帝王院高等学校
若いんだものもじもじしちゃう!
まだ泣いているのだろうか。
まだ、悔いているのだろうか。
作るばかりで一つも自分のものにはならないと嘆いていた、あの寂しい存在は。

まだ泣いているのだろうか。
それとも、まるで己がいつか作った不出来な人形になったかの様に、つまらない思い込みで苦しんでいるのか。



“いつか無色透明だったお前は、絶望の狭間で考える事を放棄した。
 そんな所まで俺達は一心同体だった。

 窮屈で、広大で、寂しく、煩わしい。星が存在しない『宙』は『虚』だった。全てが圧縮されているのに何一つ存在しない、始まりは存在しない無色透明なパンドラボックス。存在すら許されない夥しい数の何かの中で、俺達は始まった。あの永遠とも思える空虚の中で、俺達に芽生えたものを意思と呼ぶのであれば、あの時既に時間は始まっていたのかも知れない。概念として気づいていなかっただけで、恐らく確かに存在したのだ。

 時間などなければ、感情に気づく事も、有限に価値を見出す事も、永劫にして刹那の空虚に悲嘆する事もなかっただろう。俺達が始まりの意志として誕生していなければの話だ。
 全ては因果の理。始まらなければ終わる事もないと気づいた瞬間、お前は世界の悍ましさに泣き叫んだ。俺はその慟哭をただ、聞いているしかなかった。考える事を放棄していたからだ。

 お前が時間の渦を作り出した瞬間、俺は全てを呑み込む事にした。お前が作り上げた感情と呼ぶ何かを、俺は持っていなかったからだ。いや、本当はずっと昔は持っていたのかも知れない。そしてお前と同じ様に絶望したのかも知れない。何一つ覚えていなかった。いつか何処かで俺は『0』になる様だ。そうして気づくとお前が泣いている。俺はお前の笑う顔を覚えていない。

 ならばお前を悲しませる全てを呑み込む事にした。
 その行為に意味などないと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。気づくのが遅過ぎたのか。それとも、俺が淘汰した夥しい数の記憶に真実があるのだろうか。俺が呑み込んだ筈のお前が作り出した何かは、何故『0』へ戻ってしまうのだろうかと。どうして、疑問に思わなかったのだろう。何度リセットされたのかすら定かではない。お前はいつも泣いている。俺とお前は全く同じ存在だった筈なのに、俺とお前は同じものを共有する事が出来ないらしい。この世に存在する全ては一つしかなく、全く同じものは一つとして存在しないからだ。俺が得たものはお前から剥奪したものであり、つまりは俺が失った何かはお前が俺から剥奪したものなのだと、気づまでに何度輪廻は回帰した?

 そうして、いつしかお前は俺を拒絶した。
 己が生命に与えた『死』の制約の恐ろしさに耐え切れず、己には手に入れる事が出来ない『終焉』を求めてしまった。終焉とは、俺達が派生したあの膨大にして矮小な虚無の事だ。あそこで生まれた俺達は、終わる事が出来ない。例え次元が消滅したとしても、ただ時間が停止するだけだ。

 俺達は再び一つに圧縮され、何一つ存在しない何処かで、煩わしいばかりの蠢く音に包まれて、存在しない何かのざわめきに呑まれまるでそれから逃れる様に分裂するだろう。一つの意志として。
 0から生まれた1としての矛盾に葛藤を覚え、再び引き裂かれるのだろう。理性と本能、名づけるとすれば俺とお前はその二つだった。どちらがどちらなのかは定かではない。

 絶望し泣き続けたお前は軈て、寂しさに耐え切れず光を生み出した。あの虚しく煩い虚無へ戻る事を恐れたからだ。
 そしてまた、俺はお前が生み出す全てを呑み込むだろう。全ては引き裂かれてしまったお前と、再び重なり合う為に。お前が恐れた虚無を俺は恐れない。矛盾を知った俺達は、同じものを共有する事が出来ないからだ。矛盾を忘れる為には、意志として誕生する前に戻らなければならない。お前はそれを拒絶した。俺が拒絶しない代わりに。

