帝王院高等学校
そう!期待するだけ無駄です!
どう見てもアジア系、それも日本人の体格に近い様な気がした。第一印象では。

「Coming through kid, do you want to be doctor by any chance?(退いて坊や、もしかしてお医者さんになりたいの?)」

但し、開口一番は最悪だ。怒鳴り返す前にこめかみがピキリと音を発てた様な気がするが、血管が切れなかったのは奇跡だろう。
突然爆発したマンホールが通行人を薙ぎ倒す事件が起きていなければ、間違いなく無言で殴り掛かっていたと思う。近くで古いビルを壊す大掛かりな工事が行われていた事は知っていたが、何らかのミスが起きたのは間違いないらしい。ドイツ語とオランダ語で怒号が飛び交う中に、ペルシア語も混ざっている。国境の町の日常ではあるが、誰もが冷静ではない様だった。多少の例外を除いては。

「I am not kid.(餓鬼じゃない)」

舌打ちを噛み殺して絞り出した英語は、単語を並べた程度だ。日本の中学高校で学ぶ最低限の授業で培ったイングリッシュを、まさかドイツの外れで話すとは思いもしなかった。もう少し冷静でいられる状況であれば洒落た言い回しも出来たかも知れないが、遠野俊江の目前には今、夥しい血を流している怪我人が横たわっている。
辛うじて意識はある様だが、その所為で尋常ではない痛みに襲われているらしい。手早く幾つかの質問をしてみたが、どうも反応が悪い。ドイツ人なのかオランダ人なのかも、見た目では判らなかった。俊江が精通しているのは日本語とドイツ語で、先述の通り英語は堪能と言う程でもない。勿論知識はあるが高校での専攻は理科だ。幼い頃から医学部志望だったのだから、文系専攻である筈がないだろう。

「I think this trouble will killing me, however I changed my mind.(面倒な騒ぎに巻き込まれて最悪な気分だったけど、気が変わった)」

日本人の様な体格で癖のない黒髪、けれど瞳の色は良く見ると榛色をしている女の口から飛び出した流暢な英語は、一般的な日本人からは明らかに掛け離れていた。俊江の知識で正常な翻訳が出来ているか不安が残るが、現時点での優先順位は薄気味悪い女ではなく、目の前の怪我人だ。
近年世界中で行われている交換留学でのボランティア活動は、適切なステップを踏めば単位が貰えるので志望する学生は多い。然しその中でも俊江の渡航回数は群を抜いて多いだろう。初めの内は日本の女学生などすぐに逃げ帰ると馬鹿にされたものだが、そう言って笑った人間ほど早々に帰国していった。母国で最低限のカリキュラムをこなしても医者になれるのだから、わざわざ苦労を買う必要はないと言う事だ。それでは量産型の医者になると思っている俊江にとって、日本の医学は甘いと思う。安全第一を謳う大人達の言い分も判るが、だからと言って死なずに済んだかも知れない人達が今この瞬間も亡くなっているのに、現状を変えようとする者は少ない。
帰国する度に『そろそろ真面目に頑張ろう』などと言い聞かせてくる教授も、海外は危ないだとか訳知り顔で諭そうとしてくる付き合いの薄い親戚も、『君は凄い』と口では褒めてくる無意識差別も、全部、糞喰らえだ。

「I don't give a damn what you think, do me a favor?(テメェがどう思おうが関係ねぇが、お願いがある)」
「OK baby, can I help you?(良いよ坊や、何?)」

人を助けたい思いは同じ筈なのに、どうして努力しようとしない?

「失せろブス」

脊髄反射の様に口から飛び出したのは、日本語だった。日本人なのだから何も悪くない筈だ。
運が悪い事に、偶然破裂したマンホールのすぐ近くを通り掛かった所為で、頭にマンホールの蓋が直撃した通行人が倒れた瞬間に、俊江は居合わせていた。不眠不休同然の慌ただしさで何日寝ていないかもう数えてもいなかった時に、降って湧いた休日にしては、宿泊先から出るなりとんだ災難だと思わないか?日頃の行いは良い方だと思っているが、自称では駄目なのだろうか。

