帝王院高等学校
脆弱なお姫様のお願い事っ
恨んでいたのだろうか。己に課せられた宿命の様なものを。
そうだとしたなら、誰を恨めば正解だったのだろう。

お姫様を連れて消えてしまった極悪人か。
それともお姫様自身か?
それとも何一つ選ぶ権利がない、弱い家の所為か。

弱者に与えられる権利は、常に『保護権』だけだった。保護と言う名目で受ける同情が、どれほど癇に障るものか。経験した弱者本人でなければ、絶対的に理解出来ないだろう。


「お呼びでしょうか龍の宮、明の宮が参りました」
「…堅苦しい挨拶は良い。体を冷やす前に入りなさい」

顔も知らない兄の所為で、生まれながらに背信の業を負った男と、その娘の話をしよう。
叶芙蓉の弟は、死ぬまで清廉潔白な男だった。守る義務のない家を必死で守り、家の為に生きて、家の為に苦しみ続けた可哀想な男だ。彼を弱者と呼ぶのであれば、彼が何からも保護されなかった理由は何処にある?

「宮様の御成婚の通達があった。名実共に、駿河の宮様は大殿になられる」
「おめでたい事どす」

可哀想な娘は、幼心に立派な父の後を継ぐべく努める事を誓った。けれど娘の両親は大層心優しく、生後間もなくから立て続けに病に苦しんだ娘を儚んで、嫡子である事を強制しなかった。麻疹、風疹、肺炎、どれも耳馴染みのある感染症だろうが、初めての子供が間髪を容れず苦しめば、過保護になってしまう気持ちは判らなくもない。
けれど成長するにつれて病の頻度が落ちてきた頃、やっと人心地ついた両親を余所に、自我が芽生えた娘は勝手な行動に出る。両親が強制しなかった嫡子としての修行を、独自に調べて密かに実行したのだ。

「…桔梗」
「はい」
「外へ、出てみるか?」

果たして分別を知らない幼子は、修行の匙加減を完全に履き違えた。
成長期に心身に過剰な負荷を掛けた事で、免疫が完成すれば治る流行病とは全く違う症状に悩まされる事になったのだ。これを一言で表すなら自業自得、それ以外の言葉は存在しない。

「…外?」
「あれの一周忌を迎えた今、最早喪に服す時期は去った。…大殿の元で宵の宮が世話になっている今、招待を反故にする事は出来ないだろう」

病気らしい病気をした事がなかった龍神が、妻を亡くした頃から徐々に気力を失っている。寡黙な部類に入る男が娶った妻はお喋りが好きで、茶の稽古の為に訪れる生徒達は、家元の稽古よりもその妻と語らう為に通っていたとまで言われていた程だ。
今の不忠は誰が見ても弱者だった。仕事以外では母屋に置かれている仏壇の前に居座り、最近では仏間に布団を敷いて寝ているそうだ。このままでは倒れてしまうと誰もが囁いているが、嫡子の長女は『役立たず』で、嫡男の長男は『帰ってこれない』のだから、不忠本人を案じている声と言うよりは、家内の派閥争いの心配をしていると言うべきだ。

「我が家としても、大殿よりご縁を賜われる事は僥倖に尽きる」
「本家方に勝手な真似させへん為の、抑止力どすか?」
「狭義にはあるが、預かった家屋をいずれ返上する為にも、」
「そやかて、土地には所有権ゆう権利があるんどすえ?宵の宮がぎょーさん読んではった法律関係の本、あても目を通した事があります」
「…」
「何十年も住んでたら、元の持ち主より今の持ち主が優先されるんどす。地上権ゆーんやて。そやから、この家はもう叶のもんどす」
「…桔梗」
「第一、芙蓉伯父様が行方知れずになってから、何十年経ってるんどす?とっくに時効成立や思います」
「明の宮」

ああ。民法は弱者を守る為にあると定められているのに、叶は弱さ故に捨てられたのだと言う。

「…お前を過保護に育ててしまった、私の責か。この機会に、お前は大殿の人となりを確かめて来い」
「確かめて…どないしはるんどす?」
「それで尚、お前が今と同じ気持ちだとしたら、それで構わない」