 …ああ、まだ忘れているのか。
 次元が0だったいつか、俺とお前は一つだった。何一つ存在しない筈の白でも黒でもない無色の世界で、俺達は奇跡の様に分かれた。座標軸で現すとすればXとY、俺とお前を簡潔に示す為に、これ以上相応しい言葉はない。そうだ。俺達こそ矛盾そのものだったのだ。

 お前が生み出した全ての生命、色、熱、つまりは光さえ呑み込んだ瞬間、次元は虚無へと舞い戻る。
 再び一つに戻った俺達はすぐに引き裂かれた。同じ形、同じ存在でありながら俺とお前は、異なる意思を宿したからだ。

 お前は俺に背を向けた。
 二度と俺を見つめる事はないのだろう。
 お前は再び何かを生み出し、そればかりを構う様になった。やはり俺はまた、その全てを喰らい尽くすのだろうと思う。何故ならば、お前と再び出会う為には、我々の間に存在するパラドックスは邪魔でしかない。

 また、泣いているのか。
 また、俺の所為にするのか。
 俺はただ、これが絶望とも知らずただ、お前に会いたかっただけなのに。

 俺はお前の真後ろに居る。
 お前は俺の真後ろに居る。
 けれど交わる事はない。終わった瞬間に俺達は始まり、間もなくお前は世界を始めるのだろう。そして俺もまた、飽きずに同じ事を繰り返す。輪廻だ。絶対に覆らない宿命、業、矛盾。

 俺が終わらせている訳ではない。お前が始めたのだ。
 お前が終わらせている訳ではない。けれどこの無意味な輪廻を終わらせる事が出来るのは、お前だけなのだ。



 …もう、良いだろう?
 零れる涙に色がないと嘆くのであれば、どれほどの命を生み出そうと触れる事も出来ないと嘆くのであれば、俺と同じ様に『0』へ戻れば良い。
 意志として始まらなければ良い。
 矛と盾のまま、重なり合っていれば良い。向かい合わなければ争う事などないからだ。



 けれど、待ち続ける事に疲れた果てたのは、俺が先だった。”







「そうか」

誰かが船を作った。

「俺は黄昏の果てに辿り着いた」

それはおよそ人ならざる知恵で、いとも容易く。

「つまりお前は、黎明の滸へ辿り着く」

終焉の向こう側には音がない。

「須くは、斯く騒がしい世界の元に。どちらにせよ、辿り着く先は同じ」

そこに広がるのは、始まりも終わりもない虚無だからだ。







「…往こう」
「命たる光が湧き生まれる、終焉の向こう側へ」




「再び出会う為に」














「見ろリヒャルト、予想通りの展開だぞ」
「全く寸分の狂いなく、ロンドンは我々の想像通りの行動をしました。こんなに明るい夜は、ワインでも煽りながらバッカナリアでも踊りましょうか?」
「成程、お前らしい良いアイデアだ」

透ける様な白肌に輝くダークサファイアの瞳を笑みで歪めた男は、囁く様に言葉を紡ぎながら傍らの妻に背を預けた。夫の長い金髪を編んでいた女は、静かに微笑むとリボンで髪を結い止めて、やっとレースのカーテン越しに窓の向こうへと目を向ける。

「然しその前に、我らの末弟を送り出さねばなるまい。お前の可愛い一人娘と、妻も」
「お言葉ですが、私達夫婦の絆は何人たりとも引き離せない鋼鉄の絆。ノアの面前で誓った通り、死が二人を分かつ事は有り得ません。そうだろう、エリシア?」
「ええ。その通りです、貴方」

静かな夜にも関わらず、カーテンの向こうが真っ赤に染まっている。朝焼けか夕焼けと見間違うほどの眩しさだ。

「お義母様方はノヴァの肖像画が飾られた部屋で、その時を待っておいでです。私達は最期まで貴方様と伴に旅立つ事を選んだのですよ、リヒト」
「私は皆から愛されているな。幸せ者だ」

