帝王院高等学校
それあっちでもこっちでもわんわん
「宮様」

自衛官経験がある母親から、幾つもの生き抜く術を習った。物心つくまでに何度死に掛けたか、数えるのも馬鹿馬鹿しい。

「…俺は宮様じゃない」
「天神の子供はそう呼ばれてるんだろう?」
「俺は天神の子じゃない」
「けど俺達は、龍神の血を引いてる」

帝王院学園へ入学する頃には、東雲村崎は血腥い生活に慣れ切っていた。
煌びやかなパーティーの席では東雲の嫡男として振る舞い、表舞台から降りれば己の技術を磨く日々。いつしか、自分は鬼の様だった母を超えている事に気づいた。時同じくそれに気づいたらしい母は、あっさりとそれまでの虐待じみた躾をやめたのだ。

「…曾祖母は祭主になれないまま死んだ。俺は龍神じゃない」
「ああ、そうか。龍神の名は叶に奪われたんだったな。最後の当主になる筈だった陽炎は、その権利を放り捨てて東から居なくなった。陽の宮の主としては許されざる行為だ」
「…」
「俺がそう感じているんだから、お前もそうだろう?」

中でも最も好きだったのは剣道だったが、竹刀を手放して何ヶ月になるだろう。

「仕上がったばかりのブレザー、着てみないのか?」
「…今更どうしろって言うんだ。皇子はもう居ないのに」

年の差なんて大人になれば。
いつかそう宥めたのは母親だったが、子供の年の差はこんなにも根が深い。帝王院秀皇が居なくなった事を聞かされたのは、彼が出席する筈だった卒業式典が終わってからだ。
最上学部最上級生の小林守義は、先月迎えた初等部卒業式の前にやって来た。

『初めましてこんにちは、それにしてもひょろい餓鬼ですねぇ。然しこの程度でも東雲家の嫡男なので致し方ありません、君を中央委員会役員へ指名します』

そう宣った副会長の隣にいた影の薄い会長の顔は、村崎は覚えていない。誰が見ても明らかに、急場凌ぎで割り当てられた代理にしか見えなかった。卒業を控えている守義がいつまでも中央委員会に残る事は出来ず、前会長は高等部卒業と共に学部の大学へ進学してしまったのだから、その当時副会長だった人間が急場凌ぎの会長を務めているのだろう。
叶文仁に役職を譲った形で事実上引退した筈の守義が、一時的に副会長に収まる事で業務の混乱を収めていたに違いない。そしてそれも難しくなった今、新たな生贄を必要としたのだ。

『おい、餓鬼』

黒椿の君。前中央委員会会長の叶文仁は、高等部卒業前に会いに来た。

『お公家の皇子様が放り捨てていった王冠を、くれてやろうか?』

艶やかな黒髪に、日本人離れした白い肌。
母から聞いていた出来損ないの一族の割りには、彼の表情は自信に満ち溢れていた。

「白いブレザーを纏う皇子様は、蝉の様に飛んでいって戻ってこない」
「やめろ」
「お前は明日から、青いブレザーを翻して外に出る。六年間の地下暮らしの果てに…正に蝉の一生だ」
「…紫遊」
「外を見たくないなら俺に代われ」

ああ。
腹の内側で、体の奥底で、獰猛に唸る狼の声がする。それは自分と同じ声だった。

「雲隠より榛原を選んだ皇の宮は、永遠にお前を選びはしないんだ。判ってるだろう?」
「…」
「たった8年早く生まれただけの榛原大空は選ばれて、俺達は見向きもされなかった。俺達が東雲だからなのか、雲隠が榛原に劣るのか」
「…違う。俺がもう少し早く生まれていたら、選んで貰えた」
「そんな証拠は何処にもないじゃないか」

それでは何の為に生きてきたのか。
それでは何の為に生きていけば良いのか。
自分自身に問い掛けてみても、答えは一つきりだ。そんな事は判っている。

「俺は雲隠。お前は東雲。お前は東雲の鳥居を守る役目がある。鳥居は地に坐ったまま、何処にも動かないものだ」
「…」
「鎖で繋がれようが、俺は犬の如く自由に吠えるだろう。何処にも行けない鳥居とは違う」

