帝王院高等学校
裏切りにはほんの少しの勇気を添えて!
「動くな。私は銃を持っている」
「?!」
「その傲慢な無知がいっそ羨ましい」

引き金を引けば今すぐ殺す事が出来る。
選ばれた者には選ばれない者の気持ちなど、どう足掻いても一生理解出来ないのだから。

「…羨ましい?他部署のランクCに命を狙われる覚えはないんだがな」
「時間稼ぎなら無駄だ。どんなに待っても、明日まで誰も来ない」
「っ、何をした?!」
「騒がない方が良い。間もなく、特別機動部のシャドウウィングが到着する」
「何だと?」
「反逆者を捕らえる為だ。ああ、愚かにも貴様の浅知恵が成功すると信じていたのか?」

羨ましい。
決してルビーにはなれないキャラメル色の髪を持つ自分とは違い、気高いスピネル色の髪が。

「生涯神に仕える事を義務づけられたシンフォニアを、恐れ多くも連れ出そうなんて田舎者とは思えない大それた企てだ」
「…あの子は一人の人間だ。他人に彼女の自由を剥奪する権利はない」
「綺麗事だな」

妬ましくて吐き気がする。
命を削る真似だと知っていて自分を生んだ母が貫いた愛は、何と気高いのだろう。まるでダイアモンドの様に鋭く穿ったまま、永遠に消えて失くならない。

「キリストが神を裏切る事は有り得ない。廃棄されるべき失敗作が、今に至るまで生かされているだけで感謝するべきだ」
「煩ぇ女だ、隠れるしか脳がねぇ癖に」
「私を激情させるつもりなら諦めろ。ランクBの貴様を侮ってはいない」
「…俺を差し出せば満足なんだろう?クリスには何もするな」
「約束しかねる。決定権は私にはない」
「笑わせるな。ベリアル卿に耳打ちしたのはテメーだろうが、性悪女」

見えていない筈なのに、男は振り向いた。
光化学迷彩で景色に溶け込んでいる車内から銃を突きつけたまま、睨みつけられている現状に女は嘲笑う。

「醜いなカミル。テメーのそれは嫉妬だ」
「…知った様な事を」
「一人目のシンフォニアからお前の話を聞いた事がある。たった一人の妹と引き離されて心配だろうと聞いた俺に、奴は言った。イブの傍にはジャンヌダルクが居ると」
「群衆に担がれ最後には殺された無能な小娘と私を、同じ括りで語ろうとするな」
「何を企んでるか知らねぇが、クリスを悲しませる事が目的だったら…」
「だったら何だ?」
「殺す」

ああ、愉快だ。殺されようとしている分際で、まだ諦めていないのか。流石は聖地からやって来た異邦人、姿だけでなく思考回路すらまともじゃない。

「流石、ノヴァが認めたミラージュの子と言う事か。貴様には忍の血が流れていると聞いているが、強ち嘘ではないらしい」
「撃ちたきゃ撃てば良い。悪いが、簡単に殺せると思うな」
「知っている。貴様の自然治癒能力は常人の倍だそうだな。山間部に不時着したセスナの中で、即死した操縦士の隣に同席していたお前だけは助かった。全治半年の重傷を負い、二ヶ月で退院した奇跡は中央区でも評判だ。つまりはそれこそが、陛下が探しておられた蜃気楼の血を示す確かな証」
「は。俺の血が今後セントラルにどんな恩恵を与えるか計算してみろ。いつ死ぬか知れないキング=ノアの為に使われるべき命を、小娘が奪えると思うか」
「…ふん、考えなしの馬鹿ではないな様だ。自分の価値を冷静に算定している」

