帝王院高等学校
未来に希望が抱けませんよ?!
その日の空は、稀に見るほど晴れ渡り。
蝶が飛び交う木々は風と共に踊り、風は春の祝福を歌っていた。

「わん」
「楽しいのか、秀隆」
「わん」
「ああ、今日の風は南から吹いている。この山に残っていた最後の冬は、とうとう去ったのだ」

ざかざかと、遠くから足音が近づいてきた。また今年もこの日がやって来たのだ。

「いやぁ、この豊かな山の中も、年々辛い道のりに感じますなぁ、校長先生」
「それほど危険な山でもないのに、お互い歳は取りたくないもんですな、教頭先生」
「理事長、先程から頭に乗っている落ち葉が増えているので気になっておりましたが、よもやそれは…」
「これは葉ではない。蝶だ、ネルヴァ」

例年、この日になると彼らはやってくる。いつからか見なくなったこの土地の持ち主だけは、この日も姿を現さない。
くの字に曲がった短い尻尾をパタパタと振りながら、彼らを出迎える様に一度吠えた犬は例年通り楽しげだ。けれどその勇ましい土地神の姿を、彼らが目に焼きつける事はない。

「帝王院学園をお守り下さる、獅子神様にご挨拶申し上げます」
「ご挨拶申し上げます」

四人の男達の中で、最も平凡な男は跪いた。
初めてこの男を出迎えたのはいつだったかと感慨に耽るも、最後に見た去年より小さく見える体躯は加齢によるものかの方が気になってしまう。帝王院学園東京本校の校長は、学園長よりも若かった筈だ。引退するまでまだ暫くある。更にその隣で深々と頭を下げている教頭は若い。
見ようと思って見た訳ではないが、向こうが慇懃無礼に頭を下げてくれるのでつい目に入ってしまった校長と教頭の頭は、校長の方が大分寂しかった。年齢差なのか役職差なのか、同じ男として同情しない事もない。パタパタと尻尾を振りながら二人の周囲を駆け回っている犬にとっては、雄の哀愁など知った事ではない様だ。何せ彼女は、勇ましい黒の毛並みに艶やかな金の相貌を持つ、女性なのだから。

「本年度高等部、始業式及び入学式典を本日執り行う事と相成りました。恙なく迎えられますよう、今後共どうかお見守り下さい」
「本年も何卒宜しくお願い申し上げます」

二人の挨拶が終わると同時に、傍らで沈黙を守っていた残り二人の男も頭を下げた。
エメラルドの瞳を伏せた男の隣で、眩い金糸に幾つもの蝶を休ませていた男の頭が下げられると同時に、羽根を休めていたそれらは飛び立った。
ひらひら、ひらひら、艶やかな蝶達が神木の傍を羽ばたく光景は余りにも美しい。

「…相変わらず、常世に愛された男だ。冥府へ誘う遣い達は、常にお前の命を狙っている」
「わん」
「だが私が視る限り、お前が死ぬのはもう少し先だろう。…しぶとい命だ。だがお前には、我が帝王院に住まう犬神の加護がある。獅子の木など、この山には存在しない」
「わんわん」
「お前は秀隆の骸を労い埋葬した。その身に課せられた悍ましい業罪は些かも消えんが、この土地に住まう限り、今度も変わらず加護は与えられるだろう」

やれやれと言わんばかりに腰を撫でながら、再び学園に向かって獣道を歩き始めた校長と教頭が先に遠ざかる。彼らに遅れて歩き始めた男はややあって振り返り、神木を静かに見上げていた金髪の背中を呼び掛けたのだ。

「何をなさっておいでですか理事長、戻りましょう」
「…常になく、森が喜んでいる気がする」
「貴方の不思議発言は今日に限った事ではありませんが、そろそろボケたかと言われますよ。…シリウス辺りに」
「辞令を下して以降は昨夜初めて会ったが、あれは40歳ほど若返っていた」
「私の見立てでは、50歳は鯖を読んでいるのではないかと。細胞活性剤が効いただの何だの空惚けた事を零していましたが、あれは特殊メイクの類でしょう」
「あれの正体を知る者は居らん筈だが、余程冬月の名を隠したいと見える。駿河の膝元とあれば無理もない」
「暫くはルーク坊ちゃんの目につかないよう、身を隠していましたからね。あのまま円卓に近い所に残っていれば…」
「ルークはCHAθSの鍵を探せと命じただろう。…いや、取り壊せと命じる方が早いか」
「仰せの通り、あんな大きなお荷物は無駄だと、ノアでなくとも誰かが言い出すに違いない。想像するに、ネイキッド辺りが真っ先に言いそうなのだよ」

