帝王院高等学校
我らのソウルは死んでも不滅です!
「姉さん、新しい本を借りてきたよ」

母が閉めて行った障子の向こう側に人影が見えた瞬間、幼い声が聞こえてきた。
すっと少しだけ開いた障子の隙間から数冊の本が差し入れられたが、叶桔梗の目に見えたのは、小さな手だけだ。すぐにすすっと閉まってしまった障子の向こうの相手は、いつもとは違い、中に入ってくる気がないらしい。

「おおきに。また五条の貸本屋さんに行かはったんどす?」
「日曜日は掃除の手伝いをする約束だから」

芸者が生んだ腹違いの弟。
叶にも皇にも全く無関係な女に後継ぎを産ませた不忠は、哀れな娘の手前、引き取った妾の子に厳しく接している。確かに彼が望んで誕生した子供ではないかも知れないが、大人の事情を差し引いても子供に罪はない。

「守矢。何で障子の影に隠れてはるの?入り」
「でも…」

聡明な不忠であれば判っている筈なのに、彼を鬼にしているのは自分の所為に違いないと桔梗は考えていた。桔梗が知る限り父は誰よりも優しく、人前では当主として立派に務めているが、実際は子煩悩で遊びを知っている人だ。不忠にも腹違いの兄がおり、本来ならば彼が当主だった。

「デモもストもあらへん。京都の名宝とまで謳われる予定の美貌を見たないんは、男として致命的な病気どすえ?」
「違」
「隠しても無駄どす。寝たきりで遊んでやれんあてが嫌いにならはったんか。はよ逝ね女狐って、腹の中で笑たはるんや」
「わぁ、何でそうなるんだよ!」
「おまんは気取った東京男やさかい、鈍ってるお姉ちゃんを見下してる」
「してない!」
「それかどっかの別嬪に恋したんや」
「は?」
「お姉ちゃんいつまで経っても龍の宮から出られへんのに…守矢は不良やねぇ。ははん、下の毛が生えたんやろ。それ遊人め、お尻出しとうみ?」
「違うって言ってるのに!判ったよ、お邪魔します!」
「素直な方がかいらしえ?ふふ、ほっぺが真っ赤や。またお父さんと喧嘩しはった?」

焔に起きた悲劇が不忠にも起こってしまった事で『呪い』だと言う者も居るが、そう嘯く大人達より禍々しいものを、桔梗は見た事がない。

「だんまりどすか。ほなお姉ちゃん、腹式呼吸でお母さん呼ぼ」
「だめ!お母様、また喧嘩になっちゃうから…っ」

18歳の芙蓉が失踪してしまい後継ぎをせびられた焔は妾を迎え、不忠が生まれた。焔と不忠の違いは、妾を妻として迎えたかどうかだ。焔は二人の妻を慈しんだが、不忠は己の妻は一人だけだとして、子供だけ引き取っている。悪びれず陰口を叩く大人達は自分達が後継ぎを急かした事を棚に上げて、金目当ての女だったに違いないと宣った。それに関して誰よりも怒っているのは、桔梗の母だ。

「守矢に意地悪するお父さんなんて、たまにはしばかれたらええんどす。琵琶湖のマーメイドの平手打ちは、ほんま綺麗に決まるんどすえ。お父さんは、お母さんには負ける呪いが掛かったはるんやなぁ。ふふ、ざまーみろどす」
「姉さん、口から毒が出てるよ…」
「おや、上手い事言わはるねぇ」

母親の顔も知らないまま育てられる事になってしまった守矢が哀れだと、彼女はいつも呟いている。食が細い桔梗の為と言って頻繁にお菓子を買ってきてくれているが、実際は守矢に買ってきていると言っても良い。12個入りのお饅頭を桔梗が一つ食べるとすれば、母は残りの11個をそっくりそのまま守矢に与えるのだ。

「あてらのオカン、怒ると般若そっくりやろ。オトンは一発か二発、しばかれはったらええんどす」
「お母様が怪我するのは嫌だ」
「ほんま、あんさんは優しい子やわぁ。王子様やなぁ」
「…そ?」
「お母さんが言うたはった。宵の宮にはよーさん本があるて。守矢は読書家で偉いて、褒めてはったえ?」