無能な男だったら躊躇わずに殺していた。
稀有な血。上等ではないか。これ以上なく、素晴らしい器だ。

「殺すつもりだったらさっさと撃て。何が目的だ」
「…そうだ、私は貴様と取引がしたい」
「取引だと?」
「翼を失ったお前を、ナザレのヨサフにしてやろう」

魔女は生贄を求めている。研究者は貴重なサンプルを無駄にはしない。
例えいつか失ってしまうとしても、その日までは丁重に扱おうではないか。全ては己の欲望のままに。

「…キリストの義父か?何を馬鹿な事を」
「特別機動部に連行されてしまえば、殺されはしないにしても飼い殺されるだろう貴様に、拒否権があると思うのか?」

犠牲を払う対価に、命を捧げても構わない。
目の前の男が危険を顧みず駆け落ちを選択した様に、自分もまた相当の覚悟をしたからだ。

「お前を失えばイブは悲しむだろう。逃げ出そうとした神の遺伝子は背徳者として廃棄される。お前の様に稀有な血であれば生かされただろうが、アダムとイブは加工されたレヴィ陛下のDNAと、保存されていたマチルダ=ヴィーゼンバーグのDNAで作られたキングの劣化版だ」
「くそが!」
「コードを与えられてもランクを与えられている訳ではないアダムと同じく、イブには生かす価値がない。今までは哀れな老婆のままごと遊びの為に生かされていた、ただの人形だ」
「巫山戯るな!お前らは全員まともじゃねぇ!」
「貴様こそ、このまともじゃない中央区で生まれたシンフォニアだろう?」
「!」

羨ましい。妬ましい。
男女の恋愛こそが正常だと謳う世界で愛を貫き通した母の様には生きられない事を、神の子と出会った時に思い知った自分のこの思いは、何処へも届けられる事がないのに。

「一般家庭に育った貴様がイブに同情する気持ちは理解する。聖地へ足を踏み入れる事を許されていない社員には、聖地からやって来た貴様が選ばれた人間に見えるだろう。ライオネル卿が部下に選んだとなれば、尚更だ」
「…」
「愛人の子だと疑われ、実母に長年虐げられてきた哀れなお前は一時の夢を見た。イブと幸せな家庭でも築くつもりだったか?ノアの複製にはなれなかった、不出来な妹と」
「黙れ」
「愚かしきレイ。お前に提示された選択肢は限りなく少ない」
「悪魔め…」
「何とでも」

遠くから近づいて来る気配に気づいたのか、嵯峨崎嶺一は悔しげに黙り込んだ。
銃をコートの中に忍ばせたエアリアス=アシュレイは開け放ったドアから静かに降り立つと、真紅の瞳に映り込む自分の顔を一瞥し、勝ち誇った笑みを零す。

「お前の計画を妨げようとしている私にも、提示された選択肢は少ない」
「…俺にどうしろって言うんだ」
「明日この場所で、イブに別れを。そう、理由を聞かれたらこう答えれば良い」

ラプンツェルは、恋をしなければ幸せに暮らしていた。

「『イールの事を愛してしまった』」

…吐き気がする。
目の前の男がそんな表情をした時、彼の瞳に映り込んだ自分もまた、同じ様な表情をしていた。












一日中燃え盛る松明が幾つか。
大陸の沿岸部の海中数百メートル地点にある誰も知らない海底洞窟にあるのは、面積の半分以上が波一つ立たない静かな湖と、ギザギザにささくれた鍾乳石の天井に、小さな教会が一つ。

「…また溜息」

何百年の昔に地盤沈下で沈んだと言われている寂しい教会の窓の向こうには、希望なんてものは存在しない。
磨き抜かれた銀で作られたイースターエッグが転がる埃臭い教会には、参拝する者の居ない狭い礼拝堂があるが、信者の為のベンチはとうに木が腐ってしまって、何十年も前に松明の餌になったそうだ。腐敗を逃れた部分は本棚として作り替えられて、礼拝堂の壁に敷き詰められている。この教会の占有権を与えられている盲目の女が作ったのか、他の誰かが手を貸したのかは定かではないが、本棚には夥しい数の書籍とレコードが並んでいた。
古びたイースターエッグに負けず劣らず年季を感じさせる蓄音機は窓辺に置かれたままで、誰も手入れしないからか飛び出しているスピーカーの管に埃が重なっているが、レコードは毎日別のものに入れ替えられており、回転盤部分はいつ見ても綺麗な状態だ。

