帝王院高等学校
70過ぎても矩を超えまくります!
「いつまで拗ねている?」

騒がしい。目の前の光景を何処か他人事の様に眺めていると、少し離れている隣から声が掛かった。頭では既に理解しているものの、気を抜けば『お前は誰だ』と叫び出しそうになってしまう。それほどに記憶の中の弟とは、別人だった。

「貴様ではあるまいに」
「幾つになっても口が減らん男だわ」

話していると疑うべくもないが、下手に記憶が鮮明に残っているだけ違和感が強いのだろう。何一つ覚えていなかった筈の脳裏に、徐々に様々な事を思い出していく過程が肢体の自由を奪っている気がする。無抵抗に逃げる暇もなく、大津波に呑まれたかの様だ。

「脳だけでなく面にも皺一つないとは、哀れみを通り越していっそ感心する」
「昨今のアンチエイジングに、男も女もないわ。最低限の身嗜みと知れ、ナンセンス男」
「く。確かに俺のセンスは凡人には理解出来ようもない次元にあるが、そう羨むな」
「ああ、認知症ならともかく糖尿如きで死んだ何処ぞの高尚な男の様に、気楽に生きられる人間は少ない」

減らず口がと睨んだ遠野龍一郎に対し、冬月龍人は満面の笑みで応える。互いに互が最も厄介な人間だと理解しているので、不毛な言い合いは此処までだ。

「日本にいた事をもっと早く知っていれば、何が何でも連れ帰ったものを…」
「俺を忠実なステルスだと思っていたか」
「師君は根っからの蝉だ。忠実なステルスだったのは、儂だけ」
「いつも気づくのが遅い。幾ら名を偽ろうと、俺は空を駆ける名を頂いた月の宮だ。陛下が死んだ瞬間に、俺の主人は天神だけだった」
「ナインを主人としては見れなかったと?」
「…結果、あれは俺がいなくても立派に成し遂げただろう」
「ノアが立派だろうとその手足がポンコツでは話にならん」
「自分を含めた上での発言だろうな?」
「それがどうした」
「開き直るか。昔なら、己の失態を決して認めなかったろうに。成長するものだ」
「儂を幾つだと思っている記憶喪失ジジイ。皺だらけの年寄りが18歳だと暴れまくったのは、ほんの先頃だが?」
「忘れられるものなら願ってもない」
「残念だったのう、今は認知症もそう恐ろしい病ではなくなった。ステルスがなくとも、医療は確実に発展している」
「ふん。俺に何の断りもなく余計な真似をする奴らがいる」

龍一郎の一人称が「儂」と「俺」を行き来している事に気づいている龍人は、まだはっきりしていないのだろう兄の脳内が落ち着くまで待つつもりだったが、この時点で諦めた。長い時を超えて再会したばかりだと言うのに、昔から何一つ変わっていない双子の片割れの横柄な物言いに、感動より呆れが優っている。心配するだけ無駄と言う言葉が、ふわりと頭の中を過ぎった。

「儂はポンコツだ。日本でお前が救った命の数は数えるのも馬鹿らしいだろうが、儂が掬い取ったものはないに等しい」
「保健医の札をぶら下げて情けない台詞をほざくな。雇用した駿河が笑われる」
「すぐにでも手術せねば助からないとして、フィフティーフィフティーならお前はどうする?」
「考える余地もない」
「だろうな。儂も5割の確率であれば同意だ。然し、1割だったら?」

どうせ即答だろうと思いながら、弟は小さく笑う。

「…儂は手が震えた。理論上失敗する筈がないナインの角膜移植時も同じだったのに、年月を経て、乗り越えたつもりになっていたんだのう」
「喉元を過ぎれば熱さを忘れる」
「孔子曰く而立の30を過ぎて、今度は相手が妻だった」

震える指先を握り締め、垂れ目を細めた男は息を吐いた。今更言っても過去が変わる訳ではないが、ずっと誰かに話したかったのかも知れないと考えているのだろうか。

「するとどうだ。何度試算しても10%を切る生存率に、冷えた指先は使い物にならなんだ」
「為すべき時に為した結果がどうあれ、未練以上に無駄な感情はない」
「為しておればのう。体良く先延ばしにして見殺しにしたに過ぎん。儂なら助けてくれると最後まで信じていた、哀れな女を」
「…で、貴様は己の嫁が死んだ事まで俺の所為だと言いたいのか。見殺しにしたのは自分だと、今自分で証明しただろう」
「ああ、そうだ」