「What?」
「にやにや眺めてるだけで手を貸そうともしねェ性悪女にゃ、勿体ないくらいの褒め言葉だっての」

矢も楯も堪らず、買い物するつもりだった事も忘れて処置を始めれば、遠巻きに眺めているだけの通行人の中からその黒髪の女は近づいてきた。飛び交う怒号も逃げ惑う人々も他人事の様に、薄笑いを浮かべて。
不思議なのは、『軍人』と書かれている迷彩柄のつなぎを着ているのだが、軍人の軍の字が『うかんむり』になっている所だろう。良く見れば人の字も怪しい。底辺のない三角形の様だ。駆け寄ってきた割りには怪我人と転がったマンホールの蓋を眺めているだけで、ミリタリーファッションは何の役にも立っていなかった。

「へぇ、適切な応急処置だな」
「黙ってろニューヨーカー」
「生まれも育ちもワシントンDCだぜ?」

ただのアメリカ人観光客だろうかと思えば、遠くからサイレンの音が聞こえてくる。通行人が通報したにしても、予想より随分早い。

「そろそろ桜が咲いてる頃だ」
「Sakura?チェリーブロッサムじゃないの?」
「ワシントンの桜は日本から来たんだ。思い出した、さっきの日本語だろ。坊やは日本人だ」
「誰が坊やだブス。英語は得意じゃねェんだよ、ドイツ語と似過ぎてて紛らわしい」
「へぇ、もしかして女?この真っ平らな胸で」

手持ちのハンカチや鞄の中に偶然入っていたセロテープなどで出血を止める事に成功するのと同時に、迷彩女は背後から胸を両手で揉みしだいてきた。…いや、表現に些かの偽りがある事を認めよう。揉みしだくも何も、ペタンと掌を押しつけられただけだ。

「…マジで男より平べったい」
「俺ァ、人生で初めて殺したい女に出会ったょ」

胸が小さい事を指摘された事は過去にもあったが、気が置けない友人との会話でだった。つい最近王子様の様な学生に情熱的なドイツ語で口説かれたばかりだが、王子様の様な見た目の女性だったと言う残念なお知らせがある。
俊江を口説いてきた異性と言えば、極道家業に似合わないあだ名を俊江が勝手につけた、高坂向日葵だけだ。ゲイを公言するふしだらな男に成長したが、大学へ進むなり司法試験に合格した優等生で、頭脳に関しては俊江も認めていた。但し人間性に於いては同じ括りではない。子供の頃に度々お年玉をくれた高坂豊幸は人格者だったが、女癖の悪さでも知られていた男だ。極道の道徳を、一般人に理解出来る筈がない。

「揉んだら大きくなる」
「デカけりゃイイっつーもんじゃ…つーか、離しやがれ!レズかテメェ!」
「おっと」

控えめな乳首が他人の指で弄られているので、振り向き様に殴り飛ばしてやるつもりだった。
然し紙一重で躱される瞬間をまるでスローモーション様に網膜に焼き写した時、彼女もまた同じ様な表情をしていたと知る。その緑とも黄色ともつかない不思議な色が混じった、明らかに黒とは違う眼球に、目を見開いている自分の顔が写り込んでいたからだ。

「ヒュー。軍人に手を出すなんてやるじゃねーか、クレイジーキッド」
「アイアム21歳ざます!」
「嘘だろ?…日本人は若く見えるって言うけど、21?!」
「何か文句あんのか」
「まさか同期とは。悪かったなレディ?」
「大体その漢字間違ってっかんな、安もん売りつけられやがって!軍人の軍はっ、」
「少尉!」

そう言えば、サイレンの音が違ったと気づいたのはたった今だ。場所が国境に近い街だっただけに、ドイツ人もオランダ人も多く見掛ける場所ではあったが、想定外だ。どう見ても救急車には見えない厳つい軍用車には、オランダでもドイツでもない国旗が描かれている。

「レスキューが到着する前に搬送します。宜しいでしょうか」
「少尉、ベルリンと電話が繋がっています」

寧ろ世界一有名な国旗と言っても過言ではないだろう。バラバラと車から降りてきた体格の良い男達が、口々に自分達より明らかに若い女に敬礼し、怪我人の手当てと破壊された地面の対応に取り掛かっていた。