「私が居る時に他の事を考えているなんて、最近の貴方はとっても意地悪」
「…ごめんなさい、カミル」
「コードで呼ばないでって言ったでしょう?貴方には私の本当の名前を教えたじゃない」
「ごめんなさい、イール。許してくれる?」
「勿論よ。私達は友達でしょう?けど、イールは男装した時の偽名だから。二人きりの時以外は、エアリーって呼んでちょうだい」

我ながら、良くも笑顔で嘘を並べ立てられるものだと感心した。
近頃のエアリアス=アシュレイの心情は決して穏やかではない。入社間もなくから僻地に配属されてしまった事がどうだと言う訳ではなく、ステンドグラスの聖母マリアが霞むほど美しいお姫様の心が、この場にないからだ。

「テレジアはレコードを回したまま良く眠っていられるわね」
「薬を飲んだから。最近ずっと、微熱があるの」
「配給の頻度を増やせるか掛け合ってみるわ。以前の班長の時は管理が杜撰だったんでしょう?」
「…サムニコフさんに引き継がれてからは、少なくとも忘れられる事はなくなったよ」

可哀想なお姫様。一回り年が離れた唯一の兄とは数年前に離れ離れになってしまい、遠い中央区で暮らす兄からの手紙はいつからか届かなくなった。久し振りに再会したと思えば、暫く此処へは来れないと言われてしまう。
寂しい彼女の元に、聖地からやってきた来訪者が現れた。恐らくセントラルで勤務する誰よりも流暢な日本語で彼は、忘れ去られた教会の守人に何の話のしたのだろう。話をしている間は表情を取り戻すイブは、少しでも間が空くと物思いに更けては溜息を零している。

「さぁ、一緒にお菓子を食べましょう。柘榴のタルトがあるけれど」
「…柘榴は酸っぱいんだ」
「熟れる前に食べるからよ。皮が硬い果物は日持ちするの。此処は一日中暗くて寒いから、熟すのが遅いのよ」

区画保全部の主たる職務が中央区全域の保守である事を隠れ蓑に、エアリアスはこうして教会と中央区を行き来していた。世界一の機動力を誇るファントムウィングですら、ニューヨークからサンフランシスコの移動には数時間懸かるが、エアリアスにとって苦にはならない。寧ろほんの少し会えなかった隙に余所者から奪われたとあっては、心此処に在らずであるのは何もイブだけではないだろう。
イブにとっても妹同然のサラ=フェインと会わせる事が出来れば気分転換になるだろうが、考えなく行動が出来た昔とは違って今のエアリアスには立場がある。優秀だった父親の様な学者になりたいと、近頃勉強に励む様になったサラをイギリスから連れ出すのも難しいとなれば、職務の合間に出来る限り教会を訪ねる事だけが、無力なエアリアスに許された手段だった。

「このタルトはジャムがたっぷり入っていて、とっても甘いわよ」
「じゃあ頂くよ」
「ふふ。サラは三切れも食べて、その後の夕食が食べられなかった事があるわ。だからお母様に叱られたそうよ」

こんな寂しい世界に生まれた瞬間から放り込まれた哀れな兄妹は、アダムとイブと名づけられた。いや、正確にはどちらも名前ではなく企画書に記載された仮名称だ。彼らには自分だけの名がなく、正式に個体としての名前を与えられたのは、成人した兄が中央区へ招かれた時だった。
ロードと言う名とグレアムの姓を与えられたアダムは、現在男爵直属の部署で職務に準じているらしい。らしい、と言うのは、区画保全部に配属したばかりのランクCでしかないエアリアスには、知る事が出来ない情報だからだ。
定期的に区画保全部から届く配給物資にロードの手紙が添えられていたが、数ヶ月前に急に本人がやって来たかと思えば、以降何の音沙汰もない。まだ13歳のイブがどう思っているのかは、察して余りあるだろう。ただでさえ盲目の修道女崩れ、マリア=アシュレイは数年前から寝たきり状態が続いている。息子同然に育ててきたアダムが旅立ってから、急に気力が薄れていったと言う話だ。

「サラは愛らしい子、今でも私宛に手紙をくれるでしょう?元気にしてる?」
「貴方達に出会ってから家から出るようになって、学校へも通えるようになったわ」
「新しい父親とは仲良く出来ているのかしら」
「それはサラがもう少し大人にならないと」