八つ当たりだと判っていて、龍人は大きく頷いた。兄の方は眉を軽く潜めた以外は、それほど表情に変化はない。

「何度考えてもそこに行き着いて離れられん。儂が不可能でも師君には助けられた筈だ。当時医者だったお前なら」
「子供じみた責任転嫁だ」
「判っている。龍一郎が中央区に残っていれば、医者ではなかった。どちらにしても成功確率が跳ね上がる訳ではない」

それでも何も出来なかった自分とは違い、龍一郎だったらどうにかしようと足掻いただろう。それで例えば失敗したとしても、やれる事はやったと思えたかも知れない。今みたいに、どうにもならない後悔を抱えて生き続ける事は少なくともなかった筈だ。

「昔から自覚はあった。どう足掻いても儂が得意としたのは機械分野だ」
「お前が薄汚い鼠を繁殖させている時に、俺はそう言った。ムキになって張り合おうとするからだ」
「師君があれもこれも手を出して、円卓の信頼を独り占めしようとするからだろうが」
「そんな真似をした覚えはない」
「…今頃になって悔やむと知っていれば昔、リゲルだけでなくマリアにも教えを乞うべきだったのう。兄の恋心を汲んでやるよい弟振ったりしなければ、結果は形を変えていたかも知れん」
「ほざけ。貴様がリゲルのシンフォニアプロジェクトに興味を持った事まで俺の所為にするな。大体、誰の何が恋心だ馬鹿が」
「くっく、マリアが言っておったぞ。あの女は儂と思考回路が近いそうだ。世を憎み羨むばかりで、自ら成長を諦めた」

いつか本気で居なくなった兄を憎んだ事があったかも知れない。と、弟は考えた。全ては過去の話だ。
罪悪感による未練や身勝手な憎悪を忘れたのはいつだったか。今になって振り返ってみれば、自分に負けず劣らず身勝手で自分本位な一人娘が、生まれたばかりの子供を押しつけていった頃からかも知れない。

『貴様、今頃になって姿を現したかと思えば…!自立する為に家を出たのであれば、親を自己都合の我儘で振り回すな!』
『我儘はお互い様じゃん!一度くらい父親らしい事してくれたって良いでしょ?!』
『何をっ』
『私の事が目障りだったなら、お母さんが死んだ時に一緒に殺してくれたら良かったのよ!知ってるんだから、私を必要としてくれたのはお母さんだけだった!お父さんは私なんか要らなかったのに、お母さんの所為で我慢してたんでしょ?!』

娘を初めて叩いた。その瞬間に呆然とした。
あの時の娘の言葉は寧ろ、己の本音だったのかも知れないと。一瞬の激情が冷めた瞬間に、自分自身がそう思ったからだ。

「マリアの目が見えなくなっても動じなかったお前は、ナインの為にシンフォニア治験録を紐解いた。やはり恋心と言うには、弱いな」
「抜かせ」
「龍一郎、師君は娘に手を上げた事はあるか?」
「手も足も数え切れんほど出したが、同じ様に手も足も出して来よったわ。反して、息子を叱った事は殆どない」
「師君でも娘の方が可愛いと思うものか?」
「今の話を聞いていたのか。誰があんな馬鹿娘…」
「同族嫌悪だろうがのう。結局の所、心配するから手が出る」
「貴様の物差しで人を計るな」
「男親とは、どうしたって娘を贔屓するものらしいぞ。娘より可愛いのが孫だ」
「は。お前の孫は逆立ちしても俺の孫には勝てんがな」
「隼人の股下を肉眼でしかと確かめてから宣うがよい。負け惜しみは見苦しいぞ」
「股下なら和歌も負けていない」
「ほっほ、あのひょろひょろした白髪小僧の事か。小憎たらしい目つきと物言いが祖父にそっくりで同情するわ」
「今すぐ孫の垂れた目尻にアイロンを掛けてやれ。哀れでならん、近くチベットスナギツネと見間違われるぞ」
「何だと!」
「何を!」

