帝王院高等学校
隠居をこき使うがイイわ、若人よ!
「受精卵を取り出した?!」

馬鹿め馬鹿めと、確かに何年も罵ってきた自覚はある。馬鹿な子ほど可愛いと言う言葉が日本にはあるが、だからと言って、正真正銘の馬鹿だとは思わなかった。自分が育んできた医者の中ではまず間違いなく最優秀賞対象であったし、何より、可愛い一人娘をやったのだ。これ以上の信頼の証など、何処に存在している?

「おま、自分が何やったか判ってんのか?!娘の腹を!孫の命を!」
「…冬月は既に滅びた。宮様に添い遂げる義務はない」
「そう言う問題じゃねェだろう!お前、」
「あれに記憶はない。次もまた効くかは不明だが、俊秀公の声を真似させて貰った。これがどう言う意味か、貴様には判るだろう」
「っ」
「5週目のアンプルは低温培養基に保管している。胎児と呼ぶには極小な存在だ。細胞分裂を抑えている間は、生まれる事も死ぬ事もない」
「テメェ!」

馬鹿息子。
貴様はたった今、最優秀受賞対象から外された事を、この拳で思い知れ。

「っ、少しは避ける振りをせんか!」

痛いのは遠野夜刀の右手であって、婿養子の左頬などではない。自慢ではないが暴力的喧嘩で勝った試しがない外科医は、患者の命より重いものは持てない宿命なのだ。などと哲学的な事を宣った所で、若い頃には比較的苦労した夜刀も霞むほどの壮絶な生い立ちを持つ目の前の男は、当たった所で痛くも痒くもない夜刀の拳を避けなかった。

「殺さなければ医者は何をしても許されるって?」
「…」
「治療名目でも何でもないテメェの都合で開腹する事も、当人の了解を得ない堕胎同然の真似も!」

それは彼に罪悪感があったからに違いない。非力揃いの医局で、腹筋が割れている男前だと女性陣が騒いでているあの遠野龍一郎が、夜刀の全力の右ストレートを避けられない筈がないからだ。肉づきの悪い夜刀の腹筋は割れている様に見えるだけで、昔は肋骨が浮いていた。年を取るに連れて昔より多少太ったと言う事だ。

「あー!馬鹿のお陰でむしゃくしゃするったらないわ!…おい、コーヒー買ってこい」
「俊江の子孫を遺す事は許されん」
「今は微糖の気分だ、小銭やるから」
「俊江は、俺が作った子供だ」
「馬鹿抜かせ。腹痛めて産んだのは、」
「…違う。俺が作った子供だ。美沙は関係ない」

ああ、だから馬鹿だと言っている。
娘婿も、自分もとんだ大馬鹿者だ。どうしてこんなに悩ませてしまったのだろう。もっと早く種明かしをしておけば良かったのだ。
初めから判っていたではないか。冬月龍流には少しも似ていない悪餓鬼が、どんなに繊細な生き物かなんて。一人では飯を食う事も出来ない程の寂しがり屋だと言う事さえ、とっくに。

「はー…」

馬鹿だ。この歳になってはもう、誰も叱ってはくれない。
苛烈な性分だった妻は、あっと言う間に死んでしまった。医者の不養生とはこの事だ。難病だったならまだしも、肺炎で逝くには少しばかり若かった。最後まで泣き言一つ言わなかった彼女なら、虫を見る様な目で『アンタは死ぬ価値もない男だ。惨めに生き長らえて、人様に感謝しながら命を救う事だね』とでも言っただろう。

たった一度、浮気同然の真似事をした事がある。一度きりだ。
夜人の行方を捜してくれていた帝王院鳳凰の婚約パーティーに招待されて、幼い娘と妻と共に出席した時に。参列者の中にいたご婦人達から囲まれた夜刀は勧められるままに酒を煽ってしまい、前後不覚に陥って誘われるままご婦人の誰かとゲストルームに入ってしまった。あの時どれほど泥酔していたか簡単に説明するなら『どう足掻いたって勃起する訳ねぇ』くらいだったが、それは男の言い分だ。
当時辛うじて40代だった夜刀を独身と勘違いしたのか、誰でも良かったのかは不明だが、とにかく夜刀に当時の記憶はほぼない。記憶があるのは、無表情の妻に冷水を浴びせられた瞬間だった。困った表情の鳳凰とその婚約者もその場にいて、『浮気相手のご婦人』とされていた女性は泣き崩れており、何時間経っていたのかは判らないが、初めて妻から『クソが』と言われるに至る。幼かった娘は状況を理解していたとは思えないが、あの恐ろしい雲隠糸遊に抱かれていた事だけははっきりと覚えている。白々しい微笑みを浮かべた糸遊が『殺しましょう』と囁いた事も、当然忘れられる筈がない。