これは自分の声だ。自分の口から奏でられている、つまりはただの本音でしかない。


「けれどお前には、初めから空を舞う羽根なんか生えちゃいない」

けれど今。
鏡の中で冷ややかに笑ったのは、本当に自分なのだろうかと。

























夜は良い。
星が瞬く漆黒の天幕の、なんと鮮やかな事か。

「…出雲は未だ、大殿に浄階を与えんか」
「伊勢共々、彼奴らは平安京を畏れておいでなのでしょう。帝王院を妖狐の末裔と謗らう者も、決して少なくはありません」

満月の夜は来客がある。就寝の挨拶にやって来た巫女達が連れてきた来訪者は、凍える刃の様な視線に怯みもせずずかずかやって来たかと思えば、月が真上に昇る時間にも関わらず持て成しを希望した。ある時期に限っては、迎えた側が断れない事情を知っているからだ。

「安倍と安倍川の違いも知らんとは、笑える無知さだ。白八藤紋を頂く大殿に敵対するが如く、輪無唐草紋の黒袍を纏う様を悪足掻きでなく何と言う?」
「くっく。だが、明階を剥奪されていないだけ良いとしようではないか、明神の」
「…笑い事ではないぞ、神坂」

帝王院天明の時代が終わりつつある・と。酒を煽りながら呟いた男を睨みつけた年嵩の男は、皺だらけの手で盃を持ち上げる。孫ほど年が離れた男を持て成さなければならない理由は単に、この男が迎えた妻がこの度めでたく出産したからだ。

「妻を貰われて久しいとは言え、寿の宮様は大宮司としては未だお若い」
「くっ。30を過ぎて若いとは、随分な言われようだなぁ」
「先に姉を二人お持ちであられたが、長姉は不運にも流行病で亡くされた」
「明神から貰った妻が産んだ娘だろう?」

総じて空蝉と名乗る帝王院の影である皇には、それぞれの家訓の他に共通する幾つかの掟がある。最も優先されるのは天神に対する絶対の忠義だが、それ以外の中に新たな命を授かった家長を月が二度満ちるまでの間、如何なる時も祝福しなければならないと言うものもあった。
明神を取り仕切る小林垓は掟のままに、神坂を名乗る青年を出迎えたのだ。

「雲隠の血を引いておれば、虎狼狸なんぞで命を落とさずに済んだかも知れんがなぁ。…巫女が人助けなんぞするから死に急ぐ」
「悪酔いは自業自得だが、素面であれば言葉を選べよ若造。ヤクザ者に成り下がったつもりか」
「似た様なものだろう?…だが我が母は呆気なく亡くなってしまった。雲隠が幾ら強靭とて、死は平等に訪れる。いや、忍として正しく、雲隠は短命だ」

この神社に一体何人の巫女が居るか、数えた事はなくとも知っているだろうに。無作法にも携帯の上で片膝を立てて座り遠慮なく酒を煽り続ける男は、山吹色の生地に黒雲の刺繍が施された羽織りの袖を、一陣の風で踊らせた。

「有能な犬は鼻が利く。目前に迫る死の匂いに気づかない愚鈍な民は、生の器から零れ落ちるだけだ」
「…相も変わらず無礼な男だ。子を持って少しは落ち着いたかと思えば…何一つ変わっておらんか」
「いつまでも山賊扱いしてくれる。有難ぇ事に今はこうして姓を貰い、一端の人間扱いをして貰える様になったがな」

この男は異端児だ。
間違っても空蝉ではないが、帝王院の血を引いている。正式な婚姻を結んでいる訳ではないとしても、少なからず縁がある限り誰もが無視は出来ない。

「繊姫の腹から生まれているからに過ぎん。貴様の父親は、畏くも明の宮様に手を出した極悪人だ」
「長女は須臾で次女は繊、か。く…くっくっく」
「何が可笑しい?」
「いや、何。…揃いも揃って数えを名にするから、死に急ぐと」

また女性蔑視かと睨みつけたが、どうやらそうではないらしい。
山賊の様な形をしているが齢17の少年だ。妻を貰い子供が生まれたからと言って、未だ母恋しい気持ちがないと言えば恐らく嘘になる。

