帝王院高等学校
我々はいつまでもお子様じゃないんです!
『医者になる』

あの時の悔しさが惨さめに似ていると思う度に、笑いが込み上げてくる。
あの瞬間まで、合理主義者だと思っていた自分は、他人に何かを期待していたのだろうか。

『…馬鹿を抜かすな。無理に決まっている』
『どっちが馬鹿だ糞ジジイ、まさか女は男より劣るとでも抜かすつもりか?女の腹から生まれた分際で』
『…ぎゃあぎゃあ喚くでない、貴様に限った話だ。以前から、跡継ぎは直江だと言っておろうに』

宿題を投げ出して遊びに出掛けても、弟とは違って叱られた事などなかった。一度読んだ本をもう一度読み返す弟を愚鈍だと思ったのは、一体いつだったか。

『アイツが刃物なんか握れると思ってんのか。じっ様方の親戚だって立花の親戚だって、』
『貴様に期待する事は何一つない。判ったら、己の為すべき事をしろ』
『…アンタと同じ大学に受かれば、認めてくれるのか』
『誰に似たのか。何処まで聞き分けのない娘だ』
『こっちだって好きで娘に生まれたんじゃねェ!やりもしない内から無理って決めつけんな、石頭!』

愛されていないだとか、そんな下らない事を宣うつもりはない。ただ、ほんの少しだけ認めて貰いたかっただけだ。
誰よりも強く期待して欲しかった。そうすればきっと、全身全霊でその期待に応えただろう。どんなに辛い道のりだろうと、大腕を振って突き進んだ自信がある。どんなに罵った所で、父親が天才と呼ぶに相応しい人間だと、本心では認めていたのだから。

『試すまでもない』
『あ?!』
『貴様に人の命は救えん』
『っ、何で…!』
『直江は母親に似ているだろう。あれは儂には、微塵も似つかん男だ』

魔法使いの様に人の命を救う神の手に、近づきたかった。それは自分と言う人間が初めて覚えた夢だ。ほぼ全ての人間が立派な志だと認めてくれたのに、一番認めて欲しかった男だけは最後まで認めてくれなかった。

『貴様は未だ、己の無力さを知らんだけだ。幼子の戯れに付き合うなど儂にはない』
『…テメェなんか、親でも身内でもねェ』

遠野龍一郎はお殿様なのだ。
近所では立派な部類に入る広い屋敷の中で、彼の定位置は自室でも寝室でもまして居間でもなく、本棚で埋め尽くされた書斎。彼が書斎に閉じ篭ってしまえば、いつもは優しい母親も「お仕事の邪魔をしちゃいけない」と叱るだろう。子供達だけの食事にもとっくに慣れている。先に子供達にだけ食事を与えた母親はいつも、気が向くまで書斎から出てこない夫の為に、自分は食べずに待っていた。
彼だけが家の中で別格で、彼だけが異端で、殿様にとっての子供は長男だけで、一つ違いの長女には何も期待していない。それが遠野家での普通だった。いつだって、何をしたって、これが今生の別れかも知れないと覚悟して投げ掛けた言葉だとしても。

『…もうイイわ。テメェが俺に期待しねェ様に、俺もテメェには何も期待しない』

神には何一つ響かないのだと、思い知った18歳の子供は。


『独善的な価値観で凝り固まった狭い世界に、死ぬまで閉じ篭ってろ』

己もまた狭い世界に居る事を、知らなかったのだ。
















「ああ、やっぱり今日も美味しそうなものを食べてる」

下町の惣菜屋が看板商品として何十年も作り続けているコロッケは、肉の量とサイズに似合わず異常に安い事で昔から近所の子供達に親しまれている。
とは言え、初めて食べたのは子供と呼ぶには少し育ち過ぎた感のある、中学時代だったか。生まれた頃から後継として期待されていた弟に比べれば、一年と少し早く生まれた自分はかなり自由に育てて貰ったとは思う。然し月々の小遣いと言うものを貰う様になったのは、中学で知り合った友人に指摘された後だった。