パタパタと駈ける犬は踊る蝶を追い、静かな密談に少しばかりの間を置いた二人は、静かに目を神木から離した。レオと呼ばれている神木には幾重にも七五三縄が巻かれ、この森のどの木よりも幹が太く根が大きい。

「あれは60年以上前に、父上が下さったものだ。最早時代に相応しくはない、過去の遺物」
「オリオンが持ち出した鍵が見つかったとしても、中に残っているのは使いものにならない過去の遺物ばかりでしょう。…元老院にベテルギウスが残っている限り、区画保全部が撤去に乗り気になるとは思えませんが、万一鍵が見つかってしまう様な事になればどうなるか」
「ルークはCHAθSを取り壊すだろう。何ら躊躇なく」
「恐らく、私がノアの立場でも撤去を命じます。CHAθSの価値を知るのは、オリオンとシリウス、そして陛下。貴方達だけ」
「…私もこの目で見た訳ではない」
「けれど貴方は、あの場で視力を取り戻した」
「目覚め光に満ちた景色を取り戻すと同時に、弟を一人失った。閉ざされたCHAθSラボは以降、一度として開かれていない」

晴れた空の下を駆け抜ける風は、木々が深い森の中では余所の世界の出来事の様に。
時折狭い獣道を通り過ぎる穏やかな微風だけが、その場の生命達を撫でて通り過ぎる。

「鍵はどんな形をしているのですか?」
「混沌に形などあるものか。判らんかネルヴァ、人体で最も複雑な構造をしているものが」
「遺伝子…もしや、指紋ですか?」
「そうだ。龍一郎と龍人、そして私の指紋を重ねて初めて、CHAθSは門戸を開く。一つでも欠ければ、二度と開く事はない」

ああ、風は南から吹いているのだろう。南には来客を出迎えるグランドゲートがある。

「だが、龍一郎が持ち出したのはCHAθSの鍵だけではなかった」
「長年の研究日誌でしょう?」
「違う。母上が残した遺品の中に、あの箱だけがなかった。父上が最後まで抱いてらしたと言う、マリア・オルゴールだけが」
「メアのオルゴールと言えば、テレジア前班長の最後の作品の?」
「ライオネル=レイは血眼で探し続けたが、見つかったと言う報告はなかった。…私が生きている間に見つかる事があれば、以降の生涯に未練はないだろう」

遠ざかる彼らを最後まで見送ると、ひらひら、一匹の蝶が学園へ続く獣道とは反対側に飛んでいくのを見た。楽しげな犬はそれを追い掛けようとしたが、すぐにその場で座り込む。

「わん」
「…やっと辿り着いたか、我が系譜よ」
「こんにちは、獅子座のご神木様」

まるで、主人の帰りを迎えるかの様に。

「間もなく入学式典が始まる。気が逸るだろうに、私達に挨拶に来たのか?」
「太陽が乗ったバスが遅れてるんだ。少し、此処で待っていても構わないか?」
「私が拒絶する筈がなかろう。お前の到着を、…生きていた頃から待っていたぞ」
「ほぇ。そんなに期待されるとおしっこちびって照れちゃうにょ」

は?

「僕ってば期待され慣れてない地味平凡ウジ虫童貞オタクですし、年末からこっち引き篭ってホモ漬けになってる内に箱入り腐男子になってしまった感じだしィ、もうあーだのこーだの誰かの業だの知ったこっちゃねェっつーか!」

は?