「俺の高祖父は仕え続けた徳川に裏切られ、紀州の四男が宗家の養子に迎えられた事で追い出された。如何に誠心誠意働いても、最後は呆気なくだ。家継様がもう少し長生きなさっておいでなら、一族は豊かに暮らせただろうに」

憎まれ口ばかり叩く少年は、先祖が主人に裏切られ貧しい暮らしを強いられてきた事を知っているから、自分以外を信用出来ないのだろうか。
明神が管理している明の宮神社から延々と続く山脈の奥地に、数百年前からひっそりと住み着いていた者がいる。彼らが作った隠れ里の若者が、興味本位で山を降りたのは今から18年前の事だ。そして山賊の様な若者が山の麓で初めて目にした『外』の女は、帝王院天明の二番目の娘だった。

「帝王院様は貴様らを裏切りはせん。繊姫亡き後も、貴様諸共伊賀の民はご慈悲に守られているだろう」
「性悪爺め、そんなに俺に言わせたいのか。持ち過ぎる者は信用ならんと」

無理矢理拐っていったのか同意の上だったのか、どんな経緯があったのかは本人達にしか判らないが、以降三年間に渡って行方知れずだった帝王院繊の体は、痩せ細った男と共に戻ってきた。
愛しい妻を失った事で生きる理由を見失ったと宣った男は、背負っていた赤子を自分の代わりに育てて欲しいと頭を下げたのだ。勿論空蝉は総じて異を唱えた。中でも雲隠一族の怒りは凄まじく、緋天大宮の敷地にある蔵で療養していた男を引きずり出し、繊の母親の種違いの妹だった雲隠劫火の拷問を受ける事になる。

「…幕府に仕えた狗が公家を敵視する気持ちは判らんでもないが、本能寺の変で危機に瀕した東照大権現が伊賀越えをした折り、貴様ら忍が手助けをした恩は家継公の代で途切れているだろう。質素倹約に重きを置いていた吉宗公の代では、不要の産物だった」
「明の宮、それは違うな。我ら伊賀者を紀州は畏れていただけだ。いつ光秀の二の舞にならんかと」
「若造が生意気を言うわ」
「山奥へ逃げ延びさして実りもしない穀物を育て、同じく山奥を根城にする山賊共の身包みを剥がす事で生き存えてきた。忍の矜持など我らにはない」

数年前に寿明の妹が神木家に嫁ぎ、現在大宮に残っているのは去年大宮司の役を賜った寿明だ。次姉とも妹とも母親が違う寿明は、急逝した長姉と同じ母親が産んだ子だが、残された姉とも妹も仲睦まじかったそうだ。

「…雲隠のくノ一を女とは呼ばん。親父は女如きに腹の骨を砕かれた」
「ふん。徳川に仕えた優秀な忍の末裔が、今の世では女にも勝てんとは笑わせてくれる。儂の姪に当たる繊姫の母親は雲隠の男の血を引いているが、雲隠劫火の姪でもある。貴様の父親が負けたのは祭主火霧の母だ。怒り狂った雲隠の前で死なずに済んだだけ、僥倖と知れ」

年が離れていた姉の死を悲しんだ寿明は、娘の冥福を祈る為に長い禊を始めた天明に代わって大宮の宮司を勤めていたが、慣れない仕事と神職内の人間関係に係っていた為に隙が生じた。劫火の拷問はその隙を見計らったもので、殺してしまう寸前で榛原の仲裁が入り辛うじて一命は取り留めている。

「何故、親父は生かされた?母は俺を産んで二年で死んだ。ならば、俺諸共殺せば良かっただろうに」
「貴様の父は雲隠の色香に惑わされなかった」
「あ?」
「奴らは空蝉でも格別に強いが、加えて器量に恵まれた女ばかりだ。抗い難い手練手管に逆らえる男はそうはおらん」

