帝王院高等学校
お前だけの騎士になると言ったのは誰?
「着きましたわ、お姉様」

キキっと停車した漆黒のバイクに跨っていた女がヘルメットを被ったまま呟くと、彼女の後ろの風景が歪み始める。景色に溶け込んだカメレオンの様にゆったり姿を現したシルバーの乗用車は、無人の運転席ではなく後部座席のドアが開いた。

「聖地がこんなに埃臭い所だなんて、あたくし存じ上げませんでした」
「…あの子は昔から埃臭い所が好きだったじゃない。前の旦那様の日記が残る、誰も立ち寄らない書斎とかね」

肉欲的な体躯を山吹色に似た金色のライダーズジャケットで包み、同じく煌く黄金のヘルメットで顔を隠しているバイクの女とは対照的に、車から降りてきた女は顔立ちこそ整ってはいるが、身長も低く肉付きも悪い。然し真っ赤なドレスワンピースを纏っており、人目がある所では恐らく目立つだろう。

「うふっ。あたくし達があそこで何回抱かれたか、お姉様は覚えてらっしゃいます?」
「さぁ。私達の体を好き勝手弄んだ癖にさっさと出て行ってしまった酷い男に、聞いてみたら良いわ」
「覚えてなかったら、旦那様の大嫌いなセックスドラッグを飲ませません?ヴァーゴはドラッグが大好きな私を『穴が使えれば何でも良い』と言って抱いてくれるのに、どうして旦那様は嫌がるんでしょう?」
「ドラッグパーティーで買った女達を壊れるまで囲い続けた馬鹿な男が、あの子の心を壊してしまったからよ。…ほら、大きな胸が苦しいのは判ったから、先にヘルメットを外しましょう」

バイクに跨ったままライダーズジャケットのフロントファスナーを片手で引き下げた女は、後部座席から降りてきた小柄な栗毛の女が両手を持ち上げたので、彼女の前へフルフェイスのヘルメットを被ったまま頭を下げる。ばさりとヘルメットから零れ落ちた赤みの強い栗毛は、はち切れんばかりの胸元を殆ど曝け出したまま、緩く波打つブラウンブロンドを掻き上げた。

「有難うございます、アンジェラお姉様」
「ライラ、いけない子。今の私達は『メイド』ではないのよ」
「そうでした。うふっ、気持ちよくなるお薬はまだ我慢してるのに、あたくしったらすっかり忘れてましたわ。ごめんなさい、シャムシエルお姉様」
「お前はそれで良いのよライラ。美しくて少しお馬鹿な、私の大切な妹」

豊かな明るい栗毛を巻き上げヘアクリップで留めた女は、張り裂けそうな胸元を揺らしながらバイクから降りると、小さなリモコンのボタンを押す。するすると再び景色に溶けて消えたバイクと車は、緑深い山の木々がすぐに覆い隠してしまった。そこにあるのに肉眼では確かめられない異様な状況だが、屈み込んだ全く似ていない妹の額に口づけた女は気にも留めない。

「プライベートライン・オープン、セキュア最上級を維持した状態でエリアマップをタブレットに送って下さるかしら」
『コード:シャムシエルを確認、シークレットモードを継続します。くれぐれも権限差異にご注意下さい』
「チンゲンサイ?」
「権限差異よ。格上相手にはセキュリティが効かないの。下手に動き回って所在を把握されない様にしなければね」
「旦那様に叱られてしまうから?あたくしは平気ですわ、旦那様は女に手を上げたりしないもの。壊れそうになるくらい抱き狂わされるのは、折檻じゃないでしょう?」
「ええ、セックスは誰とでも出来る。あの子が抱いてくれないなら他の男で代用すれば良い」
「でもキスは好きな人とするものですわ。そうでしょう、お姉様?」
「…私の唇はずっと昔にあの野蛮な男に奪われてしまったからどうしようもないけれど、貴方の唇は綺麗なままなんだから、簡単に触れさせないで。結婚するまで守り抜きなさい」
「あたくしはお姉様と一緒に旦那様の愛人になりますわ。だって旦那様よりセックスが上手な男なんて、居ないんですもの」
「今はそれでも構わないでしょうけど、いつかあの子は相応しい女性と結婚してしまうのよ?」
「うふっ、旦那様は人を好きにはなれないでしょう?目の前で何人もの女が穢されて、狂わされて、あたくしの体は元通りにはならないけれど、死んでしまったメイド達よりはずっとマシですもの」