「…私が知らぬ間に、日本の言葉は随分難解になった。秀隆、お前には今の意味が判るか?」
「くぅん」
「誠に業が深いかよBL。僕の曇りきった眼鏡にはもう、BLかホモかゲイか男同士の恋愛しか見えない有様!」
「俊、お前は何を言っている?」
「くぅん」

つーか眼鏡なんて掛けてないだろうと言うツッコミが届いたのか否か、しゅばっと黒縁眼鏡を取り出した極悪面は滴り落ちる涎を真新しいブレザーの袖でゴシゴシ擦ると、荒い息遣いでキッと見上げてきた。超恐い。蝶も慌てて逃げ出していく。

「ひーひーじーちゃん様!」
「は、はい?」
「くぅん」
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありませぬ!俺は遠野俊(15歳独身)と申します!獅子座の高校一年生であります!」
「知っている。私は帝王院俊秀だ」
「わん」
「この度萌えて…間違えた、晴れて帝王院学園に入学する事が決まってしまいました!全く世の中は時々手の施しようがないくらい狂ってやがる、眼鏡の底からご愁傷様ですん!」
「は?」
「わふん?」

帝王院俊秀は犬と見つめ合った。犬ですら首を傾げるのだから、幽霊だってそりゃ傾げるに決まっている。幽霊は幽霊でも地縛霊ではなく守護霊や土地神の類だが、見えない人間にとっては何の価値もなく、見える人間にとってもやはり、見える以外の害はない。

「ですがご安心召されよ!我が帝王院学園は永久に不滅です!」
「長嶋茂雄は知っているぞ。私は生前、活躍を見ていた」
「わん」

ギッと神木を睨んでいる様に見える曇りきった眼鏡に『後ろ後ろ、私達はお前の後ろにいる』と呟いたが、ビクッと肩を震わせたオフホワイトのブレザーは、此処へやって来た時と同じくあらぬ方向を見つめたままだ。

「野球は一人じゃ出来ない崇高なスポーツなり!僕は個人プレーしか出来ない宿命の元に産まれた孤高の戦士ですので、悪しからず哀れみの目を向けて下されば光栄でございま!」
「…」
「くぅん」
「それにしてもご先祖様のお墓があるって聞いてたからビビりながらも寄り道してみたらっ、お墓どころかご先祖様がいらっしゃるなんてェ!おのれクソ親父、秀隆もうざ度高めなのに秀皇は更に許せぬ!だが然しこの世にお化けなんて居ない、じーちゃんはひーばーちゃんのお墓の前で野宿した事あるけど、幽霊は出なかったって言ってました!」
「龍一郎の事か?」
「糸魚ひーばちゃんは恥ずかしがり屋の大和撫子なので、化けて出たりは致しませんとも!更に龍流ひーじーちゃんは龍が流れると言う名前の通り泳げなかったそうなので、残念ながら高天原に辿り着く事なく三途の川で溺死なさったのではないかとオタクは睨んでおりま!」
「龍流は曾孫の守護を、」
「ハーッ、お悔やみお悔やみ申し上げますん!いつか立派な人間になる事があったら、俺ァ誠心誠意心を込めて龍神祝詞を読みますのでっ」
「龍神祝詞は祭主の祓だ。主事たる冬月が好んだ詞は神棚拝詞…」
「ヒィ、不出来な子孫で眼鏡の底から申し訳ございませぬ!何分根っからの腐男子でございますれば…!」

黒縁眼鏡の不審者は絞り出す様な声で意味不明な事をほざくと、首に引っ掛けていたらしい余りにも巨大なガマグチレッドから小瓶を取り出し、クネっと振り向いたのである。
ああ、小瓶に『あじしお』と書いてあるのが見えた。

「ちゃらちゃらっちゃちゃー♪おかずがない時にご飯に掛けるととっても美味しくなる、魔法の粉〜♪」
「塩ではないのか?」
「くぅん」
「こほん。ゆで卵に掛けても美味しくなる、奇跡の粉〜♪」
「だから塩では…」
「老い先短いご年配は減塩にご尽力下さい!」
「気遣い無用だ。私は既に死んでいる」
「いやァアアア鎮まりたまえー!」
「お前が落ち着いた方が良いのではないか?聡い秀皇にも秀隆の姿は見えていなかった様だが、お前には私と同じ世界が見えている様だ。少し話を、」
「臨兵闘者皆陣列在にょん!」
「わんわん」