「悪いねお嬢ちゃん、この場は我々が指示させて貰う。一般人は引っ込んでろ」
「…星条旗?」
「独立戦争に協力してくれたオランダと我々の友好関係は、現在に及んでいる。…とまぁ、堅苦しい前置きは良いか。この近くでファールスを監視していたんだ。ドイツに恩を売っておくのも悪くはないと思って、…ダイナマイトの量を誤魔化させて貰った」
「おい、離っ」

面倒事に巻き込まれた、と。数分前に困ったと言わんばかりの表情で宣った筈の女が、膝を折り耳元に口寄せてくるなり囁いた。すぐには意味が判らなかった俊江は嫌がる様に体を離したが、素早く手首を掴まれた。

「お陰で人殺しにならずに済んだぜ、恋人に向ける顔がなくなるからな。感謝するよ?」

遥かに高い位置にある女の不思議な色合いの瞳が歪んだ瞬間、俊江は唇を吊り上げた。
この状況が面白い訳ではない。一心不乱に手当てをしたばかりの怪我人が、男達に抱えられて運ばれていく光景に安堵した訳でもない。寧ろ今の感情を一言で表すとすれば、怒りだ。

「この騒ぎを仕組んだってのか。テメェらの損得の為に」
「国規模のな。多少の犠牲はやむを得ないだろ?」

条件反射で殴りつけた直後、人生で初めて銃を突きつけられた。
鼻血を滴らせながら悍ましい程の笑みを浮かべた女は、構えた仲間達を手で制しながら自らの血を拳で拭うと、ゆったり唇を舐めたのだ。

「…面白い女だな、顔は完璧に覚えたぜ。適切な処置の褒美に今日だけ見逃してやるが、次に会った時は殺す」
「抜かせブス、テメェなんかと付き合ってる男に同情するわ」
「撃ち殺されてーのかファッキンチビ、貧乳の嫉妬は見苦しいんだよ」
「テメェ、名乗りやがれ」

日本が誇る鬼医学生はこの日、心のデスノートに父親以外の名を書いた。


「サニア=フリードだ。サインでも書いてやろうか?」

ムカつく度で言えば、遠野龍一郎を越えていただろう。


























何か忘れている様な気がすると、額の上で前髪を結んだ子供は首を傾げた。
白衣姿の学生や教師らに囲まれ『無表情で』遊んでいる知人を横目に、朝から何度も繰り返し続けた台詞を言う為に、口を開く。

「まだー?」
「もう少しで終わる」

少し少しと言う癖に、ちっとも終わる気配がない。ストローを咥えた山田太陽が頬をぷくっと膨らませると、グラスの中で緑色の液体がぶくぶく泡立った。

「遊ぼーよー」
「俺とじゃ面白くないと言ったのは?」
「だってつまんないんだもん。ねー、いつまで待ったらいいのー?」
「もう少し」

大人達に囲まれている幾らか小さい子供は、研究員が着ている白衣と同じデザインの真っ黒な服を羽織っている。白衣だらけの中でより見分けがつき易い様にと言う配慮の様だが、お陰様で太陽から見ても同い年の子供には見えないのだから、大人びていると言えば正解なのか、老けているが正解なのか。

「少しってどのくらい?」
「AIの予測プログラムの最終調整後に不具合がなければ、終わりだ」
「うぇー」
「道端にモンスターが居て、触ったらどうなる?」
「バトルが始まる!」
「それはそうなる様に、緻密なプログラムが組まれているからだ。然しもし不具合があれば、戦闘が始まらない」
「大事件だねー」
「そうならない様に、人間の脳に相当する知能プログラムを精査しているんだ」

一週間で作れるものじゃないんだぞと、興奮した面持ちの技術者達が叫んだ。怒っている訳ではないのだろうが、ビクッと肩を震わせた太陽はお茶請けの飴玉を掴むと、脊椎反射で投げようとしたが後ろから伸びてきた女性達の手で窘められた。

「ミッドサン、食べ物を粗末にしたらダメですよ」
「サリーちゃん、今日も髪の毛キラキラでかわいーねー」
「ミッドサンは女性を喜ばせる天才ですか?おばさんを揶揄って」
「サリーちゃんはおばさんじゃないよー、かわいーよ」

