帝王院高等学校
女子に振り回されない男子はいません!
「…雨雲が追い掛けてくる」

男は囁いた。
傍らを歩いていた幼子は男を見上げたが、その顔には薄汚れたフードが掛けられており、表情までは見えない。

「このまま川沿いを行くのは危険だろう」
「父上、休める所を探しましょう」
「では獣の住まう山の奥深くが良いだろう。人と違って彼らは、我々の敵ではないからな」

砂嵐の日だった。
夜から唸り続けていた大気は朝になっても光を閉ざしており、世界は果てまで重苦しい黒灰色で塗り固められている。湿度を含んだ空気は重苦しく、足取りはどうしても遅くなった。

「…ですが父上、はぁ、生前母上が仰っていました。人の全てが敵ではないと」
「悪は善人の仮面を被っている。善人の群れに擬態したブラックシープを見抜く事は、毒草を嗅ぎ分けるより難しい。…我が妻は、人の悪意によって殺されたのだ」
「…」
「マンドレイクの根を持っていただけで魔女と謗り、奴らはクレアを無惨にも焼き殺した。フランスは狂気に感染している。オルレアンの乙女を炙り殺した禍々しい炎に、人々は惑わされたのだ」
「はぁ、はぁ、太陽が猛毒を孕む様に?」
「…我々が彼らを拒んでいるのではない。人や光が、我らを淘汰する」

その所為か、先頭を歩く男には何処か焦りが窺える。後ろを歩いている何十人もの人間を顧みる気配はない。傍らの小さい人影が話し掛けている瞬間ですら歩みが衰える事はなく、子供の声が明らかに弾んでいても気づいている様子は見えなかった。

「…聖アントニウスの火。我らがフランスに受け入れられた切っ掛けだ」
「麦の中毒を人々は知らなかったのですか?」
「ストラスブールの修道院には、何千もの難民が詰めかけていたそうだ。先祖は彼らに知恵を与え何万もの命を救ったが、百年以上経った今、その恩も風化したと言う事だろう」
「恩を得る為に人を助けるのですか?」
「利益を与えなければ、多くの人は他人を受け入れない。…奴らは強欲な生き物だ」

烟る灰色の重苦しい空を見遣れば、遠くで竜巻が唸りを上げているのが見える。

「だからクレアは殺された。悍しき男共に散々陵辱された挙句、灰になるまで燃やされたのだ」
「…」
「人々を火から救った我らの仲間が火炙りで殺されたと聞いた時、私は耳を疑った」

間もなくこの辺りも激しい嵐に呑み込まれるだろう。人の足で逃げ切る事は不可能に等しい。

「…ソワールお兄様」
「どうしたプロシェーヌ」
「私達は此処でお別れします」
「私達?」

然し誰もがそれを恐るでもなく街道沿いの雑木林の中をひた歩き続けていたが、フードを目深に被った二人が決意した様に街道へ飛び出すと、先頭を歩いていた男は弾かれた様に振り返った。

「何をしているプロシェーヌ、アルバはお前よりも太陽の毒に弱いのだぞ?!」
「まぁ、頭が固い男!太陽なんて何処にもないのに!」
「おまけに重度の人間嫌い!つける薬が見当たらないわ!」
「な、」
「クレアお義姉様が貰って下さらなかったら一生独り身だったでしょう!」
「そんなお兄様にだって運命の出会いは訪れた!」

此処は劇場だったか?
突如として始まった芝居じみた二人の台詞に、それを聞き止めた誰もが沈黙している。

「好奇心旺盛なお義姉様は今世紀最大の奇跡!」
「30過ぎまで結婚する気がなかった偏屈男の寝室に勝手に入って掃除をしたメイドは、お義姉様が初めてだったもの!私ならお兄様の部屋なんて恐ろしくって、とても入れないわ!」
「何人もの弟妹が死んで幾つもの縁談があったけれど頑なに結婚はしなかった癖に、強い毒を作る事だけは熱心だったもの!」
「とっても根暗な男!本当に貴族の端くれなのかしら?」
「貴族の端くれじゃなかったら、物好きなクレアお義姉様とて結婚してくれなかったでしょう」
「「正に運命!」」
「…待て待て待て、お前達は一体何の話をしている?」