言葉を放つだけで人間を従わせてしまう榛原も驚異だが、耳を塞いでしまえば効力を失う致命的な欠点がある。故に空蝉では、何百年も昔から雲隠だけが特別視されている。
銃や矢で打たれようが人間離れした回復力で戦地に立つ様は、250年にも及ぶ徳川の時代にあっても、霞む事なく語り継がれてきた。と言っても驚異的な回復力に関しては誰もが持つものではなく、稀に生まれる程度らしい。多くの雲隠は短命で、中でも男より女の方が圧倒的に早世だ。

雲隠の悍ましい修行を生きて乗り越えられた者は人間離れした戦闘力を得るが、半数以上は乗り越える前に死んでいる。
雲隠の忍は男も女も子を多く残したがるが、理由は当然ながらそこにあった。十人産もうが半分生き残れば良い方で、全員死ぬ場合も少なくない。出産する事で寿命を縮めかねない女は、より強い雄の子供を産みたがり、男は種馬の様に何人もの女を孕ませたがる。弱い者は多く産む事を宿命づけられていると、冷静な冬月は宣った。
誰よりも強い狗が、誰よりも短い命を与えられているのは、宿命なのだろうか。天は二物を与えない。

「修練に耐えられる子を育む為に、奴らは年頃になると秘伝の房中術を学ぶ。劫火の誘惑に惑わされなかった閃の、繊姫に対する想いを否定する事は、儂らには出来なんだ」

然し、山奥から下ってきた若者は狂気の快楽を孕んだ拷問に最後まで耐え抜いた。己の妻は繊だけだと唾を吐き、劫火を筆頭に何十人もの雲隠の誘惑を、彼は全て跳ね除けたのだ。

「お優しかった繊姫とは言えあの様な小童に情を許される筈がないと誰もが口を揃えたが、天明公は貴様の父を信用なされた。最早、我らが口を出せる問題ではない」

榛原が仲裁に入った事で事態は寿明の耳に入り、天明の耳にも入った。
大宮司が生かせと命じた山の民に酷い仕打ちを与えたくノ一達は自ら牢へ入ったが、天明の命令で食料を山奥にある伊賀忍の隠れ里へ運ぶ事が決まると、渋々その役目を買って出る事になった様だ。体力に著しい自信が有り、険しい山道にも屈しない雲隠は伊賀の隠れ里で手荒い歓迎を受けた様だが軽く一蹴し、痩せ細った村人達に天明からの贈り物を無事届ける事に成功する。
以降、体裁の上では帝王院に忠誠を誓っている素振りをしているものの、一向に京都へ降りてくる様子はない。百年以上山奥で暮らしていれば、住み慣れた土地から離れ難い気持ちも判るが、年々子が減っていた隠れ里の殆どは年寄りだったので、易い判断が出来なかったものと思われる。仕えていた主人が死に代替わりすると同時に命を狙われたのであれば、猜疑心が強いのも頷けた。

「結構な事だ。その忠義がいつか裏切られるとしても?」
「見返りを欲する忠義を忠誠とは呼ばん」
「…ぐうの音も出ねぇ、正論だな。親父も同じ事を言っていた」

山脈の中の、獣も通らない切り立った坂を登りきった場所に小さな湖がある。その湖を囲む様に家と畑を作り暮らしていた山賊の様な忍者の末裔は、流行病に掛からない代わりに著しく栄養が不足しており、若者でもなければ気軽に里から出る事も出来ないだろう。雲隠でなければ目的地へ辿り着けたかどうかも怪しい。

「貴様の父、閃はどうしている?」
「取り柄の髪結いを営む傍ら、橋火消をしている。お陰で俺は、店火消しの纏め役を任されていた問屋の主人に目を掛けて貰った訳だ」
「…一人しかおらん息子を里子に出したんだ。気が気ではないだろうに」

姓もなければ、同じ年に生まれた者は総じて同じ名をつけられていた彼らに対し、京都へ戻った雲隠達は皮肉の様に『神坂』と呼んだ。空に最も近い所へ登る様な坂の上に住んでいたからと言う理由だが、何の偶然かその仮りの名を末裔が名乗る様になったのだ。偶然とは言え、宿命の様だ。

「岡っ引きじゃ飯は食えねぇからな。親父の身体能力に目をつけた奴らが、親父を小銭で使いっぱしりにしてた様を今でも忘れやしねぇ。町人の信頼じゃ腹は膨れねぇが、人脈っつーのは何処でどう転がるか判らねぇ」
「ふ。世間の荒波に揉まれて、少しは判ってきたか」

