帝王院高等学校
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“黒くて青い、夜空の様な不思議な色合いの瞳を忘れる事はない”

大好きな父親はいつも祝詞を読んでいて、いつか大宮司にお会いするのだと言っていた。
それを思い出したのは、踊り狂う炎に包まれながら幸せだった、あれはいつの事だっただろう。きっと寒い冬だった。

「…ご、めんなさい」
「お義姉様、もうお喋りにならないで。毒をお飲みになられたのでしょう?」
「………ご、めんなさ…」
「どうしても気懸りで、牢を見てきました。二人を逃がして下さったのは、お義姉様でしょう?」
「…」
「…さようなら、哀れでお寂しいお義姉様。次に生まれる時は、幸せな生涯であるよう」

炎が踊っている。
どうしても離れたくなかったから、自分よりずっと上背がある男を引きずって歩き続けた末に、何度殺しても殺したりない男の死に顔の上で横たわる女性を見たのだ。彼女に対して哀れみの気持ちはあっても憎しみはない。彼女もまた、一人の男を愛したただの女だったのだ。無償の愛が、悪である筈がないだろう?

「知っていましたか?私はずっと、亡くなった遠野さんが羨ましかった」

愛しい男を最期まで抱き締めていたのは、己の母親の最期を思い出したからだろうか。

“あの日、炎は全てを奪っていった”
 “慎ましやかな生活をしていた神の使いとその妻の元を”
  “闇を照らす火を携えた人間が訪ねてきたのだ”
“助けて下さいと乞う薄汚れた男達の手を”
 “どうしてあの時、彼らは振り払わなかったのか?”
  “季節は凍える様な冬だった”

夜は真っ黒だと思っていた。大人になってからの話だ。
然し幼い頃見た夜空は、夥しい数の星に彩られていた覚えがある。丸い月に手を伸ばしては可笑しそうに笑う両親は、あの時何と言っただろう?

「私には学がない。私には何の力もない」
『お日様もお月様も、掴めはしないよ』
『こんなに近くにあるのに、どうして?』
『誰もを平等に照らして下さるからだ。一人のものになってしまったら、世界は真っ暗になってしまうだろう?』
「どうして私は雲隠でも冬月でもなく、十口にすらなれないのかと。…何度眠れない夜を過ごしたでしょう」

ああ、裏切られた気分だ。
決して手が届かなかった筈の神の光が、今はこの腕の中にある。

「私は貴方の夢を一緒に追う事が出来なかったけれど」

“黒くて青い、夜空の様な不思議な色合いの瞳を忘れる事はない”
 “そして今、二度と開く事はないのだろう愛しい男の双眸も忘れる事はないのだろう”
  “幼い子供達”

「きっとあの子達は、貴方の意思を継いでくれますよ」

“私は空に焦がれる一匹の魚でした。貴方は空を泳ぐ一匹の龍でした”
 “貴方の友はお星様”
  “けれど私は冷たい水の中から出られないまま、悍ましい炎に焼かれて死ぬ運命”

ねぇ、貴方。それでも私は幸せでした。
今死んでも何一つ後悔などありはしないけれど、あの子達を連れて行く勇気はなかったのです。


「次に生まれてくる時は、同じ夢を見ましょう?」

いつか両親が目の前で死んだ日、どうしてか涙は出なかった。突如として襲ってきた恐怖に足が竦み、隠れていた納戸から出られなかったからだ。
けれどそう、『いつかお殿様と呑みたい』と言っていた父の酒を飲みながら、神聖な境内に放った炎で事切れた両親を燃やしながら笑っていた男達の笑い声を聞いた瞬間に、頭の何処かで何かが焼き切れる音を聞いたのだ。



「お休みなさい、私の龍流さん」

祖母の形見だと聞いていた美しい銀の刃は、容易く人の命を奪った。
(最後に見たのは、紅蓮の曼珠沙華)






(私が滝を登る鯉だったなら)
(貴方と共に翔べたのでしょうか)

(…不条理な業を棄てて)



(眩い、雲の上の白日へと。)