「…物好きな奴だなァ、お主」
「何でか判らないけど、今の台詞は比較的良く言われるかな」
「将来ろくな大人になんねェぞ」
「…別に構わないですよ。大人になんて、なりたくないんで」

中学生なのにお洒落に余念がない、勉強より恋愛を重視していたいわゆる『目立つ生徒』を遠巻きにするクラスメートも少なからず居たが、考え方が幾ら違っていても結局は同じ人間だろう。姿形が違っても、年齢が違っても、例えば性別が違っても、美味しいものは美味しい、綺麗なものは綺麗、根底は同じ筈だ。

「ずっと子供のまんまでイイってか?」
「ピータパンみたいに」

今日も敷地の外れにある小さな広場にやって来た、目を見張るほど綺麗な顔立ちをした少年が着ている白いブレザーは何度見ても制服の様だが、同じ格好の学生を他に見掛けた事はない。ブレザーの下の黒いシャツも完全な無地ではなく、日に当たると縦縞が入っているのが見えた。一目で上質な生地だと判る辺り、私立校の制服である事はまず間違いない。

「俺ァ、お断りだね。ネバーランドなんか一日居たらくたびれそ」
「年寄りみたいな事言う」
「おばさんで悪かったな。まだ25歳だっつーの」
「嘘ですよ、先生は若く見える」
「ほォ?どんくらいに見える?」
「中学生くらい」
「苛めるぞ」
「俺のティンカーベルは怖いな」

それ以外に知っている事は名前だけだ。勿論、得体の知れない男子高校生の事などそれ以上知る必要はないと思っていたが、向こうはそうでもないらしい。何が目的なのか全く判らないが、いつも飼い主を見つけた犬の様に駆け寄ってくるので、今日はとうとう『やっと来た』などと思ってしまった。そもそも待っていた訳ではない筈だが、我ながら訳が判らない。

「大人を揶揄って何ニコニコしてんだお主はよ、性格悪ィ」
「今のは初めて言われた」
「嘘つけ」
「先生、一口頂戴?」
「そこの袋の中にもう一つ入ってるから、人の食べかけを欲しがんな」
「…判ってないなぁ、相変わらず」
「あ?何が判ってねェって?」
「何でもない」

毒されつつある気がする。変な勘違いをしそうになる度に己の頬を平手打ちしたくなるが、せめてもの情けだ。ポーカーフェイスが崩れない限りは、大人の振りをさせて貰おう。

「いつまで研修なんですか?」
「本当なら二年はとっくに終わってるんだけどな。最近やっと内視鏡に触らせて貰える様になったけど、検査ばっかりだ」
「検査も大事な診療行為ですよ」
「診療を馬鹿にしてる訳じゃねェ。…けど、俺がやりたいのは治療ざます」
「うーん。俺にはどっちも同じ医療行為だと思うけど」

最近では患者からも同僚からも『大人しくなった』と言われる様になったので、その度に『大人になったんだ』と言うようにしている。
二十代後半なのに年配患者からは孫扱いを受けているので、このままでは研修が終わっても医者として見て貰えるか多少不安だったのだ。大学を卒業して医師免許を取得し、真っ先に配属された研修先は半年で揉め事を起こしてしまい、明らかに向こうの落ち度である筈だが、社会は時々正論を受け付けない。実家の病院が受け入れてくれなければ、暴力的な研修医と言う噂が先行して、恐らく他院では引き受けてくれなかっただろう。

「検査で腫瘍が見つかっても、今の俺は切らせて貰えない。他の医者に引き継ぐしかなくて、だからってすぐに処置が出来る訳じゃない。膨大な手術スケジュールと医師のタイムテーブルの折り合いがついて、漸く日取りが決まるんだ。緊急手術が受けられる患者はほんのひと握りで、往々にして優先度を決めるのは医者の判断。そしてその判断が正しい確証はどの場面でもない。所詮人間だからな」
「うん」
「検査で見つかった瞬間に処置しとけば、待たせずに済むのに。それが出来るのは経験があって認められてる医者だけで、どんなに自信があっても経験が浅い医者は指示があるまで何も出来ねェ。大きい病院であればあるほど」

