帝王院高等学校
決死のリングチャレンジデスマッチ!
「君は笑顔が下手だね」

一目見た時から思っていた。顔が良い。初めて聞いた声も悪くはなかった。

「どうして楽しくないのに笑うんだ?」

遠くから見てもキラキラしている事は判っていたが、目の前ではいっそ公害だ。眩しいったらありゃしない。

「どうしたら、僕は君の本物の笑顔を見る事が出来るんだろう?」

何がムカつくと言えば、勉強したつもりになっていた英語の翻訳が出来ない事に尽きる。目の前の男が話すそれがクイーンズと呼ばれるスタンダードな英語だと知ったのは、随分後だった。日本で学べる英語が英語と言うより米語だった事も、知ったのは帰国後だ。
あの時、大人に囲まれて堂々とした態度で対応していたキラキラ男が17・18歳の少年だと知ったのも、また然り。どう見ても20代後半にしか見えなかったので、同世代とは思いもしなかった。

「所で、君が着ているのは着物だろう?描かれている花はChinese bellflowerで合ってるかい?」
「…Chinese?(中国?)」

着物を知っている癖に、辛うじて異国の単語が聞き取れた。あの時正常に翻訳出来ていれば話は変わっていたのかもしれないが、独学の米語でネイティブに挑めると思っていた当時の自分の感情を一言で現すとすれば、王子様の退屈凌ぎに使われるのは真っ平だ、である。
女に苦労した事がないだろう男の鼻っ柱を、どうにか明かせないものだろうかと。愛想笑いを貼りつけた腹の底でぐるぐると考え続け、ヘラヘラと笑っている煌びやかな男の早すぎて何を言っているか全く判らない(とは決して認めたくない)台詞を、暫く流した。

「今、何か言っただろう?」
「…」
「ああ、それ。嫌いだなぁ、その笑顔。折角美しい顔をしているのに、勿体ない」

『どたまかち割られたいんか。何言うてるか判らんねん』とは、口が裂けても言わない。忍耐は日本人の美学だ。それにしても日本人と中国人の見分けがつかないなんて、無礼にも程がある。
いや然し、逆に日本人の誰もがアメリカ人とイギリス人を見分けられる訳ではない筈だ。京都と神戸ではどうだろう。何だ、同じ民族でも見分けがつかないではないか。この程度で怒っていては、底が知れる。今の無礼な態度は忘れてやるべきだろう。

「宮様のお式は盛大でしたなぁ」
「全くですなぁ。高森伯爵家では不幸が立て続けていましたが、栄さんも絢子さんも喜んでおられた。隆乃さんも長年ご苦労なされたが、これで肩の荷が降りた思いでしょう」

どんなに腹が立っていても、今年はめでたい年だ。
父の代わりに家名を背負っているからには、失態は許されない。

「そう言えば、随分前に嫁がれた絢子さんに子供は?」
「…まだ籍は入っていない筈ですよ。相手の家が家なだけに、結婚には反対意見が多かったでしょう。あの家は神坂…いや、高坂よりも質が悪い」
「いやはや、それにしても叶よりは可愛げがあるでしょう?」

ああ、喧しい。狸共め、うどんの出汁にしてやろうか。

「僕と踊ってくれないか?」

こっちはこっちでいつまで喋っているつもりかと思えば、いつまで待っても返事がない事に、相手も相手で焦れていたらしい。然し今の一文だけは明確に聞き取れた。まるで映画のタイトルではないか。シャルウィーダンス、キザったらしい言い方だと感じたのは偏見か、否か。

「Dance?」
「Sure, with me.(一緒に)」
「…ほな、あてと結婚してくれはります?」

聞き慣れない日本語に目を丸めた男を鼻で笑い、踵を返した。
通じるとは思っていなかったから想像通りの反応だったが、その若さで叙爵した貴族だと聞いていたから、無意識でプラス方向に差別化してしまっていたらしい。一言で言えば、とんだ見込み違いだ。