しゅばっと向き合い睨み合ったが、瞬く間にどちらからともなく目を逸らした。急に大声を出した双子に幾らか視線が集まったが、戦いのゴングが鳴らないと判ると視線はすぐに離れていく。

「…大殿の目がある所で無様な真似は慎むべきだ」
「珍しく意見が合ったな」
「師君の事だ。マリアが最後に育てた子供の事は、知っているだろう?」
「…ああ。思い出したと言うより、今も記憶に靄が掛かっているが、忘れてはいない」
「雲隠の末裔だ。陛下が探していたミラージュの孫」
「判っている。お前の行いのほぼ全てを把握しているとだけ、言っておこう」
「ファーストは己をあの様な場所に閉じ込めた儂らを恨んでいるだろう。あれを生んだのは儂の責任だ」
「過ぎた事を」

諦めた様に息を吐いた弟の傍らで、兄は無表情を貫いた。まさか弟の罪の証を隠し持っているとは、悟らせもしない。鈍い方ではないだろう龍人だけなら、騙し通せる自信が龍一郎にはある。然しこの状況で最も面倒な人物が二人居た。
一番遠くで蚊帳の外の部外者を装っている中国人と、執務室でぼーっとしている元男爵の二人だ。この場の何人が理解しているか定かではないが、大河白燕には帝王院雲雀の血が流れている。同時に藤倉カミューの妻にも同じ血が流れているが、藤倉涼女を名乗った女の国籍上の名はサニア=フリードだ。

「師君が最後まで馬鹿にしていたリゲルの計画を儂が引き継いだ事から、円卓の崩壊を招いた。儂には医師に相応しい才能がなかったのにのう」
「気が弱いだけだ。俺は1%なり可能性があれば迷わず試す」
「失敗したらどうする。人命が懸かっているのだぞ」
「失敗を恐れて救えるものなどない」

これは嘘だ。そう思える様になったのは、目の前で消えつつある命を片っ端から全て救おうとする、自分とは真逆の人間と出会ってからだった。
最初は遠野夜刀。そして遠野俊江。彼らの手でも救えずに零れ落ちた命は少なくない。けれど、医師でもないのに救おうとする人間に出会ってしまった。夜刀も俊江も共通するのは医者の自負と義務感だろうが、もう一人は違う。遠野の正義感だけでは証明が出来ない思考回路だ。

「人は終焉を引き伸ばす為に医療を生み出した。恐怖と戦う覚悟を知ったからだ。覚悟を知らぬ獣であれば、避けられない死に怯え続けるだけ」
「正論だのう。40年前の自分に、聞かせてやりたいものだわ」
「神崎遥のアーカイブに死産と流産の記録があるだろう」
「ああ。生まれる事が出来なかった、儂の娘達だ」

龍人の言葉には間違いがある。龍一郎でも助けられなかった命は何十何百と存在して、後悔も未練もないが、死んだ患者の顔を忘れる事だけは絶対になかった。四六時中頭の中に彼らの姿はあって、龍一郎の様に全てを克明に覚えていられる訳ではない夜刀でさえ、時折夜中に魘されて目覚める事がある。死者を冒涜する気持ちなど少しもないのに、夢の中で責められている気がして飛び起きるのだ。

「香織、沙織、…遥が死ぬ直前にやっと生まれた糸織だけは儂が名づけた。その頃、遥は昏睡状態だったからな」
「娘は母親の記憶が?」
「あれにも然るべき冬月の血が流れている。完全ではないだけ多少前後はある様だが、死の間際、数日感だけ意識があった遥の記憶は鮮明に残っている様だ。幼子に死を説明しても理解しないだろうとアンドロイドを側に置いておいたが、それが裏目に回った。アンドロインドに命じて儂のファントムウィングを持ち出し、家出しおったんだ」
「下手に隠すからだ」
「少しは親心を汲んでくれんか」

遠野にも救えない命があるのに、冬月に救える筈がなかった。医療の分野では遠野の方がずっと格上だ。記憶力が幾ら優れていても、経験に勝るものは医学の世界には存在しない。経験が全てだ。資料を読んだだけで完璧な手術を行えるなら、研修制度は必要がないものだろう。