流石にこれ以上罵倒される事に耐えられなかったのか、言葉通り意味が判らなかったのか、フードを片手で捲った男は声を荒らげた。ピタリと動きを止めた街道上の二人は胸元で両手を組み合わせると、すぅっと大きく息を吸い込んだ。

「お兄様、私達は自由を知りたいのです!」
「ごめんなさいお兄様!プロシェーヌと共に、アルバは参ります!」
「「追って来ないで下さい!」」
「な、にを、愚かな事を…!判らないのか、この大陸に我らの安寧の地はないのだぞ?!」

ダークサファイアの双眸を驚愕で見開いた男の視界には、マントを翻した姉妹が目を繋いで嵐の中を駆けていく光景が映り込んでいる。人目を忍ぶ様に林の中を歩いていた誰もが二人の背中を見守りながら、祈る様に左胸へ手を当てた。

「戻れアルバ!プロシェーヌ…!」
「父上、もう二人には聞こえません。…行きましょう、風が強くなりました」
「二人を連れ戻さねばならない!動ける者は私に続け!」

駆け出そうとした男の腕を掴んだのは、幼い少年だった。吹き荒ぶ風で少年が被っていたマントが煽られ、しなやかな銀色の髪が風に舞う。痩せ細った体躯ではマントと共に吹き飛ばされてしまいそうだったが、腕を掴まれた父親が息子の肩を抱き寄せて難を逃れた様だ。

「幼いお前は林から出てはならんと言っただろう!アーベントはどうした?!」
「叔父上は先月亡くなりました」
「…そうだった、な。っ、ジュアン!ユニ!プロシェーヌとアルバを追うぞ、ついてこい!」
「何卒ご容赦を、キング=ノア」

ぎゅっと父親のマントを握り締めた少年は、その場で跪いた。今の今まで耐えていたのだろう疲れが押し寄せてきたのか、幼い瞳は今にも潰れてしまいそうなほど細められている。

「ナハト?どうした、体が辛いのか?」
「…皆、十日以上休んでおりません。叔母上達を追う体力がある者は、もう」

がさりと林から出てきた者達が、次から次に座り込んだ。一様にフードで顔を隠している者達の年齢は様々で、荷物を運ぶ役の数人が切り分けた果実を配っているのを受け取る手は、若いものもあれば皺だらけのものもある。

「どうかお許しを」
「…いや、気づいてやれずすまなかった」

幼い息子に諭された男は首を振り、肩の力を抜いた。
徐々に強くなるばかりの風の中で、誰もが座り込んでいる状況は異常だ。竜巻が天に昇る方向へ真っ直ぐ駆け出していった二人を追える者は、確かにこの中には存在しないだろう。

「叔父上は、死ぬなら太陽に焼かれて死ぬと仰っていました」

弟の名が出た事で、男は座り込んだ。
捲れてしまった息子のフードを被せてやろうとしたが、すぐに風が捲らせてしまうので意味はない。いつ晴れるか知れない空から逃げる為以外にも、近づいて来る嵐を避ける為、いつ来るか知れない追手に見つからない為、様々な理由で林の中を進む事にしたが、その所為で誰もが疲労困憊だった。勇猛果敢に先頭を歩いていた男でさえ、座り込むほどには。

「遺言通り嵐を待たず日照りのセーヌで亡くなった叔父上は、お幸せそうでした。…けれど我らは、叔父上の死を悼む暇なく光から逃げた」
「…」
「母上の死は言い訳に過ぎない。人にとっては心地好い晴天が、我らにとっては生き地獄だっただけの事」

妻を亡くしたとある男の弟は、兄が何をしようとしているか悟って自ら紫外線の下へ躍り出た。焼かれてぶくぶくと粟立つ皮膚に構わず笑いながら踊り続け、笑顔のまま死んで行ったのだ。そうする事で兄の計画を止めようとしたのだろうか。

「酒に酔って母上を殺した男達は、間もなく死罪になりました。多くの認識ある貴族は、我らを魔女の子孫だとは思っていません。ですが父上は、男達が働いていた伯爵家の井戸に毒を混ぜてしまった」
「奴らを許す事は出来ない。…使用人の責は、主人が負うものだ」
「ですが罪なき人々も死んだ。今の我らは殺人者です」