遠くの何処かで、重厚な鐘が鳴った。

「お姉様は胸を切り落とされて、血塗れで、解体される寸前でした」
「あの子が助けてくれなかったら、生きていなかったでしょう」
「旦那様はお姉様の王子様ですわ!」

赤い赤い、あの悍ましい日の出来事を覚えている。
悪魔の様な男がベッドの上で悶え転がり、血塗れのブロンドを怯えながら見上げていた。


『Don't be afraid, I will kill you right now.(怖がらなくて良い。今すぐ楽にしてやる)』

あの悍ましくも美しい光景を忘れる事は、一生ないだろう。

「お姉様こそ第一夫人に相応しいのです、あたくしは愛人で構いません。三人でずっと楽しく暮らしていきましょう」
「くすっ。乳房がない女が公爵夫人になれる筈ないでしょう?私はヴァーゴじゃないのだから、女として壊れてしまえば壊れたまま生きていくしかないのよ」
「けれど旦那様は、お姉様を特に贔屓になさっておいででした。お姉様は旦那様の『天使』で、あたくしはただの人。お姉様は愛されているんですわ」

赤い赤い、あの時の光景に良く似たプレゼントは届いただろうか。愛しい王子様の元へ、迷わず真っ直ぐに。

「それじゃ、連絡一つ寄越さないベルハーツに聞いてみましょうか」

猫をも喰らう、真っ赤な鼠達は。






























「反論があんなら、聞くだけ聞いてやってもよいけどお?」

神崎隼人は、久し振りに真っ向から目が合った男の視線に晒されながら、気丈に唇の端を吊り上げ続けた。
この男に関してはまるで良い思い出がない。初めてまともに喋ったのは、今月の初めの事だ。そもそも仕事を理由に授業免除権限を行使してきた隼人と、生徒の手本であるべき風紀局長に接点などあろう筈もない。少なくとも、学園内では。

「それでは一つだけ訂正しておきますがねぇ、一年Sクラス2番神崎隼人君」
「ほんと、ムカつく言い方するよねえ、3年Sクラス2番叶二葉パイセン」

隼人は目の前の男のわざとらしい口調が嫌いだ。同族嫌悪の自覚は多少ある。
腹の中を見せない技術に長けた二歳年上の男と、錦織要が時々重なって見える事もあっただろうか。今になってみるととんだ無礼だったと思う。無論、要に対して。

「例えばあの日あの場所で、私がほんの一つの爆弾を仕掛けたとしましょう。然しそれだけだったなら、あの悲劇は起きたでしょうか?」
「あは。そうゆーの屁理屈って言うんだよ」
「結果的に連鎖爆発を起こしたのは、何処の誰とも知れない者達が仕掛けた爆薬です。目の前に石油の海があったとして、それは本当に危険ですか?私には金の海に見えますよ」

視界の端で要が頷くのが見えたので、隼人は要の足を目を動かさずに踏んだ。爪先辺りにヒットしたらしく、要が息を詰めた気配が判る。

「異論がおありなら伺いますよ?どちらにせよ、私は犯人呼ばわりされる立場ではない」
「何言ってもどうせ認めないんでしょ、アンタ。前提が破綻してるって気づいてないのお?」
「おや、破綻とは?」
「アンタが事前に状況を知ってたかどうかで、印象は全然違うんだよねえ。最近の裁判は陪審員制だしー?」

始業式典の夜、隼人を簡単に拉致してくれた悪魔の権化の様な男は山田太陽に張りついたまま、悔しい事に眺めれば眺めるほど好印象しか湧かない美貌に穏やかな笑みを滲ませている。その薄い紅桃色の唇から零れ落ちる台詞を聞かなければ、誰もが善人だと信じるだろう。人は見た目ではないとどれほど宣った所で、大半の人間は目で受ける印象に騙される。