「ねぇ、アルバ」
「なぁに、プロシェーヌ」
「私達は血は繋がっていないけれど、姉妹よね」
「ええそうよ。私達は血は繋がっていないけれど、二人共ノアの妹よ」
「姿形は全然違うけれど」
「声だって似ていないけれど」
「性格も本当はあんまり似ていないんだけど」
「不思議と喧嘩をした事は一度だってなかったわ」
「だって同じアルビノだもの」
「私達は運命が導いた魂の姉妹」
「魂が消える事はない」
「どんなに遠く離れてしまっても、運命は私達の再び魂を結びつけるでしょう」

手と手を取り合った少女達は楽しげに歌いながら走り続け、誰の気配もない嵐の街道を今この瞬間だけ独占していた。

「ねぇ、アルバ」
「なぁに、プロシェーヌ」
「あの竜巻、まるで生きているみたい」
「ダウンバーストよ。あの山の向こうはヴェネチアかしら」
「あの山の向こうはベルンよ。今はヘルヴェティア共和国。スイスはクーデターが続いているから、危険なんですって」
「太陽は東から昇るんでしょう?」
「ええ、きっとそうなのよ。私達は嵐の日にしか外に出られないけれど、アーベント兄様は死ぬ前に仰っていたわ。東の海から太陽は昇るのよ」
「東の海には何があるの?」
「誰も知らないわ。エルサレムを捨てた日からずっと、グレアムは西を目指し続けたのよ。神の知恵を授かったソロモンは脳が壊れてしまって、髪が真っ白に変わってしまった。その日から一族は太陽の恵みを受けられなくなった」

見上げれば、分厚い雨雲の下を横断していく竜巻が見える。まるであの竜巻を目指している様に見えるだろうが、人の足ではどう足掻いても追いつけはしない。永遠に消えない竜巻など存在しないからだ。

「大昔の話ね」
「そうよ。もう誰も知らない、ずっとずっと昔の伝承」
「私は己の目で見たものしか信じないわ」
「私は己の耳で聞いたものしか信じないわ」
「東へ行きましょう」
「この分厚い雨雲を超えて、眩い世界へ」
「太陽が私を受け入れなくても、私はその光さえ受け入れるましょう」
「アーベント兄様の様に、焼かれて死ぬなら本望」
「でも、海を渡るなら船が要るでしょう?」
「ローマに行きましょう、港があるわ。商人の馬車に乗せて貰えれば、数日で辿り着く」
「お金ならあるけれど、若い女の二人連れだから、男所帯のキャラバンは危険じゃないかしら?」
「体に毒を塗れば良いわ。一舐めしただけで死んでしまう、ノアの秘薬を」
「あれなら良いわ、いつでも何処でだって作る事が出来る」
「タバコが手に入らない場所はない」
「恐ろしい猛毒になる事を知らないのよ」
「快楽が忘れさせてしまうのよ」
「私はナイフを持っているわ。光の下では生きられない私を捨てた両親から貰った、たった一つの贈り物よ」
「私はグレアムの知識を持っているわ。両親から継いだ血とソワールお兄様から頂いた沢山の愛と共に、生涯忘れない宝物よ」

叩きつける様な雨の中を物ともせずに走り続ける二人は、薙ぎ払われたフードを掛け直す事もせず、真紅の瞳に笑みを描いた。透けるほど白い肌を持つ二人は髪の色だけ異なっていたが、まるで双子の様に。

「ねぇ、アルバ」
「なぁに、プロシェーヌ」
「貴方ならきっと賛成してくれると思うの」
「ふふ、それなら勿体つけないで早く言ってごらん」
「黄金の国の話を知っているでしょう?」
「ヴェネチアの東方見聞録ね」
「アーベントお兄様の最後の声を覚えている?」
「ええ。本物の太陽はまるで黄金ようだと叫んでいた声を覚えているわ」
「私達は家から出なかった」
「だって太陽は恐ろしいものだと教えられていたんだもの」
「でもアーベントお兄様は死ぬまでずっと、外にいらしたのよ」
「亡くなるまで毎日笑い声が聞こえたわ」
「見ていた使用人はお兄様が踊っていたと言っていたわ」
「笑って死ねるなんて、とても素敵。羨ましいわ」
「どうせ死ぬのだから、笑って死にたいでしょう?」
「ええ、プロシェーヌの言う通りだわ」
「行きましょう、アルバ」
「二人一緒なら、きっと地の果てまでだって行ける」
「太陽が昇る東へ」
「黄金の国がある東へ」