十字を切りながら躍る様にクネった新入生に、尻尾を振り回した犬がつられて駆け回る。

「我々を祓おうとしている様だが、私と秀隆は高天原から舞い戻った氏神だ。肉体は彼岸にあり、常世が現世に干渉する事はない。そう畏れるな」
「ヒィイイイ、無理ィ!昂ぶる攻めの股間以外は鎮まりたまえー!」
「こ、かん…?」
「どうか安らかに成仏して下さいまし!」

そしてちょっぴりあじ塩を蒔いたかと思えば、しゅばばばっと光の速さで去っていったのだ。後に残るのは静寂ばかり。

「くぅん」

今正に玄孫から塩を撒かれたばかりの男は、ややあって、ひらひらと戻ってきた蝶達に囲まれながら聡明な眼差しを細める。


「…今日は晴れているな、秀隆よ」

除夜の鐘には似ても似つかない、朝を告げるベルの音が響いた。













『通りゃんせ』
『通りゃんせ』



ゆらゆら。
ゆらり、ゆらり。
暖かい何かに抱きついまま(酷く静かな世界で)、
何処かへ連れて行かれるいつか(地獄の底かそれとも)、



『真紅の鳥居』
『降り続く雪』
『山頂は何処にある?』
『天孫と呼ばれた帝が歩く一本道は』
『常世への門を開くのだろうか』

『それとも』


『ご覧、全てが白に塗り潰されていく』
『太陽の国から光が消えたのだ』
『黎明は遥か遠く』
『洛陽は二度と戻らない』
『黄昏は逢魔が時に常世の口を開く』
『無垢な命は死者に蹂躙されるのか』


『どうして私の業は繰り返される?』
『肉体は都に残してきた』
『貴方に捧げられるのはあるのは魂だけ』
『抱いているのは小さな骸』
『もう一度、この神秘的な瞳を見たいのだ』
『神よ』
『私は天孫』
『貴方の孫だと皆が言う』
『神よ』
『気高き御身は何処に坐すのか』

『世界から光が消えて』
『世界から色が消えた』

『時間が始まる前まで征こう』
『魂さえ呑み込まんとする豪雪を越えて』
『神の住まう高天原へ』

『神よ』
『天照大神の慈悲を頂いた我が身に』
『ただ一度だけ、慈悲を』



『黄泉比良坂の猫が、死んでしまったのだ』


そこは、色のない世界だった。






(いつからか世界から色が消えた)
(全てが単調なものに思えてならない)

(平坦な毎日だ)
(期待される事も期待する事もない)
(このまま誰に深く関わる事もなく、過ごしていくのだろう)
(有り触れた『普通』をなぞる様に)

(このまま)
(呼吸をやめた流木の様に)
(孵化しない地中の蝉の様に)
(静止した世界で生きろと)
(時を止める事しか出来ない魔法使いは言っただろう?)

(チクチクと)
(うなじが傷んだ)
(何も知らないルームメイトは悪びれず、毎日話し掛けてくる)

(…ああ、痛い)
(隠れているのに、どうして見つけてしまうのか)

(そうだ。鬼退治をしよう)
(この退屈な日常で)
(ほんの一時のつまらない遊びをしよう)

(鬼さんこちら、手の鳴る方へ)

(そして蝉にも狗にもなれなかったあの子を連れておいで)
(あの子が天神の役に立たない愚鈍な墓守なら)
(永遠に、飼い殺しにしてあげようか)



(他の誰でもない、が)



…そうだ、恐らくは暗かったのだ。
水の音が近くで。いや、もしかするとずっと遠い何処かで。

『××××のカホリが消えちゃったにょ。うぇん』
『へ?××××?誰それ』

暗過ぎたから何も見えなかった。
ずぶずぶと沈んでいく何かを必死で掴んで、爪先は床を探している。何も見えない。何にも届かない。

「どうして皆、僕からばっかり盗っていくの」
「…俺が何を盗ったって?」
「盗ろうとしてるじゃない。僕を悪者にして、きっと君は希望の鍵を掴むんだ」
「鍵?俺はそんなもの、欲しくないよ」
「嘘つき」