「幸い、俺の餓鬼共は貴様の娘と違って肝が据わっている。逃げ出す様な馬鹿はいない」
「娘には随分酷い真似をしたそうだが?」
「…人の周囲を嗅ぎ回る趣味があったか。ブラコンめが」
「誰がブラコンだ。儂に会いたくて枕を濡らしたのは貴様の方だろうが」
「ほざけ垂れ目」
「抜かせ吊り目」
「命を救えなかった弱虫でも、望み通り娘を抱かせてやったんだろう」
「!」
「俺には命は救えても、子を抱かせてやる事は出来なかっただろう。それが俺と貴様の違いだ」

だから、龍人に救えなかったのであれば、龍一郎にも救えたかは判らない。神の手だの鬼の後継者だの幾ら讃えられても、人間なのだ。誰よりも生きていて欲しかった人ほど失ってきた龍一郎には、龍人の未練も後悔も痛いほど判る。それでも口にはしない。同情は惨めだ。

「40年前、ステージ4の膵癌を処置出来る者は知る限り存在しなかった。ステルスにもその技術がなかったのはリゲルがシンフォニアを最優先にした事もそうだが、俺も貴様も中途半端だったからだ。確かに俺は医療も科学も貪欲に求めたが、効率が悪かった事は自覚している」

被験用の鼠を飼育していた龍人とは違い、知識と経験を最優先にした龍一郎は他人の手術の予備治験を自分の体で試し、失敗とは言えないものの自らの体に不具合を残す結果になった。もしあの時、つまらない意地を張らずに誰かに相談していれば結果は変わっただろう。

「現在のステルス医療が発展したのは、ハーヴィの命令だろう?」
「何を置いてもナインは、医療班の発展を優先した。それまで産業技術開発の一本槍だった技術班は、以前とは随分変わっているのう」
「陛下の角膜を無駄にする訳にはいかなかった」
「ああ」
「班に進言した所で、円卓の賛否が一致する事はなかっただろう。ハーヴィの視神経が生きている内に取り掛からねばならない術式だった」
「だからと言って、奇襲の様な真似をする奴がおるか。師君であればノヴァの円卓を説得する事は出来ただろうに」
「他の誰が納得しても、ジョージとジャックの兄弟が納得したとは到底思えん。特にジャックは、俺達を嫌っていただろうが」
「奴が惚れた女を儂らが横取りした事か」
「俺は誘われるがまま断らなかっただけだ。ジャックが気に入った女は腹黒い女ばかりだっただろう、誰が好き好んで手を出すか」
「ライオネル=レイは女を見る目がまるでなかったからのう。儂は良かれと思って邪魔したんだが、…恨まれていても可笑しくはないか。何しろ儂は、ベリアルからも恨まれている」
「オリヴァーの餓鬼だな。ルークの世話係だろう」
「儂が27で貰った妻は看護師だった。技術班から枝分かれした医療班の手伝いを任せていた頃に、当時ウェールズから渡ってきたばかりの学生だった奴がどうも一目惚れしおってのう」
「お前の事だ。無論、相当の邪魔をしたのだろう」
「人の嫁に懸念する様な餓鬼を側に置いておけるものか。奴は確かに賢い餓鬼だったが、カミューとは違い純粋だっただけに質が悪かった。打算や野心ならともかく、本気になられては困る」
「無様な事だ。ベタ惚れではないか」
「何を?貴様とて、己の嫁に若造が懸念したら同じ事をするだろうが」
「…さぁな」

夜刀の娘とは思えないほどおっとりしていた遠野美沙は、独身時代院内のマドンナだった。結婚した直後は呪いの手紙を貰った覚えがある龍一郎は黙り込み、弟の睨みから逃れる。当然ながら筆跡で犯人を見つけ出した龍一郎は、返事を書いて呪いを送り返した。堂々と返事を手渡した時、何故判ったんだとばかりに目を見開いた相手の顔は、今思い出しても爽快な気分にさせる。
それにしても、おっとりしている様で怒った時は夜叉に変化する美沙の恐ろしさを知らない男は、幸せ者だろう。自分の出産中に担当医に指示を出した話は伝説の様に語られており、血を見ると貧血を起こす息子は一体誰に似たのかと本気で考えた事があった。残念ながら若い頃の龍一郎にそっくりな顔立ちをしている遠野直江は、誰が見ても間違いなく龍一郎の子だと納得するだろう。目元が母親に似ているお陰で人相も悪くない。目元だけ龍一郎に似た娘の俊江は、その他のパーツが夜刀に似ていた。男なら男前だが、女だと平凡な顔立ちだ。