より現場に近い所で仕事がしたい。一週間不眠不休で診察しろと言うなら素直に従ってやる。医療後進国のボランティアで倒れるまで走り回った事もあるし、日本の授業では教えて貰えないリアルな治療も生で見た。けれど所詮、医学生の遊び半分の思い出話でしかなく、海外では使われていた薬や術式は、日本では不要の知識だと笑われる。

「あーあ、これじゃ何の為に帰国したのか判んねェなァ。留学した期間の単位だって無保証だから1コマも休まず全部出て、時間がある限り解剖も治験も見学して、夜中に教授に電話して質問責めにした事もある。呆れられたけどな」

この国で夢を叶えるには、不自由と言う難関がある。やる気だけでは乗り越えられないハードルの大半は他人の評価で埋め尽くされていて、この不自由な国でほぼ全てが許されるのは、圧倒的な経験と評価を得ている遠野龍一郎だと知っていた。あの男を追い越す事は恐らく不可能だと知っている。日本にいる限り、永遠に。

「…頭が固い連中に揉まれて、いつか自分も石頭になっちまいそうだょ」
「日本は狭いでしょう?」
「あ?」
「完全に近い安全が保証されないと、怖いんですよ」

ああ、まただ。地団太を踏んで喚きたてる幼子をあやす様な表情で、惣菜屋の紙袋を膝に乗せた少年は微笑んだ。これではどちらが大人か判らない。

「狭くて少なくて、富士山が噴火しただけで滅亡の危機を迎えてしまう脆弱な島民だから。潜在意識に、時限爆弾の隣で暮らしている様な恐怖感が根づいてる。恐怖は判断を遅らせるのに」
「だとしたら、益々瞬間的な判断が不可欠だろ。地震が来てから荷造りすんのか?噴火が始まってから政治家の判断を待つのか?あっという間に全員、死んじまわァ」
「…そうだな」
「お主も何か悩んでんのか?」
「そう見えますか?」
「カウンセラーじゃないから知らね。心理学は流し読みしただけだからな」
「ああ、確かに俊江先生はそう言うの興味なさそうですね」
「悩んだ瞬間に解決しとかねェと、将来ハゲるょ?」

ぱちぱちと瞬いた漆黒の眼差しから目を逸らし、缶ジュースの残りを飲み干す。
何にせよ実家が引き取ってくれなければ医者になる道は閉ざされていたのだから、この場所で働く限りは院長の指示には絶対服従なのだ。仕事場に家族感情を持ち込むつもりはない。ないが、院内で父親を見掛ける度に『はよ引退しろ』と呟くくらいは許されるだろう。その度にキョロキョロと周囲を見回す振りをして、『誰が小学生に白衣を着せた?』だのほざいてくれる龍一郎には、ダメージはない様だ。我が親ながらイイ性格をしている。

「俺が禿げたら嫌いになりますか?」
「あん?別にハゲようがリーゼント決めようが個人の自由だろ?」
「俊江先生はどんな髪型が好きですか?」
「んなもん、聞いてどうすんだょ…」
「判りませんか?」

まただ。右手が頬を殴りそうになるので、遠野俊江はぐっと拳を握り締めた。

「…訳判んねェやっちゃな。こんな所でベラベラくっちゃべってないで、」
「くっちゃべる?」
「無駄話するって事。お主、宿題はやったかィ?」
「また子供扱いする」

むすりと黙り込むと自棄に雰囲気がある顔立ちは、全てのパーツが整い過ぎている。口にした事はないが、俊江が今まで出会ってきた男の中では五本指に入る男前だ。絶対に本人には言わないが、この少年と出会うまでは高坂向日葵が最も男前だと思っていたが、上には上が居るらしい。
近所では弟の直江も男前だと噂されているらしいが、身長こそひょろっと縦長いだけで、あんなものは男でも何でもない。今も三秒で泣かす自信がある。同じ研修医の立場の直江は他の病院の世話になっているが、一年の年の差をスルーして同時期に研修終了になる予定だ。遠野総合病院で研修をやり直す事になった俊江は、他院での研修期間をリセットされてしまっている。当初は龍一郎の嫌がらせかとも思ったが、そんな下らない嫌がらせをする様な男ではない。