嘲笑われている気がする。
いつだって思いやりがあって、今日も変わらず優しい弟は、可哀想なくらい赤く腫らした己の頬を構わずに人の心配ばかりしていて。自分はそんな弟を愛おしく思っているつもりなのに、同時に強く嫉妬している事を理解していた。

「また背ぇが伸びはって、段々男らしなるな」
「昨日もそう言ってただろ。一日じゃ伸びないよ」
「毛は生え、」
「わわ!何でそんなとこ見たがるんだよっ、姉さんはデリカシーがない!」
「かなんな。五歳児に正論で言い負かされる姉」

高が月経くらいで情けない、などと嘲笑している大人達がいる事を桔梗は知っていた。
母屋から数メートル離れているとは言え、桔梗が住まう龍の宮は屋敷の中央にあるのだ。陰口を叩く大人達の声は、興が乗るととても大きなものになる。深夜ともなるとそれは大層響くが、明の宮で暮らしていると思われている桔梗が龍の宮で療養している事を、彼らは知らないのだろう。

「外が静かにならはったえ。意地悪な龍神はバケモン共とお稽古中どすか?」
「…声が大きいよ」
「腹式呼吸の賜物や。大きな陰口には大きな陰口で返さな、負ける」
「何の喧嘩なんだよ、明の宮」

子煩悩な不忠は桔梗の体調が優れないと聞くと、必ず母屋で看病させたがる。
今回の様に酷い月経痛で起き上がれない桔梗を案じた不忠は、娘を人目につかない龍の宮に移すと、妻だけにそれを知らせたのだ。帝王院家が住んでいた頃まで御神木を祀っていた龍の宮は回廊の様な構造の母屋の中心部にある為、一族の中でも地位のある人間しかその存在を知らない。
本家の人間には『呪われた龍宮』と言われている龍の宮は、龍神と呼ばれた雲隠焔の血を引く不忠を畏れている宗家の人間にとっても神聖な場所と思われているので、間違っても龍の宮には近づかなかった。

「そない味気ない呼び方せんといておくれやす。段々意地悪にならはったなぁ、宵の宮」
「俺は素直だよ。意地悪じゃ、姉さんには誰も敵わない」
「守矢はあてを喜ばす言葉をようさん知ってはる。小学校に上がったらモテモテやねぇ」

現在でも本家の人間は不忠を龍神と呼び、宗家の人間は帝王院家に肖って大殿と呼び、本家とも宗家とも縁遠い一族の残りは宮様と呼ぶ。
実家を離れて間もなく十口の棟梁となった叶焔は、その生涯を龍の宮で暮らしたと言われていた。その嫡子である叶芙蓉は母屋の玄関から最も遠い宵の宮を好み、十口では珍しく蔵書家だった為、月の宮と陽の宮は芙蓉の書斎になっていたそうだ。なので不忠は母と共に母屋の玄関に程近い明の宮で暮らし、幼い頃から何かにつけて芙蓉と比較されて育った。

「アンタどないな子連れてくるか、姉さん今から楽しみや。それまで長生きするさけ、お気張りやす」
「…じゃあ俺が誰も連れてこなかったら、姉さんはずっとずっと長生きしなきゃいけないよ」
「いけず。今はまだ判らんでも、守矢は次の龍神様どす」
「本家の年寄り共が認めても、こっちは誰も認めないだろ」

賢い子に育っている様で何よりと、叶桔梗は微笑んだ。
勝手に屋敷を抜け出して市中を遊び回っている振りをしているが、目の前の幼子は生みの母親の手掛かりを探しているのだろう。それが判っているから不忠はわざとらしく手を上げ、守矢を諦めさせようとしているに違いない。そうでなければ愛人の子を分け隔てなく可愛がっている妻が惨めだとでも、彼は考えているのだろうか。本当は、ただひたすら優しい男なのに。
実兄と比較され続けてきた男は葛藤を抱えているのではないか。哀れな娘と、無理を強いねばならない息子の板挟みで、人知れず苦しんでいるのだろうか。