あの場が一応収まったのは、鳳凰の婚約と言うめでたい席だったからに他ならない。
以降冷戦状態に入った遠野家では、何も悪くないのに土下座して堪るかと片意地を張った家長と、総合診療医だった男前な妻の静かな戦いの火蓋が続く事になる。同じ家に住んでいるだけの他人同然の生活だったが、どちらも最後まで離婚を切り出しはしなかった。
悲しいも苦しいも言わなかった妻が、誰にも気づかれずに息を引き取るまで。


「可哀想な餓鬼だと思わねェか。なァ、悪餓鬼」

女とは強くて儚い生き物だ。遠野紗江ですら例外ではなかった。

「お前が相手にしなかった妊娠希望の娘を覚えているか。二年近く前の」
「…知らんな」
「何とかしてやってくれってお願いしただろ。カウンセリング受けさせるなり何なり、もう少しやり方はあったのによォ。お前と来たら門前払いして、」
「いつから慈善家になった」
「おいおい、俺らは端から偽善者じゃないだろうが。金を貰って治療する、医者の正しい行動だ。売上をみすみす逃しやがって」

弱い癖に強がる、男の常套手段だ。
寂しい癖に口では言えない、頑固者の典型。

「俺ァ、寂しがり屋のお前に何度も電話してやっただろう」
「誰が寂しがり屋だ」
「やれ学会だのやれ手術だの、適当な言い訳で逃げ続けやがって」
「貴様は一体何が言いたい」
「お前は想像以上に俺を舐めてやがったな、龍一郎」

覚悟しろ馬鹿息子。龍流には似ていない、弱い癖に強がる龍の子。お前の父親は強い癖に弱い振りをしていたが、最後の最後まで冷血にはなれなかった。あの男は、遠野星夜の親友だったからだ。
会わせてやりたかった。決して強くはなかったが、弱くもなかった我が父に。死んだ双子の兄の分まで人の為に生き、人を守って死んだ彼に。
可哀想な龍一郎。夜刀ではなく星夜の息子になっていれば、もう少し、賢い生き方が出来たかも知れないのに。(夜人は自分が育てたのだ)(そっくりだろう)(馬鹿で悪餓鬼で)(強がるだけの弱虫)

「今頃後悔するか、遠野夜刀」
「いや?俺の唯一のミスは夜人を捕まえられなかった事だが、お前は別にミスでも何でもない」
「強がるな。言えば良い、俺は裏切り者の冬月で、裏切り者のオリオンだ」
「お前は俺の、可愛い…と言うにはちょっと語弊がない事もないが、まァ有能な息子だから」
「…は。ABSOLUTELYが聞いて呆れる」

独り言の様な呟きが鼓膜を震わせた。
これは電話ではなく、会話だ。どんなに声では強がっても、顔を隠す事は出来ない。

「…陛下と同じ遺伝子を見つけた。天文学的数値だ、理論上は有り得ない。指紋でも全く同じ人間は存在しない。複雑な構造の遺伝子も然り」
「エビと同じ遺伝子ね」
「駿河公の息子だ。…特異な血液を持つ事に気づいて、洗いざらい調べた」
「鳳凰の孫か。確かまだ高校生だったな」

大馬鹿者め。残念ながら、龍一郎は夜人より夜刀に近い様だ。知っていたがこうも似ているとは、遠野の血の影響力を思い知らされる。全く、性悪なウイルスの様ではないか。

「近しい遺伝子の配合は禁忌。近親相姦が禁じられているのは、相当の理由があるからだ」
「あァ、親兄弟が駄目だってんなら、同一遺伝子の合体が許される筈ねェわな。だから何だってんだ馬鹿息子、いい加減コーヒー買ってこいっつーの」

