帝王院高等学校
忍者に擬態した腹黒王子は天下無双
「ふふ。あーさん」
「…ぅ?」
「こないな所で寝はって、風邪引かはるえ?」

そよそよと、此処にはいつも穏やかな風が運ばれてくる。
緑の匂いと古い本の匂い。懐かしい様な、全く知らない様な、不思議な気分だ。

「…ん、その声は桔梗ちゃんかなぁ」
「他の誰や思てはるん?しばくえ」

薄く開いた瞼の向こう側に、暗い人影が見える。
昔から狭い所が好きだ。明るい所より、薄暗い所だともっと良い。
一番古い記憶にあるのは、犬小屋の内側の光景だった。精悍なハスキーは人間の子供のお守りを押しつけられて、本音では迷惑していたのではないだろうか。雌だったならまだしも、彼は雄だった。

「いつの間にか寝てたんだねぇ、僕。…子供達は?」
「股の間にはぶたいと挟まってはる、それ」
「羽二重と…どれ?」
「何でか、あての子に似てるどすな?」

叶の屋敷の中で最も小さい宵の宮は、朱色の大鳥居で知られた緋天大宮と共に帝王院当主が屋敷を手放した後、昭和の初めに建てられたそうだ。宮司がいない神社は手放すより他なく、戦時中に取り壊されている。
残った帝王院家の屋敷の敷地は大宮を壊した分だけ広くなり、敷地の東西南北に一つずつ形が違う離れが造られていった。それらは帝王院が暮らしていた時代に存在した明の宮神社、陽の宮神社、宵の宮神社、月の宮神社の一部を移設したものだと言う。

「おっと!マイエンジェルは芸術的な寝相だなぁ、文仁と貴葉の寝相は僕に似たのかな?」
「畳の上に直に寝はると畳の目ぇの跡が残らはるさけ、また化け狸のとっしょりがひつこい小言言わはるねぇ」

宵の宮が最も小さいのは、榛原家の屋敷が他の三家とは違った造りだったからだろう。基本的に家族が多ければ多い程良いとされた雲隠、明神、冬月とは異なり、榛原はいつの時代も家族が少ない。当主が入れ替わる度に親族離散を宿命づけられていた榛原家の母屋は、当代灰原とその家族のみが住まう、茶室程のものだったそうだ。

「ああ、僕とした事が…面目ないデース」
「あーさんは都合良う外人の振りしはる、金色の狐様。長生きしはるねぇ」
「いやぁ、そんなに褒められると照れる。人に擬態したモンスターには慣れてるんだよねぇ」

それでも龍の宮より多少広いのは、茶室として造られた龍の宮とは違い、宵の宮がれっきとした生活拠点として造られたからだろう。

「大人しい冬臣は何処に…あ。ちゃんと半纏被ってる。誰に似たらこんなに立派な子になるんだろう?」
「ふふ。狭い宵の宮に忍び込んで、カビ臭い畳の上の雑魚寝が立派やったら、風邪引くまで転がってはったらええんどす」
「怒っても君は綺麗だねぇ、僕の奥さん」
「あてはお母さんでも奥さんでもあらへんえ?」
「うん、ごめんね桔梗ちゃん。君は僕のお姫様だ」
「ふふ。滅相もない事でございます」

始まりの記憶が犬小屋の中だった元王子様のアレクセイには、綺麗な自慢の妻がいる。彼女は正真正銘のお姫様だ。
本家は警察関係、宗家は茶道の家元と言う叶一族の血縁関係は希薄だが、叶の名の元に龍神に忠誠を誓っている点では絆は強いと言えるだろう。宗家の人間からは『大殿』、本家の人間からは『宮様』と呼ばれている叶不忠の敬称は元々、帝王院家の当主が呼ばれていたものだった。

「僕は君の自慢の旦那さんになれてるかな?」
「あーさんは旦那やのうて、あての王子様どす」
「爵位はもうないのに?」
「肩書きはかまへん。涎垂らして寝はる、間抜けな王子様」
「ワォ。滅相もございません」
「とんでもない、滅相もないは、形容詞どすえ?『ない』を単独で変化させたらあきません。とんでもない事、若しくは滅相もないお言葉でございます言わな、笑われやす」
「はいはい、僕のお姫様は厳しいな」
「はいは一回」
「はぁい」