どうしてそんな無慈悲な相手を、殿と崇められるのだろうか。
数年前の帝王院鳳凰の葬式の時に初めて連絡を寄越した、そんな相手だ。鳳凰が存命だった頃は何の交流もなかった。今だって、若くして家を継がなければならなくなった駿河が、部下を通じて連絡を寄越しているだけだ。今回の招待にしたって、社交辞令である可能性は拭い切れない。


「私が知らぬ大海を、その目で見てこい」

期待するだけ無駄だと、誰よりも恐れているのは桔梗ではない筈だ。














「久し振り、花のお姫様。僕を覚えているかい?」

眩しい。

「君と踊る為に日本語を勉強してきたんだ。まさかスタンダードな日本語じゃないなんて思わなかったから、あの時の君の言葉の意味を知るのに6ヶ月も懸かったよ」
「何しに来たんどす?」
「あの時の答えを君はまだ聞いていないだろう?」

キラキラした男が、キラキラした石がついた指輪を持っている。一体、何の冗談なのか。

「こほん。叶桔梗さん、毎朝僕に味噌汁を作って下さい」
「ぶぶ漬けでええなら出したるさけ、去ねや金髪」
「Oh、じゃあ僕が作ったビスケットを食べると良い。バターを沢山入れる所がミソなんだ、味噌汁だけに」

何でたった半年で、目の前のお貴族様の日本語力は冗談を飛ばせる程になっているんだろう。
にこにこしたまま有無言わさぬマイペースさで勝手に薬指に指輪をはめようとしている男の横っ面を、叶桔梗は満面の笑みでひっぱたいた。

「楽しくないのに笑うのはやめなさいって言っただろう?」
「…アンタ、わざと避けへんかったな」

何なのだ、目の前の光源は。いっそ公害だと、初めて会った時も同じ事を考えた覚えがある。

「それが本当の君か。益々好きになったよ」
「気色悪…!頭沸いとるんか金髪!」
「アレクセイ=マチルダ=ヴィーゼンバーグ」

何がそんなに可笑しいのか。ヘラヘラ、にやにや、いやこの辺りの擬音は桔梗の主観が過剰に反映されている可能性はあるが、微笑と言うには威力が強い笑みを浮かべた外国人は、囁きながら顔を寄せてきた。しゅばっと逃げようとした桔梗の腰に、男は素早く手を回す。

「君の夫になる僕の名前、今度こそ覚えてくれる?」
「っ、アンタ何処触ってはるん?!」

早い。あらゆる意味で手が早い。
女性にしては高身長に入るだろう桔梗より、頭一つくらい高い位置にある日本人とは違う小顔は、小顔の癖にその存在感は少しも小さくない。いっそ過剰だ。だから公害指定するべきなのだ。

「おどれ痴漢か!ほな殺されても文句は言わへんな?!」
「まずは手を繋がないと、踊れないじゃないか」
「踊っ?!」

何を気障振っているのか、男は左手で桔梗の腰を支えたまま右手で桔梗の左手を掴むと、唇に挟んだ指輪を無理矢理桔梗の薬指にはめてきた。余りの行動とあっという間の所業に、恋愛経験が『読書のみ』の桔梗には、太刀打ち出来ない。そうとも、桔梗の恋愛経験は疑うべくもなく0だ。
6歳で東京の男子校に進学してしまった弟はたまの休みにしか帰省しないので、最近では手に入らなくなった純文学書ではなく、こっそり家を抜け出しては本屋で適当に表紙書いした恋愛小説を読んでいる。活字中毒で速読の特技を持つ弟の守矢とは違い、同じ活字中毒の様に見える桔梗はゆっくり味わいたい熟読派だった。余り分厚い本だと結末まで時間が懸かりすぎるので、出来れば短編小説の方が良い。本屋の主人に勧められるまま訳が判らず表紙買いした新書は、女子と女子が濃密に恋とか愛とかを謳う、百合小説だった。あの時の主人は何を考えていたのだろう。

