飛び立てよう』
『You can't go back to where you used to be, you right?(当然、戻れない事を覚悟しているんだろう?)』
『龍雲の如く』
『Don't look back that you should bring it on down, like be the lit.(逃げ切れる自信があるなら振り返るな、燃え尽きるまで)』

世界中で一人ぼっちの様だった。
音が消えたあの日、一人の老婆が永遠の眠りについたのと同時に、歌う事をやめた瞬間から。もう誰も、歌っておくれとは言わない。

“動かなくなった獣を抱いた男が二人、ひたひたと登っていくよ”
 “まるで落ちる様に”
  “追われる様に”

覚えていますか。
記憶の残骸と共に過去に葬った、古い記憶の欠片達を。

『兄様』
『私はお前の兄ではない』
『うーん。じゃあ、義兄様』
『…どう違うか理解に苦しむな』
『だって、いつまで経っても名前教えてくれないんだもん。イクスもルークも、本当の名前じゃないんでしょ?』
『…名とは個人を識別する為の記号だ。知った所で、何も変わらない』
『ランクDみたいに名前がない人間には意味がないんだよ』
『下らん戯言を言う。人に生きる理由などなかろう』
『どうして』
『…私もそなたも、利用価値がなくなれば躊躇なくアビスへ落とされる。宝石として選別されるのは、磨いて光る石だけだ』
『義兄様は磨かなくても宝石みたいだよ』
『そうか』

撫でて貰う為だけに歌ったいつか、誰も歌えと言わないのなら自分はもうきっと、誰にも触っては貰えないのだ・と。



『Don't be afraid, angel.(大丈夫、恐がらなくて良い)』


人生で一度だけ、何もしていないのに抱き締めて貰った事がある。
たった一度限りの記憶はもう、遥か彼方、記憶の残骸に埋もれて消えてしまったのだ。





「助けて欲しいのか」
「うん」
「交換条件に自由を奪うと言ったら、どうする?」
「何でも良いから」
「業を縛るぞ」
「良いよ」
「紅蓮の鳳凰が解き放った楔を再び繋げば、二度と飛べなくなるかも知れない。俺は鳥の輪廻の外に在る存在だ」
「…何でも良いよ」
「そうか」

赤い赤い彼岸花が、夕陽の町並みに揺れていた。空から降り注ぐ黄金の黄昏を浴びた金色の何かが、大地の上から見上げてくるのだ。
あれは8月半ばの、ほんの一瞬の記憶。

「お前は今日まで、犬であり鳥であり光であり雲だった」

覚えていますか。

「…空の名を捨てて、悪魔に魅入られる宿命を」

神様の様な声だった。
神様の様な眼差しだった。
たった一度抱き締めて貰った記憶を捧げてでも、その命が助けられるならば、もうそれだけで。


「Close your eyes.」

石ころ同然の自分が生まれた事には、きっと意味があったのだと。(そう思った事すら忘れても、きっと構わないから)










「義兄様、まだ痛い?」
「いや」
「結局、アイツの角膜は合わなかったんでしょ?あんな役立たず、とっとと捨ててしまえば良いのに」
「技術班の人工角膜はセカンドに適合したが、現在の技術では強膜ごと取り替える必要がある。哀れな事に術後、脈絡膜との境に多少の出血見られた所為で美しい瞳の色が変化してしまった」
「義兄様の所為じゃない。アイツは生きてる」
「私の元に新たな試験薬が届いた。セカンドの角膜を媒体に私の角膜をトレースした結果、紫外線の影響を受けない目薬の開発に成功したらしい。既存の薬はマジェスティキングの為に作られたもので、私には適応しなかったからな。それでもまだ、そなたはセカンドを役立たずと罵るか?」
「…僕は義兄様の役に立ってる?」
「珍しい事を言う」
「犬には忠犬って言葉があるけど、猫にはないんだよ」
「それがどうした?」

かちりかちりと、何処かで何かの音がする。

「ねぇ、義兄様。俺は義兄様の何だった?」
「そなたは気高く聡明な猫だ」
「…義兄様には、誰も何も必要ないんだね」
「…聡明なそなたらしからぬ事を言う」
「俺らしいって何」
「私には些細な酸素、並びに膨大な量の水素化合物が必要だ。ただの人で在る限り、その現実は変わらない」