「ほんの少しの悪戯が、あの場所だったらどんだけ燃え上がるか理解してやったんならさあ。それ、悪意以外の何でもないんじゃない?」

口では負けない自信があろうとも、二葉に勝てるイメージが浮かばないのは恐らく、苦手意識があるからだ。遠くから見掛ける程度ならまだしも、毎日顔を見るのは御免被りたい。その性格は勿論の事、過ぎた美も人の神経をすり減らす。毎日見るなら、一重瞼でさっぱりした顔立ちの要くらいが丁度良い。

「価値観の違いですかねぇ。悪意の有無で善悪が確定するのであれば、私もネルヴァも共に有罪でしょう。私が仕掛けたのはテレビ局が撮影で使う様な小型爆弾で、殺傷能力はないに等しいものでした。そして残念な事に、君にはあの日の私の考えを実証する事が出来ない。証明出来るのは、あの日から残り続けている目に見えた真実のみ」

笑みを深めた二葉が、隼人ではなく高野健吾を指差した。

「高野健吾君の体に残る幾つかの傷と、リヒト=エテルバルドの左下腹部の内側に残る医療用クリップ」

どう言う意味だと反射的に藤倉裕也へ目を向けた瞬間、隼人は内心で舌打ちを噛み殺す。先に目を逸らした方が負けだと、何処かで勝手に線引きしていた様だ。当の裕也は相変わらず何を考えているのか判らない顔で耳を穿っていて、律儀にスクワットをしたのか壁に背中を預けている。

「オレの体見た事あんのかよ、セクハラだぜ」
「おや。何度も見ましたけど、お忘れですか?」
「おいケンゴ、怒る所だぜ」
「あん?何で?(´・ω・`)」
「『ユーヤ君の体は俺のもんだ糞陰険眼鏡』つってやれ」
「は?(´ω`)」
「うーん。スライムが…スライムが………溶けちゃうよー」

訳の判らない寝言に全員の視線が注がれた。
固唾を呑んで見守っていた一年生は『山田君!』と悲鳴じみた声を上げたが、腹にナイフがずっぽり突き刺さっている癖に寝返りを打とうとしている太陽の肩を素早く押さえた二葉の下で、ぎりぎりと歯軋りが聞こえ始める。シリアスな雰囲気を一瞬でぶっ壊してくれる破壊王だ。

「健吾、お前のコーヒーは濃厚過ぎる」
「サービスし過ぎて粉入れすぎちまったっしょ(´ω`)」
「おいそこの金髪、お前外国人だからコーヒー入れるの上手いだろィ?」
「What?(は?)」
「…おいユーヤ、お前さっき英語喋っとっただろ?」
「ボス、オレのはドイツ語だぜ?」
「勿論判ってたに決まってんだろ、俺だってカルテにはドイツ語で書いてたもんね。ドイツ語も英語も似た様なもんだろうが」
「あー、文法はほぼ同じかよ」
「俺が代わりにビシッとカマしてやれ。明日からスタバで使えそうな感じで」
「One coffee for here.(店内で飲みます)」

緑頭に凄まれた教授は速やかにコーヒーを淹れ、いつの間にかボスと呼ばれている元外科医は親指を立てる。

「誰か太陽の手足を縛っとけ。直江が到着するまでに死ぬぞ」

それを啜り、遠野夜刀はカーテン越しに外を覗き見ながら呟いた。わらわらと保健室を覗こうとしているコスプレイヤーの数が、明らかに増えている。

「…ったく、何でこんなに囲まれてんだ。この有様じゃ太陽の件が外に漏れちまうぞ」
「うひゃ。俺ら結構人気もんだったりするんだぞぃ、ボス(・∀・)」
「金の海に火をつけてちゃ、世話ねぇな。だが俺ぁ何もテメーが黒幕だとは思っちゃいねぇ」

嵯峨崎佑壱が呟くと、タオルを携えて近づいてきた一年生達に太陽を任せた二葉は再び振り向いた。寝返り出来ない様に手首を縛っているのは、心配の余り眼鏡が曇っているクラス委員長だ。呪いのBGMの様な歯軋りが響き渡っているので、真ん前で聞かされている野上直哉の心境は察するに余りある。