幼子の正論に耳を傾けていた男は項垂れ、沈黙した。激情による復讐が短絡的だった事は、本人が一番判っている事だ。然しそれを敢えて指摘した息子は、責めている風ではない。淡々と事実を語っているだけだ。

「我らはもう、穏やかなセーヌのせせらぎに耳を澄ます事はないのでしょう。母上の眠るあの地には二度と戻れない」
「私の所為だと?」
「いいえ」
「…いや、その通りだナハト」

妻を亡くした男は、その数日後に弟を亡くした。不幸が二度やってきたと言うだけで、人間は容易く理性を手放せる。

「一時の怒りに任せた行為がどんな事態を招くのは、私は理解していた。…父上が仰った通りになってしまったな。妻を一人しか娶らなかった私は、唯一の伴侶を失った今、クレアを殺した男達と大差ない愚かしい男に成り下がっている。…頭では理解しているのだ」
「フランスでは今頃、グレアムを魔女の一族と噂しているでしょうか?」
「ああ。貴族殺しは大罪だからな」
「父上は母上が育てていたマンドレイクの粉を井戸に落としたのですか?」
「そうだ」
「…ふ」
「ナハト?」
「ふ、はーっはっはっ!」

主人と跡継ぎの分の果実を運んできた者達が、笑い転げる少年を無言で見守っていた。ぱちぱちと瞬いた男はダークサファイアの瞳で息子を見つめ、風に踊る長い白髪が手で抑える。

「プロシェーヌもアルバも私の想像を超える妹達だが、アーベントに劣らずナハトも難解な男だ」
「くふっ。…申し訳ありません、ほんの少し思っただけです」
「何をだ?」
「私は妻を沢山娶ります。兄弟が居ないと寂しいので」
「そうか」
「その上で、今回父上でなさった復讐についてですが…」
「叱りは甘んじて受ける」
「ざまーみろ」

林檎を受け取り一口齧った少年は、ダークサファイアの瞳を眇めて吐き捨てた。

「何度も自分を納得させようと努力しましたが、罪なき者が犠牲になろうが知った事ではありません。母上の命を奪った罪は下等人種の命では濯ぎきれないほど重い」
「…」
「王の命で贖わせるべきでしたが、今更戻る訳にも行きません。ですから、私は今後永遠にフランスに圧力を掛け続けましょう。子孫にもきっと伝えます。我が憎悪は私が死んだ後も世界に留まり続ける。…永劫」
「ナ、ハト」
「血を分けた弟が死んだ事も忘れておられた父上ですが、賛同して下さるでしょう?」

微笑んだ息子に瞬いた父親は無言で首を傾げた。
少年の言葉を聞いていた誰もが動きを止めていたが、ややあって弾かれた様に笑い始める。

「そりゃ良いや!ナハト様の仰る通り、奴らは自業自得だ!」
「我らグレアムが夜にしか活動出来ない事を逆手に取って、一般の市場より遥かに高い金額で食材を売りつけてくる強欲なフランス人!」
「エジプトで流行したペストがマルタに上陸したそうです。プロシェーヌのタロットによると、遠からずパリをコレラが襲うと」
「乙女の呪いだ。アントニウスの火から逃れられたとしても、火炙りにされたジャンヌダルクの御霊は、決してフランスを許さない」
「コレラの抗菌薬の作り方は、我らしか知らない神の秘術。愚かな人類がその域に辿り着くまで、何年懸かるでしょう?」
「「「ざまーみろ」」」

狼の遠吠えに似た暴風が吹き荒れ、雨粒が落ちてきた。然し彼らの笑い声は止まらない。
溜息を吐いた男は肩に掛かる銀の髪を掻き上げ、ダークサファイアの瞳を眇めた。

「…いつまで笑っている。日が落ちれば我らの時間だが、この嵐は誰にとっても中立だ。…雨風を凌げる場所まで、もう暫く歩くぞ」
「ノア、もうベルギーに入りました。これ以上北上するとドイツです」
「オランダは天候が良い国だそうです。我らには厳しいでしょう」
「川は間もなく氾濫するでしょう。今年の嵐は容赦がない」
「…好き勝手宣ってくれる。ならば選択肢は一つしかあるまい」

