帝王院高等学校
こちら中央区所属、中央情報部でございます。
「そうか。医者を目指すと」
「…大殿がお許し下さるのであれば」

ああ、見事な満月だ。
昼間の暑さを忘れさせる夜空の下、仄かな緑青に光る蛍の群れは、宵闇に隠されないよう照らすかの如く、二人の男の周囲を踊り続ける。

「籍を戻すつもりはないと言ったが、名がなければ不自由だろうに」
「…名に、そう深い意味はないだろう」

幾らか若い方の男が首を傾げれば、灯りを落とした縁側で背を伸ばして正座していた長髪の男は、皺のある指先を蛍が飛び交う宙に持ち上げた。

「家名や役目が常に己が身を護るとは限らない。仏に厳かな命を賜った者が住まう、世の常だ」
「父上にとってはそうだとしても、そうでない人間も居るだろう。世に二人と同じ民は居ない。それもまた、世の常だ」

顔立ちも声音も似ていない親子は、然し醸し出す雰囲気はそっくりだった。
夏の夜の帳に在って、月と蛍が照らしている二人の王は、少しとしてその存在感を失う事はない。

「然し父上が仰りたい事は、全てではないだろうが判っている。俺が当主として宣言すれば、少なくとも反対を述べる者は東京には居らん。だが、お祖父様亡き後も京都の大宮を守っている者達が何と言うか」
「大宮司に仕えた者達は、今や叶を名乗っている。冬月本家の屋敷が焼け落ちた事で、羽尺が残した権力は失われたも同然だ」
「くっ。全く、己の母親を他人の様に語られる…」

なぁ、大宮司・と。
囁いた息子に目を向ける事もなく、帝王院俊秀は宙に漂わせていた指先を下ろした。

「社を取り壊した私を大宮司と呼ぶ者は、京にも出雲にも居るまい。出雲が体裁を保っている最たる理由は、この地が、昭和天皇が坐す江戸だからに他ならん」
「何にせよ、出雲との縁も父上の代まで。俺が神道の教えを違えた事を、恨んでおられるか?」
「…既に帝王院の全てをお前に譲り渡している私に、恨みなどある筈もない。黎明の導きのままに鳳鳴朝陽を誘い、黄昏の囁きのままに鳳凰于飛たれ。お前の決定は、私の意思にも同じ」
「有難い事だと思わんか、龍一郎」
「は」

初めて会ったのはもう十数年も昔の事だが、あの頃よりずっと人間臭くなった気がする。在りし日の父に連れられて、帝王院の屋敷に行った幼い記憶。あの日も静かな夜だった。

「お前にこう尋ねるのは愚かな真似だろうが、夜刀を覚えているか?」
「しかと覚えております。宮様のご友人であらせられる、遠野夜刀殿」
「あの男はお前の父と共に作る筈だった診療所を、一人で立ち上げた。30歳の時の話だ」
「畏れながら、妙々たる功績だと存じます」
「お前の宿り木に、我が友は相応しくはないか?」

冗談だろうと言い掛けて、冬月龍一郎は口を閉ざした。悪戯な笑みを浮かべている帝王院鳳凰の考えが判らない訳ではないからこそ、そこまで迷惑を掛けるつもりはないと言う意味で首を振ったのだ。

「…何があろうと絶対に、それだけは」
「お前が持ち帰った夜人の話を聞けば、あれも喜ぶだろう」

そんな筈がない。龍一郎にはまだ、話していない事があるのだ。

「ほんの半年ほど前の事だった。弟に良く似た男が病院の近くを彷徨いていたと、酷く興奮した夜刀が連絡を寄越したんだ。あれは俺より年下だが、出会った頃から中々知恵が切れる男で、口数が決して少なくない質だったが、如何なる時も理性を手放す様な真似はしなかった。それがあの時ばかりは、幽霊を見たと喚く幼子の様だったか」