姉妹は手と手を取り合って旅に出た。
辛く長い旅路は決して良い事ばかりではなかったが、十数年経た後、彼女達は目的を達成する事になる。

「ああ、何処にいるのアルバ」
「何処にいるのプロシェーヌ、折角大海原の嵐を乗り越えられたのに…」
「私は真っ直ぐに進むわ」
「私達は再び巡り合う運命の姉妹だから」

けれどその時、二人の手は二度と結ばれる事がないほど遠く、引き裂かれていたのだ。







(私達は運命の双子)




ねぇ、遥か遠い時間を生きている子供達。
貴方達に私達の物語を語り継がれる事はないでしょう。

けれど私達は確かに生きていました。
ずっとずっと昔、確かに存在しました。


ああ、誰か。
誰にも語り継がれる事のない私達の物語を、
時の狭間に埋没された命の欠片を、

星の数ほどの偶然が重なって、
神の慈悲にも等しい奇跡の果てに見つける事が出来たとしたら。



歌ってくれるかしら?
踊ってくれるかしら?



(私はアルバ。金の髪を持つアルビノの子)
(両親の顔を知らない捨てられた子供)
(産着の中にあったのは、見事な彫り細工が施された銀のナイフ)

(私はプロシェーヌ。銀の髪を持つアルビノの子)
(両親と沢山の兄姉に愛されて育ったグレアムの末娘)
(沢山居た家族は少しずつ減っていったけれど、悲しくなんてない)

(アルバは銀色のナイフを持っていた)
 (それは両親が与えてくれたお守りだったのか)(それとも、赤子を殺す事を躊躇った証なのか)
(プロシェーヌはノアと同じ血を持っていた)
 (あの日自由を求めて大好きな家族を捨てた日に)(絶望をも自由として受け入れる覚悟は出来ていた)

(アルバは黄金の国で一人の男性と出会ったわ)
(プロシェーヌは黄金の国で人知れず子供を産んだわ)

(両親に愛して貰えなかったアルバは、彼から愛を貰ったの)
(愛しい男は、恐ろしい表情の人間達に追われていた私を助けてくれた)

(一人ぼっちになってしまったプロシェーヌに、小さな家族が出来たの)
(望んで生んだ子供ではなかったけれど、老いた夫婦が私を匿ってくれた)





「…お前は美人だなぁ。胸も大きい」
「?」
「言葉が通じないのは残念でならないが、儂はお前の為なら何でも出来るんだ。例え肌が醜く焼けていようが、儂はお前を鬼だと思った事はない」
「Vous avez faim?(お腹が空いたの?)」
「お前の病を治す為に使い果たした財産だって、何ら惜しくはないんだ」