「宗家だの本家だの、十口の分際でうっさいわ。大殿に捨てられたゴミ共が争う利権に、一体何の価値があるんどす?」
「姉さんの唇、いつか猛毒色になるよ」
「毒キノコは意外に鮮やかどすえ。こないだ植物図鑑を買うて貰たんや。あては毒植物以外興味あらへんさかい、守矢にあげる」
「何で毒に興味があるの?」
「あての食事には入ったらへん。長子なのに、期待されてない証拠どす」
「は?」
「小さい頃から慣らしとかんと大変な事になるんどす。嫡男至上主義の榛原は、長男だけ毒を飼い慣らす。長男の長男、そのまた長男の長男…段々、免疫は増してく」
「はいばらって誰?」

ああ、この子もまだ跡取りとして認められていないらしい。自分達姉弟は二人で一人前と言う事か。

「宵の宮から出てった神様…」
「神様?」
「ふふ、信じたんどす?神様なんか居てる訳あらへん」
「は?」
「あては11年間、いーっぺんも信じた事あらへんのに、アンタ騙され易い子やなぁ」

自分に嫌気が差す瞬間は、こんな時に違いない。優しい弟を心の何処かで羨んでいる自分に気づく、今の様に。












「ご臨終です」

念押しの様に告げられた言葉に、女は知っていると消え入る声で呟いた。相手が反応しなかった様子を見るに、ほぼ無音だったのだろう。

「お辛い様でしたら、後は我々がお引き受けしますが?」
「…お気遣いなく」

ほんの数時間前まで温かかった夫の体温は、とっくに消え去っている。最後の瞬間は二人きりにして欲しいと、彼本人が願ったからだ。

「昔から先生方に死ぬ死ぬ言われたあてはこの通り、ピンピンしてますでしょう?」

最後まで笑っていた夫が息を引き取った瞬間を、この目と耳と手で確かめた筈なのに。未練がましく遺体に縋りついて枯れるまで泣き続けた所為で、医師の確認を得られた今の瞬間は、何だか笑えてくる気分だった。不謹慎だとは思っていても、頭の何処かが麻痺している。人前で泣けた試しがない可愛げのない女だからなのか、零した涙の量だけ精神が磨り減ってしまったのか。

「奥さん、月並みな事を申しますが…どうかお気を強くお持ちになられて下さい」
「…おおきに。皆様には、大変お世話になりました」

ああ。
後はこの狭い茶室から運び出されて、間もなく荼毘に付されるのだろう。それが国の仕来りだと判っているのに、乾ききった皮膚の内側は少しも納得していない。


「あーさん」

昔、初めて広い海を渡ったいつか。
世間知らずだった小娘は、人々の伝承でしか知らなかった本物の天神を目にして、己の憶測が誤りだった事を知った。

「アレクサンダー。あての王子様…」

物語の中にだけ存在すると思っていた王子様は実在したのだ。けれど彼の隣には既にお姫様の姿があって、どう足掻いても自分は二人の仲を引き裂けはしない。シンデレラの義姉達の様な意地悪な女性だったら、構わずに奪い取ったものを。
帝王院駿河に捧げた初恋はその瞬間に散ったが、王子様は何も天神だけではなかったらしい。世界とは何処まで広いのだろうか。宇宙の中では塵の如き地球ですら、人間にとっては無限に等しいくらい広かった。

海の向こう、初めて訪れたヨーロッパの何処かに、紳士の国はあるそうだ。
気高い女王が統治する国々は友好同盟を以て一つの国を作り、小さい島の小さい国々はユニオンジャックの旗の元、広大な王国を作り上げた。キングダムに住まう女王の支配地、イングランドには大層美しい宮殿があるそうだ。亡き母が楽しげに勧めてくれた漫画に描かれていたフランスの宮殿は、穢れなき純白と、薔薇の真紅で溢れているらしい。ならば英国はどうなのだろう。
そんな期待感を胸に初めて乗った飛行機は海と幾つかの国を超えて、いつか夢見たフランスの地に降り立った。そして宮殿と見間違えるばかりの見事なホテルで開かれたパーティーで、異国の王子様は現れたのである。