賢い分だけ優柔不断、即断即決している様に見せているだけで、いつも罪悪感と猜疑心の狭間で揺れている。それは医者の不治の病だった。他人の命を救う時に即断即決出来る医者などほぼいない。
命とは、失敗を恐れもせず簡単に扱って良いものではないだろう?(ああ)(生きていたら一発では足りない)(我が最愛の愚弟め)(余計な枷を残して逝ったお前を)(一度くらい、殴っておけば良かった)(お前を育てたのが誰だか忘れたのか)(死にたいと言うならこの手で殺してやったのに)(大馬鹿野郎)(死んだらもう)(殺してやる事も出来ないだろう)

「お前の世迷いごとが如何に愚かか、教えてやろうか」
「パパをお前と呼ぶな。いっぺんくらい可愛くパパと呼べ、抱き締めてやるから」
「夜人は俺が殺した」

内緒話をしよう。
気づいてくれと声を押し殺して泣いていた可哀想な息子に、今の今まで気づいてやれなかった馬鹿な父親から、愛を込めて。お前の行いがどれほど愚かな真似だったのかと。


「お前は何もやってない」

そして、今度こそ己の愚かさを思い知るが良い。



(二度と空を飛べないと嘆くなら)
(龍よ)
(お前の骸は夜が包み隠そう)

(全てから)












「俺は子供を作った」

珍しく正規の客としてやって来たかと思えば、目の前の男は相変わらず訳が判らない事を言い出した。

「お前が作ったんじゃなく、嫁さんが産んだんだろうが。いい加減言葉を学べ陽炎」
「俺が作ったんだ夜刀兄者」
「こりゃまた見事な赤毛だな、赤ちゃんと言うだけに」

腕に抱いている乳児は、何故か父親の平らな胸に吸いついている。雲隠陽炎はしっかり哺乳瓶を持っている様だが、赤子の方は見向きもしないらしい。

「…出もしない貧相な乳をやるな。父は父でも、その乳をやるのは母親の仕事だ」
「それも違う。何故か俺の乳首を吸いたがるんだ、それも左ばかり」
「たまには右も吸わせてやれ」
「努力する」

会話が成り立っている様な気がしないのは、慣例行事だった。目の前の男の飼い主も昔は似た様な雰囲気だったが、長年付き合っている内に大分キャラ変した様に思う。お陰様で陽炎の双子の妹には盛大に睨まれているが、早々と結婚し子育てに奮闘している高森糸遊の優先順位は、帝王院鳳凰ではなく旦那と子供達だ。

「ちゃんと小児科に回してやった方が良かったか?」
「この子の見た目で騒がれるのは、俺としても本意ではない。俺は兄者を信頼している」
「そらどうも。この子の見た目よりもお前の素顔がバレた方が大騒ぎな気もするが…」
「顔?俺の顔に何かついているか?」

ああ、ついている。野暮ったいカツラと瓶底眼鏡が、しっかりと。いい加減もう少しまともな変装はないのかと言ってやりたい所だが、陽炎の場合、燃える様な髪と眼を抜きにしても顔が整い過ぎているので別の意味で目立つのだ。

「自覚がないのがまた腹立つ」

鳳凰も見事な男前だが、彼の場合は父親である帝王院俊秀の血が強い。神主だからか、清廉な雰囲気と存在感がいやらしさを感じさせない類の美貌だ。
然し陽炎に関しては、どうしてもセクシャリティを感じさせる。ぼーっとしているだけで、目が合った人間は悉く誘われている様な錯覚を覚えるのだ。今までそれで何度トラブルを起こしてきたか。

「俺ァ専ら大人相手の医者だからなァ、龍一郎の方が良いんじゃないかしら」
「…俺はあの小僧を信用していない。奴は穢らわしき冬月だ」
「今は立花だっつーの」
「兄者」
「お主の父ちゃんは頑固でちゅねェイ、出ない乳吸わせたがるし」
「吸わせたがっている訳ではない。この子が吸いたがるんだ」

医者は万能ではないのだと遠野夜刀は溜息を零し、首に引っ掛けていた聴診器を耳に当てる。
出ない乳に飽きたのか、小さな指をちゅうちゅう吸いながら船を漕いでいる子供は、夜刀が心音を確かめている内に眠りの中へ落ちていった。瞼に閉ざされてしまった双眸が、この世のものではないほど見事な真紅だった事に感心したが、口にはしない。