雲隠曰く神坂出身の閃と言う青年は、帝王院家の恩赦に胡座をかく様な男ではなかった。
劫火に痛めつけられた後、間もなく赤子を連れて町の長屋に住み着き、髪結いと幾つかの仕事を掛け持って、必死に子供を育てたのである。妻の父である天明の許しなく子を産ませ、金がなかったが故に医者に連れて行ってやる事も出来ずに死なせてしまった事を強く悔いていた為、里の仲間達への贈り物には頭を下げて感謝したが、自分は決して受け取らなかった。

「…なぁ、アンタは書に詳しいんだろう?」
「詳しいと言う程ではないが、若いのよりは年の数だけ知っている事は多かろう」
「お袋のセンって名は、どう言う意味がある?」

それを評価してか、今では一本筋が通った男だと言う者も見られるが、帝王院の系譜には記されないまま今に至る。劫火が既に故人だとしても、雲隠の血を引く繊姫が母親にも関わらず、彼の父親がそれを望まなかったからだ。然し天明は全てを許した。娘の事も、救いを求めてきた事も、そして以降の慈悲を拒絶する事も。
欲を知る人間とは思えない天神の慈悲深さに、感嘆しない者は居ない。帝王院の当主は代々、何の見返りも求めず他者を救い続けてきた。空蝉の全ては天神の慈悲によって生かされ、家族の様に扱われてきた者達だ。いつか絶えていた筈の血が今に至るまで生き存えられたのは、須く天神の思し召しがあったからに他ならない。

「幾重にも重なる、しなやかな糸の事だ」
「そうか」
「一本ではか細いだけの糸も、紡がれれば上等の羽織りになろう。お前の母は、そう名づけられた。我ら明神には、数を名に刻まれた者が多い」
「雲隠は火、榛原は空、冬月は鳥だったな。確かな意味を持つ名を与えられる事は、栄誉なのか?」
「栄誉以外の何物でもあるまい。名は人を示す」
「…だよな」

だから蝉は天の為に生き、そして死ぬ。それ以外の存在理由を探す事はない。それ以外に求めるものもない。
何一つ見返りを求めない主人の為に己の命を賭して仕え、死した後に天神が祝詞を読んで下さるものと信じて疑わず、何代も何代も生まれては死んできた。その度に帝王院の当主は必ず涙を流し、死んだ同胞を送る祝詞を高々と歌い上げるのだ。

「徳川の目から逃げる事しか出来なかった年寄り共は、日が当たる場所を羨んでいる。妬んで呪って、でもそれだけだ。親父はそんな村に見切りをつけて、新たな世を求めた」
「江戸は間もなく終わる」
「天下泰平の将軍の世が終わるだと?はっ。そんな事は、夢物語ばかり嘯く親父でも言わんぞ」

大宮司の占星術でそう示されたと、明神の当主は呟いた。
その静かな眼差しは人の心を読む者のそれなのか、刻まれた皺の数だけ生きてきた者の証明なのか。若者には未だ全てを理解する事は不可能だろうと思われた。

「冬月の娘は天神の子を産むのか。あの女は妾の子だと聞いている。宮様との祝言が行われるまで、蔵の中に閉じ込められて育ったんだろう?」
「その様だな。儂らが羽尺奥様の存在を知ったのは、縁談が出た時だった」
「結局、当主になった腹違い兄の道具でしかない。この目で見た月の宮は立派な方だと思ったものだが、腹の中は判らんな」
「大殿は星を読み、嫡男の託宣を受けたと仰せだ。間もなく宮様に代を譲られるだろう」
「…天明公は許されたが、寿明公は俺を認めるか?」
「儂が何を言っても信じんだろう。後は己が目で確かめよ、日輪」

飼い殺しは真っ平だと、天明の慈悲を撥ね退け市中の問屋へ奉公に上がり、後継がいなかった主人に気に入られ養子になった少年は、隠れ里の若者を少しずつ町へ呼んでは仕事を教えている。数百年の間、何度も飢饉を迎え同族を失ってきた忍の末裔は、漸く人の生活を取り戻しつつあった。