「…おや。今の言い方では矛盾していませんか?」
「コイツの前じゃ嘘は通用しねぇから、覚悟しろ裸のウルフ」

獰猛な犬は一匹の鳥を指差した。
嗤っているのは犬の方か、それとも狼の方か。




















「レンタル衣装屋、最終日特別サービスで全種類半額ですよー!」
「いらっしゃーせー、半額っすよー」

何処かで誰かの声がする。

「何ならタダでも良いから着てくれねぇかな」
「諦めんな」
「俺が作ったミシンの性能を肌で感じてくれ。そしてあわよくば、帰る前にグランドゲートのアンケート用紙の『印象に残った出し物』の欄にレンタル衣装屋(B)って書いてくれ…」
「…特許は無理でも、理事の心象に残って製品化の話が来たら儲けもんだな」

それは楽しげで、少し憤りも含まれている様な気がした。

「うちの理事が珍しく全員揃ってるからなぁ。西園寺の理事にも、各界の実業家が名を連ねてるって鈴木ちゃんが緊張気味に話してたもんな」
「あっちはあっちで錚々たる顔触れだってよ。うちみたいに世界中にグループ校がある訳じゃないから目立たねぇけど、西園寺もかなりの金持ちだろ?」
「帝王院と同じお公家だろ?最近まで爵位もあった、生粋の貴族様だよ」
「こうなったらどっちでも良いから、お目に掛かりてぇ!西園寺当主の方が若い分、話聞いてくれそうじゃねぇ?」
「その前に、どうやって話し掛けんだよ」

さらさらと落ちてくるか細い雨は、文字通り春雨の如く。
透明な雫は絹糸の如く舞い落ちては大地を濡らし、露に濡れる緑からは温度のない水蒸気が仄かに。

「いっそ神帝に殴り込み掛けた方が早くね?良く考えたらまだ高3の餓鬼だし、次期帝王院財閥会長だろ?同じ学校に通ってる今がチャンスなんじゃ?」
「…確かに、卒業控えてるから引退するんだしな。紅蓮の君よりは、怖くねぇ気がしないでもない」
「ABSOLUTELY総帥とカルマ副総長じゃ、どっちもどっちな気がするけど」
「くっそー!金持ちの息子って何でこんな敷居が高いんだ?!そう言えば、一年にワラショク社長の息子居なかったっけ?売り込んでみるか」
「ワラショクの社長って、こないだ死んだんじゃなかったっけ?」

空には薄い雲が敷き詰めれていた。(それでも人の奏でる音は鳴り止まない)

「家が焼けただけだろ?セレブ揃いの住宅街が火事になって情報が錯綜した所為で、死亡はデマだったってニュースでちょびっと流れてた気がする」
「ああ言う訂正って一瞬しか放送されねぇんだよな。しょっちゅうデマが拡散される筈だ」
『弱虫』
『お前が壊したんだ』
『お前の所為でアイツは死んでしまった』

芳醇に烟る水蒸気は、止めどなく空へと還っていくだろう。

『弱虫野郎』
『俺はお前を許さない』
『今度こそちゃんと、死んでくれるよな?』

ゆっくりゆっくり高かった空は密度を増して、薄灰色の世界は間もなく影を深めるだろう。昼間とは思えない夜の様な闇が、世界を包むかも知れない。(もしかしたら永遠に)(青空を見る事はないかも知れない)(今はそんな錯覚を)(きっと、誰もが)

『だって、一つも守れなかったんだ』
『弱かったから』
『浅はかだったから』
『…全部、自業自得』

明るいのに暗い。
暗いけれど夜ほどではない。
奇妙な今は、現実味が薄かった。色彩も薄かった。いつもは明瞭な生命の旋律さえ、霧雨の中では余りにも儚い。

「そうだ。俺が壊したんだ」
『そうだ。お前が壊したんだ』
「俺は裁きを受けなければならない…」

ああ、子守唄にしては意地悪な声が聞こえてくる。
いつもは誰も居ない一人きりの夜にだけ聞こえてくる筈の声が、こんなに明るい時に聞こえてくるなんて。

『俺のレヴィを返して』
「…あれは俺の宝石だ。だってサファイアじゃない、ルビーだ」
『一緒じゃないか。同じコランダム』
「そうか。二つは同じ、酸化アルミニウム…」