『どうして楽しくないのに笑うんだ?』

同族嫌悪。第一印象を今になって振り返ってみると、その一言が全てだろう。
但し偽物のお姫様である自分とは違い、彼は生粋の王子様だった。アレクセイ=マチルダ=ヴィーゼンバーグ準公爵、成人と共に公爵の爵位を継承する事が確定している、王族に等しい金髪の王子様。

『君の夫になる僕の名前、今度こそ覚えてくれる?』

忘れる筈がない。
例えこの身が死んだとしても、彼に捧げた桔梗の全てがこの世に残り続けるだろう。

『僕は君の自慢の旦那さんになれてるかな?』
「あてにあーさんを燃やして、灰にしはれやて」
『ヤモリの方が可愛いよ』
「十口は生きた死体が流れ着く墓場どす。灰にならはるのは榛原の専売特許や思わへん?」

息が止まり心臓が止まり遂には冷たくなっても尚、夫は綺麗な形を保っている。
どうしてこのままではいけないのか、何度考えても答えが出ない。早く子供達を呼んで、最後の別れをさせるべきだと心の何処かでぼんやりそう考えている自分も居るけれど、思考回路の大半は違う事で占められていた。こんな時も…いや、こんな時まで自分と言う人間は母親になれない女らしい。


「あーあ。…楽しい時間が過ぎるんは、ほんに早い」

二度と開く事はない甘いラムネ色の瞳も、今尚煌めいている黄金の髪も、止まった心臓ですら余す所なく全て。アレクセイ=ヴィーゼンバーグの全ては、叶桔梗だけのものだ。互いにそう誓い合って結ばれたのだから、誓いは守られるべきだろう。

「あーさんの喪が明ける頃、冬臣は高校生どすえ」

それでも人間が人間の為に作った法を犯せば、騒ぎ立てる人間がいる事は知っている。自分だけが責められるならともかく、桔梗には三人の子供が残された。一番下の娘は小学校に上がったばかりだ。兄妹の仲で一人だけ病気知らずの快活な娘のランドセル姿を見せてやれたのは、何を置いても僥倖だろう。

「貴葉は小学生で、文仁はまだ中学生。…アンタ、逝くのが早過ぎるわ」

生まれる前から娘が結婚する日の事を想像しては『有り得ない』と唸っていた男だったから、ウェディングドレス姿を見せられなかった事も、ある意味では幸せな事かも知れない。

「冬臣とは正反対に、貴葉はほんま丈夫に育ってくれて。文仁は冬になると鼻風邪貰うて来はるけど、これからどんどん大きなるんどす。手足の形があーさんに瓜二つやさけ」

今夜は通夜だ。
一晩中仏に泣きついていても許される。灰にしてしまうのは明日で良い。どんなに渋っていても、葬式が終わったら荼毘に付さねばならない定めだ。一昨年大好きだった父親が死んだ時もそうだった。
どんなに泣き喚いても、死んだ人は二度と目覚めない。通夜の文字通り一晩中見守っていても、見た事もない神仏に祈っても、死んだ人が目を開ける事はなかった。母親の時に既に思い知っていた事だ。
だから桔梗は泣かなかった。母の時も父の時も、そう、今この瞬間ですら。泣いた所で何一つ変わりはしない事を、大人は誰もが知っている。

「母上、宜しいでしょうか」
「冬臣、和尚さんは帰らはったん?」
「いえ、弔問客と一緒に食事を召し上がって頂いています」
「さよか。あてを呼びに来たゆー事は、誰ぞが龍の宮に会わせぇほざきはったか?」
「本家の坂元様が」
「…は。冬月に尾を振った忍者崩れの子孫が、大きい面しはるわ。けったくそ悪うてしゃーないどすなぁ、殺してまえ」
「警視正ですが?」
「ふふ。冗談どす。宜しおす、あてが挨拶に参りましょう。部外者を龍の宮に入れる事は、家訓で禁じたはります」
「恐れながら、龍神の遺体を一人にする訳には参りません」