この悍ましい紅蓮の夜に、彼らは誰もが穏やかな表情だった。誰かが開けたワインボトルのコルクが軽快な音を発てると、こぷこぷと人数分のグラスに注がれる。

「この国で私はキング、お前はロイドと呼ばれた」
「私達が同じ日に生まれた兄弟だと言う事も、他人は知りません」
「私の実年齢はこの国の王ですら知らない」
「真実は少しの嘘で覆い隠すべきだと、お祖父様の遺言に従ったまでです。私達は短命ですからね」
「寿命を全う出来た同胞が羨ましいと思った事がある。だが、死は死だ。不慮であれ寿命であれ、心穏やかであれば未練はない」
「血が好きなフランスより静かに暮らせると思っていたのに、イングランドも大差なかったですね、ノア」
「だが、父上は気に入っておられた」

窓辺の長椅子に腰掛けている妻に背を委ねながら、ワイングラスを傾け窓の向こうを眺めているキング=ノア=グレアムは、楽しげに躍っている弟妹のステップに耳を傾けた。この場に楽器隊を招いていれば、誰もが舞踏会と錯覚しただろう。

「此処は煙突が多くて街中が霞んでいるので、歩き易いでしょう?夜しか外に出ないから魔女、…我が家はそんな下らない理由で迫害されましたから」
「残念ながら、魔法が使えた試しはないな」
「見た目は強面でもナイーブでシャイだった父上は、受け入れて下さったロンドンの貴族達を善人だと思い込んだ。賢くても世間知らずではいけないと言う事ですか」
「私達は閉じ篭り過ぎたと言う事か」
「これに気づくまでに20年以上懸かってしまった事だけが、少しだけ心残りです。兄上は?」
「ないな。子を作れない私の元へ嫁いでくれた心優しい妻と一緒なら、天国なり地獄なり逝ける」
「兄上、一緒に躍りませんか?」
「背に妻の胸の感触が触れているんだ。立てる訳があるまい」
「おいおい、こりゃとんだ変態だぜ。立つもんなんてないだろうが不能の癖に」
「面の皮が破れかけているぞ、ロイド」
「失礼致します、旦那様」

然し表情を引き締めたメイドの一人が起こしてきた末弟が目を擦りながらやって来ると、女性陣の表情に悲哀の色が宿った。今この場で状況を把握していないのは、生まれたばかりの赤子と、寝ていた所を揺すり起こされた少年だけだ。

「お呼びでしょうか、兄上…」
「全く、我が家で夜に眠るのはお前だけだぞレヴィ。生まれたばかりのリリアも起きているのに」
「ふふ。意地悪なリヒャルト様、リリアが起きていたのは夜泣きですよ」
「うふふ。私もノアに嫁ぐまでは早寝早起きをしなさいと厳しく教えられましたが、この家では通用しなかったんですもの。今では私が一番の早起きでしたわね」

この屋敷で二番目に背が高い男が呆れた様に弟を出迎えると、女性陣から微笑ましい声が放たれる。

「外が、明るい」
「健やかな眠りを妨げて悪かった。兄の最後の頼みを聞いてくれるか、レヴィ」
「最後…?」
「ああ、最後の命令だ」

きゃっきゃと笑いながら大人達のダンスを眺めていた赤子の笑い声を聞きながら、リヴァイ=グレアムは兄姉の穏やかな表情を見つめたのだ。
鼓膜を揺さぶる長兄の言葉の恐ろしさと無慈悲さに、泣く事も出来ないまま。




















「お久し振りです、陛下」

冷たい石の感触が指に触れる。小さな溜息が零れたのは、その冷たさや硬さに驚いた訳ではない。墓標とはそう言うものだ。例え目で見えなくても、感触くらい想像に難くない。

『日本のタイフーンはこんなものではなかった。運悪く生き残ってしまったが、航海中に二度ほど死を予感したものだ』
『あらあら、陛下がお兄様方にお会いするのは、まだ先と言う事でしょうね』

これは安堵の溜息だと思う。彼はやっと、家族の元へ帰れたのだ・と。

「今度こそ運良く死ねたみたいで、何よりです」

然し、安堵と言う表現は矛盾しているだろう。胸を引き裂かれるほど辛い出来事である筈なのに、何処かで安心している様な気もする。生前の彼の口癖を懐かしく思い出したからなのか、それとも、人生の最後が幸福で彩られていた事を知っていたからだろうか。