それはまるで、崩壊へのカウントダウンの様だった。

「…そうか、そうだね」
「何が不満だ、私の可愛いルビーよ」
「俺はダイヤモンドになりたい」
「ほう、金剛石か」

引き止めては貰えない事など、確かめるまでもなく知っていた筈だ。何を悲しむ必要がある。事実を再確認しただけだろう?
絶望の淵へ落とし込む、鋭利で無機質な声音を憶えている。忘れる事は決してない。

「世界で一番固いダイヤモンドに、なるんだ。もう義兄様にも母様にも誰にも、俺を捕まえる事は出来ないんだよ」
「あれは炎の前では無力なただの石だ。燃えれば炭素として、些かも残らず消える」
「それでも良いんだ。消えるまでは、誰かに大切にして貰えるから」
「そうか」

人間の心は肉と血で出来ている。高価にして強固なダイアモンドには決してなれない。
毎日歌っておくれと言ってくれた人は永遠の眠りについて、あの寂しい地中の教会は忘却の楽園として朽ちるまでそこに在るばかり。

「義兄様」
「ああ」
「俺は日本に行くよ」
「そうか」
「もう、此処には戻らないよ」
「望むままに征くが良い。私の可愛い、ファースト」
「…グレアムは、俺なんか必要じゃないでしょ」
「真の兄が恋しいか?あの島が気に入ったのか」
「…そんなんじゃない」

一秒ごとに風化していく。音もなく、少しずつ、けれど容赦なく消えていく脆弱な存在。

「紅蓮に彩られたそなたに、あの国は良く似合う。私とは違って、日に愛される権利があるのだから」
「俺の髪が義兄様を灼いた太陽の色だから?」
「エデンズアップル。禁忌と知りながら、人は欲を抑えられない」
「俺は邪魔だった?暑苦しい太陽と同じ、毒林檎の色だから」
「いや」

今の自分の様に誰の記憶にも残らないまま。気づいた時にはもう、何処にも存在しないのだろう。
けれど失ってから惜しまれるのであれば、それは幸せな事だ。消えてしまった事すら誰にも知って貰えないとすれば、存在した事実さえ残らないのだから。

「そっか。…きっと俺なんか、邪魔にもならないんだ」
「そなたの背に、紅蓮の翼があるならば」

嫌いだと言われた方が良かった。二度と見たくないと追い払われる方が幸せだった。
恨む事が出来ればきっと、未練の度合いは違っただろうと思う。そのくらい与えてくれても良かった筈だ。

何処までも無慈悲な神の子。
何にも執着しない、全てに平等な神の子。
自分は最後までその他大勢の中の一人でしかなかった事を、容赦なく思い知らされただけ。

「…何処へなりとも、飛び立てよう。龍雲の如く」

例えば飼い主を簡単に忘れられる猫だったら、世界はもう少し単純だったと思う。
人間は簡単に忘れられる生き物の筈なのに、どうして、忘れたい事ほど強く覚えているのだろうか。



「………さようなら、嘘吐きな義兄様。」


愛しているのだと蝉の様に歌った所で自分は、一瞬のノイズにすらならなかった。







“見ろ、悪魔が追ってきた”
 “けれどお前が望んだ事だ”
  “交わした契約は決して覆らない”

“通りゃんせ、通りゃんせ”
 “かごめ、かごめ”
  “お前は永遠に虚無に囚われた、籠の鳥”



ああ、こんな日に限って空は何処までも青く澄み渡っている。
心境が空に影響を与えられるとすれば、今この瞬間は大嵐であるべきだ。

「Don't you believe in the childish superstition that you will be really an angel?(自分が本物の天使になれるとでも信じていたんじゃないだろうな?)」
「…黙れクソジジイ、退かねぇとぶっ殺すぞ」
「何処に逃げようがステルスに縛られ続ける禁忌の子。やれるものならやってみろ、コード:ファースト」
「I'd really like that!(とっととくたばれ!)」

二度と振り返るまいと誓った過去に置き去りにしたままの、祈りにも似た小さな約束を思い出していた。

『いつか三人で手伝いをしてくれる様になるんだろうなァ…なんて』
『そんでいつか可愛い嫁さん貰って、可愛い子供と孫達に囲まれて』
『俺は百歳まで生きてやる』
『孫にじーちゃんって呼ばせたい』

嘘つきめ。
自分だけとっとと死んでしまって、置き去りにされた人間の気持ちなんて知りもしないんだろう。

…酷い悪夢だ。
この世ではない何処かで嘲笑っているのか、残酷なナイトメア。

「肩が砕けた音がしただろう、エンジェル?」
「っ、う…」
「射撃訓練を受ける前に見様見真似で引き金を引いたまでは褒めてやるが、お前の短所は幼さ故の無謀さだ。だから余所者に統率符を奪われる」
「ぅる、せぇ!二度と俺の前に面見せんな!」
「いつか降り掛かる悔いすら捨て去り与えられた名のまま、飛べるものなら飛んでみろ。…生きる事に絶望する前に」