天神と称される帝王院当主に倣わず龍神と呼ばれている理由は、当主が屋敷の中心にある龍の宮で生活しているからだろう。どうやらそれ以外にも何らかの理由がある様だが、婿養子の立場にあるアレクセイは、そこまで詳しい事情を聞かされていない。
興味本位で尋ねた所で、将棋以外では話し相手にもなってくれない義父が饒舌になる訳でもなく、義弟に至ってはあからさまにアレクセイを敵視しているので、アレクセイが望む真実を教えてくれる確証はなかった。アレクセイと子供達の前では不気味な愛想笑いを浮かべている妻の桔梗には、家の事を根掘り葉掘り尋ねるのは憚られるだろう。妻を不機嫌にさせる事だけは、何を犠牲にしても避けたい所だ。

「あー、良く寝た。京都は秋が一番だ」
「ほんまに、今年はしんどい夏どしたねぇ」

理由は単純明快、京都に於いては叶桔梗の右に出る者はないからだ。つまり、腹黒さに限っての話だ。

「毎年言ってるかも知れないけど、ロンドン育ちの僕には拷問としか思えない暑さだった」

ただでさえ己の第一印象が決して良くはなかった事を、元王子様はしっかり自覚している。
アレクセイ=ヴィーゼンバーグ前公爵は、いわゆる押しかけ女房ならぬ、押しかけ入婿なのだ。三人目にして待望の娘が生まれたばかりの今になって思い返してみても、二度目に会った時の桔梗の顔は凄かった。あの時が過去最も恐ろしかったと言っても過言ではない。

「冬は冬で、さぶさぶ言うてはるえ?」
「僕は正直な男なんだ。暑いものは暑い、寒いものは寒い」
「見とうみキーハ、アンタのお父さん、子供みたいやねぇ?」

妻が抱いている生まれたばかりの娘は、家族の中でだけ『キハ』と呼ばれていた。
叶の家では呪いの様に『は行』の名前をつける仕来りがあると誰かが言っていたが、不忠の二人の子供はどちらも仕来りを破っている。それは桔梗が嫡子として認められない女性だったからなのか、守矢が非嫡出子だったからなのか。理由は定かではないが、桔梗が初めて妊娠した時に、最後まで渋っていた不忠は一つ条件を出した。

『…帰化認定が降りていないお前を婿として認めれば、イギリスを敵に回す事になりかねない』
『婚姻契約の事実なんて、僕としてはどうでも。お義父さんは理解頂けていると思っていましたが?』
『誰がお義父さんだ…!』

何かにつけて、家宝の日本刀を振り回そうとする不忠に幾度となく命を狙われつつ、アレクセイは帝王院家を通じて政府に協力を要請し、無事アレクセイは亡命に成功した。やっとの思いで桔梗との婚姻届を提出したのは、長男が生まれた後だ。あの時点で冬臣の出産届けを出す事は、流石に躊躇われた。

「そう言えば、随分長電話だったね?さっきまで真上にあったお日様が、もう傾き始めてるんだもん」
「東雲の若様から観月会のお誘いどした。東雲様は叶を人として扱ってくれはる、善い御方どす」
「幸村君か。駿河君より若いのに、彼も立派な紳士だったよ」
「大殿を『君』やなんて」
「僕らは友達になったんだ。な〜んて、駿河会長は僕より一つ年上なんだけどねぇ」

これに関しては、順を追って語らなければならないだろう。
帝王院駿河のハネムーンを兼ねた出張先で、アレクセイと桔梗は出会った。多忙な駿河は妻の隆子との初めて旅行でもあり、幼い頃から病弱で複数回の手術経験があった隆子には、医者や彼女の実家から依頼された補助人も同行していた。隆子の実家は、純然たる高森伯爵家である。
現在は東雲家に吸収された形になっている高森伯爵家は、帝王院・東雲と同じ華族だが、公家ではない。明治になって叙爵を許された、当時の政府の恩恵が厚い家柄だ。海外との交流を重要視していた頃は大層重宝されていたが、開戦した頃から当時最高権力者の立場にあった日本軍に危険視される様になり、当時の伯爵は知人らと共に軍から拘束された事もあるそうだ。

