帝王院高等学校
空蝉の花嫁修業は命懸け!
「母上の料理を覚えているか」
「勿論だ。火炎茸の味と痺れは忘れられようもない」
「俊が最後に言ったのは、『あれには毒が入ってないから』だった」

今の今まで孫の言葉の意味が判らないままの遠野龍一郎に反して、冬月龍人は目を見開いた。その表情だけで答えたも同然だろう。

「70になるまで入った事もなかったファミリーレストランに入った。水も喉を通りそうになかったが、孫は在りし日の俊秀公を思い起こさせる静かな眼差しで容赦なく首を傾げてくれる」
『食事は家族で食べなきゃ駄目だ。じーちゃんが食べないなら、俺も要らない』

孫の言葉を噛み締めながら呟いた龍一郎に、龍人は天を見上げた。切れままのた蛍光灯が見える。

「明神の力か…」
「そうと気づくまでに、我ながら何時間懸かったのか。初めから会話など対して必要ではなかったんだ。俊の前では、全人類が裸同然なのだ」
「…ほんに、俊江は恐ろしい子を産んだのう」
「俊の記憶は俊江の腹の中から始まっている。俺が何をしたのかも全て記憶した上で、」

懺悔するかの如く、囁く様な声で言った双子の片割れを、眉間を押さえた男は優しげに見える目元で真っ直ぐに見つめた。もう何を聞いても驚くまいと思っているが、自信は限りなく0だと言うしかない。


「あれは、別れの度に俺の記憶を奪っていった」

やっと、本題に辿り着いた様だ。























ほんの最近まで静かだった縁側は、火花散る戦場と化してしまった。
直視する事も憚られる事態の凄惨さに反し、血が流れていないだけマシだと思うしかない。…と言うのは、多少誇張し過ぎだろうか?

「正座をする時は背を伸ばせ」
「っ、し、然し、主事様、あ…足が…っ」
「ふん、足が痺れた程度で死にはせん。俺が許すまで足を崩すな」

小刻みに震えている赤い毛玉を凍える様な目で見下しながら、肩に掛けていた羽織を片手で脱ぎ下ろした男は、その場で勢い良く胡座をかいた。

「品もなければ学もない貴様を龍の宮に住まわせる為の条件を、まさか忘れた訳ではあるまい?」
「そ、れは」
「幾ら世間知らずで嫡男から外された木偶の坊だろうと、龍の主はそこで茶を掻き混ぜている帝王院俊秀だ。礼を知らん馬鹿だろうが、間違っても呼び捨てにして良い男ではない」
「は、はは!主事様、平にっ、平にご容赦を…っ」

着流しを留めている腰帯に刺していた煙管を抜き取り、慣れない正座で息も絶え絶えな雲隠桐火の爪先を、18歳の性悪は煙管の先端でつついた。

「愚か者が、俺に謝罪してどうする!」
「っ」
「恐れ多くも龍の宮の母親は月の宮の娘なるぞ!つまりどう言う事か言ってみろ糞餓鬼!」
「は、はは!大奥様は主事様の叔母上でいらっしゃいます!」
「愚か者が!羽尺は妾の子だ、あんなババアが俺の叔母だとほざきよるか?!」
「あっ、いえ、申し訳ございませぬ…!」
「ふん、馬鹿なりに少しは覚えたではないか。その通り、あの女狐は名目上我が叔母だ。無論、俺も糞爺も認めてないがな」

そして痛みから声もなく飛び跳ねた毛玉に、それはそれは恐ろしい笑みを浮かべ顔を寄せたのである。
冬月鶻の性格の悪さは空蝉随一ではあるが、嫌いな人間には話し掛けもしないのだから、今の光景は微笑ましい部類に入るだろう。例え『世間知らずの木偶』と目の前で罵られても、聞こえなかった振りをするだけだ。