「親父はボケないまま死んだのう。あれが死んだのは42だったか、43だったか」

考え事をしている内に、話がすり替わっていたらしい。久し振りに思い出した憎たらしい顔は、70年以上前に死んだ男のものだ。

「…馬鹿を抜かすな。奴は世に生を受けた瞬間からボケっぱなしだっただろう」
「いつ見ても薄汚い男だった。蜘蛛の巣の様な髪で、常に顔を隠しておったな」
「あれにそっくりな顔の餓鬼を見た事がある」

息が止まるかと思った、と溜息混じりに呟いた龍一郎は、窓に背を向けて目線を執務室内部へ向けた。数十メートルは離れている部屋の最奥のデスクに腰掛けている金髪が、陽光に照らされて煌めいている。まるであそこにもう一つの太陽があるかの様だ。

「駿河の子会社が大株主になっている、とあるテレビ局の会合だ。俺が死んだとされる3年前、若干12歳でパリのメンズコレクションから凱旋帰国した餓鬼を見掛けた」
「ほっほ。貴様にしては珍しく腰が抜けたか?」
「直様調べたが、奇妙な事に西指宿翔麻の認知下にあるが、認可されたのは俺が調べる間際だ。華々しいパリの一件で知ったと言わんばかりではないか?」

兄の横顔を苦笑いを浮かべながら眺めた男は、兄が見ている方向を一瞥して目を細めた。あんなに眩しいものを何秒も眺める趣味はない。

「儂が見ても、隼人は親父に生き写しだ。顔以外にも、撫で肩と喋り方もな」
「親がなくとも子は育つと言うが、良く幼い孫を残して逃げたものだ」
「…野暮な事を言うが、貴様は何処まで知っているのか」
「お前が夜刀の目に止まるまでは、大して知らんかった」
「夜刀殿?」
「素人同然だと舐めて掛かるから尻尾を掴まれる。夜刀には、曰く弟子が居たんだぞ」
「ほう、弟子とな」
「嵯峨崎陽炎」
「は?」

余程の意表を衝いた様だと、弟の崩れた顔を横目に兄は何処ぞへ目を走らせる。何を見ているのかと思えば、視界の隅に入ったのか、派手な色合いの作業着を見つめているらしい。

「夜刀は俺を知る前から、ステルスに関して多少知っていた。夜人が死んだ事も俺が言う前にだ」
「ええい、話を端折るでない。ミラージュはいつ機密情報を掴んだ?」
「察するにジャック辺りが招き入れたか、当時の中央区が間抜けの巣窟だったか」
「…幾ら雲隠の最後の当主候補とは言え、セントラルに忍び込むのは骨が折れる筈だがのう」
「真相は俺にも判らん。今から58・9年前の話だ。俺が飛び出して暫く経って…カミューの餓鬼が、外で暮らしていた頃だろう」
「ブライアン=C=スミスと共に大学生活に興じていた頃か」
「マンハッタンで一度会った、マイケルの息子だな。当時は阿呆面の餓鬼だったが、教授に上り詰めるとはな」
「それも知っておるのか」
「12年前に会った」
「何だと?!」
「隠していた訳ではない。俺も奴も、記憶に残っていないだけだ」

意味が判らないとばかりに眉を吊り上げた弟を片手で制し、兄は馬鹿騒ぎしている大人達を睨みつけた。
高野省吾の方は気づいていない様だが、目が合うなり胡散臭い微笑みを浮かべたドイツ人の方は性根が腐っているとしか言えないだろう。龍一郎に残る記憶の中では、彼はまだ乳飲み子だった。当時は薄茶のブロンドじみた髪色だった筈だが、今では白髪なのか銀髪なのか見分けがつかない。ゲルマンでは決して珍しくない髪色だが、恐らく母親に似たのだろう。