「急に黙り込んで、どうした?」
「…俺の世代に生まれた餓鬼は男女併せて三人居るそうだが、俺だけ母から名を与えられている」
「繊姫が亡くなられるまでの話は、里長の口から聞いている。身重の町娘を連れ帰った閃は、里を追い出されたそうだな」
「里の娘は、子を産む為に男達の慰みものになるしかない。身重の妻を一晩差し出せと言われた親父は怒り、里の衆を二人殺して山を下りた。それからの暮らしに関しては、この俺にも語ろうとしない」

壮絶な生活だった事は想像に難くない。大宮司の姫が男達の慰みものになっていたかも知れないと想像すると、冷静な明神当主であれ肝が冷える思いだが、閃は故郷を捨て、命懸けで妻と子を守ろうとしたのだろう。里以外の世界を知らない青年が家族を養うのだから、人には言えない事も少なからずあると思う。

「親父は己だけの妻を持ち、俺は俺だけの名を持っている。…ってな」

子が生まれ幸福だったのも束の間、愛していた妻に先立たれ生きる理由を見失った青年は痩せ細った体で妻の遺体を大事に抱え、帝王院の社を尋ねた。痩せ細った男とは真逆にふっくらと丸みを帯びていた赤子の対比は、今も尚鮮やかに蘇る。

「それを妬む者がいる所為で、俺も親父も里の衆からは煙たがられているらしい。引っ張ってきた無知な若いもんは今は大人しく仕事に精を出しているが、少しでも隙を見せればどんな真似をするか判らねぇ。寝首掻かれる覚悟もなしに引き入れた訳じゃねぇが…」
「女房を貰って子を授かれば、迷いも生まれよう。人情だ」
「くっく、人情ねぇ。抜け忍上がりの髪結いの息子に、んな上等なもんがあるってぇのか?」

いい加減冷めているだろう熱燗を煽った青年が、徳利を持ち上げた。珍しい事に酌をしてくれる様だが、お屠蘇特有の匂いと味に眉を潜めている所を見るに、一人では飲みきれないのだろう。

「…山里の民が知る世間は余りにも狭い。疑い妬み持たざるが故に奪う、心に鬼が住まう者の行く末は破滅だ」
「榛原や冬月の当代は良い。情なんてもんに惑わされるタマじゃねぇ。…ああ、雲隠は別格か。癇癪起こして喚き散らすだけなら雑魚だが、奴らの強さは尋常じゃねぇからなぁ。力があれば何でも罷り通る世の中だ」
「人の形をしている全てに心がある。貴様には判らんだろうが、灰原とて例外ではない」
「どうだか。心があるのは蝉じゃなく、人の形をした神様だろう?」
「…やはり若いな。貴様には、天神が人に見えるのか」
「大宮司は人間だろ」
「始祖天元公は、細道から生きて戻ったと言われている」
「あ?」
「人の身で、仏の心を知る事など出来はしないと言う事だ」

蝉に天神の全てを理解する事は出来ない様に、人間には知り得ない事の方が多い。つまりは悩みがない人間など存在しないと言う事を、長く生きてきた男は、言葉の裏に真意を隠したまま唱えた。その真意を汲み取るか否かは、青年が選択する事だ。強制はしない。

「…ふん、随分と勿体つけやがる」

どうやら、年若い男には正しく伝わったらしい。彼の悩みを拭い去る事は、彼以外の誰にも出来ない事だ。空蝉でもなければ帝王院でもなく、彼が彼自身の名を守りたいのであれば、自身で解決するしかない。

「思いのままをあるがままに言葉にするのは、若い証拠だ。どう抗おうが、年と共に人の気力は失せる」
「くっ。胸焼けする様な青臭ぇ酒を飄々と飲める面厚かましさを、見習いたいもんだ」
「…しおらしく百度参りの様に我ら空蝉の社を巡り歩いていた様だが、今宵が最後の祝宴の晩だ。目当てのものは見つかったか?」
「モノねぇ。ふん、一番まともそうな明神の酒が、一番不味い事だけは判った。雲隠じゃ、酒樽と猪の生肉が出たぞ」
「それは手荒い歓迎だったな。雲隠は総じて甘いものを好む。陽の宮の甘酒は美味いと評判だが、口に出来なんだか」
「そいつぁ丁度良い。俺は生来、塩っ辛いもんが好きなんでな。甘いもんは口に合わない」