街道の果てには港がある。
港には海があり、この天候では誰も近寄らない筈だ。

「残念ながら我らグレアムに於いて、己の命が惜しい者は存在しない」
「ええ。死は常に身近にある友の様なもの」
「死を悼むのは人の心。死を恐れるのは無知の証」
「死して尚、魂は大地を巡るでしょう。この風の如く」

はらりと風がノア=グレアムの髪を撫でた。ひらひらと皆のマントが翻り、被っていたフードが跳ね上がる。透ける様な肌の者も居れば、何ら健康そうな人間の姿も見えた。深紅の瞳の者も存在すれば、青い瞳の者も存在した。

「我らは常にノアと共に」
「グレアムに救われた命は尽きるまでノアと共に」
「太陽の祝福に愛されたゼウスは我らを淘汰し、ハデスにはいずれ会える。…ならば我らは、ポセイドンの慈悲に縋ろう」

彼らはゆっくり立ち上がった。
竜巻を恐れずに駆けて行った少女達に背を向けて、目指すのは一時でも長い夜を過ごす為に西へ。

「私は死を恐れない」
「私は命を慈しむ」
「私は生に縋らない」
「私は悪を慈しむ」
「私は器」
「私は魂」
「私は業」
「目には目を歯には歯を」
「我らは自由の民」
「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」
「祈りましょう」
「願いましょう」
「望みは自由である事だけ・と」

悍ましくも恋焦がれる太陽が沈んだ方向を目指せば、分厚い雲の向こう側で月は、一層長く彼らを見守り続けるだろう。歌う様な声音はどれもが女性のもので、男達はその祝福の歌に耳を傾けた。大気の唸りは彼らの鼓膜を震わせてはいない。

「風は同行者」
「雨は敵にあらず」
「闇は永久の同胞」
「月は太陽の鏡」
「セーヌを捨て、ドーバーを渡りましょう」
「神の導きのままに」
「ヴォイニッチが記す神の知恵を抱いて」
「方舟を作りましょう」
「宵闇が覆い隠す、ノアの舟を」
「それ即ち、ノアの威光を須く知らしめんが為に」

笑い疲れて眠ってしまった息子を優しく抱き上げた男は、息子の手から齧りかけの林檎が転がり落ちる事には構わず、顔を上げた。



「…往こう、険しい海原の向こうの自由へ」


























「ひっく、すんすん、ひっ、ぐす…」

森に囲まれた山奥の神社は全てが古びていて、赤か茶か見分けがつかない小さな鳥居を挟んでいる石像に至っては、長年の雨ざらしで苔が生えている。辛うじて獣の形をしている事は判断出来るが、狐なのか狛犬なのかは定かではない。
境内から伸びる参道だけは手入れされている様だったが、鳥居を潜り一歩外に出れば草木も眠る様な獣道で、およそ賑わいとは無縁の、正しく忘れ去られた聖地と言わんばかりだ。そんな短い参道をぐるりと見回した男は微かな啜り泣きを聞き止め、境内の階段下に転がっている箒を拾ってそのまま屈み込んだ。

「おたき、出ておいで」
「ひっく。…お父さ、ん?」
「父さんの大事なお姫様は、どうして境内の下に潜り込んで泣いているんだ?」
「ぐす。…境内のお掃除をしていたら、里の子が石を投げてきたの」

然程大きな神社ではないが、縁の下に幼い子供が隠れるくらい訳はない。男の呼び声に答えてもそりと出てきた幼子は、艶やかな黒髪に張りついた蜘蛛の巣には構わず、屈んでいる父親の腕の中に飛び込む。

「怪我はない様だが、神聖な領域で酷い事をする子が居るもんだ。悪い子にはきっと天罰が下されるだろう」
「本当…?」
「本当だよ。神様はいつでも私達を見ているんだ」

片腕で娘を抱き上げた男は『重くなったなぁ』と呟いてもう片手で腰を叩くと、娘の髪についている巣を手で払った。すんすん鼻を鳴らしている娘の目にもう涙はないが、赤く染まった目元は誰が見ても哀れだろう。