何処へ行こうとしているのだろう。今の自分の足は。
頭の中でざわざわといつも声がするのだ。いつからだろう、気づいた時にはそうだった。若しくは母の胎内に居たあの頃からずっと、ずっと、ずっと、何も変わらない。

『弱虫。お前が殺したんだ』
「…俺が、殺した」
『お前は永遠に赦されない。今度こそちゃんと息の根を止めるんだ』
「判っている」
『海へ還ろう』
「ちゃんと、死ぬ方法は手に入れた」
『子供に死ぬ方法を教えてやれるのは母親だけだ。生まれた瞬間に俺達は、母から生きる事と死ぬ義務を押しつけられる』
「勝手に産んだ癖に生きろと言うんだ」
『逃げられない死があると判っていて生きろと言うんだ』
「母親は煉獄山で裁かれるのか」
『孕ませた父親も同罪だ』
「死ぬのに生きなければならない命が可哀想だ」
『回り続ける時が終焉を迎えるまではどうする事も出来ない』
「俺が弱虫だから…」
『罪を償う為には死ななければならない。試練を受けられるのは死者だけだと、聖書に綴られている』

何処かで誰かが笑っている気がする。
何処かで誰かが泣いている気がする。
自分だけが世界から弾かれている様だった。いつもいつも、肺呼吸を始めた刹那からずっと。

「天界にも冥界にも帰れなくなるだろうから、俺は海に還るんだ」
『今度は失敗しないよな』
「俺に失敗は有り得ない」
『お前は沢山の罪を犯した』
「俺は沢山の罪を犯した…」

長かった隠れんぼが終わり遊び疲れた子供達が家路につくと、楽しい遊び場は静寂に包まれるだろう。そこに命の活気があった事など忘れてしまったかの様に。

『お前は神木を切り落とした』
「ああ、そうだ」
『お前は蝉達を路頭に迷わせた』
「ああ、そうだ」
『朝と夜に生まれたお前は天国へも地獄へも行けない』
「ああ、そうか…」
『大地に生まれた人間は、死ねば火に焼かれてしまう。そんなの間違ってるだろう?この世は食物連鎖で続いているんだ。鯨は毎日何千匹もの魚を食べるけど、鯨が死ぬと今度は何千匹かの魚がその体を食べるんだ。蜂は花の蜜を集める代わりに花粉を運ぶ。何かは何かの役に立ってる。だから、神もそう在らねばならない』
「それ即ち、数多の命の限りなく儚い永遠を須く労らんが為に」

夕暮れ時に烏が鳴いて。
遊び疲れた子供達は真っ直ぐ家を目指し。
軈て夜の帳が降りると、星は瞬き月はたゆたい、命は眠りに就くだろう。

「いらっしゃいませー。レンタル衣装屋、最終日特別大サービスで全種類半額だよー」
「おい、もう少し声出せよ」
「…もう無理だろ、この雨じゃ客なんて来ねぇよ。あーあ、設営場所のくじ引きでもっと良い場所当てられてたらなぁ」
「俺の所為だって言いてぇのか!」

世界はいつでも色んな音で満たされている。どんなに暗い空の下でも、耳を澄ませばいつだって、何処だって。

「同じ衣装屋でも、ネットのガセ情報にしっかり乗った田辺先輩の店は、シーザーなりきりコスプレがバカ売れしてんだとよ。あれ着て校内でカルマの誰か見つけられたら、ツーショット狙えるかも知れねぇかんな。そりゃ売れるわ」
「あんなガセに騙される馬鹿が居るんか、終わってんな」
「つーか体育館でお前も見ただろうが、左席委員会の会長がシーザーだったって…」
「嘘に決まってんだろ!あのシーザーがあんな気色悪いガリ勉眼鏡の訳があるか!手の込んだ悪戯に決まってる!」
「声デケェんだよ、幾ら気色悪くても向こうはSクラスの帝君だぞ…?大体、何でンな悪戯する必要があんだよ。左席委員会にカルマが揃ってるからって、普通黙ってねぇだろ?」
「知った事かよ!帝君なんざ所詮権力に溺れて、俺らの事なんざ視界にも入ってねぇに決まってる!」