血が繋がっていない筈のマリアとイブには、似ている所がある。
どちらも口数が必要最低限で、食事に関して意識が薄い所だろう。腹が減った時にあるものを食べる、味に拘りはない。だからかイブは痩せていて、手足は長いが背は低い。
成長期だろうに、マリアの目が見えない所為で気づく者が居なかった。兄が居た頃から妹の偏食の兆候はあった様だが、十歳以上年が離れている所為で、アダムが成人を迎えて間もなくこの場を離れてからは、転がり落ちる様に悪化したと考えられる。それでもアダムが中央区へ招かれて暫くは数ヶ月に一回の帰省程度は許されていたが、この数年は手紙のみに留まっていた。数ヶ月前の急な帰省を除けば、その手紙すら頻度が落ちていた様だ。

「エアリーはお父さんが好きでしょう?」
「勿論よ。恋人くらい作ってくれても構わないのに、仕事人間なんだから」
「ふ」
「やっと笑ったわね。私は貴方の笑顔が愛しいわ」
「有難う」
「本当に…大好きよ、クリス」

イブには可哀想な話ではあるが、恐らく理由の一端はエアリアスにあると思う。
エアリアスがこの教会にやって来たのは、ステルシリーに入社するずっと前だ。同世代と同じ勉強では物足りず、14歳の時には大学に通う事を許されていたエアリアスは一通りの理系分野を渡り歩いて、最終的に工業系を選んだ頃の話である。研究に没頭する以外の趣味がなかったので大学にしがみついていたが、その理由の半分は、母親を亡くした事にあった。本来はもう少し前から大学進学の話はあったのだが、当時病床にあった母親の傍を離れたくない思いもあって、自宅から平凡なスクールに通っていたのだ。
然し闘病虚しく亡くなってしまった母親は、エアリアスを出産した頃から体を崩していたと聞かされた。父親からではなく、善意の使用人からだ。その話を聞かせてきた人間に、エアリアスを責めるつもりなど毛頭なかったに違いない。寧ろ幼い時分に母を失ってしまった少女を励ますつもりだったのかも知れないが、結果的に言えば、全くの逆効果としか言えないだろう。

エアリアスは、母が亡くなる前に秘密を打ち明けられていた。この話については、父親であるフルーレティ=アシュレイにすら明かす事は出来ない。誰にも言えない。永遠に。
それでも時々無性に皮膚を掻き毟りたくなる時がある。今、この瞬間でさえ。

「イール?どうしたの、じっとナイフを見つめていてもタルトは味わえないでしょう」
「そうね。その通りよ。…あんまり美味しそうな色だから、魅入ってしまったみたい」
「柘榴はイールがつけてるペンダント宝石にそっくり」
「これはルビーじゃなくて、スピネルなの」
「スピネル?」
「王冠にあしらわれているジュエリーよ」
「そう。…本当に、綺麗」

夢でも見ているかの様な眼差しが、ペンダントに注がれる。ああ、また思い出しているのだろうか。
あの男が現れてからずっと、お姫様は夢見心地だ。人間とは思えない真紅の髪に瞳を持つアジア人は、初めてやってきた瞬間からイブの心を奪っていった様だ。

「…またレイの事を思い出しているの?」
「え…」
「私が離れている間に、貴方は大人になってしまったのね」

綺麗なイブ。ノアから名を与えられたクリスティーナ。
アダムがロードとして旅立った後、盲目の義母と二人きりになってしまったイブを励ましてきたのはエアリアスだ。彼女の為に生きる事を決意して、ステルシリー社員として相応しい資格を手に入れる為に尽くしているほんの何ヶ月かの間にやって来た異邦人は、エアリアスの許可なくイブの心を射止めてしまった。
一位枢機卿、ライオネル=レイの推薦を受けてほんの2・3年でランクBにのし上がった男は今、エアリアスが区画保全部に配属されるのと入れ替わりで対外実働部に異動した。エアリアスも彼の姿を見掛けたのは、一度だけだった。旧式のシャドウウィングウィングを一台保有している最下位の部署には、最新式のファントムウィングで駆けていく特別機動部員は眩しく見えるものだ。