「あの子達が言ってたの。お父さんは捨て子だったって」
「妙な事を言う。お父さんのお母さんは、この山で暮らしていたよ。幼い頃に亡くなってしまったから、里の子は誰も知らない筈だ」
「お婆ちゃんは鬼だったの?」
「誰がそんな事を言ったんだ?」
「うちの神社は神様から見放された廃社だったのに、山賊が住み着いて神主の振りをしているんだって…」

住居を兼ねている社務所に連れて帰るべきなのは判っているが、いつもは中に居る筈の巫女の姿が見えない。親子三人だけの侘しい神社であるから正式な修行を積んだ巫女ではないが、彼女の姿があれば山の麓の悪餓鬼が好き勝手騒ぐ事は不可能だった筈だ。
数時間前から烏が騒いでいると思っていたが、お社の真裏にある滝で禊をしていた為に騒ぎに気づかなかったのは可哀想な事をしただろう。まだ5つになって間もない少女にとって見知らぬ子供達は、山の獣より恐ろしかったに違いない。

「その話をお前は信じたのか?お前には父さんが山賊に見えるのかな?」
「…だって、うちのお社には、御神体がないんだもの」

ふるりと首を振った娘は、然し腫れぼったい目元をごしごし拭いながら俯いた。

「うちは山を統べる産神様を祀っているんだ。だから御神体は目の前にある、この豊かな山だよ」
「こんなに大きいお山が…?」
「お前の名前は社の裏にある禊の滝から頂いたんだ。普段は穏やかで凪いでいる滝壺も、梅雨時には激しい飛沫を上げている。今度また何か言われたら、負けじと言ってやりなさい」
「御神木はお山。おたきは滝の子っ」
「そうだ。石を投げられたら一回り大きい岩を投げ返しておやり」
「あら、困った神使様だ事」

快活な女の声が割って入る。ぱあっと表情を緩めた少女が凄まじい勢いで振り返り、娘を抱いていた男は微かによろめいた。転んでしまっては格好がつかないと踏ん張ったが、それを見ていた女性は背負っていた籠を下ろしながら肩を震わせている。

「幼い娘に非道を教える父親が何処に居ますか。神主様とは思えませんね」
「お母さん、お帰りなさい!」
「ただいま。滝、籠の山菜を井戸の水で洗ってきてくれる?」
「はーい」

元々は道祖神を祀っていた小さな祠を、勝手に誰かが建て替えて神社の体を成しているだけの山奥の建物には、手水舎の様なものはない。社務所として使われる事が全くない住居の前にポツンと井戸が一つあり、周囲を山で囲われた神社の裏の切り立った崖に滝があったが、神主を名乗っている男以外は滝壺の湖には近寄れない事になっている。
と言うのも娘がまだ幼い為に取って付けた方便の様なものだが、彼ら以外に訪れる者がないのだから、さして問題はないだろう。

「お帰り、おこう」
「近頃猪を見なくなったからか、今年は立派な筍が出来てましたよ。山菜の出来も良い」
「一人で山に入るのは危険だと言っただろう。朝のお勤めが終わったら私も付き合ったのに」
「収穫は早朝の方が良いんです。日が落ちてからの方が危険でしょう?」
「困った母さんだ。…それより、里の子供達が上がってきたそうだよ」
「猪が減ったからかしら?ろくに手入れもしていない山道を遊び場気分で登ってくるなんて、親は何をしているんでしょう」
「宿場町が活気で湧いていると言うから、仕方ないんだろう。大涌谷の賑わいが此処まで聞こえてくる様だ」
「昔はもう少し静かな所だったのに、変わらないのは富士ばかりかな」
「暫く見ていないな。この山からも見える所は幾つかあるが、幼いおたきを連れては行けないからな」
「何、すぐに大きくなりますよ。女の成長は男よりずっと早いんですから」
「確かにそうだ。うん?お前、手を怪我しているじゃないか」

山菜の他に野兎も仕留めてきたらしい妻が、娘から見えない様に手早く血抜きをしている光景を見守っていると、男は彼女の手に怪我がある事に気づいた。長年この山で暮らしている男より山に詳しい妻が収穫に出掛ける事は度々あるが、怪我をして帰ってくる事は滅多にない。

「ああ、父の遺品を整理していたら具合の良い獲物があったので、磨いてみたんです。鎌や鍬より良く切れるから、筍が沢山取れました」
「…どんな獲物なんだか」
「本当は投げて使うみたいですよ。…まぁ、山賊に成り下がった忍者の遺品なんて本当はとっとと捨てちまう方が良いんでしょうけど」
「お父上をそんな風に言うものじゃないよ」