アルバは男の子を授かりました。
玉の様に可愛らしい男の子は、いつか兄と慕ったノアの様に深い藍色の瞳を授かったのです。

そう言えば私の両親も濃い青の瞳だったと、いつか聞いた事がありました。






「母さん、私はこの家を出ていきます」
「…貴方は光の下で生きられるのだから、その方が良いわ」
「祖父ちゃんと祖母ちゃんのお墓参りが出来なくなる事は、申し訳ないと思ってます」
「あの二人は、貴方の本当の祖父母ではないのよ」
「…知ってたよ」
「そう」
「私の父も本当は、母さんに酷い事をした男だったんでしょ?」
「…昔の話よ。私がまだこの国の言葉を喋れなかった頃の、遠い昔の事。もう忘れてしまったわ」
「私、好きな人と一緒に海を渡るの。もう戻ってこれないかも知れない」
「それが貴方の幸せなら行きなさい。いつか私がそうした様に」
「母さんはどうするの?」
「此処で暮らすわ。私を化物だと言わなかった二人が眠る、この土地で」
「それじゃ、母さんが一人になってしまう」
「大丈夫、私はもう老婆と見間違えるほど高齢だから、誰も化物とは呼ばないわ。それに貴方の好きな人の事もずっと前から知っているのよ?」
「え?」
「ふふ。こんなお祖母ちゃんになってしまった私にだって、お茶に誘ってくれる殿方は居るの。何にも心配しなくて良いのよ、はるこ」

プロシェーヌは女の子を授かりました。
何人もの酷い男に騙されて苦痛の日々を過ごした果てに、言葉を覚えて生き延びる術を手に入れた。いつか憧れた国はあっと言う間に地獄へと変化したけれど、黒髪黒目で生まれてきた娘の愛らしさは。

それまでの絶望を、容易く吹き飛ばしたのです。






(アルバは幸せよ)
(プロシェーヌは幸せよ)

((心配なのは片割れの事だけ))









「ナギ、お前の名前にはどんな意味があるの?」
「僕は嵐が去った静かな日に生まれたから凪。波のない水面と言う意味があるんだ」
「良い名前をつけて貰ったのね」

山奥の寂れた社に住み着いた白肌の女は、焼け爛れて痙き攣れた顔の皮膚を隠す事なく微笑んだ。ちりりと痛みを感じた頬に困った様な表情をしたが、夫が山の恵みで拵えた化粧水を両手に落として、優しく肌に塗り込んでいる。

「母さん、痛い?」
「大丈夫よ。あの人が作ってくれたこの薬が、私にはとても良く効くもの」
「母さんの名前にはどんな意味があるの?」
「アルバ。ローマでは、朝の訪れを表す言葉よ」
「夜明けか。素敵な名前だね、今度父さんに教えてあげよう」
「…もう何年も暮らしているのに、私にはダンジョーの言葉が判らないなんて残念だわ」
「弾正は父さんの捨てた名前だよ、今は無明と名乗ってるんだ」
「難しくて発音出来ないんだもの。どんな意味があるの?」
「仏教では無知な事だって」

幼い少年との会話は日本の言葉ではなかったが、誰もやっては来ない山奥の日常だ。彼らにとっては何の問題もない。

「どうしてダンジョーはそんな名前を名乗っているの?」
「母さんの病を治そうとして家の財産を使い果たしてしまったから、父さんは親族から絶縁されてしまったんだよ。世間で父さんは大名家の恥で、最低な放蕩息子だと思われてる」
「そのお陰で、私はダンジョーと一緒に暮らせる様になったのよ」
「父さんには都に妻と子が居たんだ」
「それが何?ダンジョーは私を愛してくれているんでしょう?」

くすくすと女の笑い声が静かに響き、森林に囲まれた境内に穏やかな山風が吹き抜ける。何処からか蛙の鳴き声が聞こえてきたが、雨の気配はない。

「父さんは毎日母さんに美人だって言ってるよ」
「ダンジョーはどうして黒い服を着ているの?私の国では、黒は尊い色なのよ」
「父さんは奉行所から都追放の上、出家を命じられたんだ。だけど母さんが隠れ住んでいた山寺で、父さんは僧正を殴り殺してしまった」
「ああ、私が彼らに体を許していたから。それくらい、大した事ではないのにね」
「好きな人がそんな目に遭っていたら許せないものだよ」
「プロシェーヌだったらナギと同じ事を言ったかも知れないわね」

瞳の色だけ母親に似た少年は、艶やかな黒髪を父から譲り受けた。出家した事になっている謀反人扱いの父親は綺麗に剃髪しているので坊主頭で、常に仏教の法衣を纏っている。正式な僧侶ではないので袈裟はなく、父親が日夜励んでいる滝行は仕事と言うより、厳しい山生活の為の一種の訓練に近い。