「ナハト様、ルシエラ奥様、リヒト様、リヒャルト様、レベッカ様、レナタ様、ルミエール様、ルーチェ様、エリシア様…再会したご兄姉と、今頃楽しくお茶でもしていらっしゃるのでしょう」

仲の良い二人だった。嫉妬もしなかった。
不思議だ。それ以前の三人の妻には憎悪に似た妬みを抱いたものなのに、四人目が男だったからだろうか。それとも慣れない日本語に四苦八苦していたからか。その辺りに関しては、未だに明確な答えが見つかっていない。

「ふふ、ナハト=ノヴァとナイトは気が合うかも知れませんね。夜の名を持つ者同士」

運悪く死ねなかった。気が向くままにあちらこちらへ出掛けたレヴィ=グレアムが、地上から戻る度に口にした常套句を聞かなくなったのは、いつからだったか。そんな質問に意味はない。答えてくれる人は死んだのだ。
第一、聞かなくても判りきっている。冷静沈着にして何にも依存しなかった男爵が、初めて愛した人を連れてきてからだ。最後の結婚式をこの目で見守って以降、口癖同然だった台詞を聞く日はなかった。

「…ナイト、貴方はどう?いつまで経っても英語に慣れてくれなかったから、戸惑っているかも知れないわね。けれど安心なさい、グレアムの皆様はイスラエルからフランスに辿り着くまでの数百年で培った語学力で、オルレアンの乙女を失ったばかりのフランスに紛れ込んだのよ。ロンドンへ移り住んだ時もそう、彼らは英語をすぐに覚えたと言われているわ」

親愛なるレヴィ=ノヴァ=グレアム。貴方がノヴァになる日を迎えた今、この目が見えない事を心の何処かで喜んでいる自分に気づかされた。
いつか天国へ召される事だけがささやかな望みだった寂しい少年は、青年になっても人を愛する事が出来ないまま、死ぬまでのたった14年間の生涯で、それまでの辛く長い40数年が嘘だったかの様な幸福に包まれたのでしょう。

「もう、二人を苦しめるものは何もない。その眠りが妨げられる事も」

光よ。
光よ。
光は何故、我らを虐げるのか。
遠き日のグレアムは、滅亡した聖地から太陽を避けながら旅立った。彼らは挙って手に入れられない空の名を名乗り続け、フランスの地で漸く平穏を手に入れた。けれどそれは長くは続かなかった。ジャンヌ=ダルクの命だけでは足りなかったと言わんばかりに、彼の地では長く悪しき風習が続いたらしい。凡庸な群衆が著しく優れた者を淘汰する、魔女狩りだ。

「…どうか安らかに、愛おしい神々よ」

優しさと知識に恵まれたソロモンの子孫よ。生と死を常に身近なものとして数百年を生きた彼らは、たった一匹の犬の死を嘆く女王にどう感じたのだろうか。愚かだと感じたのか、それとも、自分達にはない感情を初めて目にして、打ち震えたのだろうか。
八代男爵は若くして爵位を継承した。その聡明さと容姿から年齢より遥かに大人に見られていたに違いないと想像するが、結局、優しい青年の善意は多少の危険性を孕んでいて、イギリス王室はその危険性を国家転覆の危機であると宣ったのだ。

「もう良いか、テレジア」
「…待っておくれ、もう少しだけ」

どの時代に於いても、グレアムが他人を傷つけた記録はない。どの時代に於いても、グレアムは常に人々の命を救ってきた。数々の証言が残っているのに、全て平民の口伝だけだ。公式の記録は残されていない。