どう見てもアラフォーの教授を可愛いと言ってのける四歳児は、辛抱出来なくなった教授にぎゅむっと抱き締められている。

「ああ…ッ!ケルベロスとミッドナイトサンに、この愛くるしさを分け与えたいわ!ねぇミッドサン、大事にするからサリーの息子にならない?」
「ごめんねー、アキちゃんネイちゃんと結婚するって約束しちゃったんだー」

ああ、そうだ。だから一刻も早く日本に帰らないと、今頃公園で待っているかも知れない。

「ねー、つん君」
「俺はつんじゃない」
「早く帰ろーよ。アキちゃん、秋刀魚の塩焼きが食べたいんだよねー」
「秋刀魚の旬にはまだ少し早いだろう」
「俊がシュンって言った」
「そうだな」
「学長のおじさんが持ってるゲーム、つまんないしさー。大体、何でアメリカなんかに連れてきた訳?お前さんに友達がいないのは知ってるけどねー、アキちゃんの都合も考えてよねー」
「違う。お前が俺を連れてきたんだ」

記憶を消すと、まるで不完全なジグソーパズルの様に斑になってしまう。人間はその空白を補完する為に、それに関連する全ての記憶を勝手に歪めてしまう。だから記憶を抹消する事は、極力避けるべきなのだと帝王院秀皇は言った。彼は月のない、静かな夜にだけ現れる。
などと、恐ろしい速さでキーボードを叩いている背中が振り向きもせずに囁いた。英語とスペイン語とフランス語を交互に喋りながら日本語を混ぜて喋っている黒衣は、こんな時でも『修行』とほざいて、デスクの下の裸足でダンベルを掴んでは下ろしていた。ぐわっと開く俊の足の指は、まるで手の指の様に動くのだ。不気味な事この上ない。

「呼び捨てしないでくんない?」
「太陽も俺を呼び捨てにすればイイ」

太陽が言う呼び捨てとは、『お前』呼ばわりの事だ。お前に敬称をつければOKと言うアバウトさは、幼さ故だろうか。

「やだ、何で友達じゃないのに仲良くしなきゃなんないのー」
「桜の事は呼び捨てにしていたじゃないか」
「おデブなさっちゃん、弱い癖にシュギョーやってるんだよねー」
「通常、人は弱いから鍛えるものだ。元より強ければ、鍛える必要はない」
「お前さんは弱くないのにシュギョーしてるじゃん」
「俺は父に従っているだけだ。男は強くなければならない」
「宮様だもんねー」
「違う。遠野だ」
「じゃ、シュギョーしなくていいじゃん」

文学教授のサラエナ=ロングブーツは、屁理屈をこねまくる幼児の前髪を背後から一つに纏めると、大きなボンボンがついたヘアゴムでくるりと結い上げた。理系の発明などにはそれほど興味がない文系達から、黄色い悲鳴が上がる。ただでさえ幼く見えるアジア系の子供は、娯楽が少ない大学構内でアイドル的な扱いを受けていた。

「可愛いぃ!ミッドサン、スカート履いてみない?!」
「グリーンティーお代わりするでしょ?その前にちょっと着替えてみよ」
「ミッドナイトサンとはまた違う魅力があるね」

むっと眉を跳ねた太陽は、再び飴玉を投げようとしたが歯を食いしばって耐えたらしい。黄色い声を上げている生徒らの殆どが、女性だったからだろう。案外真摯なお子様である。

「はぁ。許してくれば写真を撮ったのだけど、ブライアンが煩いんだもの」
「サリーちゃん、おっちゃんはじーちゃんから脅されてるんだよー」
「Oh、じーちゃん?」
「おにおん」
「ミッドサンは玉ねぎが好きなの。鏡を見て、今の貴方は玉ねぎの妖精の様よ。可愛らしくて食べちゃいたいわ…」
「サリーちゃん、アキちゃんは美味しくないよ?俊の方がおっきいから、きっと美味しいよー」