「待ってくれ、どうしたんだ?」
「…」
「ダンスは嫌い?」
「Leave me alone.(近寄らないで)」

印象を訂正しよう。頭が小さくて背が高くてキラキラしている、ムカつく男。
一目見た時になんて綺麗な男だろう、などと思ってしまった数分前の自分を、強く恥じている。ついてくるなと言ったからか、ついてくる気配はすぐに止まった。

「ああ、君は怒っている時も笑うんだな。僕の皮膚がヒリヒリするよ」
「…」
「判った。次に会った時は踊って貰うから!」

二度と会う事も話す事もないだろう金髪の王子様の視線を感じながら、頑なに振り向かなかったのは、その価値がない男だと判断したからだ。いや、ゆっくり喋って貰わないと何を言っているのか判らなかっただけだが、絶対に認めない。
叶桔梗の着物に描かれている艶やかな紫色の桔梗は、桔梗以外の何物でもないのだ。チャイニーズなんちゃらでは決してない。
京女に東男と歌う人間を知っているが、柄杓をししゃくと言う様な江戸っ子に嫁いで堪るものか。ああ、どんどん何に怒っていたのか判らなくなってきた気もするが、一度背を向けたので振り返りたくない。負けず嫌いなのだ。そうとも、負けたくない。

名目は別のパーティーだが、此処は帝王院駿河の晴れ晴れしい結婚式を祝う場であって、当の主役達は束の間のハネムーン中だ。ただでさえ多忙な駿河だから、仕事の合間を縫う様に時間を作らなければ、新妻とゆっくり語らい合う時間も許されない。
桔梗は初めて言葉を交わした瞬間から駿河を尊敬していた。あんなに優しい紳士は人生で初めて会ったと思う。口先ではなく本心で桔梗の父の事を案じていて、父の代わりに祝福を述べる為に海を渡らなければいけないパーティーに出席した桔梗に深々と頭を下げてくれた。そして、病弱な桔梗に支援を惜しまないとも言ってくれた。
彼の妻の隆子にしたって、それはそれは素晴らしい人間だった。自らも桔梗と同じく病弱な身だったが、流石は雲隠の血を引いている。駿河の遠縁に当たり、薄いながらも帝王院の血を引くお姫様だからだろうか。

二人はまるでお雛様とお内裏様の様に見えたものだ。あの二人は別格なのだ。一般人と並べられる方々ではない。二人を誰かと比べるなんて、どれほど無礼な行いだろう。叶を馬鹿にしている狸ジジイ共でも、あの二人に無礼な真似はしない筈だ。


「日本人に英語を強要する男にヘラヘラ笑う阿呆が、何処に居るか」

物語の王子様は物語の中だけに。
いや、そんな夢物語を腹を抱えながら読み更けては熱心に語り聞かせてくる姉に呆れながらも、物語の王子様の振りをしてくれる心優しい弟がいる。

「胸糞悪い。…京都が一番どす」

まさか半年後に再会するとは、思いもしなかったからだ。
























「秀皇が朝帰りの味を占めたのは、中等部からです」

昔々ある所に〜と、仰々しい語り口で話し始めた男は、かなりの演技口調で拳を握っている。

「それまで学園から抜け出す事はなかったと思いますが、中央委員会長になって学園長の仕事を手伝う様になってからです。自治会役員は業務に差し障りがない様に、授業免除の建前で公欠扱いになるんですよねー」
「ほォ」
「一応、成績を落とさない事が義務になるので、基本的に私用で行使する役員は居ません。あくまで、基本的には」
「サボっても成績落とさない自信がある奴以外ってか」
「俊江さんが此処の生徒だったら、多分使う側ですよね」
「やだん、バレてーら」