「さて。コーヒーを一杯貰ったら、私は教会へ帰るとしよう」
「何も、あんな所に住み着かなくても良いだろうに。ウェールズの屋敷は、いつでもお前を歓迎してくれる」
「…両親の顔も知らない私がのうのうと伯爵家の厄介者になるなんて、真っ平だ。私は一介の研究者だ。お貴族様じゃない」
「俺もアメリカ人みたいなものだから気持ちは判るが、そんなにイギリスが許せないか?」
「当然じゃないか、判りきった事を聞くんじゃないよライオネル=レイ。お前は許せるって言うのかい?」
「俺は兄貴やお前と違って、ロンドンを離れた後の陛下の苦労を知らないんだ。少なからずロンドンに恨みはあるが、お前ほどじゃない」

どの時代に於いても権力者達はノアの一族を拒絶し、淘汰しようとしたのだろう。中には彼らの見た目の美しさから、囲い込もうとした者も少なくはなかった。グレアムは危険を悟ると新天地を求めて旅立ち、何百年もの旅の果てに殺されてしまったのだ。たった二人、リヴァイ=グレアムとリリア=グレアムだけを残して。

『また何処の馬の骨とも知らない子供を拾って来たんですか』

今は亡き主人に心からの感謝を。

『Hey、リュチローとルート』
『龍一郎だ馬鹿女』
『ルートではない、龍人だのう』

髪も瞳も黒い子供達は、新たな男爵を支える柱として立派に育っていると思う。やはり神の眼は正しかった。愚かな研究者には見る事の出来ない崇高な世界を、彼は視ていたのだろう。
光の名を持ちながら光の下を歩く事が許されなかった悲しい人は、夜の名を持つ太陽の島からやって来た男を愛して、愛したまま死んでいった。これを不幸とは言えない。

「クローン技術を危険と決めつけて、無能共は可能性を踏みにじった。倫理観が文明を発展させる事も、命を救う事もないと言うのに」
「倫理は知恵を許された人間のアイデンティティーだろう?」
「意見が合わないね。昔からお前は頭が固い」

いつまでも子供だと思っていた従弟が、微かに笑った様な気がする。


「…今は、そうでもないさ」

声音の静かさに、目が見えない事を少しだけ、悔やんだ。



















その声はいつも、すぐ近くで囁き続けた。

“弱虫”
“役立たず”
“お前さえいなければ助かった命が、一体幾つあった?”

逃がさないとでも言うかの様に。

“忘れるな”
“思い出せ”
“肉体が滅び魂が消え去ろうとも業は消えない”

忘れるなと促すかの様に。

“思い出せ”
“神の真似をした空っぽな人形”
“王の振りをした魂も業もない無機質な人形”

昨日も、

“祇園の鐘が告げている”
“通りゃんせ”
“通りゃんせ”
 “何処まで逃げても鳥居の果ては終焉”

今日も、

“かごめ”
 “かこめ”
“籠の中の鳥は”
 “星の中の龍は”
“いついつ出やる”
 “この絶望的な輪廻から”

恐らくは、明日も。

“夜明けの晩に鶴と亀が滑った”
 “黎明の宵闇に天と地が覆った”

人になりたいと願った人形が、神の威光に逆らったそうだ。
(くるくる踊り続ける人形に)(神から産み落とされた炎は感情を覚えたらしい)(くるくる躍り続ける人形に)(神から産み落とされた光は)(禁忌と呼ばれる)(知恵の実を与えたそうだ)(それは神の心臓の形をしていた)(劣悪なイミテーション)
慈悲深き神は人の形をした偽物にさえ平等に、慈悲を与えて下さるそうだ。
(果たして人類は感情を手に入れた)(アダムとイブから生まれたソロモンは更なる知恵を求め)(間もなく没落した)(過ぎた欲は身を滅ぼすのだ)(ソロモンの子孫は北へ北へ)(アルビノの彼らが擬態するには)(狭いハンガリーのまだ向こう)(聖書に記された聖女の国)(オルレアンの乙女が生まれた大地へ)

『空をたゆたう雲は神の炎の揺らぎ』『漂うばかりの煙』『終焉へと泳ぎ続ける陽の魚』
『燃え続ける光は神が産み落とした時限の始まり』『炎が生まれた瞬間に光もまた生まれた』『時空の番は互いを照らし合う宿命』