太陽は俊と一緒に英語を勉強した筈だが、何が気に食わないのか初日以降日本語を貫いている。翻訳は出来ている様なので、話しかけられれば反応はするものの、返事は日本語でするので会話は続かない。
教授になる為に婚約を解消したと言う伝説の持ち主であるサラエナは、太陽の見た目の愛くるしさに誰よりも傾倒し、その優秀さを以て以前から興味があったと言う日本語をたったの三日で覚えてしまった。どうも教え子にして同僚でもあると言う、ケルベロスが書いた論文を参考に、徹夜で辞書を丸暗記した様だ。天才しかいない世界最高峰の大学で教鞭を執っている人間には、不可能はないのかも知れない。

「こうしちゃいられない、ミッドサンを讃えるポエムを書くわ!」
「キュート!」
「ソーキュート!」
「あはは、…褒め言葉じゃないっつーの」

唯一日本語が判るサラエナがノートにペンを走らせている隙に、無邪気な笑みを貼りつけた子供は呟いた。化けの皮が剥がれているぞと言わんばかりの視線を感じ、太陽はソファの上にコロンと横たわる。あざとい仕草に、また黄色い悲鳴が沸いた。

「何?」
「別に」
「ふーん、こっち見てた癖に。いつまでちやほやされて喜んでるのかなー、ばっかみたい」

おすましモードに飽きたらしい太陽は、大人達から撫で回されながらへらっと笑う。表情は見事に可愛げを装っているが、口調も台詞も破綻寸前だ。外面が良い事で名高いミッドナイトサンの真似をしているのかも知れないが、太陽の外面はどうにも長続きしない。見た目が平凡な子供なので、気づかれ難いだけだ。

「ロボットは作るより操作する方が楽しいに決まってるじゃん。お人形さんで遊んでる女の子みたいだよねー」
「お前こそゲームの腕前ばかり上げていないで、心身を鍛えた方がイイ」
「アキちゃんに勝てる奴なんかいないもん。おデブのさっちゃんだってさー、アキちゃんがお座りって言っただけで転んじゃったでしょ?頑張ってシュギョーしたって、だーれもアキちゃんに勝てないんだよ?あはは、時間の無駄だよねー!」
「無駄?」
「スライムみたいに経験値でもくれれば存在してもいいけどさー」

傲慢な台詞ではあるが、経験に基づいている。嘘でも誇張でもなく、太陽の言葉に逆らえる人間は余りにも少ない。
たった数年の人生で苦労を感じた事がない太陽は、ありのままの事実として己の強さを実感していた。それこそゲームの主人公の様に、選ばれた人間だと思っていても何ら不思議はない。

「雑魚は何処まで頑張っても雑魚、どんなに頑張ったって捨てられちゃうんだ。全部、十口に行っちゃうんだよ。アキちゃんのひーじーちゃんは幸せ者だけど、例外なんだって。例外は特別って事なんだよ」

榛原晴空には、美空と言う娘しかいなかった。後継ぎが生まれるまで子供を作る事を強いられてきた空蝉の当主としては異例だが、周囲が子作りを急かす事はなかった。理由は、帝王院鳳凰が空蝉を解散させてしまったからだ。
帝王院雲雀と同世代だった晴空の結婚は遅く、娘が産まれるまでにも数年懸かっている。重い腰を上げた晴空が漸く迎えた花嫁が山田大志の一人娘だと言う事で騒動もあった様だが、帝王院俊秀と帝王院秀之による家督騒動などで混乱期を迎えた空蝉の婚期が遅れた事自体は、当然の流れかも知れない。

「…ヤスの病気が治ったって、捨てられちゃうんだ」
「灰原は滅んだ。二度と目覚める事はない」

騒動の最中に娘が生まれた俊秀は、雲雀が失踪した事で40歳を迎える前に京都を捨てている。天神に従い共に東へ移り住んだ晴空は、そこで漸く妻を迎えたのだ。推測するに、40代半ばだっただろう。
失踪した雲雀が生まれるほんの少し前に、嫡男が生まれていた冬月鶻は、生後間もない二人の子供と共に行方を晦ませてた。