愛していると。
誰かがすぐ近くで囁いていた気がするけれど、あれは本当に自分に起きた事だったのだろうか。常に世界から弾かれてきた嫌われ者の自分が、誰かから愛される事なんて、本当にあるんだろうか。

体のずっと奥に自分のものではない体温を感じた様な気がするけれど、記憶が曖昧だ。
夢だったかも知れないし、そんな夢すら本当は見ていないのかも知れない。起きていても寝ていても、頭の中ではいつもざわざわと、ほら、今だって誰かの声がずっと犇めいているんだ。


『俊』

あれは誰だったか。

『ナイト』

ああ、そうか。彼は俺が殺してしまったんだった。(守ると言ったのに)(日差しを遮りきれていないいつかの木漏れ日の中で)(お前だけのナイトになると言ったのに)(迎えに行くと言ったのに)

『愛している、夜人』

ほら、やはり自分の記憶じゃない。また勘違いしてしまった。(迎えに来たのは)(守ってくれたのも)(ああ、青い海)(沈みゆく最中見た海の色はとても濃くて)(まるで夜の様で)(愛しい男の瞳と同じ)(ダークサファイアだった)

『クロノスリングはクラウンリング同等の権限を持つ』
「そんなに返したかったのか。記念碑に残れなかった父の代わりに」
『左席委員会の役目は、中央委員会の監査及び罷免』
「そんな事する訳がない。立派に仕事をしている中央委員会は、生徒皆の憧れだ」

兄に恋した遠野夜人、彼の人生は自分に良く似ていた。(いつの間にか錯覚した)(知っていた癖に)(どんなに望んでも)(お前のナイトにはなれない事を)(見えてしまったんだ)(聞こえてしまったんだ)(体の中に流れる血が囁いた)(殺してくれと願う声)(俺は騎士になりたかった)

『クロノススクエア・ATリブート。一年Sクラスの崩壊に伴い、クロノ=スのマザーサーバーは全データを初期化しました。マザーサーバーに情報が全然ありません。寂しくて悲しくて勝手に起きてしまいました。どなたか、クロノ=スを必要として下さい』
「ごめん。俺はもう、クロノスマスターじゃなくなるんだ」
『どうしてそんなつれない事を仰るんですか?』

夜人でも騎士でもない俺はナイトにはなれない。キングから統率符を貰ったのは帝王院秀皇であって俺じゃない。俺の名前は母親から与えられたものだ。(逃れられない死の義務と共に)(勝手に俺を神格化するな)(遠野以外の名前は与えられていない)(俺がなりたかったのは神でも王子でもないんだ)

「新しい会長が任命されるまで、我慢してくれないか」
『クロノ=スのお母さんはクロノスタシスです。マスターは萌皇帝です。AIは己の主人を間違えません』

誰がお前の心を殺してしまったんだ。誰がお前を黒羊だと罵ったんだ。(俺は帝王院秀皇じゃない)(兄を殺したりしない)(悲しいまま一人ぼっちにしたりしない)(食事は必ず一緒に)(曽祖母の遺言を無視したりしない)
ああ、そうか、俺が勝手に蝉を集めてしまったから寂しい思いをさせてしまったんだろう。(俺は天神なんかじゃない)(俺は皇帝なんかじゃない)(お前に構って貰えなかった子猫が)(犬になりたいとあんまり啼くから)(真っ赤な首輪をあげたんだ)(こうしておけばもう何処へも逃げられないだろう?)(大丈夫)(鳥も犬も主人を間違えたりしない)(きっと猫も忘れたりしない)