「うん、想像通りぴったりだ。良かった良かった」
「変態っ」
「僕にプロポーズしたのは君だろう?責任取って、僕を貰って下さーい」
「はぁあ?!何であてが貰うんどす?!」

お陰様で、幼い頃に宝塚歌劇団の舞台を観劇して掌が真っ赤になるまで拍手した経験がある叶桔梗は、一発で百合に陶酔した。沼に浸かったと言う表現がぴったりだろう。自称『百合スト』だ。そんでもって頻繁に両親の目を盗み本屋に通っている内に、不幸にも母親を事故で亡くす経験を経て益々GLに依存する様になり。
部屋に篭って全く出て来なくなった究極の引き籠もり百合ストを心配した叶不忠は、こっそり娘の部屋を覗き見してハァハァしている娘に吃驚仰天、しゅばっと飛び込んできたのである。エロ百合小説を読んでいる時にいきなり父親が入ってきた事で、腐女子は寝た振りをした。誰が見ても狸寝入りだったが、病弱な娘を溺愛しまくっていた清廉潔白な不忠には、娘が死にかけている様に見えたに違いない。
彼の名誉の為に言っておくが、桔梗は寝た振りをしていただけであって、彼の心臓マッサージの的確性は定かではないものの、心臓をどっこんどっこん押しまくられた挙句、半狂乱の父親から人工呼吸をされそうになっては『生き返った振り』をする以外にどんな方法があるのか?是非とも皆さんの意見を頂きたい所だ。

桔梗の母の初盆と言う事もあり、早めに帰省していた守矢が迂闊にもその騒動を目撃していた所為で、桔梗にとっては紳士で賢い弟は盛大な勘違いをした。どんな勘違いか、本人に尋ねなくても想像がつく。題して、『妻を亡くした男が、とち狂って実の娘に手を出した』の巻。
不忠の名誉の為に言っておくが、彼は瀕死の娘を蘇生しただけであり、不埒な感情など毛程もなかった。寧ろ不埒にもエロ挿絵でハァハァしていたのは紛う事なき桔梗の方であり、懸命に処置してくれた父の手前『寝たふりでした』とも『パパの心臓マッサージで逆に死にかけちゃった☆』とも言えず、更には盛大な親子喧嘩に発展した守矢の怒りが桔梗を心配したものである事は明白だったので、『ちゃうねん、お姉ちゃんエロ百合でハァハァしてただけやねん』とは、口が裂けても言えなかった。

と言う大義名分、つまり桔梗は隠れ腐女子なのだ。周囲に同志が居ない事も原因の一つだろうが、本屋で普通に売られている筈の百合小説を一目見たその瞬間から、人には言えない秘密を抱えた気になった桔梗は、唯一の心の支えを誰かに知られたくなかった。絶対に男には知られたくなかった。父親にも弟にも、他の何を犠牲にしても、絶対に。
何せ桔梗の母親が亡くなった事故原因は、桔梗が百合小説を読んでいる事を誰よりも早く(初めて購入した翌日には)知っていた母親が、ベルサイユのばらを読むべきだと勧めてきた事にある。お茶のお稽古に通っている女性達から勧められて読んだと言う漫画が、歌劇団ファンの母の胸に強烈な印象を与えていたらしい。全く理解力がありまくる母親だろう。流石は琵琶湖のマーメイドだ。
家を抜け出すのは危険だからやめなさいと桔梗を諭した母は、それから時々、買い物のついでに桔梗好みの本を買ってきてくれる様になった。守矢が暮らしていた時は貸本ばかりだったので手元には残らなかったが、母が買ってきてくれる本が療養中の桔梗の唯一の楽しみだったのだ。

そして母はいつも様に買い物に出かけ、とある本屋から出た矢先、居眠り運転の車に轢かれた。
自責感に苛まされた桔梗が気丈にも涙を堪えたのは、父と守矢が誰よりも嘆いていたからだろう。叶は決して一枚岩ではない。不忠につき従ってくれる者と、俊秀と決別した冬月羽尺に汲みした者とで派閥が二分化されており、警察関係者が多い向こう側はかなり危ない仕事も請け負っているので、それを危険視した不忠は諜報業務を裏稼業として、一族の認可を受けた。これにより双方の派閥はスパイ業務に限っては一つの組織として見倣され、双方情報共有をしなければいけない。こっちの情報を曝け出しているのだから、お前達も隠し事はするな、と暗に命じているのだ。