「今になって言える事だが、俊が先に目をつけていた。立花の末子、夏彦が興した診療所がある君津は、アクアラインで一本だ。夜刀が引退した頃から、世話になっている」
「お前の偽名のか?」

その程度は知っているのかとばかりに目を向けてきた兄に対し、弟は軽く睨みつける。兄を見つけたのは死んだ後だとは、流石に言えやしない。

「儂が作ったシンフォニアを追って、ブライアンの娘が日本へ渡ってしまった」
「知っている。一度は追い出した筈の妊娠希望の餓鬼を、誰かが勝手に入院受理していた。それも院長許可名目で」

お陰様で、龍一郎は誰を怒鳴る事も出来ず、一度許可した事になっている診療を放棄する事も出来ず、渋々サラ=フェインの担当医になった。院内の誰かが勝手に龍一郎の名義で許可を出したとは到底思えなかったが、下手に調べる素振りを見せて犯人に気づかれるより『許可した事を忘れていた』事にした方が無難だと考えたのだ。すぐに弟の仕業だと気づいたが、本人の胸ぐらを掴んで説教する訳にも行かず、今日まで当時の憤りを腹底に貯めていた。

「…迷惑を掛けたな。帰れと言って素直に聞く様な女ではなかったんだ。あのまま治療名目で監禁されていてくれた方が、儂らには都合が良かった」
「ロードに同行していたのはベテルギウスか?」
「常駐は弟のアルデバランだ。ベテルギウスは当時、特別起動部サブマスターだった」
「道理で、リゲルの息子にしては詰めが甘いと思っていた。アルデバランはリゲルの妻の子か」
「ああ。リゲルが倒れた後に、奥方が余所の男との間に作った。ベテルギウスとは16歳年が離れているが、国籍上リゲルの息子として認知されている」
「いつの世も、女は強かに尽きる」

20数年前にロード=グレアムが渡航する際は同行を断った龍人だったが、数年後にブライアン=スミスの一人娘サラ=フェインがロンドンを離れた事で監視を命じられた事で事態は急変した。今から19年前の話だ。そうでなければ龍人が来日する事は絶対になかった。お陰様で、龍人がアメリカから離れている隙に娘が家出してしまった訳だが、今になって何を悔やめば良いのか。

「然し、当時は院長の遠野龍一郎がよもやお前だとは想像もせなんだ。あの時気づいておれば、どうなっていたか…」
「夜刀が夜人の親族と言う事は端から知っていたんだろう?遠野の元に俺が居るなど、俺がお前の立場でも想像しない事だ」
「見事、裏を掻いてくれたわ」
「…別に、謀った訳ではない。夜刀の横暴さが俺の想像を絶していただけだ」
「ほっほ、お前にも苦手な人間が存在したと言う事か。長生きはするものだのう」
「俺を何だと思っている?お前もオリヴァーの息子を毛嫌いしているだろうが」
「…何故知っている」
「知っているとも。駿河の病室へ足繁く通っていた、レヴィ陛下そっくりな長髪の餓鬼の隣に、執事服の年寄りがぴったり張りついていれば気にならん方が可笑しい。更に駿河の孫を名乗る餓鬼の執事は、うちの看護師に大層気に入られていた。毎度手作りの菓子を差し入れに寄越すからな」

フルーレティ=アシュレイ。本名は貴族階級だけにもう少し長いが、ウェールズ現伯爵は遠野総合病院内にてセバスチャンと呼ばれている。見た目がセバスチャンだからだそうだが、龍一郎には全く理解出来なかった。カミュー=エテルバルドより一つ年下で、帝王院駿河より一つ年上になる男の前妻の娘が嵯峨崎嶺一の妻だと知った時は多少驚いたものだが、彼女は出産して数年後に亡くなっている。名目上は心疾患だが、最期を看取った病院のカルテには不明な点が多い。
手術後に出血が止まらないだとか、遺伝子には全く問題がないのに血小板の数が増えないだとか、幾つもの疑問点が記されていたが最終的に呼吸不全で亡くなっている事から心不全で折り合いをつけたものと思われた。原因に心当たりがないでもないが、今この場で議論する事ではないだろう。彼女と全く同じ様な患者を龍一郎は知っているが、奇跡の様に、全く真逆の遺伝子を持つ患者と一緒に運ばれてきたと言うだけだ。