「観月って事は、お月見かぁ。お団子を食べるんだよね」
「あーさん、いっぺんお抹茶持って尋ねはったどすやろ?あの時の事を未だに覚えたはって、あれから毎年お誘い貰うてますえ」
「お父さんには伝えた?」

雲隠最後の当主候補だった双子の妹、雲隠糸遊は高森絢一に嫁いでいる。
絢一は父親が拘束された時に形式上爵位を継いだ事になっているが、特権身分制度に疑問を持った絢一は父親が釈放されると、二次大戦の終戦を待たずに爵位を返上した。これにより高森家は事実上没落した事になるが、終戦期の混乱で爵位返上が認知されたのは更に後の事だ。絢一に三人の娘が誕生し、彼女らが成人する頃まで、高森は伯爵として知られていたと言う。

「…言うたかて、重い腰は上がらへん。お父さんは京都から出る気ぃがあらへんのんどす」
「負い目って言ったって、パパは何も悪くないのにねぇ。僕だったら勝手に出てったお兄さんの所為にして、知らんぷりするけど」
「あても同意どす。お父さんは石頭の朴念仁やさけ、死んでも治らへんえ」

絢一の娘の内、長女の栄(さかえ)は先に結婚した。東雲家が経営する会社の役員だった男だ。息子がいなかった高森家に婿養子に入った形だったが、先に説明した通り、爵位を返上した事で華族の責任がなくなった高森の家を継ぐ理由がなくなった事で、後に東雲家に参入している。
次女の絢子(あやこ)は栄に続いて結婚したものの、不幸にも子供が生まれて間もなく亡くなった。雲隠の悪しき血によるものかは、定かではない。
最後に三女の隆乃は、幼い頃から想いを寄せていた高森隆弘の後妻になった。当時は親族の間で相当な葛藤があったものと思われるが、隆弘は絢一の再従兄弟に当たる人物で、高森の分家だ。絢一と隆弘の祖父が兄弟だった為、絢一の祖父が叙爵した伯爵の称号とは直接的な関係にはない。法的にも、絢一の娘と隆弘が結婚する事に関して何ら問題はなかったが、誰よりも反対したのは高森糸遊だったそうだ。

「東雲でも、僕らを気遣ってくれているのは、幸村君だけだろうねぇ」
「奥様の栄子さんは、根っからの雲隠気質。…化け狸の親玉や」
「言い過ぎだよ」
「あの女は雲隠の子孫どすえ?」

隆弘は絢一よりも随分年上で、誰が見ても再従兄弟には見えず、一見すると叔父と甥ほどには離れていたらしい。
彼は元々、帝王院天明が死ぬ間際生まれた末の娘と夫婦関係にあった。帝王院寿明の腹違いの妹になるが、隆弘と結婚して出産すると同時に亡くなった。樹子と名づけられた赤子を残して、妻に先立たれた隆弘を哀れんだ寿明は、己の姪に当たる樹子を引き取り養女として迎えたのだ。
当時隆弘はまだ若く、幼い娘を男手一つで育てるのは難しい時代だった事もある様だが、精神的に落ち込んだ隆弘に子育ては難しいと判断したのかも知れない。もしかしたら唯一残った娘を取り上げられた事で、隆弘に生きる理由を見つけさせたかったのかも知れない。

「うちの自称本家の根っこは、陰険で非力な冬月どす。陰険で傍若無人な雲隠とは、比べる余地もおへん」

何にせよ帝王院俊秀と同年代だった樹子は、寿明の他の妹の子と共に、姉妹の様に育った。
寿明には何人かの姉妹が存在したが、殆どの姉妹を先に亡くしている。樹子の他にも千鶴と言う養女がおり、形式上は俊秀の姉と妹に当たるが、五歳で龍の宮に幽閉された俊秀と暮らした時間は短いだろう。俊秀には血を分けた義弟の秀之も存在したが、秀之が生まれたのは俊秀が幽閉された後なので、兄弟が対面したのは家督争いが勃発した頃だろうと予測される。叶家に残る帝王院家の記録には、俊秀のものだけが異常に少ない。千鶴、樹子、秀之に至るまで誕生した頃からの詳細な情報が残っているにも関わらず、寿明の直系子孫であり嫡男として大宮司の役職を継いだ天神の情報だけは、すかすかだ。まるで蝉の抜け殻の様に。
家系図にはしっかり名前が残されているのに、幽閉された後から天神を継ぐまでの一切が残っていない。帝王院の当主になった後、長女の雲雀が失踪するまでは幾らかの記録が残っているが、それ以降は東京に移住してしまっているので、叶家の記録しか残っていなかった。