「ど、うして、レイを知って…」
「先週、見掛けたの。私がシャドウウィングを借りられるのは運搬の時だけど、覚えているでしょう?私の実家には、お父様が所有しているファントムウィングがあるわ。ロンドンを抜け出した私が、サラを連れて此処に来た時に乗ってきたものよ」
「…」
「ふふ。あの時は叱られたわね、聡いお父様もまさかファントムウィングをステルスモードでクルーザーに積み込んでいたなんて予想しなかったみたいだから。それ以前に私が操縦出来るとは思いもしなかった」

低脳な人間の中に紛れて退屈していたエアリアスを知っていたのか否か、父フルーレティはサラの両親をエアリアスに紹介した。共和国とは言え、イギリスは一つの島国だ。古くから貴族同士には面識があり、血を遡れば顔も知らない親戚も多い。
フェイン家は比較的新しい貴族だったが、それでも英国の同盟が結ばれた頃には存在した家だ。イングランドの外れ、北部の海辺を領として慎ましく暮らしている。現当主は女性だが、離婚歴があった。現在は貿易商を営んでいる年下の男性と再婚していて、子供はサラ=フェインだけ。

「私の家庭教師だった医者が、区画保全部の医療施設で働いているの。母親が黒人ってだけで酷い差別を受けて、書き溜めていた文献を上司に奪われた事で絶望してしまった人よ」
「奪われた?」
「差別にめげない彼女を見初めた人がいたのだけれど、彼らの結婚の話が出た事が面白くない人間がいたんでしょう。彼女にプロポーズしたのは20歳以上年上の男性だったけれど、ロンドンでは医師としても経営者としても有名な方だったから」

大好きな父親と引き離されてしまった事で引き篭ってしまったサラに、母親は優秀な家庭教師を何人も雇った。
けれどサラはその誰もに心を開かず、学者だった父から買って貰った何冊かの絵本と大人でも難しい参考書を繰り返し読んではいたが、その参考書に記載されている難しい例題を教師達に投げ掛けては、答えられないと見ると『出て行け』と叫ぶ。誰もが手を持て余していた頃、困り果てたフェインはアシュレイ家を頼った。アシュレイが優秀な執事を輩出している学院を経営している事が、最たる理由だろう。
執事養成が主軸ではあるが、メイドを育成する事もあった。その学院の隣に病院が立ち並んでいたが、その病院の経営者一族は古くからアシュレイと懇意の仲で、レヴィ=グレアムがアメリカで起業した時から傘下にある。ステルスの階級で言えば、名無しに当たるランクDだ。

「ギルフォード=エヴァーグリーンと言えば、イギリスでは知らない者は居ないでしょう。彼の父親はリゲル卿の一番弟子だったと言う話もあるわ」
「リゲル…?マザーから聞いた事が」
「リヒト=ノヴァの親友だった方よ。リヒャルト様の娘、リリア様と共にロンドンから逃げる道すがら追い剥ぎに襲われそうな所で、皆とはぐれてしまった。幼かったお祖父様はレヴィ陛下の手を引いて港まで走ったけれど、リリア様を抱えていては生き残す確率は少ないだろうとお考えになられて、リリア様を犬の背中に括りつけて逃がしたって聞いているわ」
「犬って、図鑑に載っている犬?」
「狼の子孫よ。生命の全てに慈悲深かったグレアムから助けられた獣は、何匹もいるの」

医療分野に手を出す前は漁師だった彼らを海賊を揶揄する者も居たそうだが、当時から商才に恵まれていた漁師一族は8代キング=ノアがヴィーゼンバーグ率いる王国軍に殺されてしまった時に、王国を敵視した。野蛮な海賊と謗られていた彼らに薬を売ってくれる心優しいグレアムが葬られた事を、アシュレイと同じ様に憎悪していたからだ。