進学校の首席入学首席卒業の癖に、卒業式で答辞を読まなかった所に遠野俊江の人となりが現れているだろう。女生徒&一部の男子生徒から圧倒的支持を得ていた俊江は、然し度々授業をサボっては街へ繰り出し、族潰しゴッコを楽しんでいた過去がある。
中学時代には日課になっていた俊江の悪癖だったが、警察沙汰には一度もなっていないので、両親にはバレていない。バレていれば母親はともかく、父親の方は激怒しただろう。
俊江が中学時代に一番痛めつけたのは、高校生だった高坂向日葵である。大抵向日葵の傍には脇坂亨の姿があったので、彼もまた、一緒くたに痛めつけられた。向日葵が大学へ進学してからは、俊江の好敵手(と言う名のサンドバッグ)は専らワッキーだったと言えるだろう。

「でも初等部の頃から、校内ではそりゃー弾けてましたよ。何せ学園長の一人息子でしょ?入学した頃から皇子って呼ばれてたので、そりゃもーう、モテたんですよねー。お相手は、初等部の頃は先輩が多かったと思います」
「ほォ、当時から年上キラーの片鱗が?つーか校内って、どう言うこった?」
「当然、男とって事ですねー」

美しい土下座姿勢のまま微動だにしない親友の背中に腰を下ろした男は、心から溢れ出た無垢な笑みで美貌を輝かせている。陰険さを全く感じさせないからこそ真の意味でドSと言えるのだろうと、見ていた誰もが同じ事を感じたに違いない。

「ホモか」
「どっちかと言うと、両刀?」
「つまりホモ」
「あ、はい」
「アンタ俊江ちゃんに気圧され過ぎなんだわ。気持ちは判るけど」

カルマ総長の生みの親、遠野俊江(自称遠野トシ)に光の速さで忠誠を違う事にした山田夫婦は、土下座している男を横目に仁王立ちしているチビを眺めた。山田大空は近年稀に見る笑みを絶やさず、山田陽子は何処かときめきを帯びた眼差しだ。

「私、俊江ちゃんになら抱かれてもいいかも知んない」
「お前さんは何処までアバズレなんだい?!めっ」
「気持ちは判るぞヨーコ」
「でしょ?ほら、アリーもこう言ってるんだわ」
「陽子!お前さんはそんなふしだらな女だったのかい?!」
「は?もしかしてアンタ、私が処女だったとでも思ってんの?処女がたった一年か二年で5・6回やり取りしただけの顔も知らない文通相手に、初対面でホテルについてくってか?」

ワラショク代表取締役社長は雷に打たれた表情で目を見開き、パクパクと唇を震わせた。

「手紙に書いてたでしょ?彼氏とあーだこーだで悩んでるとか、ぶっちゃけ彼氏っつーかパトロンみたいなもんだったけど」
「お前さんの手紙には、毎回毎回、友達がって前置きがあったじゃないか!」
「うわ、そんなベタな誤魔化しに引っ掛かる?」
「いや、考えられないな。ママ友の会のグループLINE内で、予め『友達の話だけど』と付け足されたトークは、往々にして自分の話だ」
「女性の暗黙の了解を男の僕に求めないでくれるかな?!」

堂々と自身の過去を暴露した陽子の言葉に、高坂アリアドネは気の毒げな表情で首を振る。最早先程までの微笑を消し去った大空は、半泣きで頭を掻き毟った。さらら〜っと毛が抜けた。

「でも最初は疑ってたんじゃないの?中々返事来ないし、馬鹿JKの底辺恋愛話に呆れたんだなって、当時は思ってたんだわ」
「最初はそうだったけど…!何回もやり取りしてる内に、ちょいと可愛いなって思う様な誤字とかあったま悪いなーって思う文章とか見ちゃうと、情が湧くじゃんか!」
「アンタ馬鹿にしてんの?」
「大体、僕が『キスしていい?』って聞いた時、恥ずかしげに目を伏せてコクンって頷いたのは何だったんだい?!」
「や、単に今まで関わった事もない様なイケメンだったから、興奮して逸る気持ちを抑えてただけなんだわ。一発目からグイグイ行くのもアレでしょ?」
「な」
「付き合うかどうかだって、上手いか下手か判んないまんまじゃ判断出来ないし。つーか帝王院学園のボンボンとやれるんだったら、それっぽい演技くらいするに決まってんだわ。下手だったら、途中で蹴り飛ばして逃げれば良い訳で」