どう足掻いても忘れられずに、果たされない約束を呆然と抱えている。心はとうに死んだつもりだった。

『っ、何と言う浅はかな真似を…!』

あの時、己の死に方を選ぶ権利は手放した。(神が消えた日)(ノアがノヴァへと変わった落日)(許されざる罪を犯した瞬間に)

『だって、狡いじゃないか。どうしてナイトまで埋めなきゃならないんだ…?』
『何が狡いだと?!貴様は畏れ多くも、神の墓を掘り起こしたんだぞ?!』
『ナイトの遺体から筋弛緩剤の成分が検出された』
『っ、は…?』
『どうして陛下の元に逝かせたりしたんだ。ナイトは、遠からず死んでいたのに』
『師君は一体、何を言って…』
『脳が明らかに縮小していた。医療班が気づかない訳がない。…然しお前のその表情を見るに、知らなかったんだろう?』
『…』
『だとすれば、データは中央情報部を通さずリゲルの管理下にあったんだ』

全身を焼かれたノヴァは死して尚も気高く美しいまま、眠っている様にしか見えないパートナーと同じ棺の中で、永遠に土の中で眠る筈だったのだろう。自分と言う裏切り者さえ現れなければ。

『僕は…』
『オリオンは知っていたんだろう。俺もお前も知らされないまま…いや、気づこうともしないまま。ああ、そうだな。だから陛下は形振り構わずナイトを迎えに行ってしまったんだ。自ら聖地と定めた日本へ、…持病を忘れていた筈がないのに』

いつか紅蓮の炎に焼かれたノアの一族の生き残りは、ゼウスの齎す光の恩恵を捨てポセイドンが統べる海を渡った先、ハデスの支配が息吹く大地の下に寄生した。
地上のあらゆる国の干渉を受けない男爵は、復讐する事も絶望する事さえも許されず、家族が最後に残した『お前は生きろ』と言う祈りに似た約束だけを背負ったまま、生きながら死んだ人形同然だったけれど。

『どう足掻いても夜は光に焦がれ、光は夜に愛される。…俺はどんなに惨めでどんなに無様でも構わないから、ナイトに生きていて欲しかった』
『…』
『それなのに、酷いじゃないか。人の記憶をアーカイブしている脳が使い物にならなければ、復元する事が出来ないと言うんだ』
『何を、馬鹿な事を』
『空気を送れば心臓は動くんだ。今は無理でもいつか、ステルスが全力を挙げれば不可能も可能になる筈だ』
『自分が何を言っているか判っているのか?!…貴様は死者を冒涜している』
『…そうだろうな。俺は、イエスを裏切ったユダの様な楽な死に方は選べない』

絶望はしない。する権利がないからだ。
意気地なしが後悔を覚えた所で、死人は生き返らない。空の名を持つ二人は、空よりずっと遠い異次元に旅立ってしまったからだ。



「くく、は…はははっ。
 そうだエンジェル、振り返るんじゃない。ヤコブの民の俺が、お前なんかに殺されてやるものか…」

小さな背中が青空目掛けて駆けていく。無様に座り込んだまま幾ら手を伸ばしても届かない事など、とうに知っている。いつだって空は遠かった。

「迷わずステルスの手が届かない聖地を目指すんだ。悪魔には目映過ぎる太陽は、蜃気楼の子孫であるお前には力強い道標となるだろう」

神の従者として太陽を捨て去り、夜の名を持つ人間に心を捧げて、ああ。あれから何十年経った?

「…今頃お前は怒り狂っているだろうかなぁ、ナイト。お前がライバル視していた蜃気楼の孫が、お前が生まれた国に飛んでいくぞ」

神よ。この哀れな男の長過ぎる余生が罪滅ぼしになるのであれば、口にする勇気もない癖に想い続ける浅はかさも許されるだろうか。

「全てを知っている俺は、知っている癖にあの小さな羽根を折る事が出来なかった。…知ってるかナイトメア、嵯峨崎陽炎はお前の墓前で手を合わせたんだ。セントラルに置かれていたのは、ただの石なのに」

神よ。貴方がその命と引き換えに魂ごと連れて行った男の心が手に入らないなら、せめて二度と目覚める事のない眠りについた肉体だけでも・と。正常な判断力を失い愚かな真似をした事を、今の自分は知っているのです。