「果たしてグリーンランドに辿り着いたお祖父様達は、ボトル詰めにした手紙を幾つも流した。いつかイギリスに流れ着いて、誰かが読んでくれると信じたの」
「辿り着いたのか?」
「結果的にはね」
「え?」
「失ってしまった家族の冥福を祈る暇もないまま、陛下はアメリカへ渡る事を宣言なされた。オリヴァー…お祖父様も生き残った皆も、彼に従った。統率符を持たない十代の少年は、生き残った者達に残された唯一の希望、新たなノアだったの」

そして彼らがアメリカへ旅立って間もなく、グリーンランドに一隻の船が流れ着いた。

「誰かが渡り鳥の足に括りつけた手紙が、運良くリゲル卿の元に辿り着いたのよ。彼は陛下が砂浜に残したボトルを見つけて、すぐにアメリカへ渡った」
「リゲルは何度も海を渡ったのか」
「海賊の子孫だから」
「海賊?」
「エヴァーグリーンは海賊と呼ばれた漁師だったけれど、港には必ず領主が居るわ。領主には爵位が与えられている。リゲル卿は領主の庶子だったけれど、後継には本妻の子が居たから幼い頃から船乗りの手伝いをしていたそうよ。幾ら愛人の子でも勉強は必要だと言って、グレアム家に居候していた」
「領主の家はどうなった?」
「本妻の子にリゲル卿は手紙を書いた。自分の事は居なかったものとして扱って欲しいと」

愛人の子を本妻は快く思っていなかった様だが、腹違いの兄はそうではなかった。人知れず義弟と連絡を取り合い、出来る限りの支援をしてくれていたそうだ。

「領主を継いだリゲル卿の義兄は、エヴァーグリーンの後継者にその話をしたの。留学名目でアメリカへ渡ったギルフォードの父親はリゲル卿の元で医療を学び、ランクDとして認められた。そしてその思想は、息子の代に受け継がれていったわ」
「外でレヴィ=ノアを支える事にしたって事か?」
「最も恐るべきは王室ではなく、公爵家よ。長年王族に近い位置で国の機密を取り扱ってきたヴィーゼンバーグの影響力は、貴族内部では勿論の事、イギリス中のロイヤルファミリーにも。…此処だけの話、名無しの準公爵は前国王の隠し子だって話もあるわ」

世が世なら生粋の王子様だと囁けば、ダークサファイアの瞳は瞬いた。

「名無し?」
「存在を許されないと言う事よ」

今の台詞は意地悪だっただろうか。いつか名前を与えられていなかった兄弟は、楽園と言う名がつけられた忘れ去られた教会に捨てられた。簡単に排気出来なかった理由は『神の血が流れている』からか、『献体の保存』としてなのか。

「当然知っていると思うけれど、キング陛下には金獅子の血が流れてる。イギリスじゃ誰も公爵家には逆らえないわ。リゲル卿とお祖父様が危険視していたのは、王室そのものより公爵の権威が肥大化する事だった。当時アメリカよりも軍事力があったイギリス軍がいつレヴィ陛下の生存を嗅ぎつけて乗り込んでくるか判らないから、国内に抑止力を置いておきたかったんでしょう。エヴァーグリーンはその一つ」