「どう見ても子供だろ。元気な奴が病院に通い詰めんな」
「母の付き添いです」
「嘘つけ、昨日も言ってただろ。昨日と今日の外来で被ってる患者は居ない」
「そんな適当な事言って、先生は外科以外は知らないでしょう?」
「さァな」

今の言葉は嘘ではなかった。診察の予約リストは院内の全てのパソコンから閲覧可能で、看護師でも閲覧する事が可能だ。普通の人間から見れば夥しい数の名簿にしか見えないリストも、一度流し読んでおけばいつでも何処でも脳内で再生出来る。などと言っても、他人は信じないだろう。

「で、コロッケ要らねェなら食べちゃうけど?」
「要る!…む、うまい」
「うめェだろ。一個80円だって聞けばもっと美味く感じる」

大学を卒業すると同時に一人暮らしを始めた俊江の給料は、殆どが生活費と書籍に消えている。
遠野総合病院には社員寮があるが、新しい社宅は部屋数が多いので戸数が少なく、家族持ちの医者で満員御礼だ。遠野夜刀の時代に社宅として使われていた古いアパートは、最低限手入れをしながら学生向けの賃貸物件として貸し出していた。偶然部屋に空きが出たと聞き、夜刀に頼み込んで社宅として使わせて貰える様になり、学生と同じ賃料で借りられたのは僥倖だろう。何せ正規の社宅よりも更に安い。
四畳半1間の半世紀は経っているだろうボロアパートだが、給料の殆どを本屋に消費している俊江にはこれ以上ない楽園だ。夜刀や母親からは何かにつけて家に帰って来いと言われているが、院内で顔を合わせるだけでも苛立つ父親の顔を、勤務外に見たくないのだ。とは言え、昔から家にいる時は書斎か寝室に篭っている龍一郎と顔を合わせる頻度はそれほど多くない筈だが、気分の問題だった。貧乏を買って出ても、父親の脛を齧りたくない。自称、侍魂である。

「あー。宝くじ当たったら、揚げたてのコロッケ全部買い占めんのになァ」
「全部?」
「全部。給料日までまだ二週間もあるのに、この本買ったら財布すっからかんになっちまった」

俊江は自他共に認める大飯食らいだが、実家では食べ放題だった米も、今の己の財力では高価な食材だ。
数年前に急に会いに来たかと思えば、いつの間にか日本に定住していたアレクサンドリア=ヴィーゼンバーグが幼馴染みの高坂向日葵と入籍したのは実に一昨年の事だった。現在妊娠中のアリアドネが産婦人科に掛かりつけているので、定期的に顔を合わせている。俊江のアパートにも遊びに来た事もあり、度々手作り料理を差し入れてくれているので俊江は何とか生き延びているのだ。とは言え妊婦を扱き使うのは流石に躊躇われるので、いよいよ空腹が耐えられなくなったら、祖父の脛を齧る事にしている。

『じーちゃん、あたしとデートしない?』
『俊江、やっとアタシと言う様になったのか!じーちゃんもそっちの方が良いと思う。お主は中々キュートな顔立ちをしている事だし、そろそろ彼氏を連れてきてもじーちゃん怒んないからな。ちょっと偉そうな態度で品定めはするけど、最終的には泣きながら俺の俊江を頼む…!って、彼氏と手と手を取り合うからな!だから結婚式はじーちゃんとバージンロードを闊歩しよう』
『あ、彼氏とか出来そうもねェから案じるな、じっ様はぽっくり逝って下さいまし』
『な、んだと?じーちゃんは曾孫の顔を見るまで絶対に死なん!』

面倒臭い事を思い出した。お陰様で90歳を過ぎたなった今も大層お元気で何よりではあるが、引退後に日本中を旅しまくり各地の病院で何らかの迷惑を掛けまくっていると言う噂が後を絶たないので、俊江は還暦を控えている母親が哀れでならない。怒らせるとやばい女ランキングがあれば間違いなく遠野美沙は上位に入るが、普段はおっとりした日和見主義者だ。