雲隠桐火の孫である駿河は、同じ雲隠の血を引く不忠を特に案じて連絡をくれる事もあり、不忠が当主である事に表立って異を唱える者はいない。然し羽尺の恩恵に預かった古株の人間達は下手に野心を知ってしまっている為、虎視眈々と叶の利権を狙っている。
現在全国に業務を展開している帝王院財閥の関連企業は関西にも複数存在し、YMDの創始者、山田大志の一人娘が榛原に嫁いだ事で山田と帝王院は友好関係を築いた。山田家は大志の代で途絶えたが、一人娘の絹恵が夫を亡くした後に実家に戻った事から、現在のYMDは婿養子が会長兼社長を務めている。宍戸環境開発の現社長の弟である宍戸優大は榛原姓を名乗り、三重県で最も大きい電化製品製造会社の取締役だ。半導体などの精密機器の開発の他に、自動車製造、造船、家電開発も手がけ、子会社には家電量販店がある。その創始者、山田大志の財産を相続した榛原絹恵の財産は当然その娘夫婦が相続した。現状の榛原の資産額は、東海地方の大富豪、嵯峨崎財閥と肩を並べるだろう。

不忠の代で築いた駿河との縁は、良くも悪くも叶の内部を奮起させてしまった。今は少しも気が抜けない状況だ。

「仕方ないだろう?国に戻ったら他の人と結婚させられてしまう」
「は?」
「だから僕は君と結婚する為に、爵位を捨てて亡命した。いやぁ、こんなに簡単に密入国出来るなんて無用心だねぇ。無能なチャーチルが英雄になれる筈だ」
「な、なん」
「日本人が低脳で助かったよ」

ああ、これを身から出た錆と言うのか。

「所で僕は一応これでも王室から爵位を頂いた身で、一通りの護身術は叩き込まれているんだ。それとコカイン、マリファナ、トリカブトにも耐性がある。忍者の素質は十分だと思わない?」
「寝言はあてを倒してから言いよし!」
「好きな人を傷つける様な真似を僕がするとでも?イングランドの男はジェントルマンなんだ」

掴まれた腰を振り解けない苛立ちのまま睨めば、微笑むブルーサファイアが近づいてきた。

「どうしても嫌だって言うんだったら、君が僕を倒せば良い。出来るものなら」
「それ以上近づいたら、食い殺したる…!」
「どうぞ。僕の心はとっくに、君に食べられてしまったからね」

どれほど鍛えてもか細いままの己の腕が、恨めしかった。












そうだ、男になりたかった。
女として生まれてしまった事を悔いている訳ではなかったが、此処まで脆い体に生まれてしまうと知っていれば、母親の腹の中で死んでいた方がマシだったと何度思ったものだろう。

「…また爪を噛んだの?よしなさいと言ったでしょう」
「ごめんなさい、お母さん。一度癖になったもんは、中々直らんの」

男だったら多少は強くなれたかも知れない。女よりずっと恵まれた骨格、太い血管に太い腱、分厚い爪。
病弱と言う名のハンディキャップからどう足掻いても逃げられないのであれば、せめて男として生きられたら良かった。

「アンタ、まだ死にたい?」
「いつまで叱りはるん?そん気なんやないて言ったやろ」
「せやったら、何で手首切ったんや。お父さんには本で切った言うたんやて?」
「あれで納得しはるお父さんは、ほんま純粋どすなぁ」
「…知ってるか。アンタみたいなのを女狐言うんや」
「ほなお母さんは、女狐を生んだ母狐どすか?」
「口が減らん事」

そうすれば、不出来な娘を大切にしてくれる両親を悲しませる事などなかっただろう。身内とは名ばかりの他人が、屋敷の中でこそこそと口さがない陰口を叩いていても、笑い飛ばせた筈だ。臆面なく『人気者は辛い』などと目の前で笑ってやれば、彼らは驚くだろうか。現実は、この狭い離れから出る事も出来ない。