「私には判らないわ。日本に辿り着いて暫くは何度も殺されそうになって、山の中に隠れなければ死んでしまう所だった。何年も薄暗い洞窟の中で一人ぼっちで過ごして、ダンジョーが見つけてくれなかったら死ぬまで一人ぼっちだったでしょう」

懐かしむ様な眼差しで蛙の鳴き声を聞いていた女は、夫が定期的に作ってくれる『薬』の壺をそっと撫でる。何年間も色んな薬を持ってきてくれては、効果がなくとも『諦めるな』とばかりに抱き締めてくれた男は、全てを捨てて自分と生きる道を選択してくれたのだ。言葉が通じなくとも愛は育めるのだと、彼女は身を以て知っている。

「私を外へ連れ出してくれたダンジョーは私の皮膚が醜く爛れてしまって悲しんでいた様だけど、私は言葉が通じなくても彼の気持ちが判った」
「そうか」
「私は生まれつき瞳の色が赤い所為で、親から捨てられてしまった。私と同じ病の人間が居ると聞いてその家の門前に捨てられたのは幸いだったけれど、判っているのは私を捨てた男女が同じ濃紺の瞳だった事だけ。目撃した庭師の話では、二人共良く似た顔立ちだったそうよ」
「もしかしたら兄妹だったのかも知れない」
「私が両親について知っているのはそれくらいなの。もしかしたら両親ではないのかも知れないけれど」
「知りたいと思う?」
「プロシェーヌは何でも知りたがったけれど、私はそうではないわ。年が離れていたソワールお兄様とは違って、良く遊んで下さった4歳年上のアーベントお兄様は『笑う事以上に重要なものはない』が口癖だった」
「素敵なお兄さんだ」
「そうでしょう?」
「ねぇ、母さん」
「何?」
「もう何ヶ月も雨が降っていないんだ」

少年の父親、そして女の夫である男は社の裏の滝で日課の訓練に励んでいるのだろうが、近頃何処か元気がない。滝の水量が格段に減っている事を憂いているのだろう。自分達の力で生きるしかない険しい山の中では、どんな獣も無力だ。天候の気紛れで簡単に命を落とす。それはこの国でも、フランスでも。

「そうね。少しずつ山の木々が枯れていく」
「今年は梅雨がないのかも知れない。今朝、蝉を見たんだ」
「井戸水は枯れていないから大丈夫よ」
「母さんは毎日お縁に座って、父さんの読経を聞いているだろう?」
「何を言っているかは判らないけれど、ダンジョーの声はとっても心地良い。水面を漂っている魚になった気分だわ」
「神社で般若心経を読むなんて罰当たりな事だけど、母さんには全然関係ないのか」
「ダンジョーはお祖父ちゃんだから、もうすぐ死んでしまうんでしょう?」
「父さんは今年還暦を迎えたよ」
「ダンジョーが死んでしまったら、私はきっとお義姉様を失ってしまった時のお兄様の様に嘆くでしょう。そんな予感がするの」

母子の会話がたった今途切れたのは、滝行を終えたらしい男の声が聞こえなくなったからだ。確かに滝の勢いは減ったものの、飛沫の轟音をかき消さんばかりの大声で経を読んでいる男の声は、どんな時でも社中に響いている。何も今日だけではない。

「食べ物が少なくなってきたわ。そろそろ、町で売る為の薬を煎じないといけないわね」
「母さんの薬は評判が良いから、すぐに売り切れるよ」
「プロシェーヌみたいに詳しかったら沢山作れるのに、私は頭が悪いから簡単な薬しか作れないの」
「そんな事ないよ。いつも助かってるって、父さんが言ってる」

滝での修練が終われば戻ってくるだろうが、今年の夏の厳しさで山の恵みが少ない為、そろそろ出稼ぎに出ると言い出すかも知れなかった。山を降りれば大きな宿場街があるので、托鉢の真似事をするのも力仕事にも困らないが、そうなると暫く父が不在になってしまう。幼い息子と、陽の下に出られない母親だけの山暮らしには、幾つもの不安要素があった。