人間の法律が届かない地中の皇帝国に、理由のない慈悲など存在しない。

「勿論、アシュレイも含めて。世界中に陛下に賛同する同志が存在した。融通が利かないドイツですら」
「…ドイツ?」
「ネルヴァ卿の家は、ヒトラーが恐れたほどの権力を持っていたの。吸血鬼伯爵として恐れられたエテルバルドは、陛下と生き別れになったリリア様が生んだ娘と結婚したのよ。ご苦労なされたリリス様は子爵家の養女になっていたけれど、母親を亡くしたショックで精神的に病んでしまっていて…」
「可哀想に…」
「狼に育てられた孤児だって陰口を叩く人が居たそうよ、それがリゲル卿の耳に入った。ライオネル卿は何度もドイツに交渉したけれど、当時大掛かりな独裁政治で鎖国状態にあった彼の国の支配者は耳を貸さなかった。業を煮やした枢機卿は単身シュヴァーベンに乗り込んで、リリス様と生まれたばかりの子供を攫おうとなさったわ。勿論危害を加えるつもりなんてなかった。ただ、話をする場を設けたかっただけなんだけど…」
「どうなったの?」
「使用人に加えて伯爵の妨害も。結果的に赤ちゃんだけ連れ去って、子供を返す交換条件として面会を掛け合ったのだけど、伯爵は『子供は好きにしろ』と言ってリリス様には会わせてくれなかった。今の話で判ったかしら?」
「連れ去られた子がネルヴァ閣下」
「けれど本当は、リゲル卿が天才と讃えたオリオン卿とシリウス卿が事件を企てた犯人」
「オリオンと、シリウス?」
「シリウスは知っているでしょう?…貴方達兄妹の生みの親。彼はリゲル卿の教え子の一人だったけれど、専門は医療班じゃなくて技術班。医療、科学どちらにも精通していた魔術師オリオンは行方知れず。陛下が探そうとなさらなかったから、リゲル卿も探そうとはなさらなかった様だけど、シリウスが長期出向している間の業務は卿の息子達が引き継いだそう」
「…知っている。ベテルギウスとアルデバラン、二人は兄様の教育係だ」
「ベテルギウス卿はポストオリオンの最有力候補と言われているけれど、卿にはCHAθSの鍵が与えられなかった」
「CHAθS?」
「明かずの研究室。キャノン技術班研究所の奥で閉ざされたままの、過去の遺物。リゲル卿は亡くなるまでCHAθSの再興を望んでおられたと言う話を耳に挟んだけれど、中の事は中央情報部ですら把握していない」

兄弟の絆もあって、国を離れて数年後、リゲルはアメリカで起業する事に成功し資産家の一人娘と結婚している。幾ら一代でのし上がった有能な人物とは言え、資産家の一人娘と結婚するには多くの試練があった筈だ。然し予想を覆し、トントン拍子で話が纏まっている所を見ると、リゲルの実家を継いだ義兄の口添えがあったと考える方が正しいだろう。
彼はそのまま表社会でステルシリーのサポートを続け、中央区での業務は息子達に任せたままだった。シリウスの三つ年下であるベテルギウスと、ネルヴァと同じ年であるアルデバランの兄弟は互いに有能な人間ではあるが、アルデバランはランクAに推挙された事はない。ベテルギウスには欧州情報部長の打診があったが、彼は『マスターオリオンに忠誠を誓っている』とし、これを辞退した。以降は特別機動部副部長、補佐などを歴任したが、副部長の任命はネルヴァ時代からだ。

「外の世界でのリゲル卿の一番弟子はさっきも言った様にギルフォードで、ジュリアは彼の妻よ。彼女は同じ医師だった夫がステルスのランクDだった事を知って、地下へ潜る事を望んだ」
「そう…」
「ジュリア=エヴァーグリーン。コードは知らないけれど、昔の彼女は良く笑う明るい人だった。彼女の希望を奪ったのは、人間の作り出した社会よ」
「外は怖い所だと兄様が言っていたわ」
「ええ。外の空気はいつも汚れている」

だから、『楽園から出てはいけない』のだと、繰り返し唆す様に囁いた。
この呪いじみた呪文に意味などない事は、初めから判っている。禁忌の林檎を実体化させた様な男の前では、可哀想なお姫様は年相応の少女の様だったから。







「彼から話は聞いたかしら?私もレイの事を愛しているの」

どれほど愛していても、愛される確率は低い。相思相愛とは奇跡的な結果論だ。

「エ、アリー」
「何処へ逃げても一生追われるわ、神は決して人とは結ばれないの。知らなかったのかしら?貴方の養母は、畏れ多くもレヴィ陛下に生涯の報われない愛を貫いた。アダムと貴方を育てたのは、貴方達にノヴァの血が流れていたからよ」

悪しき魔女の呪いは跳ね返ったのか?(外は怖い所だと)(脅せば脅すほど、人の欲は刺激されると知っていた)(人は知識に飢えた生き物だ)(閉じ込める事など本当は出来ないのだと)(知っていたのに)
(それでも)

「諦めて。外を知らない貴方には、彼を支える事は出来ないでしょう?」

愚かにも浅はかな夢を見たお姫様。
(…貴方の王子様になる夢を、愚かな女は夢見たのです)

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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