嵯峨崎零人は『怖ぇ』と呟き、梅森嵐はヘラっと笑ったまま無言で頷く。アバズレの気持ちなど判る筈もない極道は『似た者夫婦』と頬を掻いたが、ぱちぱち忙しなく瞬いている鬼の化身に気づいた。

「トシ、んだその面は」
「あたし、今までアンタより酷い遊び人は居ないと思ってたざます。井の中の蛙だったのねィ、オマワリなんかまだまだヒヨコだった」
「誰がヒヨコだ!」
「然し一言物申す!」

しゅばっと腕を振り上げた俊江は、ビシッと『モテる人生を歩んできた』一同を指差した。モテると言う意味では俊江もそれに含まれる。然し彼女に限っては誠に残念な話だが、息子と全く同じ境遇なのだ。息子の童貞が今に至るまで頑なに守られ続けている様に、逆もまた然り。

「俊江ちゃんはシューちゃんとしか経験ございませんけども!それを恥じるつもりはないのょ!だって、好きな人は人生に一人居れば十分だもの!」

堂々と言い放った俊江の台詞で、全員が動きを止める。

「経験の多さなんて自慢にならんっての。運命の相手を見極められなかった自分の浅はかさを、恥ずかしげもなく晒してるだけざます」

それらしい事をほざいているが、負け犬の遠吠え感が否めない。実際、吹き出しそうになった零人だけは素早く口元を押えたが、零人以外は何処か陶酔じみた表情が滲んでいる気がした。それを証明するかの様に、土下座していた遠野秀隆は弾かれた様に顔を上げると、ふるふる震えながら妻を見上げたのだ。

「その通りだシエ。俺は、」
「秀皇は見極められなかったんだねィ?俺は見極めたのに、テメェはあっちこっちでフェイクラブ…」

拝啓、遠野俊様。
貴方の母上様に至りましては、天晴れと言わざる得ない眼光で貴方の父上を睨んでおられます。父は同じ男として、貴方の下半身の自制心を固く信じておりますので、つきましては父の背中を超える様な真似だけは何卒謹んで頂きますよう、此処に遺言として認めます。

「はっはーん?」
「反省してます」
「ほっほーん?」
「反省してます」

追伸。
タイムマシンがあったなら、父は昔の己に童貞の気高さを半年くらい語り聞かせ、童貞の童貞による童貞だけの社会を作る志を共にした事でしょう。

「攻めたのか?それともやっぱり受けだったのか、え?」
「シエ…やっぱりとは?」

追伸の追伸。その場合、父は貴方の母上様を口説き落とせただろうか、自信がありません。童貞じゃなかったからこそ貴方が生まれたのではないか、などと今この場で口にしてしまった場合、生存確率はどのくらいでしょうか?
此処だけの話、父は学生時代、教科の中で算数が最も苦手だったので、お暇な時にでも計算して頂けると幸いでございます。因みに数学は得意でした。

かしこ。
…間違えた、恐惶謹言。

「別に怒っちゃいないのょ、遠野秀隆きゅん。お姉さんが優しく聞いてる内にゲロっちゃいな。あれか、ネクタイで手首縛られてガツンガツンやられたのかィ?」
「シエ?俊江さん?一体何の話を…」
「汗臭い男共とアレがコレしてアーッ…だろィ?カマトト振ってんじゃねェよアバズレが、ネタは上がってんだよ!」
「トシ、テメェにはヤクザの素質がある」

高坂向日葵は本気で呟いた。40年前から知っていたが、あの帝王院秀皇を此処まで追い詰める手腕は、わりと本気で組に欲しい。

「もし俺が清らかな高校生だったら、俊が生まれていたかどうか…」

ボキッと言う、嵯峨崎佑壱の拳ばりの悍ましい音が響いた。ポルターガイストかと皆が周囲を見回しているが、オタクの父親だけは光の速さで土下座する。背中がふるふる震えているが、泣いているのだろうか。