「誰かに、頼まないといけないと…思ったんだ。俺が死んだ後、保存したままのお前の体を処分させないといけないだろう?…百年近く生きてきたのに、俺にはお前を埋める事も燃やす事も、出来そうにないんだ」

永遠の孤独を覚悟した。死ぬ事も出来ないまま、生きながら裁かれるのを待つ囚人は孤独であるべきだ。
それなのに欲しがったりしたから、これも罰なのだろうと思う。

「…哀れなエアリアス。生前のお前を見ていると、いつかの自分を見ている様だった」

イブと呼ばれた囚われのお姫様の元に、勇ましい王子様が現れた。死をも恐れない男は大地の中から、決して孵化してはいけない神の複製を連れ去ろうとした。その勇気がどれほど羨ましかったか。(愛していると告げる事も出来なかった)(出会った瞬間に彼はもう神の半身だったからだ)(けれどもし、伝える事が出来ていたら)(奪うつもりはない)(永遠に等しい未練を抱えたまま)(死んだ様に生きるくらいなら)(違う人生があったかも知れない、と)

「イブから嶺一を奪ったお前は天国には辿り着くまいな。俺もお前の元へ行くだろうが、それは今じゃない。…プライベートライン・オープン、来い俺の翼」
『了解、オートパイロットに移行します。目的地を設定して下さい』
「途中で土産を買って、可愛い息子の所へ行く。…どうも肺に一発喰らったらしいな、息をするのも辛い」
『コード:アートの現在地を追跡完了、出発します。最短距離のスターバックスは、』
「…ああ、そうだ。セントラルにはマンハッタンの地下から連絡用通路を伝って降りよう。この様で正面突破すれば、ビルに死に顔を見せる前にベテルギウスに捕まってしまう」

なぁ、マリア。
お前が結婚しないまま三人の子供を育てていた事を知っていた俺は、真似をしてみようと思ったんだ。

けれどそう、俺は男だ。
お前の様に崇高な母性本能などありはしない。子育てとは名ばかりの打算的な考えだった。後片付けを押しつけたかっただけなんだ。



お前はきっと、お見通しだっただろう?




「血も涙もない魔王が統べる特別機動部に、俺の部署を勝手に漁られては困るからな」

魔法使いになりたかった。死者をも生き返らせる事が出来るなら、マッドサイエンティストでも構わない。
そんな力もない癖に、意気地なしは手放す事も出来なかった。

未練とは、永遠に消えない呪いだ。













ほら。だから言っただろう。
見たくないなら目を閉じろ。聞きたくないなら夢を見ろ。死を恐れるなら慣れる為に、生きる事が辛いなら死ぬように。

全部捨てていけ。そうする事で抜け殻になってしまったら、ただひたすら幸せな世界だけ選別するだけだ、…簡単な話だろう?

俺は捨てた。
愛を歌う声も、自分を象る感情も、残骸の様な儚い命さえも、余す所なく全てを。


さァ、要らないものだけ置いていけ。全て俺が呑み込んで消してやる。
悲しみも絶望も怒りも一つ残らず喰らい尽くして、いつか俺が混沌で染まったその時には。



綺麗なものだけ、世界と言う箱に詰めて捧げよう。
嵐を巻き起こす分厚い雲さえ呑み込んで、全ての闇を払ったその先、お前の眼前は眩いばかりの白日であるよう。



“Close your eyes”



親愛なる俺の宝石へ。
お前が歌う密やかな愛を聴いた日に俺は、呼吸を止めたのだと思う。



(今はもう、呪いの様な愛に穿たれたままの藁人形)







『いいいけません姫様っ!どうして私の着物を脱がそうとなさるんです?!』
『ふふ…貴方は服を着たまま子作りをする趣味があるの…?』
『子作りっ?!』
『…どうして驚くのかしら?貴方には雲隠の血が受け継がれているのだから、女は知っているんでしょう?』
『お戯れを…!畏れ多くも、姫様を他の女と同じ様に扱う事など許される筈がありません!』
『私に経験がないからいけないの?仕方ないじゃない、お父様が許して下さらなかったんですもの…』
『当然です!姫様は宮様であらせられ、うわーっ?!ななな何をなさっておいでですか?!』
『殿方の股を見るのは初めてなのよ。私の許嫁は龍流だって聞いていたから、この世には悲劇しか存在しないと悲嘆したものだけど、こうなると判っていたらお父様の股間で練習したのに…』
『大殿で練習…?!』