「良し良し、健康な心臓だな。栄養も行き届いている様だし、3ヶ月でもう歯が生え始めてやがる。全く問題なし」
「飯はいつから食わせたら良い?」
「大体半年くらいからだ。歯が生えても、内臓の成長具合は判断が難しいからな」

陽炎から恋人を寝取られた事もある外科医は聴診器を外し、カルテに書き込む振りをした。健康過ぎて書く事がないので、仕事している振りをしているのだ。ただでさえ陽炎は夜刀を師匠か英雄の様に神格化しているので、期待に応えて『とても偉いお医者さん』を演じなければならない。いや、ぶっちゃけ夜刀がそう思われたいだけだ。

「そう言えばお主、また暫く行方不明だったらしいな」
「大殿から聞いたのか」
「鳳凰は放っておけば帰ってくるだろうと言っていたが、舞子ちゃんの所に顔を出してる糸遊がおかんむりだったらしいぞ」
「ああ。二度殴られた」
「2回?」
「結婚したと言った時と、戻ってこの子を見せた時に」

成程、無断で居なくなった男が子供を連れていれば心配を通り越して頭に来るのも無理はない。

「そう言えば、この子の名前を聞いてなかったな」
「嶺一」
「おう、中々洒落た名前じゃないか」
「にゃあがつけてくれた」
「にゃあ?あ、名古屋から貰ったって言う嫁さんか」
「貰たのではない。にゃあは、愛人との生活にうつつを抜かした父親が傾けてしまった嵯峨崎の家を立て直す為に、日夜戦っている。どれほど戦っているかと言えば、事故死した母親の喪が明けない内に父親を家から追い出し、財産目当てだった愛人と子供に、莫大な借金ごと父親を押しつけた程だ」
「待て、それは糸遊の話か?」
「違う。優しいにゃあはその程度で許したが、糸遊ならば目障りな男はその場で惨殺している」

なんてこった、あの女狐ならやりそうではある。

「名前をつける代わりに、嶺一の面倒は見ないと言われた」
「は?」
「離婚を持ち出されたが嫌だと言ったら出て行けと言われたが、それも嫌だとゴネたら目を合わせてくれなくなった。どうしたら良い?」
「待て、何の話だ」
「にゃあの体ではシンフォニアの着床が不可能だったんだ。三度試した。榛原宮司の術は、回数を重ねる程に効きが悪くなる。他に方法がなかった。にゃあの臓器を新たに作り、俺の女体に移して妊娠させた」
「は、はい?」
「女の俺が妊娠可能な年齢に至るまで十年懸かったが、こうして嶺一が生まれた。にゃあの腹の中にあるお宮を手術で移す時にかなり疲弊していたが、出産まで保ったのは僥倖だ。糸遊は運良く三人の子供を産めたが、俺には一人が限界だったらしい。やはり俺が脆弱な雄だからだろうか」

誰か通訳をお願い出来ないだろうか。
生まれた瞬間に忍者として教育された陽炎は学校には通わず、双子の妹の糸遊は学校に通っている。その差なのか否か、陽炎は言葉数が圧倒的に足りない男だ。夜刀の前では良く喋る方だが、異性の前では石の様に喋らない。本人から聞いた話では、一ヶ月以上喋らない事もざらにあるそうだ。

「女の俺っつーのは…またエビ絡みか」
「レヴィ=グレアムは死んでいる」
「ああ、そうだったな。お前から聞いたんだった」

どうやら陽炎は、アメリカへ渡っていた様だ。
嵯峨崎嶺一と日本語で書き込んでやる事がなくなった夜刀は、デスクの上に並べていた缶コーヒーを一つ陽炎へ手渡し、自分も手に取ってプルタブを開ける。大分温いが、妥協範囲だ。