「母さん、今日は特に日差しが強いから中に入ろう?」
「良いのよ。私は求め続けた光の下で、ダンジョーの声を聞きながら笑って死ぬって決めたの」
「父さんが悲しむよ」
「…可哀想なダンジョー、私が死ねば嘆くでしょう」

父子は出稼ぎの話をしている。後は父の代わりに息子が、母に伝えるだけだ。
不幸中の幸いは、母に対して山の獰猛な獣達が牙を剥く事がない事だろう。生薬に詳しい母が山の限られた資源で傷薬を作っては、定期的に父は山を降りている。都会方面では顔が知られているので、どうしても売りつけるのは小さい町に限られるが、それでも親子が慎ましく生活するには十分な資金を得られた。薬の売りつけ程度なら数日で住むが、この夏を乗り切った後にやって来る厳しい冬を乗り切る程の稼ぎとなると、何ヶ月になるか。

「でも私はソワールお兄様じゃなく、アーベントお兄様の様に死にたいの。我儘を許してちょうだい」
「許さないって言っても聞いてくれないんだろ?」
「ええ。私はセーヌで、我儘アルバって呼ばれてたのよ。6歳のナハトも私の我儘を許してくれたわ」
「僕も先月6歳になったから、許さなきゃいけないのか」
「良い子ねナギ。いつか私が笑って死んだら、ダンジョーの涙を拭ってあげて」
「僕が?」
「私には出来ない事だから」
「…うん。約束するよ」

けれどきっと、体こそ弱い彼女が嘆き悲しむ心配はないのだろう。


「さぁ、昨夜の話を私に教えてちょうだい。二人で何を話していたの?」

どんなに離れていても心は近くにあるのだと、お決まりの台詞が返ってくるだけだ。










(何も心配していない)
(私達は運命に導かれた双子だから)
(どんなに遠く離れていても)



(再び巡り合うのよ)










「…折角の甘いお菓子を、眉間に皺を寄せていては、味が判らないんじゃありませんか?」

大人しい女だと思っていた。年齢は向こうの方が幾つか年上だと聞いている。
派手な人種ではないが働き者で、印象は初対面の時から一貫して悪くはない。要領は良い方ではなく、けれど何事にも一生懸命取り組む姿勢は明らかだ。この国では珍しいアジア人の看護師が差別されずに受け入れられている最たる理由は、恐らくそんな人柄なのだろうと思う。

「断りもなく、急に他人の顔に触るな」
「…あ、それはすみません。何度かお声を掛けたつもりなんですが、返事がなかったので…」

加えて、料理の腕も悪くはない。卵色の蒸しケーキで料理の腕を評価出来るのかは不明だが、もう少し甘さがあれば完璧だ。

「それより、蜂蜜はないか?」
「そんな高級品、此処にはありません。」
「師君、大して揃っておらん備品を漁って何をしておる?」
「え?あ、私が触ってしまった冬月先生の眉間を消毒しようかと…」
「誰がそんな事をしろと言った!」
「ご、ごめんなさい!」

怒鳴りつけた瞬間、ゲラゲラと子供達の笑い声が響いてきた。振り向けば、覗き見していたらしい子供達が蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。

「ハルカがルートに叱られた!」
「またハルカだけ苛められてる!」
「ほら見ろ、ルートはハルカが好きなんだ!」
「何だって?!リュートがハルカとセックスしてるだって?!」
「あの余所者っ、幾ら腕が良い医者だろうがハルカに手ぇ出しやがって、今日と言う今日こそ追い出してやる…!」

騒ぎ立てる子供達に大人の声が混ざった。変な作り話を広めるなと怒鳴るのは簡単だが、感情を剥き出しにすればしただけ喜ぶ人種だと判っているので、いっそ放置した方が効果的だと経験が物語っている。