あれから何度、巡り続ける季節を越えただろう。
世界は豊かな色彩を保ったまま、希望と絶望を飽きずに繰り返している。変わっている様で変わらない、変わらない様で昨日とはまるで違う今日を生きる生命は、明日どうなっているのだろうかと。

『…一時の感情で過ちを犯せば、在るべき所へお戻りになられた時に必ず後悔なさいます』

愛しい男は、疑問に感じた事はあるだろうか?
(今ある今日と言う世界が)(明日を約束されている訳ではないのに)(誰もが信じて疑わない)(暗い夜の向こうに朝があるのだ・と)
(疑い続けて生きる事がどれほど苦痛か、きっと本能が知っている)



「かごめ、かごめ」

冬が近づいてくる気配がする。季節の移り変わりに足音はないけれど、空気の匂いが教えてくれるのだ。
だから微かな気配を感じた瞬間に、貯蔵していた米の籾を素手で握り締めていた女は、手元を見つめたまま微笑んだ。

「私から産まれた小鳥は、いついつ出やる」

見渡す限り竹藪と岩山しかない乾燥地帯は、町よりもずっと冬の訪れが早い。季節で最も長いのがこの時期で、中国大陸では然程珍しい気候ではなかった。人の手で整備された農地があるのは住居が立ち並ぶ地域だけで、広大な土地の大半は原野のまま手つかずだ。

「ふふ。…いつまで隠れんぼしているつもりなのかしら」

竹やぶにじっと身を潜ませている気配はそこにあるまま、一向に出てくる気配がない。わざと呼びかける様な替え歌を歌ったのに、何を照れているのか。

「しずる、しずる、蓮から産まれた小鳥は、いついつ」
「…母」

がさりと音がして、帝王院雲雀はやっと手を止めた。
乾燥した空気が握り落とした籾殻を彼女の膝から奪い去っていくが、周囲を覆う様な背の高い竹林の影響なのか、上空を唸る荒っぽい風とは明らかに規模が違う。

「お帰りなさい、白雀」
「父は」
「出掛けているわ」
「ん」
「竹籠を編んだのね」

やっと姿を現した息子が、両手で大きな竹籠を抱えていた。毎年竹が乾燥する時期になると父親からの言いつけで、修行を兼ねた竹細工作りを命じられている。然し息子の手先は器用と呼べるものではなく、着ている服の手入れもそうだ。本人は一生懸命やっているつもりなのだろうが、布地の殆どが破れていて、肌が見えている。

「ふふ…上達してる。この飾りは、鳥の羽根?」
「母の為に編んだ。誕生日おめでとう」
「有難う。でも私の誕生日は昨日終わったのよ。お前も、お父さんと一緒にお祝いしてくれたでしょう…?」
「昨日は…間に合わなかった」
「この羽根?」

そんな息子がこんなに大きな籠を編むまでには、一体何日懸かったのだろうか。今朝も早くから姿が見えないと思っていたが、幼い息子を心配するのは母親ばかりだ。

「殺したの?」
「…拾った。3枚しか見つからなくて…」
「綺麗な灰色。何の鳥かしら」
「判らない。雀は小さすぎて、取るのが可哀想だった…」

普段は穏やかで聡明な夫は然し、子育てに於いては人が変わった様に冷酷な面を見せる。十口一族の棟梁、雲隠直系の血を引く叶焔の血を引く嫡男として物心つく前から期待されていた男だから、彼自身はもっと壮絶な生い立ちだったのかも知れない。

「生き物を無駄に傷つける事は悪い事よ。ふふ…」
「…父が言っていた。誕生日とは、年を取る事だ」
「そうね」
「母は何歳?」
「18歳よ」
「去年も18歳だった」
「私は永遠に18歳」
「何故」
「巣立ったからよ」
「巣立った?」
「一人前になると言う事」

雲雀の言葉に息子は首を傾げた。

『私にはもう帰る所なんてないわ』
『ですが姫様…』
『貴方はまだ帰りたいと思っているのね。…じゃあ、もっと遠くへ行かないと』

故郷を捨てても頑なにお姫様扱いしようとしてくれた真面目な男の手を引っ張って、山を越えて海を越えて、とうとう言葉が通じない国に辿り着いても不安などなかった。握った手が離れなければ、地の果てにだって行けるだろう。