心ばかりの歓迎の証として出した茶菓子は煎餅ばかりが消えて行き、高級な饅頭やキンツバには手をつけた痕跡がない。根っから雲隠とは相性が宜しくない様だと唇の端で笑い、明神の当主は若い手から徳利を奪った。瓶を振ってみると、残り少ない事が判る。

「…旦那から頂いた身代を、俺で潰す事になっちまうかも知れねぇな」
「成程、京都を一円して己の弱さを知ったか」
「冬月の当主に言われた。鬼を家の中に招き入れたのであれば、節分にでも追い払えってな」
「月の宮が言うのであれば、正しい事だ」
「豆を撒き散らして追い払える様な可愛げが、伊賀の残党にあると思うか?」
「可愛げのない人間など、そうは居らんよ。宵の宮灰原殿にも、人間らしい心はある」
「信じられねぇなぁ」

ちびちびと減っていくぐい呑みを見守っていると、不味い不味いと顔を顰めながら飲んでいく若者の手が、酌を求めてきた。明の宮と呼ばれている男は目元で微かに笑い、残りの酒を注いでやる。

「親父とお袋のなれそめは、同じセンっつー名前だったからだって話だ」
「初耳だ。酒のつまみには良い」
「でも親父の閃は音がない雷の事だと。ほんの刹那光るだけで、雨も雲も呼ばない遠くの雷だ。線香花火でも、少しは長く人の目に残る」
「そうだな。だが、雲なき所に雷は生まれない」
「…じゃあ、親父はお袋と出会って、立派な雷になったのか。成程、ひっそりと暮らしていた隠れ里に大嵐を巻き起こした訳だ」

肩を震わせている青年は笑っている様だったが、泣いている様にも見えた。たった一人しか居ない父親の元を離れて、他人を親と呼ばなければならない彼の心情は、どれほど揺れているのだろう。父親になったからこそ、一層その思いを噛み締めているのかも知れない。

「孫が出来た事を閃は喜んでいたか?」
「口にするのも馬鹿らしいほど喜んで、大酒かっ喰らったかと思えば二日酔いで髪結いの仕事して、力士の髷を落としちまったそうだ。はっ倒されて、肋骨を折った」
「ほう、奴の骨を折るとは、相手は京坂の番外に載っていたか?」
「ただの飲み過ぎだろう。伊賀忍の末裔も腕が落ちたもんだ」

徳利が空きつつある事に気づいた巫女が、そっと視線を送ってくる。軽く頭を振って視線に応えた男は、最後の酒を若者のぐい呑に注ぎ込んだ。

「もう遅い。これを飲んだら、女房の元に帰ってやれ」
「そうさせて貰う。狐面の巫女達に睨まれちゃ、尻の据わりが悪い」
「いずれ何がどう転ぼうが、その時以外では何も出来はしない。それで何かが滅ぶのであれば、儂にとっても貴様にとっても、時代が変わると言う事だろう」
「は。何があろうとこの古びた社は、変わらねぇんだろう?」

空いたぐい呑みを転がした男は一息つくと、ゆったりと立ち上がった。

「俺は天神の様には生きられやしねぇだろうが、身内を裏切る様な真似だけはしねぇ」
「身内が敵にならないとは限らないぞ」
「ふん。俺の命を狙う馬鹿が出やがったら、正々堂々と咬み殺すまでだ」
「…獣の道を往くか」

最後の夜だ。
定められた空蝉の祝宴は今宵の満月が沈んだ瞬間に終わり、神坂の名を選んだ青年と皇の縁は断ち切られる。この気丈な青年が一度切れた縁を戻そうと思うかどうかは、誰にも判らない。

「ああ。所詮お上に見捨てられた、野良犬の末裔だからな」

満月を共に背を向けて歩き出した青年の背中は、真っ直ぐに伸びている。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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