「あてのお祖父さんの事、知ってはる?」
「うん。怪我したから、叶に捨てられたんだよね」
「お祖父さんの事はぼんやりしか覚えてへんけど、お父さんと一緒で、優しい御方どした。そんなお祖父さんを、雲隠の阿呆共は『不要』言わはったんや。いっぺん…さんべん殺してやりたいくらいに思てます」
「ちょっと落ち着こうかお姫様。和の心だよ?」

雲雀と共に失踪した叶芙蓉は、失踪する前、何故か牢屋に入れられていた旨の日誌が残っている。理由の記載については、賊に襲われただの、スルメが固いだの、風呂場で天神が嫁から斬られただの、支離滅裂な文字が殴り書きされていて、正確な情報は想像も出来ない。当時の混乱を見事に物語っているとも言えるだろう。結局の所、牢屋にぶち込まれた筈の芙蓉がどうやって脱獄してどうやって雲雀を誘拐出来たのか、何一つはっきりとしない。それだけは確かだ。
第三者のアレクセイは『雲雀が犯人だったりして?』の結論に至っているが、叶ではそうではない。何せ帝王院は天神で、空蝉にとっては絶対的な主君だ。明治時代、平民苗字必称義務令の発令によって姓を名乗る様になった頃から、彼らは誰が名づけたのか皇は灰皇院を自称する様になり、それまで名乗っていた雲隠・灰原・冬月・明神は、冬月以外が形を変えている。

「昔、伊賀から流れてきた残党が宇治の南の山に住み着いてはったんどす。奈良の県境に社を構えたった陽の宮が、天神の命で出陣しはった」
「神坂の話だねぇ。日記にぎっしり書いてあった。守矢が調べてたみたいだよ」
「火消しのお役を与えられたヤクザ者。羽尺大奥様に汲みした十口の殆どは、伊賀の生き残りや聞いてますえ」
「でも棟梁に関しての記録は残ってない」
「神坂日輪は、宰庄司に下った秀之の宮様と共に逃げたんどす。守矢は知らんだけ」

具体的に言えば、灰原は当主だけの称号なので戸籍上は榛原で統一し、雲隠は戸籍登録しないまま『存在しない一族』の姿勢を貫き、明神は総じて灰皇院を自称していたが、神職だった者と農民だった者とで姓を分けて登記した為、現在の主たる明神の派閥は榊家と小林家に分けられている。

「冬月家の行動を監視する意味で、榛原様は関東に屋敷を置かれはった。何処へ逃げても無駄言う、最強最悪の抑止力どす。耳ある限り、榛原の歌から逃げる方法はあらへん」
「大津にあった明神のお社は?」
「琵琶湖に沈んだんと違います?菟原にあった宵の宮は、燃え落ちたそうどすえ」
「うないって何処?」
「丹波の西、摂津の東。由良川の向こう、月の宮は御神体だけ行方知れずどした。残された叶は社を取り壊し、瓦と柱を幾つか運び込んだんどす。此処にある月の宮は、本来の月の宮の大黒柱が使われてます」

榊家は昭和中期に医者を志した者がいた為、現在では帝王院の従僕たる空蝉としては数えられていない。引き換えに、帝王院鳳凰が空蝉を解散させた後も帝王院財閥の幹部として仕えた小林家は、北関東に農地を幾つも保有している事で自身も財を成したが、形式上は帝王院財閥の傘下になっている。榛原晴空の代で閉じた事になっている榛原家を加えても、一貫して帝王院に仕え続けているのは小林家だけと言う事だ。なので灰皇院は、事実上小林家が宗家として現在に至る。小林家の現当主は女性だが、何の因果か、桔梗の腹違いの弟、守矢が高校卒業と同時に婿入りした家だった。

「抜け忍の大黒柱どすえ、文仁の寝返りで折れてまう思わへん?」
「桔梗の性格は、お義母さんに似たんだねぇ」
「熾烈どすか」
「苛烈でもあるかな」
「あーさんは難しい日本語を知ったはるどすなぁ」