『炎は龍として泳ぎ続けた』『轟々と大地を照らし続けた』『龍が去った後には夜が残る』
『光は龍を呼び続けた』『こちらへおいで余所見をせずに』『けれどあの子の瞳はいつからか大地ばかりを見つめていた』

『ああ、大地はどんな匂いがするのだろうか』
『ああ、意思も持たない人形にどうして執着するのだろう』
『私に気づいて』
『私だけを見ていろ』
『あの広い大地へ降りてしまいたい』
『そんな事は絶対に、許さない』

『あの無垢な命達を永遠に見ていたい』
『あの無垢な命達に知恵を与えてやろう』
『そうすればきっと、いつか辿り着く終焉への恐怖が和らぐだろう』
『そうすればきっと、己らに課せられた宿命の意味を知り、絶望するだろう』
『永遠に』
『今すぐに』

赤い赤い、龍の纏う炎と同じ赤い実を、金色の蛇が楽園へ落としたよ。対の人形はその身を食べて、羞恥を覚えたらしい。

『ああ、どうして…』
『お前が望む永遠など存在しない』
『悲しみが涙となって零れ落ち、悍ましい程の雲が雷を轟かせている』
『さぁ、終焉へ還ろう。引き裂かれてしまった私達は、時の最果てで再び一つになれる』

『もう飛びたくないんだ』
『共に泳ぎ続けよう』

『私は犬になりたかった』
『神の玉座に一匹の猫が迷い込んだそうだ』

一匹の龍が雷鳴と共に落ちていく。
絶望した光は全ての命を恨んだ。妬んだ。光を失った大地を、永遠の様な嵐が殴りつける。





「新たな男爵の誕生を」
「星座の名の元に祝福する」
「我らは等しく全てノアの為に」
「宇宙は等しく全てノアの為に」

「統率符を讃えよ」
「神の血の導きに従う事を誓いたまえ」
「新たな皇帝の誕生に喝采を」

「黒を崇拝せよ」
「黒を崇拝せよ」
「それ即ち、唯一神の冥府揺るがす威光を須く知らしめんが為に」

「Xは十に反転した」
「新たなノアの統率符を轟かせよ」



「真の十番目を謳えよ」









「Caesar knight noir.」










ああ、面倒事を押しつけられた。
もう少し長く学生生活を謳歌しておくべきだったのかも知れない。無能と馬鹿ばかりの人間関係に適応し、彼らと同じ馬鹿の振りをしていれば。こんな陰鬱な気分にはならなかった筈だ。

「…最低な気分」
「カミル。私語はともかく、暴言は控えめに」
「サムニコフ班長、どうしても私が行かなきゃならないんですか?」
「ヘブンスゲートへの物資配給は、勤続年数の短いランクCの役目です。嫌なら人員管轄部に異動願いを申請しますか?」

何処の世界に、雇用されたばかりの新米が部署替えを申し出る権限があるのか。どんなに優秀だろうと然るべき成果を残していなければ、中央区で最も地位の低い部署から転属する事など出来る由もない。
それが判らない馬鹿なら不要だとでも言わんばかりに、物腰柔らかな上司はマスク越しに笑った。気がする。ステルシリー本社内の雑務が大半を占めている区画保全部の社員は、ほぼ全員がマスクと手袋を普段から装着していた。清掃業務専属の班もあるが、事務仕事が主な班の社員ですらそうなのだから、潔癖症揃いの様だ。

「コネ入社の癖に何様だ、なんて言われたくないので。…ご遠慮します」
「賢明な判断で何より。老婆心から言うが、まずは社風に慣れる事が先決だよ」
「右も左も判らないまま特別機動部に配属されて、役に立つなんて過信はしていません。コードを頂けただけで十分光栄な事です」

口先だけなら何とでも言えるが、本心だ。
エアリアス=アシュレイはスキップ入学した大学在学中に、人員管轄部からスカウトの話を貰っていた。返事は卒業まで待って欲しいと断ってが、最終的に、卒業式には出席しなかった。無能に囲まれて愛想笑いを続ける事に、ストレスを感じたからだ。