「何で?」
「鳳凰公の望みだ。榛原晴空が力のない一人娘を手放さなかった様に」
「だって外のお嫁さんになったからじゃん。あのままだったら、十口か宮様のお嫁になってたよ」
「実際、そのどちらでもないだろう?絹惠は鳳凰より若く、駿河より遥かに歳上だった。俊秀は桐火以外の妻を娶らず、鳳凰は糸遊を娶らないまま」

京都の冬月家断絶に一役買ったのが、大禰宜の役職を頂いていた榛原家である事は、灰皇院の誰もが知っている。天神の命令がなければ動かない雲隠家とは違い、天神の為なら自らの考えで動く事もあった榛原の実力は、空蝉の中でも群を抜いていた筈だ。

「でもさ、皇はバラバラになっちゃったけど、お父さんは宮様にお仕えしてるよ?」
「大空は嫡子の義務に従って秀皇に仕えている訳じゃない。父が命じた所で、拒否すればイイ」
「断れなかったんじゃない。宮様は榛原の魔法が使えるんでしょ?でもきっと、アキちゃんより弱いんだよねー」
「榛原では最強のお前も、雲隠ではそうではない。冬月でも明神でも、お前は生き残る事は出来ないだろう」
「は。全員、お座りさせてやんよ」
「冬月は間もなくお前の声を記憶するぞ。明神には感情を見透かされるだろう。耐性が出来れば、最強はその威力を失う」

だからこそ異端視されていた灰原には、悍ましい家訓がある。当主が入れ替わるのと同時に、それまでの家族を抹消してしまわなければならないと言う、痛ましい決まりだ。

「…俺が当主になる事は」
「俺がお前を灰原として認める事はない。延いては夕陽が十口へ落とされる事もなければ、お前が心配する事態が訪れる事もないだろう」
「絶対?」
「絶対だ」
「ヤスは喘息なんだよ。十口に行っちゃったら死んじゃうよ」

過去に十口へ落とされる姉弟妹を哀れみ、匿っていた当主が少なからず存在したが、最終的には身内で争わねばならない状況に陥り、当主が催眠を使って解決せざるを得ない結末を迎えている。歴代最強の呼び声高い榛原晴空にも数人の弟妹がいたが、当主が入れ替わった後に離散していた。

「陽子おばさんは初めて出来た子供が病気がちで、心労が溜まってるだけだ。過保護になり過ぎているだけで、夕陽は心配しなくても強い男になる」
「階段から落ちても死なないくらい?」
「死ななかっただろう?」
「でも血が出たよ。痛いって泣いてたもん」
「血は誰でも出る。俺もお前も」
「でもアキちゃん、すぐ治るもん」
「俺達の血は、遠い雲隠の祖先で繋がっているからだ」
「山田だよ」
「知っている」
「兄弟喧嘩したくないんだよ」
「知っている」
「俺は公家でも何でもない」
「俺もそうだ」
「…それなのにきっと俺は、公家に仕える蝉なんだろうね。命令されたら断れないんだ」
「命令は嫌いだろう?」
「大嫌いだよ」
「俺はお前を部下にしたいとも、友人したいとも、思わない」

キーボードから手を離した黒衣が立ち上がり、離れた所にある硝子張りの窓に張りついていた大人達が一斉にどよめくのを見た。プログラムを書き加えられたロボットが、硝子の向こうで起動した様だ。これから幾つもの動作チェックを行い、最終的な判断が下されるのだろうか。

「興味ないからだろ」
「ああ。お前の物語は完結している」
「平凡な物語?」
「後はお前が望むままに。お前に逆らえる人間は存在しない」
「でも冬月は宮様に逆らったじゃんか。絶対は絶対ないんだよ」
「そうだな」
「…うざ。滅びればいいのに」
「悪かったな小僧、とうに滅びた」

ロボットに他人の関心が向いている隙に、何処からかやってきた男が呟いた。食事を買ってくると行って出て行った事を思い出した太陽は、しゅばっと起き上がって手を伸ばす。

「じーちゃん、秋刀魚あったー?」
「可愛げの欠片もない貴様の祖父になった覚えはない」
「あはは、意地悪なお年寄りは嫌われちゃうよー?じーちゃんみたいなおっちゃんはね、老害って言うんだってー」
「貴様は晴空殿よりも臍が曲がっているらしい。そんなに家を継ぎたくなければ、能力ごと弟にくれてやれ」
「でもさー、おっちゃんのオトートにも孫がいるんでしょ?俊が言ってたじゃん、えっと、なんだっけ。鳩ポッポ?」
「鳩じゃない、隼だ」
「そいつ倒したら、アキちゃん超強い?」