「…此処には馬鹿しかおらんのか」
「昨日まで『儂はルートではない』と怒ってらしたのに、今日は言わないんですね」

頭痛に襲われた冬月龍人が溜息を吐けば、くすくすと鈴を転がす様な笑い声が鼓膜を震わせた。

「師君、笑っておる場合か。このままでは町中に儂らが出来ていると思われるぞ」
「ふふ。此処には娯楽がないでしょう?どんな事でも良いから、騒ぎたいんでしょう」
「患者に娯楽など不要だわ」
「いいえ、人間には楽しみが必要ですよ。私の義父は隙あらばジョークを言う人でした」
「ああ、この間院長に話を聞いた。ドイツ人医師だったか?」
「ええ。本当の両親の事は日本人だったと言う事と、名前しか判らないんです」
「然し師君の両親は、日本軍の帰還命令に逆らって残ったのだろう?遥子は偽名の可能性が高い。戦死者名簿を調べれば手懸かりはあるかも知れんが、確実ではない」
「父に関しては『神崎』以外は何も判らないんですから、…いつか日本へ行く機会があったらと思ってるんですけど、日本は英語が通じないんでしょう?」
「ドイツ語もな。何にせよ、こんな田舎で看護婦を続けていてはまともな休暇はないだろう。転職を考えた事は?」
「私はもう、そんな大それた夢を持てる歳じゃないですよ」

慎ましいと言えば、確かに日本では褒め言葉だろうか。然しアメリカでは負け犬と笑われるだろう。
どちらにしても看護師としては申し分なく、人間としては多少改善点がある様な気もするが、そろそろこの街にも長く滞在している。誰かが言った様に『部外者』が帰る理由など必要はないだろうが、彼女を此処から連れ出すにはそれなりの理由が要りそうだ。

「まぁ、よい。ならば儂が理由をくれてやる」
「理由?」
「ああ。来週辺り出て行くつもりだったが、奴らの『娯楽』に付き合ってやろう」
「え?」

寂れた田舎町の診療所。元気な患者達の病状はそれぞれだが、大半は『入院を必要としない』人間ばかりだ。
詐欺同然で客を留め続けている院長こそ病気だと思わなくもないが、事情は単純明快、単なる資金難だろう。必要のない薬を大量に売りつけたりだの、やり方が杜撰過ぎる。これは医療と言うよりは悪質な商売だ。

「とりあえず、日記と変わり映えしないこのカルテの山を片付けるのが先決かのう。管理が杜撰過ぎる」
「あの…?カルテを持って何処に行くんですか、冬月先生?」
「女とジャズに目がない、ハンガリー人の所だ。籍を入れた女の元に娘が生まれたと連絡を寄越してきた。隠し子は何人も居る癖に、音楽家と言う人種は理解に苦しむのう」

小さな病院を潰すのは簡単だが、これを作りたいと望んで殺された男を知っている。人を食った様な性格だった癖に、家庭を持って家族を信じ過ぎてしまった哀れな男を。

「結納金代わりだ。資金難を改善するパトロンを紹介してやるから、師君もついてこい」
「ユイノー?待って下さい冬月先生、話が見えないんですが…」
「四捨五入すれば40歳とは言え、どんくさい女だのう。上等な飯と酒を食わせてやるから、さっさと来い」
「お酒?!じゃ、じゃあ、着替えさせて下さい…!」
「はあ?」
「先生は間違ってます!女性をデートに誘う時は、前もって約束をするべきでしょう?!」
「…デートだと?」

真っ赤な顔で大きな声を出した看護師を前に、皺だらけの白衣を脱いだ垂れ目は瞬いた。

「…師君が怒鳴る所は、初めて見たのう。着替えたいならこの部屋を使えばよい。儂もそうする」
「男女が同じ部屋で着替えられる訳ないでしょう!先生は変態ですか?!」
「そ、そう言うものか。では30分待つから、」
「いいえ、妥協出来るのは一時間です。女の着替えにはお化粧が含まれる事、四捨五入してやっと30歳の先生はご存じないようで?」
「…意外に根に持つ女だのう。判った、待てばよいんだろう、待てば…」
「ケーキが残っているので、食べながら待っていて下さい」

誘われた瞬間にセックスをする習慣しかないとは、とても言えない雰囲気だ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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