誰かに責められている気がする。もう思い出せない気がしている。それは何故か。

『うぇ?××××は今をときめく×××様ょ?』
『そっか、×××だっけ。ごめん、一瞬思い出せなかった』

ああ、そうだ。剥げたからだ。纏っていた鎧が消え去ってしまったからだ。
シンデレラの魔法は12時に解けてしまう。ならばお日様の名を持つ灰色は、きっと正午の鐘で解けるのだろう。

「たすけて」
「ならば等価交換だ。対価を差し出せ」
「何をあげたら、ネイちゃんを助けてくれるの?」
「愚かな欲に溺れる人のまま、何にも変化しない義務だ」
「…判んない」
「犬にも蝉にもなれず、お前はお前のまま何にも変わる事が出来ない」

ひらりひらりと、ずっと昔から何かが靡く音がしていた。
他人を拒絶した世界は静かで、悲しみも期待もない平穏な世界で、それがどれほど心地好いものだったか。今になって強くそう思うのに、全ては自分が選んだ結果なのだ。知っている。魔法使いは二人居た。残酷なほどに優しい魔法使いと、冷血なほどに慈悲深い魔法使い。

「選べ、お前は岐路に立っている」
「選べ、お前は航路を示す羅針盤を廻す権利を手に入れた」
「白日は吹き荒ぶ嵐の向こう」
「平穏は今と変わり映えしない、空虚の連続の果てにある未来」

二人はどちらも対価を求めた。
一人は人に課せられた宿命、つまりは業そのものを差し出せと良い、一人は人が生涯で手にする幾らかの希望を差し出せと言う。どちらも決して幸せにはなれない。但し不幸にもならない。彼らは何もしないからだ。

「「お前はどちらを選ぶ?」」

神は決して手を下さない。
時々気紛れの様に奇跡を与えては眺めているだけだった。全ての人間に対して。



「アキちゃんは、大人になったら何になりたいんだい?」

はらりはらりと、ずっと昔から少しずつ。

「えっと、よーちえんかなー。あきちゃん、せーふく着たい」
「あはは。お父さんの会社で働くのは嫌?」
「おとーさんいそがしーから、やだー」
「うん、好きにして良いよ。お前さんがどうしても嫌だったら、うちにはもう一人いるからね」
「ヤスのこと?」
「…昔、双子は不吉だって言われてたんだ」

音が聞こえるのだ。靡いているのか剥げていくのか、目に見えないものは判らない。
(永遠に変わらない平穏を願った癖に)(剥げていく音を聞いていた)(何の抵抗もせず)(待ち続けたのだ)(あの日選んだ魔法使いの魔法を)(もう一人の魔法使いが打ち砕く瞬間を)(判っていて逃げなかった)(入学式典の直前)

「ふきつってなーに?」
「お父さんのお祖父さんはね、安心してたんだと思うよ。女の子しか生まれなかったからね」

榛原は歌う事しか出来ない。それも鎮魂歌だけ。悪しき者を祓えと、授かった祝詞は大祓詞だった。力も知恵もなく、ひたすら他人を傅かせる支配者にして王に最も近い皇、主人に静かで平穏な夜を捧げる宵の宮。
(チクチクとうなじが痛んで)(神木の方向からざわざわと)(風にしては生き物の様なざわめきが聞こえてきた)(グランドゲートは目前)(逃げようと思えば不可能ではなかった筈だ)

「おとこのこはダメなのー?」
「男はいつか、親の背中を超えなきゃいけないんだ」

そしてそれは、いつか生まれてくる子に怯えなければならない宿命の元。
(残酷なほどに優しい魔法使いは)(誰にも命令しない)(選ぶ瞬間を待っているだけだ)(プレイヤーでも観客でもない)(彼らはクリエイター)