大した怪我ではないと頭を刎ねて血抜きして獣の皮を剥いだ女は、手早く麻縄で縛った肉を境内の軒先に吊るした。普通の人間ならば罰当たりだと怒鳴りそうだが、この場で叱る者はない。

「出来損ないの『せん』、親父はいつも村で笑われていた。何処ぞのお姫様と結ばれた閃の息子は大店の主人になれたのに、京の都に馴染めなかった親父は番頭の仕事を投げ出して、呆気なく山賊の仲間入りさ。農夫の娘を攫って孕ませた挙句、苦労ばっか掛けて死なしちまって、物心つかない娘に箸の持ち方より先に追い剥ぎの方法を教えたんだ」

一仕事終えてどさりと座り込んだ女は、淡々と吐き捨てる。

「あんな外道、死んでくれて清々してるよ」
「…その辺でよしなさい、おたきに聞こえるよ」
「あの子、目が真っ赤だったね。泣いたのかい?」
「里の子達が上がってきたと言っただろう。石を投げつけられて、意地悪を言われたらしい」
「…殺してやろうかね」
「香」
「あの子は何を言われたって?」
「私が捨て子で、鬼の子孫だと言われたそうだ」
「はっ。山奥のしみったれた神社の宮司だからって、鬼とは随分な言いようじゃないか。ひっ捕まえて来てやろうか」
「まぁまぁ、子供の言う事だ。…それに強ち嘘でもない」

眉を顰めた女が目を丸めるほど、怪しげな笑みを浮かべた男は異様だった。然し見慣れているのか妻は短く息を吐き、ついっと指を突き刺す。

「アンタ、今の笑い方を滝の前でするんじゃないよ」
「笑い方?」
「私は落ちぶれた伊賀の残党だけど、アンタは神主だろ。…獰猛な猪が、怯えて寄らなくなる様な笑い方だった」
「山賊の娘は寄ってきてくれるじゃないか」
「私は物好きなんだよ。アンタもね」
「そうか?」
「アンタの父親も背が曲がった年寄りの癖に食えない生臭坊主だったけど、たった今自分達を殺そうとした賊を生かして社に住まわせるなんて、正気の沙汰じゃないよ。…お陰で私達親子は救われたけれど、過去の行いが消えちまった訳じゃない」
「閃殿は亡くなるまで過ちを悔いていらした」
「アンタだって街に行けば娘達が頬を染める様な色男だってのに、何を血迷って私みたいな女を選んじまうかね」
「胸が大きい」
「は?」
「親父も死んだ母の豊かな胸を見初めたそうだが、私も同じ血だったと言うだけだ。胸は良いぞ胸は」

にこりと毒気のない笑みを零した夫を見つめ、女は恐ろしい微笑みを浮かべた。その眼差しには明らかに怒りが滲んでいる。

「凪、滝が居なきゃ殴ってたよ」
「おたきが見える位置に居るから堂々と白状したんだ」
「…生臭坊主が」
「私は神主だ。正式な階級は頂いていないから、禰宜ですらないけれど」
「詐欺って言うんだよ」
「要はバレなきゃ良い」

娘の目がある範囲では健気に優しい母親を演じている女は、生来の苛烈な性分を必死に呑み込んでいる様だった。娘が寝静まってからについては考えたくないが、怒りが持続する性格ではないので、すぐに忘れてくれる事を願うばかり。