しかも婚姻関係が成立する前に子供が生まれていて、結婚するなり別居状態ですぐに離婚している事もあってか、現在の叶は小林家から尋常ではないほど睨まれている。せめてもの救いは守矢の息子が捨てられたり苛められたりしている様子はなく、小林家で伸び伸びと暮らしていると言う事だろうか。守義と名づけられた子供が叶の血を引いている事で、昔の悪習に倣い、叶に押しつけてくる事があるかも知れないと初めは心配したものの、今に至るまでその気配はない。離婚はしたものの、大学卒業後に就職した守矢は今のところ独身を貫いていて、最近では桔梗にも殆ど顔を見せなくなった。然し定期的に連絡は寄越すので、その都度『守義はどうしている?』と、桔梗は様子を聞いている。一年に一度、息子の誕生日の時だけ会わせてくれるそうだが、冬臣と同じ年齢の守義は成長するにつれて元嫁に似てきたらしい。

「お父さんが東雲のお誘いに乗らない理由って、小林に睨まれてるだけじゃないよね?」
「…過去は消えてのうなったりしぃひんさかい」
「うーん、和の心が足りないねぇ。僕の琵琶の音色を聞いて、肩から力を抜いた方が良いよ」

帝王院家に負い目がある不忠は、過去に一度も、私用で帝王院と連絡する事はなかった。向こうから連絡を貰う事があっても、それ以上の接点はなかった様だ。叶と帝王院は俊秀時代に交流がなくなり、鳳凰は当主になって十数年で妻を亡くし、空蝉を解散した。以降、現在の駿河が当主になってからはスケジュールに追われる生活が続き、久し振りに帝王院から貰った連絡は、駿河の結婚式の招待だ。
然し招待を受けた不忠は到底顔向け出来ないと渋りつつ、天神の晴れ舞台を拒絶する事も出来ないと散々悩んだ末に、当時16歳だった娘を代理として出席させる事にした。駿河はその意を汲み、空蝉の殆どが出席するだろう結婚式への参加を強制する事はなく、後日改めて『披露宴パーティー』の招待状を寄越してきたのである。

「三味線を三日で諦めて琵琶に乗り換えはった方のお言葉は、有難味が違うどすなぁ」
「あ、グサッと刺さる皮肉デス。OMG、アレックスは立ち直れませーん。可愛い子供達を道連れに、大浴場で無理心中するしかないどすえー」
「うちのお風呂は、文仁でも足つくゆーてますけど?」

駿河としては、過去の遺恨を忘れて叶との直接交流を深めたいと言う善意によるものだったのは明らかだが、それによって叶家が虐げられたり、嫌な思いをするのは本望ではなかったのだろう。幼馴染みの栄子が結婚式への出席を猛反対したのかも知れないが、何にせよ、桔梗が招かれたのは海の向こう、海外で行われたとあるパーティー会場だった。

「可愛い天使達を天国の神様に取られるのは、やっぱり嫌だ。僕は世知辛い世間と戦う事を誓うよ。剣道じゃお義父さんに全然歯が立たないけど、フェンシングは得意なんだ。やっぱり騎士と言えばエペだよ」
「ふふ。さっきまで父様の将棋の相手してはったのに、いつの間に子供達と遊んではったんどす?」
「ゲームと子守りは別腹だもんねぇ。うーん、文仁のお腹はもちもちたまご肌!」

駿河としては財閥会長として出席しなければならない行事に、新婚旅行を兼ねたものだ。
仕事とプライベートが混同する事になってしまったが、しっかり大学で学びながら財閥取締役の職務も果たした駿河が、何年も待たせていた婚約者と漸く結ばれた頃だった。跡継ぎを待ち望んでいた幹部陣も一安心の心地だっただろう。結果的に、仕事とハネムーンと披露宴を兼ねた駿河の海外出張先に、桔梗は同行する事になった。空蝉四家が揃う事こそなかったが、それでも財閥関係者は大半が京都から俊秀に付き添ってきた人間の子孫で、更に駿河に近い上役ともなれば、それなりの自尊心を持った人間ばかりだ。
若かった桔梗にはあれでも悍ましい経験と言えたが、今になってみれば、容姿端麗な女性の桔梗に対して堂々と非難してくる人間はいなかった。駿河の目があったからかも知れないが、これが不忠だったら状況は変わっていたかも知れない。