エアリアス=アシュレイには起きなかった奇跡が、ベルハーツ=ヴィーゼンバーグには起きた。嵯峨崎零人には遺伝しなかった雲隠の呪いが、グレアムの支配下で生まれた嵯峨崎佑壱には顕現した。それが全てだ。

「夜人には何ら関係ない家だが、夜刀の母親が立花の娘だ。立花夏彦は夜刀の従弟で、夜人の悪友の一人」
「…考えたくないが、ただの悪友では済まん気がするのう」

レヴィ=グレアムと遠野夜人の出会いは、当時の社員はほぼ全員が知っている。酒には強かった筈のノアは、中央区で稲作が始まると間もなく作られる様になった日本酒が入る時だけは、饒舌さに磨きが掛かったものだ。
欧米人に日本酒が毒だったのか否か、レヴィが戯曲の様に高々と歌い上げるのは決まってパートナーの事だった。懇切丁寧に誰も聞いていないにも関わらず馴れ初めを語り始め、夜人の何処が愛くるしいだとか、あーだこーだと惚気けるだけ惚気けたかと思えば、急に真顔になって『良し、四人目を作ろう』などとほざいて、どんな酒でも一口で酔っ払って眠ってしまう夜人を抱えて寝室へ消えていく。翌朝起き上がれない夜人がガラガラ声でパートナーを説教する光景までがワンセットで、とうとうノアに日本酒禁止令が出る事態になった。然し幾ら夜人が禁止令を出そうと、レヴィが日本酒を欲しがれば断れる社員は居ない。彼らが死ぬまで繰り返された日常を、今では何人が覚えているだろう。

「然し、アクアラインか」
「小学校へ上がる前だ。俺が結婚を認めなかった事で、娘は乳飲み子を抱えて出産翌日に出て行った」
「相手が相手だ。無理もない」
「夜刀は暫く大人しくしていたが、痺れを切らした様でな。俊江と秀隆は、俊を連れて千葉の夜刀の元へ向かった」

思い出したのはつい先程の事だと、龍一郎は噛み締める様に呟いた。これに関しては本当に綺麗さっぱり忘れていたのだから、滅多に感心する事がない龍一郎ですら脱帽するしかない。完全に記憶している事が冬月家最大唯一の長所だと自負していても、絶対に忘れないと言う事ではないのだ。

「そこで一泊した後、一足先に俊江と秀隆は東京へ戻ったが、夜刀は俊を連れて房総を巡ったそうだ。…あの日、儂は横須賀で会合に出席していた」
「お前の元に連れてきたのか」
「厄介な真似をすると思いもしたが、奴なりの気遣いのつもりだろう。俊江が一緒にいれば実現しない」
「くっく。姪っ子は父親にそっくりだからのう」
「俊だけ残して渋々帰っていった夜刀の車を見届けて、一体何から話しただろうか。忘れている訳ではない筈だが、今になってみてもまともな脈絡を為していない会話だった事だけが思い浮かぶ」
「珍しく狼狽えたか」
「暫く海沿いを走らせ、湘南を辿った」
「そうか。…鎌倉には寄ったか?」
「俺がそんな気遣いが出来る男に見えるか」
「ああ、見えん」
「数時間青いだけの海を見続けて会話が弾むでもなく、知恵を振り絞って今度は山を走らせた。あの時の運転手には悪い事をしたと思っている」
「海の次は山か」
「丁度、逗子の県境か。俊が窓から顔を出し、『ちょーちょ』と言った」

丸まった弟の目を見た。やはり、あの場には龍一郎が知らない何かがあったのだろう。どうしてか、あの時は俊だけがそれを知っていた。

「共に車を降りて外を見回ったが、蝶は何処にも見当たらない。然し満足したのか、俊は腹が減ったと言った」
「マイペースな子だのう」
「何が食べたいかと問えば、『オムライスに旗がついたお子様ランチ』と言う。好物なのかと聞いたが、俊は首を振った」
「旗がついた、お子様ランチ…?」

此処からだ。恐らく龍人が知りたがっている話の前置きは、次の言葉で完了する。

←いやん(*)(#)ばかん→
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