「だが貴様は雲隠以外の勢力図を覚える前に、字を覚えねばならん。俺は貴様に写経をしろと言ったが、墨を磨る以前に座り方を教えねばならんとは思わなんだ。その年で己の名も書けんとは、祭主たる陽の宮の名が泣こう」
「うっ。でも…」
「でも?力に優れた雲隠は字など読めずとも困らんとでも抜かすつもりならば、今すぐ屋敷に戻り男を手練手管で喜ばせる術でも学ぶか?」
「そ、それは…」
「何処の馬の骨とも知れん男の子を孕み、命と引き換えに産み落とせば、貴様の生にも意味があったと褒められよう。だがそれだけだ。貴様が望む、名誉ある死ではない」
「うう…」

雲隠桐火は烈火の様な気性をしている。気が強い女しかいない雲隠では、余りにも平凡な性分だ。
生まれながらに抜群の身体能力を誇り、故に家出して以来三年間も捕まらずに逃げ延びてきた。全てはくノ一の宿命でもある『アハンウフンの術』を勉強したくない一心で、養母の立場にある雲隠火霧の目を盗み、家を飛び出したのである。火霧の実の子である焔が修練の最中に大怪我を負い、十口へ下る事が決まった時の騒ぎに乗じたそうだ。
物心つく前から修行が始まる雲隠では、勉学は二の次だった。徳川政権時代では隠密行動なども多かったが、明治に入ってからは神社を管理する祭主としての仕事が主になっていた事から、焔は勉強と修行を同時進行で行っていたが、その所為で怪我をしたのではないかと雲隠内でも論争になっている。

「名誉を手にする権利は、それに相応しい器を持つ者にしかない」
「!」
「質実剛健の雲隠が、まさか出来んとは抜かすまい?」

ああ、騙されているぞ。
そうは思いながらも帝王院の大屋敷の中央に座する神木の傍ら、龍の宮と呼ばれる茶室の主人は、炉の上で湯気を立てる茶釜から湯を救い取った。何かしていないと口を挟んでしまいそうだからだからだ。庇っているのに桐火からは睨まれ、鶻からは『プ、だっさ』と言った目を向けられるに違いない。何故判るのかと言えば、既に経験しているからだ。

「返事が聞こえんが?」
「っ、はい!師匠!俺…あ、あたくしは、やります!」
「思いのほか気色悪いな。貴様、暫くの内は俺の言葉遣いを真似するが良い。空っぽな頭に勢い良く注ぎ込んでも、決壊するのが関の山だ。まずは読み書きと作法から叩き込んでやる。光栄至極だろう?」
「光栄至極でございます、師匠!」

一体いつから鶻は桐火の師匠になったのか。二人が知り合ったのはほんの数日前の筈だが、何がどうなってしまったのだろう。残念ながら帝王院俊秀には全く判らない。判ったのは、どう見ても十歳かそこらにしか見えない桐火が、実は来年で15歳になると言う事だろう。

「良いか糞餓鬼。俺の屋敷に忍び込んだ賊がお前だとは、今のところ気づかれてはおらん。大宮に忍び込んだ無礼な盗人とは思われておるやも知れんが、あの日の警備は火霧の直属ではない。幸いにも、早々と引退した炎陽の娘だ」
「紫煙姐様?」
「あのくノ一には俺が改めて口止めしておいたが、…まぁ、わざわざ釘を刺さんでも雲隠祭主の耳には入らんだろうな」
「?」

帝王院寿明に嫁いだ冬月羽尺は当時17歳だったが、晩婚と陰口を叩かれていたと言うのだから、桐火の年齢はギリギリだろう。陽の宮の主である雲隠火霧の様に有無を言わさない強さを示せば全てが自由だが、短命の女が多い雲隠一族の存続の為には、より早い内に子孫を残す事が最優先だ。

「何にせよ、この座敷に匿われている間は陽の宮へ連れ戻される恐れはないと言う事だ。俺の一存では祭主を食い止める事は出来んが、龍宮の逆鱗に触れたがる馬鹿は居らんだろう。米俵も担げん非力な殿子にも、使い道はある」
「成程!勉強になります!」

とは言え既に四十路を超えている寿明には妻が三人居る上に、本妻の俊秀の他にも秀之と養女の千鶴も居るので、これ以上の子供は寧ろ害になりかねないと言うのが年寄り共の意見でもある。暗黙の了解ではあるが、過去の慣例として、天神の妻が育てる事を許される子供は一人と決められていた。男系の血筋が証明されている為に、無用な後継争いを避ける為だ。子供を多く産む事で、空蝉の中に格差が生まれる事を嫌っている。