ああ、しっかりした息子で何よりだ。
今の自分の心情を現すかの様に降り続いている雨の音が、少し弱まった様な気がする。医者が出て行ってから暫く、誰の気配もなかったからだろうか。

「雨、あからんか」
「暫くは続くそうです。日が落ちれば、雪に変わるかもしれません」
「明日火葬が終わったら、アンタが跡目を継ぐんどす。あては龍の宮の名代で、一族に宣言するつもりや」

自分にその力があれば。せめて弟に嫉妬する様な惨めな女じゃなければ、出て行ってしまた弟を呼び戻して、頭を下げられるのだろうか。まだ15歳の少年に大人の真似を強いる事が、母親として正しい行いである筈がない。

「舐められたらしまいどすえ」
「委細、心得ております、母上」

いつか飼い主に捨てられた弱い犬は、生きる為に必死だった。叶の話だ。そしてそれは、冬月羽尺の話でもある。
俊秀に見捨てられて、老いた夫と二人京都に残った女は、夫が死ぬと同時に恐らく絶望したのだろう。自分が捨てた息子は、屋敷以外の全てを持って行ってしまった。出雲に神職の地位を認めて貰う為の神社は一つも残されず、大宮司の権限は俊秀に委ねられ、空蝉の全てが天神と共に消えてしまった。
残った屋敷には十口一族が住み着き、自分の権利を誰よりも声高に主張しなければ、彼女が生きる術はなかった。追い出されない様に、ありとあらゆる手段で味方を増やし、自分の地位を築かなければならない。

「守矢が十口の枷を離れた今、龍の宮に女のあてが住まえば、つまらんいけずゆーてくる阿呆が必ずおいやす。坂元はその筆頭や」
「はい」
「坂井もいらち者やさけ、黙っておへん」

今になれば、その不安が良く判る。
非力な女の身で出来る事など高が知れている事を、叶桔梗は知っていた。龍の宮に住まう権利がそのまま叶当主の権利を証明するものであれば、桔梗は対外的には当主としての体裁を保っているだろう。然し桔梗に出来る事は体裁を保つ事だけで、一族を取り纏められるだけの技術はない。桔梗は嫡子としての教育を受けていないからだ。そして、嫡子としての教育を受けている筈の守矢は、とっくに姓を変えてしまった。
離婚後も小林を名乗り続けている守矢は、京都に戻るつもりがないらしい。目と鼻の先の名古屋に住み着いて、叶でも帝王院でもまして小林でもない、嵯峨崎で従事している。今の当主が雲隠陽炎の嫡子だと知らない者は居ないだろう。

「寒々しい狸共の前でえげつない事強いるけんど、堪忍え?」
「私は大丈夫です。父上の最後の言葉を守りますので」
「何て?」

雄は脆弱だと言われた雲隠一族で、唯一の例外だった最強の雄。陽炎は妹の糸遊より遥かに強かったそうだ。実際、陽炎は糸遊に一度として手を挙げた事がない。
弱きを滅せよ、強き者は弱き者に牙を剥く事なかれ。気高い狼の家訓だ。蝉でありながら狗である事を欲した雲の一族は、天神に最も近しい皇の王。守矢が嵯峨崎嶺一の側に居る限り、叶の誰であっても守矢を従える事は出来ない。

「『困った時は笑っとけばなんとかなる』」

弟は選択したのだ。偽りの龍神になる事を放棄して、本物の龍神に仕える事を。

「ふふふふふ。かなんわ、あーさんらしゅうおます」
「死因は『腹上死』って事にしとけと言われましたが、流石に断りました」
「あてはそれでかまんどすえ?旦那を死に追いやった悍ましい性癖の持ち主ゆー悪名は、寧ろ女の栄誉どす」
「悍ましい性癖で生まれた子供だと謗られる可能性がある私達は、到底栄誉とは思えないんですが?」
「いけず言う子やわ、誰に似はったんどす?冬臣のお腹の中は真っ黒どすなぁ」
「母上の腹黒さには到底適いません」
「あてが喜ぶ台詞をよう知ってる。腹白い京都人はおへん」
「ああ、京都の全住民を敵に回すおつもりですか」