「真っ赤な血ぃ見てると、生きてるって実感するんどす」
「確認する必要ある?息吸って胸が膨らんだら、生きてる証拠に十分や」
「…ほら、噛んだ爪と皮膚の繋ぎ目から、一生懸命滲み出てきはる。あてが生きてるからや」
「アンタは私を恨んで…」
「総本家振った冬月の残党がお父さんを脅す様な真似しはって、あてを恨んだのはお母さんと違います?」

白磁の人形の様だと褒め称える男達の厭らしい目に憤った所で、確かにこの手首はか弱い女そのものだ。どれほど鍛えても然程変わらないまま、動けば動いただけ後から襲って来る反動で起き上がる事も出来なくなる。賢い医者達からどれほど諭されても諦めなかった幼い日の自分は、大きくなれば強くなるものだと信じて疑わなかった。この世にはどれほど願っても叶わない事はあるのだと、不条理さを知らなかったからだ。

「役立たずの十口で、いっとう役に立たんのはあてどすえ。毎月起き上がられへん時期があるなんて、跡取りとして致命的どす」
「嫌でもその内終わるもんや。月のものがある内が女の花やて、教えたやろ?」
「お父さんは嫌がってはったのに、跡取り問題が拗れてあっちに利権持ってかれてたら、ほんまのおしまいどした。それもこれも、お母さんがお父さんを説得してくれはったからどす」
「親は、子が長く生きてくれるだけでええんやで。多くを望んだらバチが当たらはるわ」
「そやし、多く望んで何が悪いんどす?いっぺんしかあらへん人生に欲張らへんで、いつ欲張れるん」

叶桔梗の人生はまだ始まっていない。その一言だった。
元は他人が集まって群れを作り上げた叶には幾つもの派閥が存在し、現在の筆頭は雲隠焔の子孫に当たる叶不忠である。焔は十口の娘を娶ったが、それが榛原の娘だった事を知る者は少ない。役立たずの烙印を押された空蝉四家の不良債権は、尽く十口へ流されたからだ。特に数が多かったのは冬月と榛原で、弱い者は殺せと言って憚らない雲隠では、役立たずとして生き残る方が珍しい話だった。

「馬鹿な真似したんはあてどす。お父さんが嘲笑われる謂れはあらへん。まして、お母さんが軽んじられるなんて、納得出来ひん。今からでも奴ら一人残らず始末してくるさけ、此処から出しとくれやす」
「強気は結構やけどな、アンタの体は悲鳴上げてんのやで?」
「なんで、か弱い体に生まれてしもたんやろ…」
「おひぃさんはか弱いもんや。気ばっか強ぉ育ったアンタには、丁度ええ帳尻合わせやな」
「えぐい事言わはる」
「せや、私は女狐のおかんやもんな?」
「あな恐ろしや。根に持ってはるんどすか?」
「上辺で物を言うんは京女の悪癖やで。本音言うてみぃ」
「クソババア」
「腰言わされたいんか阿呆娘。達者な口も、傷口と一緒に針と糸で縫うてまうで」

茶屋業に擬態しながら帝王院に仕え続けてきた叶にとっては、片腕がない叶焔はこれ以上ない当主の器だったと言えるだろう。山で修行をしている最中、熊に襲われていた町人を救って腕を失う羽目になった焔は、己より大きな熊の胴を真っ二つに切り裂いたと言われている。

「お祖父様は腕がのうなっても生きてらした、強いお方。歩く事もままならん言うたかて、あてもお祖父様を見習おて、簡単に死んだりせんどすえ」
「…ならええ、お菓子を頂いたからお茶を淹れましょうね」
「お茶なら、お父さんが淹れはるんと違います?お母さんは茶釜で火傷しはるでしょう?」
「アンタと一緒にせんどくれやす。あない痛い目見るのは一度で懲り懲りや」
「お母さんの京言葉は白子より白々しいどすなぁ」
「おおきに」