「籠の中で慈しまれる生涯を捨てて、お墓の中に入ったの」
「墓は死んだ人しか入れない。母は、生きてる」
「全ては、私が望んだ事なのよ」

今はもう、捨てた過去を思い出す事もなくなった。
沢山愛してくれた両親に罪悪感を感じる事はあるが、未練はない。ほんの少しも。

「どうしたの白雀。寒いなら近くに来なさい」
「…俺もいつか、巣立つのか?」

愛を歌っただけだ。ほんの数日咽び泣くまるで真夏の蝉の様に、誰かの迷惑など考えもせずにひたすら叫び続けただけだ。金糸雀の様に愛らしい鳴き声ではなかったかも知れない。それでも後悔するよりはずっと良い。

『俺はお前が視る景色を見てはやれないが、お前の全てを肯定するぞ、雲雀』
『私が悪い娘でも?』
『俺は俊秀の様に賢い頭はない。もしお前に雲隠の血が色濃く出てしまえば、長くは生きられないかも知れない。…だから俺はお前が生まれた日に誓ったんだ。永劫の自由以外は強いない事を』
『お母様…』
『母としての願いは一つ。山を翔ける鷹よりも自由に、天寿を迎える刹那まで幸せであれ』

最早思い出の中にしか存在しない母は、そんな娘を否定しないだろう。
強く美しく気高く、凛々しい人だった。彼女の様な母にはなれないだろうが、何十年経とうが目標であり指針である事は変わらない。

「…子供はいつか親の元から巣立つ。天網に刻まれた宿命なのよ」
「何を以て一人前と認められる?」
「どうかしら。人それぞれに事情があるもの」
「…事情?」
「判らない事はお父さんに聞きなさい。殿方の悩みは、殿方にしか判らないものよ」
「父はさっき知らない男達に襲われていた」
「あら、また…?どうして私は襲われないのに、芙蓉さんは定期的に襲われるのかしら…」
「…母は素手で竹を割るから、獣も近寄らない」
「そのくらいお父さんもやっているでしょう?」
「………俺も父も、竹は刃物を使って切る…」
「なんてか弱いのかしら。ふふ…やっぱり十口ィ、船に積み込む時に苦労したかも知れないから…くくっ、私達は運命の夫婦だったのね…」
「………」
「どうしたの白雀。お腹が空いたなら、」
「…母」
「なぁに?」
「後ろで父が、死んだ魚の目をしている」

表情が変わらない息子が背後を指差すので振り向けば、血塗れの夫が凍える様な笑みを浮かべて立っていた。

「お帰りなさい貴方。今日も今日とて、私を差し置いて襲われたんですってね…?」
「何に張り合っているんですか」

恐らく返り血だろうが、どうしてそんなに汚れているのだろう。

「…ふふ、幾つになっても腕白な人。殺す時は証拠を残さず首の骨を折って仕留めるべきなのに、酒池肉林に興じるなんて…ふふっ…愉快…」
「…そんな悪趣味な宴に興じてはいませんし、殺してもいません」
「じゃあその血は、まさか犯さ」
「ただの返り血です!無芸なもので、首の骨ではなく歯を殴り折ってしまいました!」
「そう…。男達が仕返しに来たら、私が子々孫々に至るまで呪いましょう…くっ…脆弱な雄が私の獲物を奪うなんて、愚かな真似をした罪は…重い…ふふ…」

無表情の息子が機敏な動きで夫の背後に隠れたので、肩を震わせて忍び笑いを零した女は首を傾げた。

「そうして並ぶと、二人共似ていないわね…。………貴方、浮気したの?」
「どうして私が責められるんですか?!…大体、白雀を生んだのは貴方でしょうに」
「不思議。白雀はお父様に似ているのかしら…」
「そんな事より、どうして息子の前で肌を晒しているんですか?」
「お乳をあげるからよ」
「姫様」
「く…ふ、ふはっ、ふはははははは」

空っ風が凍えた様な気がする。
無表情で怯えた息子がビトっと張りついてくる感触に気づいたが、恐ろしい笑みを一身に浴びている男は振り向けなかった。自分の失敗に気づいたからだ。

「…おのれトクチィ…。妻の名前を忘れるなんて万死に値する大罪…くっ…未来永劫呪ってやる…ふふふ…」
「ひひひばっ、雲雀っ」
「何ですか芙蓉さん?」
「何ですかではありません、服を着なさい!白雀が幾つかお忘れですか?!」
「来月十歳でしょう?くふっ…貴方、ボケてしまったの…?」

死んだ魚の目をした男は、返り血を浴びた服を脱ぎ捨てて溜息を吐いた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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