「例えば…そうだ、内緒で試してみようか。太陽」
「うん?」
「そろそろゲームをやめなさい

自分で望んだ事だ。
雷鳴が轟く夏の午後、昼時とは思えないほどの暗い空はまるで夜中の様だった。煩いほどだった蝉の鳴き声は何処にもなく、聴こえてくるのは悍ましい程の雨音と雷と、時々世界を白く染め上げる神の光。

「やだー」
「あはは、嫌かー。お前さんは、お父さんの言う事を全然聞かない子だねー」
「あきちゃんまだ眠くないもん」
「…しょうがないね、もう少しだけだよ?お母さんに見つかったら、寝なさいって叱られちゃうから」

抱きしめた何かの温もりだけを消さない様に、叩きつける雨と共に滴り落ちる真っ赤な何かをひたすら、今すぐ止まれと。何度も何度も命令したのに、自分には魔法など使えなかったのだと。思い知っただけだ。

「アキちゃん」
「もー、なーに?」
「お前さんは好きな事をしなさい。…お前はどうせ、逃げられない」
「よびすて、いけないんだよっ」
「そうだね」
「あきちゃんはちょーなんだから、えらいんだよっ」
「そうだね。…俺とは比べものにならないくらい、お前さんは可哀想だ」
「あきちゃん、かわいそ?なんで?」
「生まれた瞬間から背中に羽根が生えてる」
「え?はね?」

非力な子供だった。好きな人を助ける事も出来ない。抱き上げる事も、流れ落ちる血を止めてやる事さえも。

「孵化しなければ蝉は死ななかった」
「ふかってなーに?」
「抜け殻を残す事だよ。死んでしまっても、壊れない限り残るんだ」

あの日の雨で、一体何匹の蝉が死んだのか。(自分を含めて)

『大量の痣はどうしちゃったにょ?』
『痣?』
『大人の階段登るぅ、君はもう、ツンデレラさ!思春期とは残酷なものざます!』

いつかの夏。
安いアイスキャンディーを口実に毎日、錆びたベンチで待ち合わせをした。住宅街の不自然な自然におまけの様に作られた公園は然程広くはなかったが、四季折々で景色を変える木々が豊富に植樹されていて、車道寄りに道祖神が祀られている。子供向けの遊具などは多くなく、遊歩道と小さなグラウンドがあるだけだ。
夏休みの所為か近所の小学生達が早くから集まっては、自分達より小さい子を苛めていた事もあったが、近所で最も有名な家の息子がサッカーボールを抱えてやって来る様になってからは、偉そうにしていた悪餓鬼達は姿を見なくなった。


「遠くからでも判る、大きな瞳の色が気になって仕方なかったんだ」

日差しを浴びてキラキラと容赦なく光る金髪、シャツから出ている腕は日に焼けているのに、袖を捲ると二の腕は白い。

「光が当たってるとね、金色に見えた」
「初恋か」
「違うよー、それは幼稚園の先生」

ひらひら・と。
目には見えないベールが靡いている。魔法使いに貰った鎧は、狂った様に平穏の中を踊り続けて。いつか死ぬ時まで止まる事はない。

「目が合うと苛めたくなった」
「理由は判んないけど、手が勝手に泥団子を投げるんだ。いっぺん泣かせちゃって、怖い顔した大人達に追い回された。逃げ切ったけどね」
「他は?」
「もういいだろ」
「まだだ」
「まだ話をしろって?」
「お前の物語はもうイイ。全てが視えた。俺に判らない事はない」

いつからだろう。
ばさりばさりと、ゆっくり、そっと、掛けられた魔法は解けていった。

「何が見えたんだい?」
「お前はいつか、山の頂に辿り着く。前世の輪廻のままに」
「あはは。前世ねー、俺は信じてないけど」
「器の形が変わり魂の色が変化したとしても、業は変わらない。肉体が滅びれば業だけ宇宙の果てで記憶として残り、再び生まれる日まで漂い続けるんだ」
「宇宙の果てを?」
「時限に干渉されない世界で」
「業って、何だか蝉の抜け殻みたいだね。…お前さんが眺めてる世界は、きっと誰にも判って貰えないよ」