「でもま、腹減ってても本読んでたら忘れちまうから、今後も節約して本屋巡りはするつもりィ」
「俊江先生は買い物上手ですもんね。昨日のお昼に食べていたのは、」
「ゆで卵。まさか1パック百円を閉店間際のスーパーでゲット出来るとは、運が良かったねィ」
「俺はゆで卵だけ10個も食べる人を初めて見ました」
「9個だっつーの。腹減らしたどっかの高校生に1個ぶん取られた恨みは、死ぬまで忘れねェぞ。食べ物の恨みは根深いんざます」

今日で会うのは5回目だ。初対面の印象は決して良くなかったと思うが、何処で懐かれたのか、二度目に会った時は『探した』とも言われた。
院内には何人もいる研修医をわざわざ探す理由が、遠野俊江には今も判らない。幾ら俊江より身長が高く大人びて見える顔立ちをしていると言っても、この少年は学生だ。社会人の俊江に興味を持つ意味が判らない。自慢ではないが、異性からは大体嫌われる人間なのだ。

「このコロッケには肉と芋しか入ってない。昼食はこれだけ?」
「本読みながらでも、片手でつまめるもんは最高じゃい。栄養価は二の次、倒れたら栄養剤投与」
「もう少し体を大事にして下さい。医者の不養生って諺もある」
「お主は母ちゃんか」
「父ちゃんにはなりたいですけど?」
「あっそ」
「…今のも通じてないか。鈍いな」
「何か言ったかィ?」
「俺が家族になるのは嫌ですか?」

顔を近づけるなと叫び出しそうになったが、俊江は必死で呑み込んだ。向日葵も大層な男前だが、こっちはこっちで完成されていない少年の危うさが滲み出ている分、威力が凄まじい気がする。それとも、昔から老けていた向日葵と比べる方が可笑しいのだろうか?

「こ…んなイケメンパパだったら、いつでも大歓迎だよィ。今すぐうちの糞親父と交換したいくらいざます」
「怖い院長をそんな言い方するの、俊江先生だけだな」
「お主のお父ちゃんは怖いかィ?」
「怖くはないです、けど…」
「けど?」
「義兄さんが何を考えているのか、最近は全然判らなくて」
「ふーん、兄ちゃんが居たんか。喧嘩中?」
「まさか。喧嘩になんてなる筈がない」
「何で?ああ、年が離れてるってか?」
「…俊江先生は、神様と喧嘩しますか?」

皮肉だろうかと鼻白んだ俊江は、美少年が一口齧ったまま握っているコロッケを素早く奪うと、一口で頬張った。

「うちの親父は神の手なんざ呼ばれてるけどなァ、隙あらば尻の穴に爆竹詰めてやろうと思ってるわょ?」

純粋な本心だ。
遠野家に生まれた者として、親の屍を土足で踏み越える覚悟がなければならない。


「俺らは、雪夜叉の末裔だからな」

曽祖父が祀られている仏壇の奥に、英語で書かれた手紙がある事を知っている。差出人の名はオリオン。
それは寒い冬に輝く、星の名前だ。























「昔々、低脳と無能と悪党と偽善者しかいない地球上に、大層無垢な子供が生まれました」

子供は天使だと思いたがるのは、大人のエゴだ。

「そして子供は大人の毒に晒され、言葉を覚えるより早く人間の汚さを知るのです」

実際人間が考えている事なんて、物心がつく前からそれほど変わっていない。腹が減れば人の食べ物だろうが手を伸ばし、駄目だと叱られれば泣き喚くだろう。容姿が小さいだけで許されている。例えば中身が幼児同等だとして、見た目が成人であれば許される確率はぐっと下がる筈だ。

「…謝らないわよ。先に約束を破ったのは、貴方だもの」
「謝れなんて言った覚えはねェなァ」
「私だけの王子様になってくれるって約束したのに」
「鵜呑みにすんなよ、餓鬼の頃の軽口だろ」