「遠野夜人の死因について、幾つか判った」
「わざわざ調べてくれたのか」
「俺が世話になったライオネル=レイと言う男には隙がなく時間が懸かったが、レヴィ=グレアムの死因は事故死の可能性が高い。中央区へ運び込まれた時には、手遅れだった様だ」
「つまり夜人はまだ生きていたって事か?」
「ああ。恐らく間違いない」
「だったら何で死んだ?あれはまだ30代だった筈だぞ」
「Amnesia or Alois Alzheimer.(記憶喪失か、アロイス=アルツハイマー)」

余りにも流暢な英語に一瞬目を白黒させた夜刀は、辛うじて聞き取れたアルツハイマーと言う単語に眉を寄せた。

「近年医学会で認知されつつある、痴呆症の事だろう?そんな馬鹿な事があるか、夜人は」
「冬月鶻主事が死の直前に行っていたとされる奇妙な行動に酷似した行動が、夜人にも見られたと言う証言を得た」
「…」

知らない筈がない。冬月家の当主だった鶻が急逝したのは、龍流が死ぬ数ヶ月前の話だ。
彼もまた死ぬには早い年頃で、帝王院俊秀も葬儀に出席している。遠野星夜の親友だった龍流が難病を患っている腹違いの弟の為に、夜刀の祖父で星夜の父親である遠野一星を度々訪ねていた縁もあり、一星も葬儀に参列した筈だ。関東で瞬く間に財を成した冬月は経済界でも広く知られ、だからこそ鶻の死後、屋敷が大火事に見舞われた時は幾つもの新聞に一面で書かれた過去がある。

「俊秀公が、主事の嫡子である冬月龍流を呼び戻さなかった最たる理由は、恐らく冬月の末路にある」
「末路…?」
「冬月の当主は代々、還暦を迎える頃に『壊れる』そうだ」
「まさか、頭が、って事か?」

有り得ない話ではない。
およそ一般人には有り得ない神憑った記憶力を有する冬月ならば、肉体的な寿命を迎える前に夥しい程の記憶で脳がパンクする可能性はあるだろう。寧ろ忘れる事で人間は脳の負荷を軽減させているのだ。だとすれば、冬月はただ生きているだけで脳に想像もつかないダメージを負っているのかも知れない。

「調べるのに最も時間が懸かったのは、レヴィ=グレアムの死因ではなく事故現場だった」
「そうだ、男爵は一体何処で」
「東京湾」
「何だと?」
「漁師の中に『空飛ぶ車』を見たと吹聴する者が居たが、カルト好きの番組で多少騒がれて終わったらしい。その目撃情報の時期が、レヴィ=グレアムが死んだ頃に符合する」
「…俺を見て怯えた顔をした夜人が逃げたあの時、奴も日本に居たと」
「恐らく」

もう良い。
それ以上知る事はどう足掻いても不可能だろう。恐らく真実を知っている筈の立花龍一郎は、真実を語る気がないのだから。

「…この件は俺の胸に秘めておく。気を遣わせて悪かったな、陽炎」
「いや、事実を残らず明らかにした訳ではない。俺が掻き集められたのは他人の証言と、ひと握りの記録だ。優秀な忍の仕事とは言えない」
「くっく。まだ忍者気取ってんのか、鳳凰は公家の神主でも陰陽師でもないのに」
「兄者は俺を叱らないのか」
「叱る?ああ、人道的に赦されないクローン紛いに産ませたって事か」
「俺は俺を殺した。然し引き換えに嶺一を手に入れた。全てはそれを願った、妻の為に」
「…格好良い台詞だな、いっぺん言ってみたい。らしくなく後悔してんのか?」
「後悔などあろう筈もない」

ああ、何年経とうが潔い男だ。馬鹿だからか悩む事がないらしい。羨ましい話ではないか。

「嫁は何で育児放棄した?仕事がそんなに大事なのか?」
「にゃあは嶺一が他の女の子供だと思い込んでいる」
「は?お互い納得した上での体外受精だろう?」
「宵の宮様のお力添えをお願いした。榛原の催眠は二つある。意思を奪う催眠と新しく記憶を植えつける催眠だ。歴代当主の中でも強い力をお持ちの宵の宮様は、意思を奪う催眠の力が秀でておられる。操っている間の記憶は残らない」
「は?」
「にゃあと共にアメリカへ渡って十年懸かったが、その間に計三度。帰国する度に催眠の上書きをお願いした。にゃあにはもう、榛原様の催眠は掛からないそうだ」
「待て待て、珍しく饒舌なのは良いが夜刀さんはちっとも判らん」
「宵の宮様の催眠に失敗はない。嵯峨崎の会社をにゃあ不在で守っていた名古屋の職員達は、誰もがずっとにゃあと共に働いていたと思っている。にゃあは社員の証言を信用し、俺の言葉を信用しない」