「然しタダ飯喰らいを飼う訳にはいかん。その程度の事は、貴様の哀れな頭でも理解出来よう」
「御意!宮様のご慈悲に甘える訳には、ま、まひ、まり、参りませぬ、故!」
「…陽の宮は奈良の県境にあるが、貴様は方便が混ざり過ぎて聞くに耐えんな。いろは唄を間違えずに書き写すまで、足を崩すな」
「お…仰せのまま、に…っ」

その辺でやめろと口を挟んだ所で、見た目は少しも似ていない癖に変な所で息が合う『師弟』から、揃って睨まれるのだろう・と。既に悟っている帝王院俊秀17歳は、悟りの極地の様な心境で淹れたばかりの茶を啜り、短冊に筆を走らせた。

「あの、畏れながら兄上…っ」
「ん?ああ、もう書けたのか秀之」

身重の妻はどうしただとか、お前が寝る間も惜しんで英才教育を施してやっている娘は雲隠の跡取りだろうだとか、従兄の鶻には何を言っても無駄なのだ。
確かに、代わり映えしない退屈な生活へ突如割って入ってきた空からの来訪者が物珍しく、野良猫を手懐ける様な気持ちで招き入れたのは俊秀だった。それなのに、ほんの数日で野良猫ならぬ雲隠桐火は、鶻に懐いてしまった。
一体どんな魂胆があるのか、鶻は桐火の言葉遣いを正し、作法を身につけさせようとしている様だ。日が暮れると死んだ様に動かなくなる桐火が哀れで、昨夜は流石に鶻に問い質してみたが、恐ろしい笑みを浮かべて『お前は気にするな』と吐き捨てられてしまった。
俊秀ならば鶻とて、力ずくで自供させるのは難しくはないが、付き合いの長さ故に催眠の最中の記憶がしっかり残ってしまうので、後から何を言われるか判ったものではない。非力な俊秀は、口数でも腕力でも鶻には敵わない自覚があった。

「いえ。お恥ずかしい事に、私には短歌の才能がありませぬ。兄上のお顔に見惚れるばかりでございますれば、動悸息切れがこの様に…ハァハァ」
「顔?」

こちらもまた数日前から入り浸る様になった腹違いの弟は、表向き『社会勉強』と言う大義名分で冬月の屋敷に出掛けている事になっているらしい。俊秀が軟禁状態になった頃に生まれた秀之は、物心つく前から嫡男として育てられているので年齢の割りに聡明だと言う。鶻の評価も悪くない様ではあるが、俊秀の母親とは違い、出自が『宮』外である秀之の母親は十口と馬鹿にされる事もある様だった。
正しく言えば、秀之の母親は十口ではない。皇と呼ばれる者とは違い、市政の中で暮らしながら過去に何らかの恩を受けた者達が個人的に帝王院を支援してくれていて、その中の一つ、明治になって貴族階級を与えられた宰庄司と言う家の末の娘だ。

「何もない龍の宮では退屈だろう?年が離れている私では、お前と遊んでやる事も出来んな」
「そ、その様に寂しい事を仰らないで下さい!」
「お前は優しい子だな」
「えへへへ」

他にも、災害で廃社寸前だった社を帝王院が修復した事で縁が出来た星一族、江戸時代にお家取り潰しの憂き目に遭い山奥に隠れ住んでいた一族など、空蝉を名乗っていないだけで帝王院に忠誠を誓う人間は多い。然し平安時代から仕えていると言う定かではない自尊心に取り憑かれている皇は、帝王院が務めている大社を囲う位置にそれぞれの神社を構えている事もあって、江戸時代にはもう四つの家だけが空蝉を名乗れると公言していた様だ。己ら以外を認めず、宰庄司や星を格下に見ている。
俊秀が嫡男の位置から事実上離れている今も尚、冬月を筆頭に腹の中では秀之を認めていない空蝉がいるそうだ。俊秀はそれを知っているので秀之を龍の宮に留める事を由としないが、義弟は何を考えているのか、毎晩俊秀の布団で眠っている。