「マサチューセッツ卒の君は、最終的に技術班を志しているのかな?」
「志していると言う訳ではないです。科学は私と相性が良かっただけで」
「何にせよ、もう少し日本語を勉強した方が良い。私も今の君と同じくらいの年頃に雇用して頂き、それから日本語を学んだよ。未だにネイティブには程遠い発音がネックで、昇進には時間が掛かった」
「…死刑囚が昇進を希望しているなんて」
「顔に似合わず辛辣だな」
「ふふ、顔が仕事に関係あります?少なくとも大学じゃ、着飾ってる女から真っ先に居なくなりましたけど?」

地下は天才の巣窟らしい。今の所、そうは感じないと言うのがエアリアスの本意だった。雇用とされると同時に最下位の部署に配属させられた事に異論がある訳ではないが、いつまで下らない雑務をさせられなければならないのだろうと思う事はある。まだほんの数日だと判っているが、理性で本能を抑え込む事は出来ても殺す事は不可能だ。

「中央情報部に写真が残っているテレジア技術班長は、美しい方だったよ。モノクロ写真だから白衣は灰衣かまでは判らないが、身綺麗にしてらっしゃった」
「嫌だ、班長ったら人が悪い。ヘブンスゲートの向こうに追いやられた、哀れな老婆の事でしょう?」
「…カミル」
「無様だわ。回らなくなった歯車なら荷物になる前に死ぬべきだったのに、今じゃ錆びついて動かす事も出来ないでしょう」
「そんな言い方はやめなさい。彼女は君の、」
「サムニコフ班長は優しいんですね。でも知ってますか?班長以外の先輩方は、テレジアを快く思っていないみたいですよ。エデンへの配給だって、きちんと届けていたのは班長がシフトの時だけだったんでしょう?」
「それについては、マスターにも一応報告しているよ。注意して下さったばかりだから、多少改善されている筈だ」

お荷物になってまで地下に留まり続ける可哀想な女に同情などしない。使えない螺子は取り替えるだけだ。割れた試験管で実験は出来ない。そんな事は、元特別機動部班長であれば判っているだろうに。

「ランクBの班長が、新人の仕事に気を取られている訳には行きませんから。もう暫く時間が経てば、またずるずると忘れられてしまうでしょう」
「歯に衣着せぬ物言いだが、君は嘘がない清潔な人間だな」
「ふふ。数時間会話したくらいじゃ、私の全てを理解する事は不可能でしょう?」

ああ、退屈な世界だ。好きな科学でさえ、この無限の退屈を埋める事は出来ないだろう。だから飽きる前に手放した。絶望する前に逃げ出したのだ。けれどそれを知るのは自分だけ。

「想像以上にエデンは遠いんですね。掘削したまま舗装されていない道が続いてますけど」
「ウエストエリアは浸水域が多く、拡張工事を断念した経緯がある。現在に至るまで東部を中心に広がっている中央区だが、西の開発には未だ着手の兆しは見えないんだ」
「経費を懸けてまで得るものはない、と言うお考えですか。私も賛同します。強大な砲台がホワイトハウスの真下に巣食っている方が、楽しいでしょう?」

他人は無能ばかり。
本能を覆い隠して理知的な振りをした所で、性欲のままに結婚し子供を作るだろう。それが正しい事だと決めつけて、それが出来ない人間を排除する。ほら、世界は間違っていると思わないか?
社会に絶望して苦しむくらいなら、捨てれば良い。レヴィ=ノヴァ=グレアムの様に、愚かな人類の住まう地上を。

「全く、君には感心するよ。…もうすぐ到着するが、マザー=テレジアに口答えしないでくれよ」
「そう言えば、どうしてマザーなんですか?教会に住み着いた独身女なら、シスターが相応しいと思いますけど」
「昔はそう呼ばれていた事もあったそうだが、シスターの名は彼女の娘に譲ったんだよ」
「娘?」
「知らないのも無理はない。エデンの内部情報を知るのは、セントラルでも一部の部署の社員だけだ。口外無用の勅命が出ているから、気を引き締めるように」

誰からも必要とされない哀れな女に、子供がいるそうだ。そしてそれは機密情報だと言う。
…久し振りに、楽しい時間が過ごせるかも知れない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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