十口一族最大唯一の例外、金色の髪と蒼い瞳を持つ龍神は夜が明けるまで、その綺麗な死に顔を家族以外に晒す事はない。祝詞の代わりに僧侶の読経で送られ、この国の習わしに従って、間もなく骨だけを残し灰になってしまうだろう。白人も黄色人種も一切の例外なく、燃やせば白い骨だけが残る。

「アンタの言う通り、お父さんを一人ぼっちにしたら、可哀想どすなぁ。ほな、あての代わりに龍の宮の番をしてくらはります?アンタは朝からずっと働いてくれてるさけ、お腹減ってるんと違う?」
「文仁が買ってきた八ツ橋と水羊羹を頂いたので、胸焼けしています。文仁と貴葉には弔問客の酌を任せていますが、あの二人の事なので、抜け目なく腹に収めていると思いますが…」
「ふふ。ほな、此処に文仁と貴葉も呼んどくれやす。アンタらが三人揃ってはったら、この人喜びはるえ?」
「判りました。すぐに連れてきます」

ほら、せめて母親の振りだけでもしよう。
父恋しい年頃の彼らが泣き疲れて寝静まるまでの間くらい、耐えられるだろう?

「先に子供達に会わせて…」

父の時には葬儀の後に、夫の胸に縋りついて泣き喚いたけれど。もうその夫も旅立ってしまったのだから、気丈に喪主を務めている長男の前で無様な泣き顔を晒す事だけは、絶対にしてはならない。


「アンタとの最後の約束を果たすんは、…宵闇が迎えに来てからや」

その魂もその肉体も、天国へ還してあげよう。但しその心だけは、永遠に自分だけのものだ。








約束をしました。
太陽に愛された島国に、
光に満ちた王子様がやってきたいつかに。

陽も、
月も、
明も満ちた我が家には、

ぽっかりと、
宵だけが残ったのです。


約束をしました。
我が家の宮が全て埋まった時は、
何の役にも立たないかも知れないけれど。

我らは天神に忠誠を誓うでしょう。


蝉として不十分だった焔が犯した負の財産は、
金色の獅子の血を頂いて、




我らを、
気高いに塗り替えたのです。















「あれ?レヴィ、髪の毛どうしたんだ?」

微かだった絶望の足音が、すぐ近くまで近づいてきている事に。気づいていた人間が、果たして何人居ただろうかと。

「何を惚けておるんだナイト、ナインが困っておるぞ」
「は?何だお前、龍人みたいな喋り方して」
「母上、」
「おはよう、夜人」

せめて子供達には悟られない様にと、祈る様に毎日。

「…あ、れ?」
「どうした、私を見忘れたのか?」
「忘れる訳ないだろ馬鹿」
「では改めて、目覚めのキスをくれるか」
「うん。おはよう、レヴィ」

辛い手術を繰り返しても泣き言一つ言わない息子も、研究と甘いもの以外には興味がない息子達も。日々青年へと成長していく。
けれど時の流れは残酷だ。こうして少しずつ、絶えず善も悪も運んでくるのだから。

「何でだろ。今、ハーヴィとお前を間違ったんだ」
「私達はそんなに似ているか?」
「似てる」
「親子だからな。だが見てみろ、私は小食だが子供らの食い意地は凄いぞ。彼らは三つ子だったか?」
「ゲッ。こらお前達、甘栗の皮をいつまでも口の中で舐め続けるのはやめろ!」

せめてもの願いは、少しでも長くこの平穏が継続される事だけだ。
光の少ない地下で、誰よりも夜に愛された黒髪黒目の男の存在が、どれほどの祝福をこの地に与えているのか。それを知らない者は何処にも居ない。