大人には理性がある。否、そうあるべきだ。そう定めたのも大人達だった。
成長と共に知恵を磨き理性と言う目には見えない服で本能を覆い隠しているだけの、大きな子供。大人は皆、嘘つきだった。

「すぐに忘れちまうと思ってたから言ったんだ。まさか今日まで根に持つって判ってたら、ンな適当な事言わなかったょ」
「…本当、酷い人。私を置いていってしまった時の言葉も嘘だったって言うつもり?」
「…」
「医者になる為に、それ以外は全部捨てると言ったわ。貴方が他の誰のものにもならないって思ったから、我慢したのよ」
「だから恨んでるって?」
「どうして、あんな男と…!」
「くっく。その割りに、うっとりした表情で見てたよな?」
「っ」
「お主は昔からずっと、王子様に憧れてるだけだろ。ハーフってだけで苛められて、人間不信で不登校になった時に俺が外に連れ出したから、簡単に依存したんだ」
「違う!」
「秀隆は王子様みたいに優しいだろ?苛めっ子達と同じ男とは思えないくらい紳士で、綺麗な顔してる」

愛は尊いものなのだろう。その裏側がどんなに汚れていても、コンプレックスと思い通りにならない苛立ちを脱ぎ捨ててしまえばきっと、誰しもの愛は美しい筈だ。けれど大人は本能を理性で覆い隠さなければならない。お互いがお互いをそう定めている。
手に入らないのであれば諦めなければならない。努力してもどうしようもならない事は幾つも存在して、諦めずに続けると時には『立派だ』と褒められ、時には『気色悪い』と謗られる。誰しも誰かに嫌われたくない。敵意を向けられたくない。だから周りに合わせようとする。中身は生まれた時から一貫して、我儘な子供のままなのに。

「お主、直江だけじゃ我慢出来なかったのかィ?あァ、そうだ。俺に会いたがってたアリーに、つまんない意地悪してた事もあるんだろ?」
「ど、うして、それを…」
「お陰様で向日葵はアリーの王子様になれたってんだから、悪い事ばっかじゃねェか。うちは姉弟そっくりでガリ勉気質だったから、少しくらい打算的な肉食女子くらいが直江にはお似合いだ。俺も直江も、恋愛面はてんで奥手だもんな」

今はとても良く判る。
誰かを愛してしまうと、理性ではどうしようもない時があるのだと。したくもない我慢を強いられ、精神がどれほど磨り減っただろう。諦めたくないのに諦めなければならないなんて、そんな無慈悲な世界をどれほど呪っただろう。

「ずっと調べてたんだなァ。まさか二人目の子供にうちの息子と同じ名前をつけるなんて、想像もしてなかったぜィ」

背が高く美人で家柄も良い、そんな一つ年下の幼馴染みの手を強引に引いて、外へ連れ出した事がある。小学校へ上がる前の話だから、6歳くらいか。
一つ下の弟は引っ込み思案で、外で遊ぶより家の中で本を読んでいる方が好きだった。遠視気味で、読書の時には眼鏡を掛けていた事もあっただろうか。活発な遠野俊江と真逆に大人しい遠野直江は、事情を知らない他人から見えれば兄弟と見間違えただろう。寧ろ床屋を嫌がった直江の方が、当時は女の子の様に見えたかも知れない。

「和歌の子育てを頑張ってるって、たまに母さんから聞いてたから、とっくに忘れてるんだって思ってたんだ。…いや、そう思い込みたかったのかもなァ」
「…謝ったりしないわ」
「だから謝れなんて言ってねェっつーの。つーか謝んなよ、舜を母親のお主が否定すんな」
「っ、貴方なんて大嫌いよ!」
「それでイイ」
「もう好きなんかじゃないわ!大嫌いっ」
「私は好きだけどねィ」
「!」