「こんな時にどうかと思うんですが、一つ聞いても構いませんか山田先輩」
「何だい、零人君」
「先輩は、皇子と一緒に居た頃のルークを知ってるんですよね」
「一緒に過ごしたって言っても、ほんの一年ちょっとだけどねー」
「のび…俊と奴は似てますか?」

零人が無表情を極めているのは、彼の心境的に悟りの境地に至っていたからだろうか。大空と秀皇の在学時代を知らない零人にとっての二人と言えば、東雲村崎から聞いた話だけだ。それもそれほど多くはない。

「面白い事を聞くね、君。僕より近くで二人の事を見ている君の方が詳しいと思うんだけど?」
「知ってるかも知れませんが、俺の弟は俊の方に懐いてるんです。…同じ人間を父親と呼べる立場の二人がもし似てるんだったとしたら、佑壱の選択が何を意味するのか…って、ま、単純に興味があるっつーか。ブラコンなんですよ、俺」
「僕は一人っ子だから判らないけど、夕陽が太陽の事を知りたがる様なもんか」

帝王院秀皇の失踪以降、卒業まで会長代理と言う立場で後を継ぐ形になった2学年下の叶文仁が、直接指名で次の中央委員会会長に選んだのが村崎だった。今年33歳の文仁と27歳の村崎は、実に5学年離れている。文仁が高等部卒業を控えていた時、村崎は中等部へ進学したばかりだった。

「本音は、どっちにつくか悩んでる…って所じゃない?」
「まさか。深読みし過ぎですって」
「君がクリスさんの本当の子供だって判れば、アメリカでも一悶着ありそうだもんねー。世界的に権力を持ってる神威についた方が、誰の目で見ても明らかに正解だよ」
「だから、変に勘繰らないで下さいって…」
「あはは、冗談だよ。どっちを敵に回したって面倒な事に違いはないから」
「面倒、っスか」
「正直、僕もはっきり判ってる訳じゃないけどねー。うーん。とにかく、俊君の親友振ってるうちの子は思いの外『やばい』」
「やばいって、山田…太陽君が?」
「少なくとも祖父の代だったら、僕と夕陽は今頃、叶家に居候の身だよ。もう白旗振り回すしかない。何せ『掛けられた自覚がない』んだもん。普通に考えたら可笑しいよね、生まれつきあるものがなくなるなんて、有り得ない」
「はぁ?」

その若さでの会長就任となれば、歴代最年少とされている帝王院秀皇と同等だ。然し村崎はすぐには応じず、文仁の代で副会長を務めていた生徒が半期ほど会長職を代行し、2年生に進んだ春、漸く紫水の君と呼ばれていた帝君は中央委員会会長として壇上に立ったのだ。

「悪いけど、僕は神威が小さかった頃の事しか知らないし、俊君の事については何にも知らないよ。会った事だってほんの数回さ」
「やっぱ、そうですか」
「僕は似てないと思うけどね」
「は?」
「神威にはなくて俊君にはあるもの。判らない?」

謎掛けの様な事を言いながら俊江を見やった大空に、零人は頷いた。帝王院秀皇と言う人間の影響力がどれほどのものかは未だに理解している訳ではないが、遠野俊江の事に関しては付き合いの短い零人にも良く判る。

「蚊に刺されても気づくのは痒くなってからだろ?」
「まぁ」
「痒くなかったら刺されていた事にも気づかないって事だ」
「つまり、そう言う事っスか」
「そう言う事だね。詐欺師が詐欺に遭った事に気づかない、太陽は稀代の大詐欺師だ。父としては複雑な気分だよ」
「はぁ」
「神威にはない空蝉の当代が俊君の側に揃いつつあるって事。帝王院を名乗っていようが遠野を名乗っていようが、天神の証は4つの社あってこそ。ステルシリーには12の部署があるって言ってただろ?灰原が太陽、冬月が神崎隼人君で雲隠が君の弟君って事は、明神が揃えば俊君は天神に相応しい器って事だ」
「帝王院の元には叶が居ますけど?」
「はっ。叶だって?はっ」
「二回も鼻で笑うとか」
「言いたかないけど、空蝉の当主は全員自意識過剰だと思う。過剰な自信は忠誠心の証でもあるんだよ」