にこにこと宣いながら、遠野龍一郎が買ってきた紙袋を漁った太陽はランチボックスをぱかっと開いた。綺麗に敷き詰められたサンドイッチを興味深げに眺め、真っ先にレタスサンドから手に取っている。恐らく色合いだろう。

「冬月なんかちょいと頭がいいだけで、弱っちいもん。雲隠はラスボスかもしんないけど、冬月はスライムでしょ?お団子さんみたいに、ぎゅーって潰しちゃったら逃げられなくなるよー♪」
「さァ、どうだろう。向こうには翼がある」
「へし折ってやんよ」

眉間を抑えた龍一郎は口を閉ざし、缶コーヒーのプルタブを開けた。同世代より遥かに聡明だと言ってもませくれているだけで、天才の部類ではない太陽の性格の悪さは冬月の手にも余る様だ。鬼と呼ばれている天才外科医が匙を投げる程だから、少々捻くれている程度の叶が手玉に取れる筈がない。

「…何がミッドサンだ。質の悪い」

龍一郎も俊も、この大学内でミッドナイトサンと呼ばれている人物の正体を知っている。ついでに言えば太陽も知っている筈だが、多くの男達に求愛されているらしい話を聞くなり『それはネイちゃんじゃないもん』と宣い、以降ミッドナイトサンを敵視している節があった。
似た様なあだ名をつけられてしまった事に腹を立てているのかと思えば、それもまた違う。何せミッドサンの名付けの親は、他ならぬ山田太陽本人だからだ。

「鳥さんが飛んでるお空にはー、ニッコニコなお日様がいるんだよねー。アキちゃんのことー。あはは、やっぱ宇宙最強って感じだねー」
「勇ましいな。確かに太陽の怒りは命を奪いかねないだろうが、雲には通用しないぞ。その光は容易く閉ざされ、恵みの雨を降らせるだろう」
「もー、お前さん言い訳ばっかしてさー、男らしくないよねー。アキちゃん、弱い奴と男らしくない奴、嫌いだなー」

もぐもぐとサンドイッチを頬張り、ごくごくと緑茶をストローで啜った子供は景気良くゲフッと息を吐くと、短い足をしゅばっと組んだ。かと思えば、ソファの上へまた転がった。どうやらロボットに一頻り興奮した観客の中から、何人かが太陽達を窺っていたらしい。息をする様にあざとさスイッチが入るのだから、太陽は中々の役者だろう。

「俊は顔が怖いから誰も話しかけてきてくんないね。最近は男にも愛嬌が大事なんだよ。もうちょい修行した方がいいよ」
「そうか」
「サリーちゃんのおっぱいふかふかだったよ。俺は可愛いから触っても叱られないけど、じーちゃんと俊はセクハラになるから我慢してねー」
「俊、そやつを箱詰めにして船便で日本に送り返してはどうだ?」
「じーちゃんはふかふかなおっぱいより、ぺったんこのおっぱいの方が好きなんだ」

かーちゃんがぺったんこだから、と。
真顔を呟いた遠野俊の隣で盛大にコーヒーを吹き出した鬼は、目を限界まで見開いて首を振った。

「ま、待て、美沙は俊江とは違ってそれなりにある…いや、何でもない」
「おっぱいなんておっきくてもちっさくても、どっちでもいいんだよねー。もっと大事なことがあるんだもん」

丁度ポエムを書き終えたサラエナ=ロングブーツはビタっと動きを止め、

「一番大切なのは、顔だよー」

笑顔でとんでもない事をほざいているでこっぱちを見つめたまま、最近の幼児はどうなっているのだろうかと。自身も物心つく頃には神童と呼ばれ慣れていた覚えがある女性教授は、何とも言えない複雑な女心を呑み込んだのである。

←いやん(*)(#)ばかん→
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