「僕が一人で指してるとあっと言う間に負けちゃうのに、冬臣がウォーカーをちょちょいって動かすと、お義父さんはアルマジロみたいに丸まったんだ」
「ウォーカー?ああ、歩兵の事どす?」
「子供って凄いねぇ。チェスより全然難しい将棋のルールを、隣で見てる内に覚えちゃうんだもん。文仁なんか僕が負ける度に嫌な笑い方をするんだ。文仁の意地の悪さは誰に似たんだろうね?」

どっちに似ても素直な子に育つとは思えないが、桔梗は微笑みだけで答えた。腹黒さには自身があった桔梗を遥かに超えていたのは、目の前のエセ外国人だ。ロンドン育ちの癖に、呉服屋の主人の様な手さばきで着物を着付けてしまう器用な男は、寝起きの悪さを除けば完璧と言っても良かった。
生来の低血圧で、目覚めてから起き上がるまでが異常に長い。今も二時間程度の昼寝で血圧が下がりきっていたらしく、股の上に次男坊を乗せたまま横たわっていた男は、ゆるゆると上体を起こした。

「今はまだ乗ってても判らないくらい小さくて軽いけど、十年したら鹿が食べ忘れたタケノコみたいににょきにょき伸びるんだろうねぇ。それでお義父さんがチェーンソーを持ってきて、竹を切るついでに僕を殺そうとするんだ。事故を装って…」
「あの時は、あーさんが父様のまいだれを褌と間違えて締めてはったから、えらい怒らはったんどすえ?」
「あれが日本式のエプロンだって知らなかったんだもん。漫画で読んだフンドシにそっくりだったんだよ!」
「公爵が漫画て」
「漫画は日本が産んだ善良で自由で未知の可能性を秘めた一大産業だよ」
「おや?日本の一大産業はお風呂って言わはりませんどした?」
「いやぁ、日本には文化の宝庫だなぁ。おいでやす和の心」

都合が悪くなると外国人を装う男は、豪快な寝返りを打って畳に転がった次男をひょいっと拾い、男物の半纏に包まっている長男もひょいっと抱き上げた。二人共まだ幼いとは言え、同時に抱くのは大変だろう。何せ文仁は寝相が悪い。抱き上げられても起きる気配はなく、父親の腕の中でシンクロナイズドスイミングの様に足を動かしている。

「寝てる時の文仁は、天使だなぁ。んー、ブチュ!冬臣は僕の子供の頃にそっくりだねぇ、ブチュ!何回キスしてもし足りない気がするよ」
「父親を足蹴にしたはりますけど」
「このままずっと小さかったらどうしよう、宝箱に詰めちゃおうかなぁ」
「ほっといても大きならはるんどすえ?」

親の贔屓目を抜きにしても、芸術センスが光る足捌きだ。

「確かに。犬小屋に転がしていても簡単には死なない事は、僕が証明するよ。昔はそれで揶揄われて、ウルフだのストレイモンキーだの、不名誉なニックネームをつけられたなぁ」
「ふふ、お猿さんがお猿さん?狼は褒め言葉どすえ」
「そう?」
「翅がない蝉は、総じて狗」

部屋中が本で埋まっている宵の宮の障子を開け放った女は、胸元に抱いた娘の背中を労わる様に叩きながら敷地の玄関の方向を指差した。敷地をぐるりと囲んでいる石垣には、東南方向に家紋がある。もっとも近い建物は明の宮だ。

「月は東に、星は南に。冬月は千年生きる舞鶴を捨てて、東京に。山城を更に南に下った星は、陽の宮の御神体を持って志摩に」
「雲隠の御神体?」
「朱色の鏡どす。水を張って、龍神に太陽と雨の恵みを祈らはる。鏡にはいつも、真実しか映らへんのどすえ」
「冬臣の部屋に大きな鏡があるのは、そう言う事か」
「ふふ。宵の宮は本の虫の置き土産でこの様どすやろ?子供部屋には向かん」
「うん、四人目が産まれる前に大掃除しなきゃいけないねぇ」
「次も女の子がええどすねぇ」
「駄目だよ。貴葉の時に体を崩しただろう?僕は文仁から、早過ぎだって叱られたんだ」
「…病人扱いせんどくれやす。あては自業自得」