秀皇しか知らない神威と、秀皇と俊江に育てられた俊が、双子の様に似ているなんて事は『有り得ない』と考えるべきだ。帝王院学園で青春時代を過ごす生徒は、殆どが似通った思考が形成される。秀皇も大空も零人も高坂向日葵ですら、根底の価値観は大差ないと言う事だ。

「榛原は僕の母の家だけど…まぁ山田も母方なんだけどね。力がない母も榛原としてのプライドはあるんだから、歴代最強の当主だったらどうだい?」
「想像したくねぇっス」
「奇遇だね、僕もだよ」

けれど帝王院学園を知らない俊江や陽子は、価値観が全く違う。更に言えば学生時代は勉強漬けだっただろう俊江と陽子でも、その価値観は一致しない筈だ。

「所で俊江ちゃん、その指輪どうなったの?」
「そうだシェリー、私も気になっていたんだが、それは零人君の指輪だろう?」

見ているだけでも痛ましい遠野夫婦の痴話喧嘩は、誰の目に見ても明らかに俊江が圧勝だった。
普通なら『悲劇のヒロイン』だの『苦労した妻』だのと言う評価を受けるだろう陽子が、全く可哀想に見えない最たる理由は『金の為に離婚しない』と言い切っているからかも知れない。それと同じ様に、現状俊江に同情している人間は皆無だった。結婚前の恋愛事情を掘り返された挙句責められている秀隆の方が、どちらかと言えば被害者だろう。然し誰も口にはしない。

「マスターリングって言うのょ。会長の役員章みたいなもんなんだって」
「指輪が鍵になるとか何とか、皆で話してたのは聞こえたんだわ。大空が非力過ぎて階段で苦労してたから乗り遅れちゃったけど、あの時アリーは傍に居なかったの?」
「私はひまと、他の出口や分電盤がないか探していたからな。あちらこちらの照明が点灯しているから気づかなかったが、校舎全体の電力が機能していない様だ。メイン電力を調整する分電盤は恐らく、1階か地下にあるのではないかと思う」

俊江に心酔しているアリアドネも感化されつつある陽子も、カルマのチャラ男も君子危うきに近寄らずの零人も、どうせ言うだけ無駄だと痛いほど知っている向日葵も、土下座したまま動かないサラリーマンには構おうとしなかった。対岸の火事、近寄らねば平素と変わらず安全地帯と言う事だ。

「分電盤はグランドゲートの管制塔が停止させてると思うっスよ〜。地下が水没したんで、漏電したらやばいでしょ?」
「学園長も、エレベーターが使えなかった所は階段を登って行ったんだったな」
「つーか、オレが皆さんを背負って降りますよ〜。カルマだし、若いんで〜」
「梅森君もかなりいい体してるんだわ。ハヤトは細いけど骨格がしっかりしてて、カナメ様はいい匂いがして、佑壱様には搾り取られたい…!」
「ユウさんと比べられるのだけは、何卒ご勘弁〜」

けれどいつまでも秀隆を睨み続けていては、この場の誰よりも行動力に優れていると思われる人材の無駄遣いになりかねない。右席委員会会長として頭を切り替えて貰う為にも、陽子とアリアドネは話を的確にすり替えた。空気を読んだカルマもこれに乗っかり、土下座している被害者を憂う者はない。
いや、案外人畜無害な光華会会長だけは密やかに手を合わせた。司法試験をクリアした過去を持つ向日葵は、裁判になれば俊江が負ける事が判っていたが、何せ喧嘩と口煩さで俊江に勝つ自信がない。口は弁護士と言う詐欺師の常套句があるが、医者になれなかったら詐欺師になっていたのではないだろうか。誰がって、目の前の小さい鬼の事である。