内容を噛み砕いて殆ど推理の様に導き出そうと奮闘した夜刀は、途中で放棄した。何にせよ、言葉が圧倒的に足りない陽炎の説明で理解する人間は、そう多くないだろう。陽炎が生まれた時から一緒に暮らしていた鳳凰だけが、唯一の特別なのだ。

「…早い話が、自業自得じゃねェか」
「流石は夜刀兄者。大殿も同じ事を仰られた。お二人はやはり、魂の双子」
「やめろ、鳳凰なんかと一緒にされたくない。普通の男が中折れし始める年頃で童貞を卒業する様な修行僧と、今現在修行中の夜刀さんを一緒にするな」
「以前、夜刀兄者が浮気したと言う話を聞いた」
「濡れ衣だ」
「やはりそうか。気高い兄者が斯様な真似をなさる筈がない。無論、俺は兄者を信用している」

ほら、見ろ。実はあの時の事は全く覚えていないなどと、口が裂けても言えるものか。

「大殿は『夜刀は股間を吸われている時に涎を垂らし鼾を掻いていた』と仰ったが、女から吸われても欲情なさらない御身の気高さに、俺は尊敬の念を益々強く抱いた」
「?!」
「流石は、夜の王」

…そろそろ嫁に土下座するべきだろうか?







そうだ、死体に土下座して許される事はなかった。叱られる事もなかった。何も起きなかった。
遅過ぎたのだと嘆いても、後悔は死ぬまで消えはしない。

「はァい、こちら夜刀さんのオフィスですよォ」
「施設長、また遠野先生が勝手に事務室を使ってます!」
「うちの代表電話を私物化するのはやめて下さい、遠野さん!」
「二人共、伯父さんに何を言っても無駄だって言っただろう。良いんだよ、僻地の人材不足の病院が何とかやってこれたのは、遠野総合病院様々なんだから…」
「施設長のお父様が出来損ないだったからって、いつまで立花は遠野に足を向けて眠れない設定なんです?!昭和の恩なんていい加減忘れましょう!いつまで経っても価値があるのは、古漬けの糠床だけです!」
「立花はもう病院とは名ばかりの療養所なんですからっ、常駐の医師もいませんし!」
「痛い所をつつかないでくれないか…。僕だって一応医師免許は持ってるよ?」
「あっ、判った。施設長のお父様が遠野さんの弟さんと怪しい仲だったって噂がありますよね?だから弱みを握られて、」

ドカン、と。とあるケアホームの事務室のデスクの上に、容赦なく足を乗せた男はデスクの上にある電話機から受話器を持ち上げた状態で目元を半月の様に歪ませ、シャラップと吐き捨てた。時々英語を使いたがる老人は入居者の一人だが、緩和ケア患者ではなく、数年前に併設した老人ホームの入居者だ。しかも正規の契約者ではなく、勝手に居ついている完全な居候だった。

「煩くて声が聞こえねェだろうが、春彦ォ」
「は、はい!」
「夜人は俺のお嫁さんになるって言った根っからのインテリイケメン好きだ、何度言ったら判る?」
「そうですよねっ、結婚後に猛勉強してやっと看護師になった父と夜人叔父さんは腐れ縁の悪友で、従兄弟でもなんでもないんですし!」
「そうとも、夜人の母親は立花とは縁もゆかりもない看護師だ」

ホーム設立に関して、多少協力を貰った事で部屋を一つ空けておけと命令された立花は、全日本医師会のトップにまで上り詰めた男を追い払う事も出来ないまま、勝手にやってきては勝手に出ていく、フーテンの寅さんじみた遠野夜刀の仮宿として使われている。今日もまた、いつの間に帰ってきたのか事務室にある施設長デスクを無断使用し、豪快に寛いでいるのだ。