『皆には冬月宅でお世話になっていると言っていますので!』

と言われては、部屋に戻れと言うのは躊躇われた。鶻も納得しているのか、好きにさせてやれば良いと言った態度だ。
身重の妻を放って通いつめている鶻は夜になると帰っていくが、早朝にまたやってくるのでいつ寝ているのか心配でならない。冬月が守っている月の宮は、馬で駆けても数時間懸かる場所にあるのだ。

「時に兄上、主事は雲隠に何をさせたいのでしょうやら?」
「鶻の事だ。案じる事はないと思うが…」
「私は直ちに陽の宮へ帰すべきだと思います。いずれ奴は、兄上に悍ましい禍をもたらすでしょう…」

桐火の存在を快く思っていないらしい秀之は、何かにつけて桐火を邪険に扱っている節がある。ただでさえ俊秀一人の家に、異性が同居しているのだから無理はないだろう。年頃が近い所為か、俊秀に対する態度とは違って、秀之と桐火は急速に仲を深めている。悪い方に、だが。

「そ、そうか?」
「そうですとも!あんな暴力的な女が兄上のお側で息をしているかと思うと、私は、私は…っ」
「何かほざきよったかチビ」
「はぁ?!仮名も書けない分際で人を馬鹿にするな、足が痺れて立てもしない癖に!」
「仮名くらいすぐ書ける様になったるわ!おまんこそ、瓦一枚でも割ってからいきりよし!」

ほら、これだ。
始めの頃は俊秀を呼び捨てにしていた桐火だったが、鶻から色々と教えて貰う様になってからは何故か目も合わなくなっている。いや、始めの頃から目はそんなに合わなかったかも知れない。何にせよ、この茶室の主人は間違いなく俊秀の筈だが、他の三人のキャラが濃すぎて、家主の現在の存在感は空気の様だ。

「ふん、血気盛んな餓鬼共だ。馬鹿は頭より先に体が動く」
「…血の気の多さでお前に適う者は居ないだろう。何を考えている、鶻?」
「正しいものを正しい所へ据える為の、ほんの仕込み段階だ。お前が知る必要はない」

今日も今日とて、昼食のめざしの取り合いで既に一戦交えている秀之と桐火は、時々目が合うと同時にベーっと舌を出して威嚇し合っている。
始めは秀之を宮様と呼んで平伏していた桐火だったが、運動不足にならない様にと、鶻が秀之に空手訓練を言いつけた時から形勢逆転した。背丈が近いと言う理由で秀之の組手役に命じられた桐火が、秀之を軽々しく倒してしまったからだ。それなりに自信があったらしい秀之は自尊心を傷つけられ、『弱きは滅せよ』が家訓である桐火はその一件から秀之を見下した様だった。
以降、何かにつけて兄弟喧嘩の様な諍いを繰り広げる二人は、鶻の煙管で一発ずつ殴られては、畳の上を転げ回っている。

「お前の為す事を疑っている訳ではないが、理由なく桐火に無体を強いるのであれば、私は…」
「何だ、貴様は哀れな餓鬼を飼い殺しにするつもりか?」
「…何だと?」
「それはいつまでだ?嫡男でもなく宮司でもない今のお前は大殿の慈悲に生かされているが、いつまでも続く訳ではない。判っているだろう?」
「…」
「恐らく、秀之の宮が大宮を継ぐ前に空蝉は代替わりし、そこの桐火の様に貴様の存在を知らん世代に入れ替わるだろう。さすればお前の存在は、ただの荷物だ。千鶴の宮の様に女であれば外へ嫁ぐ可能性もあろうが、男には難しい。恐れ多くも大宮司の長男を婿入りさせたがる物好きが居れば、話は別だがな」
「…私は妻を迎えるつもりはない」
「お前がそのつもりでも、理は通らん。過去に長男以外が後継になった例がない事は、当然知っているだろう」

鶻の台詞で俊秀は口を閉ざした。
俊秀の祖父には腹違い弟が二人居たが、どちらも祖父が天神になってすぐに切腹している。勿論祖父が命じた事ではなかった様だが、自らの意思だったかどうかは今になっては調べようがない事だ。空蝉が手を掛けたとは思わないが、そうしなければならない様に仕向けた人間が居たかも知れない。寿明には妹しかいなかったが、もし彼に弟がいればどうなっていたのか。