「そ。ゼロきゅんでも無理でシューちゃんの指輪も反応なしってんだから、手詰まりなのょ。一通り呪文は試したんだけどねィ」
「ね、私にもやらせて」
「イイわょ。あと試してないのは左席コードだけざます」
「左席はクロノスだったな。ガーデンだと一斉開放になってしまうから、ラインかスクエアか?」
「でもアリィ、ライン権限はプライベートかセントラルの方が相性イイんじゃないざます?少数精鋭のクロノスはスクエアでサーバー開いても負荷は少なそうだしィ」
「よーし、クロノススクエア・オープン!」

旦那に抱かれたまま、たわわな胸をぶるんと弾ませた陽子は叫んだ。
当然ながら何の反応もなく、苛立たしげに旦那の頬を抓っている。山田大空は完全に八つ当たりの被害者だが、嫁のなすがままに耐え抜いた。健気なのか、過去の不貞による罪悪感なのか。

「大空、どうなってんのよ!」
「そりゃ声紋登録しないと反応しないよー。陽子ちゃんはうちの生徒じゃないんだし」
「何とかしろ。映画じゃハッキングとかで何とかなるんだわ」
「無茶言ってくれるねー。出来ない事もないけど、左席のサーバーが落ちてるんだったら先に再起動させないと何も出来やしない。完全にシャットダウンする事は基本ないと思うから、クロノススクエア・インスパイアで復帰させるか、」
『こちらクロノススクエアですが、クロノ=スはただいま死んでます』

廊下中にアニメ声が響く。

「もしかして僕の声に反応した?」
「何でアンタだけ…っ」

どうも大空の声に反応した様だが、大空は己の指輪を持っていない。きょとんと首を傾げた大空の頬を抓った陽子は、ぷくっと頬を膨らませた。

「そう言えば昔、権限讓渡しておいたんだった」
「どう言う事だい秀皇?」
「お前の左席権限を俺の指輪に付与しておいたんだ。左席に委ねられた権限は理事権限同等だからな、利用しない手はない」
「そう言う事は先に言ってくれないと、うちの陽子が拗ねるんだよ」
「誰が拗ねるってんのよ?!」
『サーバー管理者にお問い合わせになられるか、801文字の復活の呪文を元気よくお唱え下さい』

文字数が多くないかとワラショク社長は総務課長を見つめたが、すっと目を逸らされた。どうもパスワードについては彼も心当たりがないらしい。つまりこの小細工をしたのは、現左席委員会と言う事だ。大空の推測ではセキュリティを組み替えた犯人は遠野俊ではないかと睨んでいるが、外れである。左席委員会のメカニックを手掛けている性悪と言えば、ヤンデレかツンデレか最近は曖昧な、某垂れ目の事だ。

『尚、声量が時の君を下回った場合は初めからやり直して頂く必要があります』
「なんじャい?サーバー管理者ってどなた様ざます?」
『管理者はお星様です』
「死んだのかァアアア!!!」

機械音声に果敢にもツッコミを入れたのは、オタクの母親だった。ツッコミマスターの母体は旦那の毛を引っ張っているので、アニメボイスには無関心だ。

『死んだのはクロノ=スですが、クロノ=スはお星様のお陰で少しだけ残ったのです。どんなに暗い夜であろうと、星の瞬きは確かに存在します。肉眼では見えないだけで、宇宙に流れる銀色の河は、決して一つではないのです』
「いやん、中々哲学的な事を言うざます。屁理屈っぽさが、俊とか和歌に似てる気がするけども」
『クロノ=スのお星様を童貞と同じ括りで語らないで頂きたい。慎ましい童貞処女には判らない大人の事情が、世界には幾つもあるのです』
「は?」
『旦那しか知らないオバサンにはあ、ご理解頂けないでしょうねえ』

何だ、このこき舐めた機械音声は。

←いやん(*)(#)ばかん→
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