実の父母の様に慕ってきた男爵夫婦が死んだのは、ほんの半年前の事だ。
何の宛もなく勢いのまま飛び出してきたまでは良かったが、今更日本へ帰った所で頼る人間など存在しない事は判っていた。考えに考えた末、全てを放棄してきた自分に残されたのは、神に仕える研究者としてではなく実の父が志した、医者の道だけだと思い至ったのだ。
そうなるともう、それ以外の選択肢などないのではないかとさえ思えた。一種の現実逃避だと言う事は理解している。戸籍を持たない18歳の人間に出来る事は、少なくともこの島国では皆無に等しかった。金があろうと、学校へ通う事さえ単純ではない。

悩んで悩んで、何日が経ったのか。
燃え落ちた状態のまま放置されていた冬月の家の跡地へやって来たのは、帝王院鳳凰だった。

『天神に出迎えさせるとは、全く困った餓鬼だ。乳は欲しがっても父を欲しがりはしない駿河が舞子を独占して居なければ、絶対に来なかったぞ。お前は末永く駿河に感謝し、昨日現像したばかりの駿河と舞子の写真を見なさい。どうだ私の妻子は、いや寧ろ妻の方が肝心だ。若者には刺激が強いだろう、何せ舞子は私の天女様だからな。欲しがるなよやらんぞ、奪うつもりならこの帝王院鳳凰、大人気なく全力で貴様の息の根を止めてくれるわ』

冬月龍一郎は人生で初めて、他人を三度見した。記憶に残る帝王院鳳凰とは、知的で冷静沈着で支配者としての存在感を兼ね備えた、物静かな男だった筈だ。少なくともベラベラと良く喋る冬月龍流の前ではにこりともせず、龍流の台詞を無表情で聞き流していた覚えがある。

『何だ、鳩が豆鉄砲を食った様な面をしおって。ははん、さてはお前はまだ女を知らんな?』
『…畏れながら女はとうに知っております』
『何だと?…近頃の若い奴は何とけしからんのか、破廉恥極まりない』

決して饒舌ではなかったが目元で微笑んでいた帝王院俊秀とは、ある意味で全く違う雰囲気だと言えるだろう。幼い頃の記憶だが、絶対に色褪せる事がないと自負している龍一郎は己の記憶を疑う前に、鳳凰を名乗る別人に違いないと判断したのだ。

『くっくっ、くぇーっくぇっくぇ。そう身構えるでない、龍流の息子。そもそも何でお前が冬月の屋敷跡に住み着いている事を私が知っているか、気にならんか』
『…そ、れは』
『ふ、全ては死に掛けのジジイの予知だ。80に近い老耄ジジイだが、心底不気味な事に奴の予言は百発百中当たる。お前が鶻小父の孫だから心配しているのか、はたまた盆が近づくとどうせ俺が母上に備える花を買いに出掛けるから、ついでに拾って来いと言う意味かも知れんが、とにかく来い』
『急に来いと言われても、俺は…』
『目つきの悪さで私を追い払おうと思ったら間違いだぞ!お前よりもっとやばい奴を俺は!知っている!カモン陽炎、未成年の癖に女を知っていると言うけしからん餓鬼を連行せよ!』
『は、仰せのままに』

然し龍一郎の考えを見透かしたのか、鳳凰を名乗る男は不気味な笑い声を響かせると、同行した部下に命じて龍一郎を車に詰め込んだ。
腕っ節にはそこそこの自信があった龍一郎を、まるで子猫を掴む様に拉致したのは、もさもさと毛量が多い瓶底眼鏡の男だった。驚きの余り英語で喚き散らした龍一郎の頭を座席に押しつけたまま、明らかに不審な見た目の男は終始無表情で『Shout up son of a bitch(黙れアバズレ)』と呟き続けたのだ。