満月の夜にしか会えなかった飼い主が、新月の夜に現れたあの日からきっと、始まったのだ。

「入学おめでとう、宮様。ごめんね、俺は普通の小学校を選んだよ。夕陽は西園寺だって」
「それでイイ。業に刻まれた宿命が導く時、俺達は再び交わるだろう」
「二度と会わないかも知れないよ?だって今からお前さんは、別のお前さんになってしまうんだ」
「俺は俺のままだ。例え中身を偽ろうと」
「不可能だよ。『ナイト』は、お前さんがなりたかった配役じゃんか。きっと二度と戻れない」
「そうか」
「お前さんは明日から遠野夜人だ。遠野俊は今日、消えちゃう」

明日から小学生だった。
父親に連れられて会社の慰安旅行に同行した弟を見送って、パートを辞めて家に居る様になっていた母親は入寮が決まった夕陽の準備で、何日も前から忙しい。インスタントの昼食を済ませて家から抜け出しても、気づかれない程に。

「帝王院を選ばないお前さんは天神にはなれないけど、俺達は友達にはなれないんだ。お前さんは宮様のまんま孵化しないだけで、緋の系譜には変わりないんだよ」
「俺は光じゃない」
「でも夜でもない。お前さんがなりたいナイトは、騎士だから」

近所の神社。東京には神社が幾つもある。
小さな神社には宮司が一人常駐していたが、朝早くに掃き掃除をしている以外は姿を見ない。だからその日の敷地内にも人影はなく、境内に寂しく佇んでいたのは古びた賽銭箱ばかり。

「俺は自由でいいんだって。代わりに、先祖の遺産を放棄出来ない」

山田太陽は五円玉を二枚投げ入れた。一緒にお参りに行こうと約束していたが、自分の所為で来れなかった弟の分も。

「けどね、もう俺に力なんてないんだ。それ所か、榛原の事を少しずつ忘れてる気がする。今日ここでお前さんに会わなかったら俺は、喘息の呪縛を打ち破って有能な父親の背中を果敢に追い掛けてる『優秀な次男』に責任を押しつけてる事さえ、忘れたままだったよ」

嫉妬をしたのはいつだった?
いつか一回り体が小さくて、一生懸命追い掛けてくるのが判るのに一歩の幅が狭い病弱だった双子の片割れが、同じ高さで見つめてくる事に気づいた。二階建ての家の階段さえ苦労する事があった小さな弟は、いつの間にか太陽と同じ服を着られる様になっていた。

「…何でかな、色んな事を少しずつ忘れてくんだ。明日にはきっと、今日の事も忘れてると思う」

いつからだ。時々帰ってくる大空が、夕陽だけ連れて出掛ける様になったのは。
いつからだ。顔を合わせても会話すらなくなってしまった両親に、何とも思わなくなったのは。いつからだ。大人の誰もが期待する優秀な弟に、劣等感を抱く様になったのは。

「俺はそれに気づいてるのに、どうする事も出来ないんだよ」
「子供の頃の記憶は色褪せていく。大人になるとは、そう言う事だ」
「お前さんは忘れないんだろ?」
「ああ」
「俺の言葉はもう誰の耳にも届かないのに、お前さんは望めばいつでも俺を従わせられるんだろ?」
「ああ。俺の声に逆らえる者は存在しない。俺自らが例外を定めない限り」

はらはらと。何かが揺れている。
はらはらと。少しずつ剥がれていく音がする。それはきっと、記憶が剥がれていく音だった。呪いの様に食い込んだ魔法の刺が、無知な子供を少しずつ大人へと孵化させていく予感の。空に焦がれれば死んでしまう、脆弱な虫の。


「狡いよね。庶民振ったってやっぱり、お前さんは王様なんだ」

そうだ。あの日は昼間に月が見えた。

「責任は放棄出来ても、宿命からは逃げられない。庶民が王様になれない様に、王様も庶民にはなれないんだよ」
「俺の輪廻は委ねられた」
「…押しつけたんだろ。俺みたいに」
「違う。俺は残酷なカルマを剥奪する事で、」

大都会の烟る空は夜になるとネオン街を映し、光化学スモッグのスクリーンはまるで白夜の様に。


「犬の呪縛を解いただけだ」

一日中明るい、奇妙な日だった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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