「従業員の教育をやり直せ春彦、次に俺の夜人と夏彦がけしからん仲だったなどと吹聴してみろ。東京から、俺の可愛い龍一郎が乗り込んでくるぞ」
「ヒィ!」

現在、日本中の医者が憧れるのと同時に畏怖する医学会の神の手、遠野龍一郎を知らない医者はいないだろう。数十年前に夜刀の一人娘と結婚した際、立花龍一郎を名乗っていたそうだが、それに関して当時の立花は全員が口を閉ざした。
現在の立花病院は還暦を迎えた施設長兼院長の他には非常勤の医師しか居ない為、昔の事を知っている人間はいない。遠野夜人と共にワルの限りを尽くした現施設長の父親は、夜人が失踪した事で相当な罪悪感があったのか否か、結婚後に心を入れ替えて医療に従事したが、引退すると間もなく亡くなった。90歳を過ぎてもピンピンしている夜刀だけは、定期的に健康診断を受けているが実年齢より一回り以上若い結果が出ている。…化物だ。

「俺に心酔してる龍一郎を敵に回すと凄いぞ、お前らなんか呪い殺されるぞ」
「ヒィイ」
『院長、千葉だからって嘘ばっかり言ってると本当に縁を切られますよ?』

見るも無残に怯えてしまった立花の施設長は、施設長大好きな従業員と看護師に宥められている。勝手に居着いてしまったと言っても、費用を支払っている夜刀を追い出す事も出来ず悔しげな彼らは、実年齢より老けている気がする施設長を休ませるべく、キッと睨んで退散していった。

「いつまで俺を院長って呼ぶつもりだ、榊ィ」
『院長は院長です。それとも夜神とお呼びしましょうか、宮様』
「おい、やめろ」
『ですが院長は紗江様の夫君であらせられました』
「紗江はとっくに死んじまったよィ。俺より二歳も若かった癖に、医者の癖に」
『神木蒼依の名前をご存知なのは、もう院長だけですね』
「…遠野紗江だっつーの。神木葵は、高坂豊幸の女房だろうが」
『俊秀公は祝福なさいました。鳳凰公も…まぁ、多少拗ねていらっしゃったそうですが』
「イイから早よ用件を言え。いつまで古い話をしてやがる」
『戻ってきて下さい』
「またかァ。今度は何だ、何を読んだ?」

引退する気がなかった夜刀を追い出したのは龍一郎だった筈だが、定期的にこうしてお呼びが掛かる。勿論龍一郎がそんな可愛らしい事を言う筈がなく、こうして連絡を寄越してくるのは夜刀が院長だった時代に雇用した医師の一人だ。現在は全外科を取り纏める医局長へ昇進したそうだが、いつまで経っても頼りない。未だに外科部長と呼ばれている所にも、その辺りの悲しい事情が見え隠れしていた。

「人の心が読めるってのも難儀だなァ、明神よ」
『僕は小さな表情の変化が判るくらいです。何を考えているのかまでは、流石に』
「ま、あれでも一応冬月だからな。本当なら龍流さんから家督を継いでいても可笑しくない頃だ」
『冬月家について僕は何も知らないので。…でも、近頃の龍一郎院長は見ているだけで痛々しいんですよぉ』
「痛々しい?」
『俊江お嬢さんが何処の馬の骨とも知らない男の子供を妊娠して駆け落ちしてしまってから、院内じゃ医師も患者もその噂で持切りなんです…っ』
「…陽の王の孫を馬の骨ときたか」
『え?』
「何でもない、こっちのお話だ」

全く、どいつもこいつも老体を扱き使おうとしてくれる。まだまだ楽隠居の道は遠い様だ。

『直江先生の奥様も妊娠中でしょ?それなのに祝福ムード所か陰鬱な雰囲気で、西の遠野家からも不満の声が…』
「あァ、奴らはじっ様の妹の血筋だろ。東北から流れてきた一族で遠野を名乗ってんのは、後継の一星じっ様だけだ。遠野ですらない他人がガタガタ抜かすなと言っておけ」
『無理ですよ!経営にも散々口出して来るし、何より揃いも揃って性格がキツイし!』
「雪を掻き分けて、縁もゆかりもない東京に逃げ延びた鬼の一族だからな。弱虫は存在しねェに決まってんだろ」

突然変異の遠野直江以外は。

←いやん(*)(#)ばかん→
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