目を擦りながらもぞりと動いた長男が、艶やかな黒い瞳で父親を見上げた。サファイアの瞳に笑みを浮かべて息子の視線に答えた父親は、息子のこめかみに口づけを落とす。

「おはよう、ふゆちゃん」
「…おはようございます、父上」
「夕飯にはまだ早いからねぇ、文仁を連れて母屋でおやつを貰っておいで」
「はい。…起きなさい文仁、父上を噛むんじゃない」
「うー。骨付き肉…固ぇ…」
「起きないなら置いてくぞ」
「待ってふゆちゃん、俺も行く…」

兄弟仲が良い事だ。6歳の息子と3歳の息子が手を繋いで出て行く背中を見送って、アレクセイは桔梗の腕から娘を奪う。
無計画に等しい亡命の結果、ロンドンから叶が狙われずに済む方法を何日も考えた結果、長男にほんの少しの犠牲を強いている。それに関しては、いつもは寡黙な義父も支持してくれているので、罪悪感は一人で飲み込もう。

「この家は狂うてしもうたんや。跡継ぎなんて、墓場には必要あらしまへんのに。俊秀公に見放されて、お屋敷を預かって…あてらはいつから、墓守から家守に鞍替えしたんやろねぇ」
「墓場よりヤモリの方が可愛いよ」
「ふふ。年端もいかん頃に毒を試し過ぎた。お父さんは今でも悔いてはる。あてが勝手にやった事なのにねぇ」

見た目はおしとやかな大和撫子、中身は暴走機関車の叶桔梗は、叶の跡継ぎになるべく無茶をして、元々そう強くはなかった体を弱らせた。彼女を心から愛していた両親は自責の念に駆られていたが、本人は言う通り、誰の事も恨んではいない。

「僕も、落馬した時の古傷がいつまでも痛むけど、そんな両親から生まれた子供達は…全員元気一杯だねぇ。凄く痛いよキハちゃん、何で僕の喉仏を噛んでるのかな?それってそんなに美味しいのかな?」
「お乳の時間どす」

父親の腕の中では仁王像の様な寝顔だった娘は、母親の腕に抱かれると天使の様な安らかな表情できゃっきゃと笑った。

「心臓も肺も胃も肝臓も、気ぃ抜けば怠けてまう。そやかて子宮は立派に働いてくれた。こない元気な女の子が産まれはったえ?」
「すっかり桔梗のおっぱいは貴葉のものになってしまったな。ああ、痛そう…」
「痛いなんてもんやおへん。生え始めた歯で噛みちぎらんばかりに吸われて、乳首が取れてまう」
「ええっ?ちょ、貴葉、歯が痒いなら僕のおっぱいを吸いなさい!」
「あーっ。あぶあぶ、うぎゃーっ」
「痛ッ。む…娘に目玉を蹴られた…!」
「あーさん、貴葉の前で気ぃ抜いたらあかへんえ?この子は骨太なお姫様なんどす」
「男の子の間違いじゃないのか?目の色だけ僕に似たみたいだけど、顔は文仁が生まれた頃にそっくりだし」
「六歳までは男として育てるつもりどす。あても昔、自分を俺ゆーてましたえ」
「桔梗が男だったら、オスカルも目じゃないねぇ」

豪快に乳を吸われながら、夫に微笑みかけた女は首を傾げた。

「…おまん、箪笥を勝手に漁ったんか?」
「だって中に隠し扉がついてるんだもん。つい開けたくなっちゃうじゃない、ピッキングは得意なんだ」
「…えげつない公爵もおますなぁ」
「元だよ。今はお茶が点てられない茶道教室のアシスタント兼、旅館のオーナー」
「まさか宅建の免許を取るやなんて」
「ヴィーゼンバーグは幾つもの城を保有しているからね、不動産関係は得意分野だ。それよりねぇ、桔梗ちゃん」
「はい?」
「女の子同士がキスしてる小説もあったけど、相手がレディでも浮気は浮気だよ?」

にこやかな微笑みで返してきたサファイアが、桔梗の前で無機質に細められる。


「Please note that I bloody damn you.(絶対許さないから、忘れるな)」

いつもの舌足らずな日本語とは違う、突き刺さる様な母国語だった。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!