但しそれは、決して同じ感情ではない。昔は妹の様に思っていただろうが、今は違う。

「俊に私が悪いって言われたのょ。面倒臭いからってほっぽってたからこうなったんだって、判る?6歳児にお説教食らって言い返せないってんじゃ、母親失格だねィ」
「…」
「母親失格なのは、人間失格の私だけでイイざます。アンタは立派に、お母さんやってるわょ」
「………どうして、怒らないの…?」
「好かれてるだけなのに怒る理由なんざあっか。医者になるっつった口で今じゃ子育てやってんだから、私は嘘つき女って言われても甘んじて受け止める覚悟だぜ。綺麗事じゃねェよなァ、人を好きになるって」

何も彼も全て犠牲にしても構わない、絶対に医者になるのだといつかそう思ったけれど、今ではその情熱は跡形もない。目の前に何百人の患者が居ようと、愛しい男が風邪を引いていたらそっちを優先する。幼い息子が腹が減ったと言えば、手術の途中だろうがメスを投げ出して包丁を握るだろう。愛情の前では、理性など何の意味もない。

「…きっとまた、私は同じ間違いを起こしてしまう。駄目だって判っているのに嫉妬してしまうわ」
「医者だって失敗するもんだ。絶対の正義なんて、この世には存在しないざます。矛盾も葛藤も全部飲み込んで、大きな子供は大人の振りをすんのよ」
「…」
「秀隆を好きになってもイイわょ。それが憧れでも本気でも、私から奪えると思うんだったら頑張って頂戴。言っとくけど、そんじょそこらのか弱い主婦だと思わない事ね!」

仲良くする気はない。弟の嫁だからと言って、距離を置いてはいけないなんて決まりはないだろう?
近すぎる事で忘れられなくなるのであれば、離れていれば良いのだ。もしかしたらいつか思い出になる日が来るかも知れない。諦められないなら諦めないまま、張り裂けそうになったなら我慢せず、今後も同じ過ちを繰り返し続ければ良い。

「アンタが間違える度に私は鼻で笑ってやるわよ。殴り合いがやりたけりゃいつでも相手になってやらァ、どんな大怪我したってきっと直江が何とかしてくれるざます。手加減はしないわょ!」

さぁ、死ぬまで戦おうじゃないか。
メスを手放し包丁とまな板を装備した主婦は、悩んでいる暇などないのだ。何せ子供はあっと言う間に大きくなってしまう。子供で居てくれるのは、ほんの数十年なのだ。

「父。将棋盤を取りに行くと言って既に30分ほど経過しているが、そんな所で何をしている?」
「…息子よ、父さんはママの格好良さに震えているんだ。もう少し余韻に浸らせてくれないか」
「でも、じーちゃんが鬼みたいな顔になってるぞ」
「それはいかん、急いでこの将棋盤を持って行ってお義父さんの膝の上に座るんだ俊」
「何故だ」
「孫に膝を奪われて鼻の下が伸びない祖父はいない。…と、村井営業部長が言っていた」
「そうか」

綺麗な三日月が浮かび上がっている夜空を眺めていると、旦那と息子のヒソヒソ話が鼓膜を震わせた。広さと古さだけが売りの純和風の木造家屋の防音能力が如何に低いか知らない様なので、気づかない振りをしてやろう。

「じーちゃん、膝に座ってもイイ?」
「俊兄ちゃんが座るなら俺も座るっ。じーちゃんじーちゃん、抱っこしやがれ!」
「ぐふっ。ま、待て俊と舜、お前らはじーちゃんが幾つだと思っている…?」
「遠野龍一郎70歳」
「とーのりゅーいちろー、ななじゅっさい!ねーねー俊兄ちゃん、俺は何歳なの?!」
「俺が今度7歳だから、舜はまだ5歳だ」
「俊兄ちゃん、スゲー!」

リビングから凄まじく賑やかな声が聞こえてきたが、ぐふっと言うくぐもった声を最後に父親の声が聞こえなくなったので、もしかしたら死んでいるかも知れない。

「はァ。お盆だってのに騒がしいったらありゃしないわねィ、パパ」
「西園寺学園に入寮してしまった和歌君も居たら、もっと賑やかだったろうな」
「シューちゃん、馬鹿親父のバイタル確かめてきてくんない?止まってたら仏壇注文するから」
「面映ゆい」

その時は、息子と甥っ子を褒めてつかわすしかないだろう。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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