帝王院当主が妻を迎える度に睨み合いが起きたとされている空蝉の子孫は、十口に落ちても虎視眈々と勢力図を競っていたと言うのだから、圧倒的戦力を誇っていた雲隠家から落ちてきた焔が抑止力になるべきだと考える人間が現れるのは、至極尤もだ。

「お母さんかて、嫁いできたばっかの頃とは違う所を見したる。抹茶なんて粉を湯で溶かして混ぜるだけや、何も難しい事はあらへん」
「よう言う。こないな家に嫁いでしもうて、お母さん後悔しはったやろ?」
「誰にゆーてん。お母さんかて地元じゃ、琵琶湖のマーメードや言われてたんやで?」
「ふふ。今の言い方やとコテコテの大阪人どすえ」
「…ど阿呆。琵琶湖は滋賀や、流さんでええ血ぃ流してる暇があったら、少しはお勉強しはり」

然し明治時代に叶家から警察官になる者が現れると、そちらを本家と呼ぶ者が現れる様になった。江戸時代から賀茂川沿いで茶屋を営んでいた叶は独自の茶道を広めていた為、茶を嗜む宗家と警察関係者の本家、昭和中期には完全に二分化され、現在に至る。警察関係者が殆どを占める自称本家側は、帝王院俊秀が東京へ移り住む際に取り残された年寄り達と、帝王院寿明に最期まで使えていた神官達だった。
その中に冬月羽尺が含まれていた事が、現在の叶本家側の傲慢さに所以がある。

「アンタ眠そうな顔して、無理に起きてるんやったらお菓子は後にして、少し寝や?」

寿明が先立った後、80代まで生きた羽尺は冬月が没落してしまった事で実家には見切りをつけ、帝王院の屋敷を相続した叶で地位を欲しがった。帝王院秀之を嫡男に推挙し兄弟争いにまで発展させた張本人として、冬月を除く空蝉達に怯えた女は、雲隠祭主の長子だった焔の目を恐れたのだろう。
京都に残った羽尺は十口の中で味方を少しずつ増やし、公人である警察の権力を握った。社会的に確固とした地位を手に入れておけば、表立って処分する事は出来ないと考えたのだろう。実際、彼らは何かにつけて叶の方針に口を出す様になり、東京で羽尺の甥が財を築いている話を聞きつけると、何度となく冬月鶻に連絡を入れていたそうだ。
都心部を拠点にしていた冬月と、郊外の山を買い上げた帝王院の交流は今に至るまでない様だが、最たる理由は冬月龍流に家督が渡って間もなく、悲運にも冬月の屋敷がなくなってしまった事が挙げられる。羽尺が亡くなったのは鶻と龍流が立て続けに亡くなった後だったが、羽尺のお陰で叶内部での発言権を得た自称叶本家の残党は、総本家同等の宗家を遠巻きに監視しつつ、今回の様な事態には必ず意見してくる。その意見の殆どが皮肉と嘲笑だ。

「さっき、お父さんの怒鳴り声が聞こえはった。厳つい狐か狸でも、豪勢に捌いたはるんどす?」
「お父さんはマタギやのうて、家元や。青白い顔で馬鹿な事言う」
「あて調子が戻ったら、海で日に焼けてみよか思ってるんどす。神戸できわどいハイレグの水着買うて、鼻の下伸ばした男共をちぎっては投げ、投げては捌く渚のマーメイドきーちゃん。はぁ、うっとり」
「アンタみたいなんをマセガキゆーねん。口開いたら馬鹿がバレるさかいにな、黙っとき」
「鏡もあての美貌に見蕩れたはるに決まってる。うふ。うふふふ、顔は女の武器どすえ」
「お休み脳内常夏祇園娘」
「おおきに。陽気な祭囃子が聞こえやす」