「親父の妹が高森伯爵家の分家に嫁いでくれたお陰で、命拾いしたなぁ。都で散々悪事を働いて山奥に出家させられた放蕩息子って言っても、元を正せば大名家だ。使い果たした財産がどれほどのものかは知らないが、箱根に追放されていなければ親父が母さんと結ばれる事もなかった」
「アンタの母親は美人だったそうだね。お義父さんが亡くなる前に何度も聞いたよ」
「透けるほど肌が白くて、胸が大きかった」
「いっぺん蹴り飛ばされたいのかい?」
「十の時に亡くなってしまったが、母はこの境内から見える空が好きだった事を覚えている。日に当たっては毒だと父が言い聞かせても、死ぬまでやめなかった」
「一度で良いから話してみたかったもんだね、お義母さんと」
「気があっただろうな。二人共胸が大きいから」
「アンタだけ今夜は蛇の丸焼きにしよう」
「君の再従兄が継いだ神坂は冬月の反逆に汲んで、江戸へ上ったそうだ。大宮司を継がれた帝王院の若君は、実母の家を潰したと言う事になる」
「憧れていた寿公にお会いする夢が叶うんじゃないか?」
「…どうだろう。案じていたより遥かに、大殿は女狐に取り入られている様だ」
「悪名高い冬月羽尺の事かい?麓の村に下りる度に、新しい噂が広がっているよ」
「京都で最も有名な神主だからな。緋色の大鳥居を頂く緋の系譜に齎された、一点の染み。血を分けた息子を長く閉じ込めてきた彼女は、百年の不作を齎すと言う悪妻にして悪母だと謗られても、仕方ない事だ」
「大宮司に娘が生まれたそうだよ。近頃はその話で持ちきりさ」
「めでたい事だ。何しろ娘は、目に入れても痛くないほど可愛い」
「いつか嫁に出すんだよ」
「出す訳ないだろう、おたきは穢れなき巫女になるんだ」
「穢れた巫女で悪かったね。私がまっさらだったら滝は生まれてなかったよ」
「おこう、もう二・三人娘を産んでくれても構わないよ」
「生臭坊主、その手は何だい?」

わきわきと両手で宙を揉んでいる男の脇腹を笑顔で摘んだ女は、無言で悶えている夫に鼻を鳴らした。娘が生まれてから社を出なくなった男の運動不足は重度だ。辛うじて神職としての禊は絶やしていないが、徐々に時間が短くなっている気がしない事もない。

「羽尺が悪妻ならアンタは悪夫だよ。大体、この社を作ったのだって百年近く前に山で修行をしていた雲隠一族なんだろう?無人だったお社にアンタの両親が隠れ住んで、勝手に自分のもんにしちまってるけど」
「取り壊されていても可笑しくはなかったうちの神社を、修行もしていない私が継ぐ事を許して下さった大殿には、尽くしきれない恩がある。…然し、御子息は寿公とは、次元が違う様だ」
「一体どんな違いがあるって?」
「昨日、私の元に手紙が届いただろう?」
「ああ、緋天大宮の新しい主からだね。あれを読んだ後からアンタの様子が可笑しいと思っていたんだ」
「獣の守護を失った山は、遠からず破滅するそうだ」
「はぁ?」
「察するに、私はもうすぐ死ぬのだろう」

小首を傾げながら呟いた男に、女は瞬いた。すぐには言葉の意味が判らなかった様だが、暫くして眉間に皺を寄せる。

「獣が減ったからって?」
「おたきが生まれた年に、危険な獣は軒並み狩ってしまった。私は娘可愛さに命を蹂躙した男だ」
「…馬鹿馬鹿しい。会った事もない人間が、予言じみた真似をするじゃないか」
「天神は先頃出雲に上がられたそうだ。過去に類を見ない神通力を認められている。…それこそ、安倍晴明以来の」

妻には理解出来なかったが、夫が言うのであれば正しいのだろうと息を吐いた。

「…アンタが死ぬってんならついていくよ。夫婦だろう?」
「おたきが一人ぼっちになってしまう」
「私達の子だよ。どんな目に遭ったって、強く生きていく」
「そうかな。…ああ、それにしても腹が減った」
「二人分の握り飯を作っておいただろう、食べなかったのかい?」
「おたきが食べていないのに、父親の私が食べる訳には行かないだろう?」
「うん。私達がそう教えたんだ」
「おたき」
「なーに、おとーさん?」
「そろそろ家の中にお入り。皆で一緒に昼餉にしよう」

一生懸命井戸水を汲んでは山菜を洗っていた幼い娘は、その言葉に満面の笑みを見せる。

「食事は家族みーんなで、一緒に!」
「…誰に似たらあんなに良い子に育つかね」
「当然、僕だろう?」

娘が社務所に入った瞬間、小気味よい平手打ちの音が響き渡った。それを目撃したのは狐とも狛犬とも知れない、二匹の石像だけだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!