「母上」
「ん?どうしたんだハーヴィ、眠たくなったのか?」
「今日はいつもより暗いので、もう少し近づいても宜しいでしょうか」
「暗い?そうか?いつもと同じ様な気がするけど…」

絶望が少しずつ近づいている。
傍若無人を装って、誰よりも長男の体を案じている心優しい双子は、どちらも養親の身に起きている事態に気づいていない。いずれ判る事だと知っていても、そうなる日が永遠に来なければ良いと縋る様に祈っている。

「陛下、リゲル枢機卿がお時間を願いたいと申されています」
「…ああ。一時間後に、私から出向くと伝えておいてくれ」
「畏まりました」
「これはこれは、今日のガーデンスクエアは随分賑やかだ。…いつも賑やかでしたかな?」

レヴィ=ノア=グレアムの願いは果たされなかった。
息子の目から光が失われていく悲劇の影で、更なる悲劇が待ち構えている事を知っている人間は、余りにも少ない。

「ルシファーが光溢れる我が庭に出てくるとは。遂にアダムに拝礼する気になったか?」
「ご冗談を。私が拝礼するのは神に似せた人形などではなく、ノアお一人でございます」
「ほう。どれ、忠実な従者にノアである私から色気の欠片もないキスをくれてやろう。と言ったものの立つのが面倒だ、お前が近づいて来るが良い」

横暴な主人の命令に素直に従って屈み込んできたオリヴァー=ジョージ=アシュレイは、レヴィの口づけを額に受けた瞬間、ヘブライ語で呟いた。

「…この世で最も醜いものは、誠実が不誠実になること」

有能な部下の言葉の真意は、すぐに理解した。
部下達は誰もが真摯且つ忠実に、その全力を投じてくれている。その事を疑った事など、一度もない。

「今回のリゲルの要件は、そう言う事か」
「恐らく。彼なりに策を講じた結果、その結論に至ったものと考えます」
「…策を講じた上で、若いお前が不誠実と判断する結果に至ったのか」
「メアを喪失する事は陛下は勿論、ステルスの損失です。最低限の体裁を取り繕うには、根治を諦め再生を選ぶしかないと考えたのでしょう」
「オリヴァー、それ以上私を笑わせてくれるな。…夜人の代わりは、銀河の何処にも存在しない」

皆が不審に思う前にオリヴァーから離れたレヴィは、ダークサファイアの双眸に無機質な笑みを滲ませた。彼の瞳が笑っていない事は、目の前で目撃した男は痛いほど理解している。


「メアのシンフォニアを創造する事は許さない」

治せない病に対抗する術を見つけるのが、知恵を与えられた人間の義務だ。見つけられないのであれば、迫り来る死に逆らう事なく受け入れるしかない。時間の流れは残酷だ。人間が勝つか病が勝つか、そんな事には一切興味なく一方的に流れ続けるだけ。そこに善意も悪意もない。

「どうなさるおつもりですか?」
「…テレジアに新たなプログラムを組ませよう」

死んだ者は決して蘇らず、複製された者はオリジナルとは異なる別の個体なのだ。既にそれは証明されている。王族の飼い犬を複製した8代男爵が、それを理由に命を失った瞬間に。

「瞳に星を飼う者のDNAを全システムが拒絶する、魔法のプログラムを」

ステルスが負け病が勝った時に、ノアはノヴァへと名を変えるだろう。
現状の最優先は、次期男爵の不安を取り除いてやる事だけだ。

「レヴィ、さっきからオリバーさんと何話してるんだ?」
「すまないナイト、嫉妬させたか?謝罪の気持ちを込めて、下心のみのキスをしても良いだろうか?」
「しこたまぶん殴るぞ?嫉妬なんかしてねェっつーの」
「何故しない。私がオリヴァーにキスをしていたんだぞ」
「下心があったのか?」
「まさか。私の下半身が暴走するのはお前だけだ」
「しこたま蹴り飛ばすぞ?」

何の心配もない。夜が明ければ朝が来る様に、ノアが死ねばノヴァに変わるだけなのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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