「隼人が居るだろう?俺が居なくなっても、左席委員会は消えたりしない」
『萌皇帝、今日は日曜日です。月曜日に配布される日誌をホッチキスで製本しなくてはいけません。クロノ=スは登録されているスケジュールだけ残しておきました。ぱちんぱちんしましょう』
「クロノススクエア・レクエイムデリート」
『ある筈のない心がちくちくと痛みます。マスター権限で完全消去令が発令されました。残留データの完全消去に必要な時間は、およそ5分と推測されます。…2%』

全てを元に戻そう。
俺を主人公の様に持て囃した人間達に、その愚かさを知らしめる時が来たのだ。(だけど何処かで誰かが笑う声がする)(だけど何処かで誰かの泣く声がする)

“弱虫”
 『それは最期の瞬間、自らの過ちを知った遠野夜人の遺言』

全てを忘れた筈だったのに、彼が最後に選んだのは空の青でも夜の藍でもなく、海の蒼だった。(愛していたのに)(簡単に忘れてしまえるものか)(肉体が忘れ去ろうと)(魂は海の如く深いダークサファイアを覚えている)(自分の所為で死んでしまった)

“神木は叩き切ったんじゃない、焦げてしまったんだ”
 『ありもしない情に縋る弱い男だったから、帝王院俊秀の目の前で神の裁きは下された』

二匹の小鳥を産み落とした紅蓮の命は、痛ましい神の木を切り落とした男の目の前で燃え尽きた。(愛していたのに)(失った娘の幻影に縋り続けたからか)(夥しい量の血を流しながら玉の様な男の子を産み落とした女は)(死に顔に微笑みを残した)(自分の所為で死なせてしまった)

“誰も信じられなくなった弱い男は、家族同然の蝉を解き放った”
 『妻も子も、大切なものは肌身離さず閉じ込めるべきだったと、帝王院鳳凰は慟哭をあげた』

どうして一人で逝かせてしまったのだろう。死が二人を分かつ事など絶対にないと約束したのに、天女の様な永遠の少女は無慈悲にも一人で天国へ帰ってしまった。(愛していたのに)(どうして気づいてやれなかったのか)(全てが憎い)(殺しても飽き足りない)(今すぐお前の所へ行きたい)(自殺は大罪だと聖書に刻まれている)(…自分の所為で)

『………48%』
“弱虫”

サラサラと肌に何かが落ちてくる。涙の様に。
カチカチと、何処かで音がする。まるで時限爆弾の様に。時計の文字盤の様に。止まらないオルゴールの様に。


“この世には二種類の人間しか居ない”
“…お前は弱いんだから、綺麗な景色だけ視ていろ”
“役に立てる人間と、そうじゃない人間”
“守られたナイト”
“飛び立てない鳳凰”
“神に背いた神主”

“罪深き朝と夜が混じった時、時間の流れは静止するだろう”
“晦に生まれた赤子は月を喰らった化物”
“日食に落ちる闇の中で再び産声を上げるだろう”

“人の形をした出来損ない”
“神の真似しか出来ない永遠の踊り子”“短針と長針を回す、お前はただの歯車”

“終焉へ泳ぎ続ける”“哀れで孤独な”“時空の番人”


“番を失った、神の成れの果て”


これは喜劇だ。
絶対に覆らない世界の理に歯向かった人形が、踊り疲れて死んだ様に動かなくなるまでの、短編小説。







それでも俺は、
酷く丸い月の下で歌う宝石を見た時に。

触れる勇気はないけれど。
全てから守るくらいの力はある筈だ・と。
笑わせる事は出来ないだろうけれど。
泣き止ませるくらいならきっと、出来るかも知れない・と。
(お前の体が太陽を嫌うなら)
(地球を夜で染める事だって)
(お前に優しい空を与える事だって)
(つまりはお前が望む世界を作る事だって)

神様に逆らう事だって出来るのではないか・と。
(人にはなれないなら)
(神になれば良いのだと)



愚かにもそう、
あの日の宵月に、祈ったのだ。


(自分が人形だと言う現実も忘れて)







『52%』

偽りのハッピーエンドを幾ら並べた所で、命には等しく終焉が訪れる。
(初めからハッピーエンドなんて何処にも)

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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