「天神が文字通り帝である事は、我らの中では揺るぎようがない事実だ。然し王が絶対の権力を有する訳ではない事を、肝に命じておかねばならん。…お前の弟は、少々兄思いが過ぎる」
「…」

鶻の言葉に否定は出来なかった。俊秀が秀之を可愛く思っている様に、長年離れて暮らしていてもこうして健気に慕ってくれている秀之もまた、俊秀の為なら死を選ぼうとするかも知れない。その逆が有り得る事を俊秀は理解しているからだ。

「兄弟仲が良い事は僥倖だが、お前に継ぐ意思がなくとも秀之の宮の身に万一があれば、いつでも空蝉はお前の復帰を望むだろう。羽尺であれ、今度は我儘を貫き通す事は出来ん」
「恐ろしい事を言うな。私は忘れ去られた存在のままで良い」
「他人は時に暴力的にして冷酷な善を強いるぞ。己が家庭を持つ様な男ではない事を誰より理解している俺が、妻を迎えた様にな」
「…」

秀之の邪魔になるのであれば、いつでも死ぬ覚悟がある。それが秀之の心を傷つけるかも知れないと思うから、実行には至っていないだけだ。そんな俊秀の考えを、鶻は既に見抜いているらしい。

「男を産むまで、…いや、冬月の能力を引き継いだ子が生まれるまで、女房には苦労を強いる事になろう。だが、冬月に嫁いだ者の宿命だと納得して貰うより他ない」

そうだ。鶻には子供が二人生まれると、いつだったか俊秀はこの目で見た。
そう思い至った時、木々の隙間から差し込んだ陽光が、庭先の枯葉の上をキラキラと照らしている光景が目に入ったのだ。それはまるで、昼に食べた青魚の皮の様に艶かしく煌めいている。

「…鱗」
「何?」
「あの時、鱗が見えたんだ」

鶻に一発ずつ殴られ一時休戦する事にしたらしい秀之と桐火は、どちらからともなく短冊を手に取り、いろは唄を書き始めた。字は書ける秀之だが、上手と言える程ではないので母屋で暮らしている間も書の勉強は怠らない様にしているそうだ。俊秀も鶻も年齢の割りに見事な字を書くので、尊敬から努力する気持ちが増しているらしい。

「おい、馬鹿忍者。字が違う。それでは『お』ではなく『す』だ」
「ぐ」
「こうやってこう、そんでこう。どうだ、簡単だろうが。慌てず、下手でも丁寧に書くんだ」
「…御意、仕りましてございます、宮様」

桐火は野草の知識と戦術の知識は豊富だが、平仮名を読む事も苦労する程度の学力なので、まずは最低限の作法として字の勉強を命じられた。教師は勿論、冬月鶻である。俊秀から見ても鶻に教師の才能があるとは思えないが、秀之が間に挟まる事で何とか寺子屋の体を為している。

「此処では兄上が一番偉いと教えただろう。母屋では許されん事だが、龍の宮に限っては俺の事は秀之と呼ぶ事を許してやる。その代わり兄上を気安く呼び捨てにするな、俊秀様と呼べ」
「でも俊秀が呼び捨てで良いって…」
「仲良し自慢か!弟の俺でもまだ兄上と一緒に風呂に入った事はないと言うのに、薄汚い毛玉の分際で…いや、最近のお前は小綺麗になったが、それでもまだまだ兄上の側仕えとしては不足だらけだ!」

一体何の話をしているのか。臍を噛む勢いで髪を掻き乱している秀之は、俊秀が自分を見ていると知ると光の速さで背を正し、控えめに手を振ってきた。今更可愛い振りをしても全く意味はない筈だが、つられた俊秀は手を振り返してやる。
ただでさえ畳十枚分の狭い茶室と、竈と水桶が並んでいる土間しかない龍の宮の人口密度は、近頃常になく高い。庭先の障子を閉めれば小声の囁きも聞こえそうな場所で、あんなに大きな声で怒鳴っていれば聞こえない訳がないのだ。