病弱な叶桔梗に叶の嫡子は任せられないと、彼らが声を上げる様になったのはほんの6年前だった。
当時まだ未就学児童だった桔梗が頻繁に入院沙汰を起こした事で、向こう側に桔梗が病弱だと知られてしまったのが事の発端だ。すぐに親族会議をする必要があると騒ぎ出した本家側を撥ね付ける事も出来ず、無用な争いは得ではないと考えた不忠は申し出に応じる事にした。彼らは口を揃えて次の跡取りをと言い出したが、一年経っても不忠の妻に妊娠する兆しがなかった為、ああだこうだと因縁をつけ、最終的には不忠の責任問題にまで発展した。
これに憤りを顕にしたのは宗家側の人間だが、多かれ少なかれこちら側にも桔梗に対する不安感はあったらしく、口々に後継問題の早期解決を当主に求める様になった様だ。

『阿婆擦れの子に嫡男が努まるものか』
『龍神は何をお考えなのか』
「魑魅魍魎の声ばっか聞いて寝たきりやったら、耳年増にもならはるわ。母親が芸子で何がいかんか判らへん。おまんらがお父さんを苛めたんやろ」

一族全員が愛人を迎えるべきだと言い出す様になると、不忠は妻の身を案じて従う事にした。子供を産めない妻は追い出せと言い出しかねない人間も少なくなかった様で、当主の不忠が私情で首を振れば、下手な真似をする人間が現れるかも知れないからだ。
ただでさえ命を軽んじる所がある叶の人間なら、不忠の妻ごと桔梗を殺そうとするかも知れなかった。幼少から続けている組手の稽古では男子にも負けた事がなかった桔梗は、体が弱くなければ嫡子として十分の素質がある。それを理由に不忠が皆の意見を撥ねつけるのは簡単だったが、彼には当主の責任がある。

「同じ短命やったら、雲隠に生まれたかった…」

龍神祝詞を掲げていた祭主、雲隠火霧の代で雲隠は終わった。火霧の末の妹だった雲隠美霧の娘である桐火は俊秀に嫁ぎ、火霧の従姉妹だった雲隠霧火は密やかに子を産み育てた様だ。
後継候補同士だった霧火と火霧は、当主を決める場で一族が揃う中、一晩中戦った。共に5歳だったと資料に書かれている。
火霧が霧火の足を切り落とした事で決着がつき、祭主になった火霧は曽祖父が出雲大社の宮司だった縁で出雲から婿を迎えている。焔が生まれたのは火霧が12歳になる頃で、雲隠では特に早い年齢ではない。
負けた霧火は大怪我の回復を待たず姿を消し、誰もが十口に落ちたのだと思っていたが、数年後に娘を出産していた事が判っている。霧火と同じ名を名乗っていた娘は幼くして母である霧火を亡くすと、以降は芸者をしていた暮らしていた様だが、客の子を身篭って店を追い出されている。
彼女の出産に立ち会ったと言う産婆は、双子を抱えて帝王院の神社を訪ねたが、既に緋天大宮と帝王院の屋敷は叶に譲られていた。産婆は霧火が持っていたと言う手紙を届けに来たそうだ。その手紙がどちらの霧火を指すのかは不明だが、焔はその手紙をすぐに俊秀の元へ転送した。
間もなく帝王院から迎えがやって来た為、霧火の忘れ形見である双子は東京で育てられる事になる。陽炎と糸遊と名づけられた二人は、帝王院鳳凰と共に兄妹の様に育ったそうだ。生まれた時から軟禁状態だった鳳凰にべったり引っつき、何度諭しても離れたがらなかった陽炎は鳳凰と共に山奥で暮らしたが、糸遊は年頃になると女学校へ通ったと言う。

彼らは軟禁生活の中で英才教育を受けていた鳳凰と共に鍛錬を怠らず、歴代雲隠でも群を抜いて強かった。祖母の霧火、母の霧火、どちらも相手の男に関しては謎に包まれていたが、短命な雲隠の子孫にしては陽炎も糸遊も長生きした方だっただろう。


「…何の為に生きてるんやろな」

噛み締める様に呟いた瞬間、障子の向こう側に影が差した。

「姉さん、新しい本を借りてきたよ」

囁く様な子供の小声に顔を上げて、小さく息を吐く。桔梗にとって、この家で気が置けない相手は母親だけだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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