「そこっ!『る』が『ろ』になっているぞ雲隠!」
「げっ」
「いろはも満足に書けん癖に、体術では月の宮から一本を取るとは…侮り難し雲隠め」
「雲隠が榛原様以外に負ける事はあらへ…ありませぬ故」
「お前は訛りが抜けないな。訛っていては、神無月の招集で出雲の神使に笑われるぞ」

秀之の言う通り、毎年十月に出雲大社に出向かなければならない為、大人達は極力共通した言葉を話す様に心掛けている。格式張った催しだけに肩が凝る行事だが、何百年も続いてきた慣例だ。とは言え、参加するのは高位の役職の人間だけで、雲隠は基本的に隠密行動で警護に当たっている。

「あて…俺は出雲なんや行かへんさかい…あ」
「お前が兄上の元に匿われている事は、いずれ明るみになる。その時そんな様では、お前を匿った兄上が嘲笑される事になるんだぞ」
「う」
「ただでさえ兄上は難しいお立場なのだ。兄上の恥にならない様に俺も励んでいるのだから、お前は俺以上に励む義務がある」
「ぎ…義務…!義務とは任務の事か?!」
「そうだ」
「ほ…ほぉおおお…!」

然し数年前に出雲の神職を誘拐し結婚した上で子供を作ったくノ一が、現在の祭主の地位を確立してしまった事から端を発し、全国の神社に悪名が広まっている陽の宮の別名は『飢蛇』だ。蛇神を祀っている冬月にとっては頭が痛い話だが、水龍を祀っている雲隠が祭主として堂々と出雲入りする事を、あちら側は拒絶する事が出来ない。誘拐された筈の神官が『合意の上です!』と宣ったからだ。無理もない話だった。見目麗しい雲隠の女に求められて嫌がる男は、余りにも少ない。
風呂に入れて毎日赤毛を手入れしてやれば、桐火は別人の様に美しくなった。今はまだ痩せ過ぎているので貧相に見えるが、ちゃんと栄養を与えてやれば、遠くない将来、誰もの目を引く器になるだろう。俊秀以外には興味がない秀之と、そもそも女に興味がない鶻は気づいていない様だが、俊秀は気づいている。

「おい、磨った墨がなくなったら稽古をつけてくれ」
「はぁ?!何で俺が弱い奴とっ」
「懇切丁寧に字を教えてやっている俺に恩義を感じても、罰は当たらないだろうが」
「う」
「マメだらけのお前の手では算盤を弾くのも苦労するだろうが、俺の算盤術は上方商人にも負けないと自負している。字も書けないお前が算盤を一人で覚えられるのか?」
「ぐぅ。うう…ぐるるるるる…」
「唸るな野良犬め、俺は犬より猫の方が好きだ。因みに猫の鳴き真似も得意だ。にゃおん」
「!」
「ほら、また違うぞ野良犬。それでは『さ』ではなく『ち』だ」
「…ぐるる、かたじけない」

桐火の書き間違いを秀之が正してやり、ぶすりと礼を言った桐火に不機嫌な表情の秀之は『礼なら後で組手に付き合え』と上から目線だ。仲が良いのか悪いのか、良く判らない。それでも初日よりは明らかに距離が近くなっている気がする。

「騒がしい餓鬼共だ。おい、湯が沸いたぞ」
「お前の子供には鱗がある」
「…また訳が判らん事を宣いおって」
「お前は東と相性が悪い。西から動かぬよう、気をつけろ」
「何年同じ台詞を聞かされていると思っている。俺の頭に無駄な記憶を増やそうとするな」
「そうだな、覚えていてくれればそれで良い」

反して、桐火は俊秀と目が合うとぷいっとそっぽ向く様になった。朝起きて髪を梳いてやる時と、鶻が持ってきた茶菓子を食べる為に茶を淹れてやる時は近づいて来るが、茶の心得は秀之にも備わっていて、何かにつけて俊秀を手伝おうとしてくれる所為で、この場で最も地位が下の桐火のお茶は、近頃秀之が淹れている。兄としては喜ばしいのか疎外感で落ち込むべきなのか、難しい所だ。

「折角沸いたが、集中を切らすのは忍びない。餓鬼共には、稽古の後に喰わせてやろう」
「休憩させてやれば良いだろう。意地悪を言ってやるな」
「だが見てみろ、餓鬼は餓鬼同士で良い塩梅ではないか」
「…そうか?」
「ああ。蚊帳の外に追いやられたお前が羨ましげに眺める程には」
「そんな事は…」
「外面ばかり鍛えられ、息つく暇もない秀之の宮にとっては、この場は唯一の息抜きの場だろう。煩い奥方も、決して助けてはくれん母親も居ない」
「…」
「子を奪われても耐え忍ばねばならんとは、年功序列とは皮肉なものだ。大殿が冬月の娘を一人目に選んだ結果、正妻の座に胡座をかいた女狐の暴虐を誰も止められない」
「父上は母上を愛しておられる」
「曇った目で贔屓されては堪らんな。大殿の人間性は一目置く所だが、女を見る目は如何許りか」

太陽が昇る方角が、こっちにおいでと俊秀を呼んでいた。生まれたその瞬間からずっと、どんなに耳を塞いでも。俊秀はそれを誰にも言わずに隠している。ずっとずっと、何年もだ。

「…欲張れば、美しいものもくすんでいく。色に色を重ねる時は、気をつけるべきだ」
「ああ」
「母上の強欲は既に黒と見間違うまでに濁った。最早、私にも父上にもあの穢れを払う事は難しい」

母の周りに漆黒の蝶が見えると言って、実の母から拒絶された日から、今の今まで。
けれど冬月羽尺は、夫と語り合っている時だけ、淡い山吹色の光の蝶に包まれていた。どうにも出来ないしがらみがなければ彼女は、きっと愛情の深い女性だった筈だ。嫡男問題、空蝉同士の睨み合い、一族の期待。そんな目には見えないものが徐々に彼女を蝕み、どうにも出来ない所まで追い詰めてしまった。
帝王院寿明はそれを理解している。愛した妻を娶っても、側室を迎えなければならない己の立場に苦悩していた。表向きは理解のある妻を演じているだけで、羽尺の胸の内に強い嫉妬がある事を知っていたからだ。

「所で鶻」
「ああ」
「…私に隠し事をしても無駄だと、お前は知っている筈だが?」
「無論だ。それがどうした」

俊秀を愛した分だけ、息子に人外の力がある事に怯えた羽尺は己の子供を拒絶してしまった。天神の嫡男が普通ではない事など初めから知っていた筈なのに、寿明の力が歴代でも弱い方だったからだろうか。それとも、夫婦二人きりの時は普通の夫婦の様だったから、錯覚したのだろうか。
一族の大半は俊秀の力喜んだ筈だ。然し俊秀の力を認めてしまうと、寿明の力不足を証明してしまう事になる。礼儀を重んじる日本人は目を伏せた。年功序列を美徳と謳う大人達は、時が満ちるまで俊秀を遠ざける事にしたのだ。理解出来ないものを、初めは喜んでいた彼らもまた、恐れたのだろう。

「…桐火は道具ではない。余り無体を強いるな」
「俺が何をしようが、嫡男の席を持たないお前には関係がない事だ。俺を従わせたくば力を得ろ」
「私にそのつもりはない。秀之は立派に父上の名跡を継ぐだろう」
「本気で言っているのか?」

定められた宿命から逃れられないのであれば、誰が何をしても結果は変わらないのだろうか。
様々な欲に汚れて黒へと変色した羽尺の様に、何色もの光の祝福がある寿明もまた、いつか霞んでしまうのだろうか。それが黒ではないとしても、目映すぎる光は瞳から色を消してしまうのだから。

「ああ」
「…ふん。俺にはお前と同じものは見えんが、納得はしておらんぞ。帝王院が司る緋天大宮は、長男が宮司として継ぐ」

おいでおいでと、精霊達は囁き続けた。
遥か遠くの東の空から、黎明が昇る度に絶えず『宿命だ』と、『避けられない業』だと、俊秀を呼び続けた。

「平安から今に至るまで、一度として例外はない」

陽光よりも鮮やかに燃える紅蓮が、空から舞い降りてくるまでは。

←いやん(*)(#)ばかん→
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