「入学祝いに主事の家を建て直してやろう。父上もそれで構わんだろう?」
「ああ」
「いえ、屋敷を再興するつもりはございません。そこまで迷惑を掛けるつもりは」
「そうか。まぁ、冬月に関しては空蝉の中でも様々な意見があるのは、紛れもない事実だ。夜刀の元で学校へ通うのが一番の近道だと思うが、お前にも事情があろう」
「…お心遣い痛み入ります、宮様…いえ、大殿」
「ああ、良い。父上が隣におっては、当主の俺が霞むのは無理もない」

俊秀の命令で龍一郎を迎えに来たと言っていたが、鳳凰は帝王院財閥の現当主だ。産まれたばかりの跡取りと、途絶えた加賀城本家の娘を嫁に迎えている。本来ならば空蝉の娘を娶る決まりだった筈の帝王院は、俊秀の代を最後に慣例を淘汰したと言う事だろう。
その所為で一悶着あった様だと言う話は、日本に辿り着いて数ヶ月の間に渡り掻き集めた中の一つだ。少しでも暇な時間があるとアメリカを思い出してしまう為、この半年はまともに寝る事もなく、飲まず食わずの日もあった。

「学校の手配は差程難しいものではない。これでも公家の傍流だ、平安からのあってない様な縁に縋れば多少の無理は利く。…畏れながら、天皇家の威光を笠に着る事にはなるが」
「格別のご配慮、誠に申し訳ございません。この恩は必ずお返し致します」
「いや。…あのグレアム家に育てられたお前を無視する訳には行かんと言う、大人の身勝手な保身が殆どだ。気にする必要はない」

昼間のあの騒がしさは何だったのか、鳳凰は思慮深い大人の笑みを零した。

「例え家や姓を失おうと、お前が我が空蝉である事に変わりはない。父上と鶻小父の間に遺恨があろうと、」
「鳳凰、私と鶻の間には何の遺恨もない」
「…と、この様に殿も仰っている。お前はお前が望むまま、自由に暮らせ。…但し、如何なる事情があろうと俺は、」
「存じ上げております。受け入れ先の大学が見つかりましたら、必ず遠野家へ参りましょう」

遠野夜人。
あの若さで悍ましい病に蝕まれ、辛うじて残った記憶を頼りに日本へ帰ってしまった、ノアの最後の配偶者だった男。

「仔細は聞かん。今のお前が答えられると思ったら頷くか首を振ってくれ。…夜人には、もう会えんか?」
「…」
「そうか」

心細かっただろう。
一人で誰にも頼らず長い時間を懸けて密航した後、記憶を頼りに向かった実家の診療所は跡形もなく消えてしまっていて、家族と暮らした思い出の地には、大きな病院が建っていた。
途方に暮れた夜人に駆け寄ってきた一人の医者から話し掛けられた夜人は、それが己の兄とは思わず逃げ出し、走って走って走って、一体、どれほどの恐怖と戦ったのか。

「陛下と夜人は、最後まで共に在る事を選びました。…俺から話せるのはこれだけです。お許しを」
「良い。無神経な事を尋ねたな、許せよ」

ナイト=メア=グレアムが最後に選んだのは、いつか日本から旅立つ時に見た港から広がる海へ、身を投げる事だった。
晴れた日に出掛ける事など人生で一度もなかった男爵は、それを見た瞬間一切の躊躇いなく飛び出した。アメリカとは比べものにならない業火の如き太陽に全身を焼かれながら、己の伴侶を救い上げる事に成功したのだ。

『た、すけてくれ、龍一郎。ごめ、ごめん、俺、俺がまた、皆の事忘れちまって、俺…俺の所為でレヴィが、レヴィ、ああ、レヴィ、助けて、何でもするから頼む、龍一郎…!』

怖かっただろう、可哀想な遠野夜人。北半球の季節は冬だった。
紫外線と海水を浴び無惨に焼け爛れた皮膚、白濁したダークサファイア、空飛ぶ車の中でアメリカ大陸を目指した半日間、夜人はレヴィ=グレアムの体を揺さぶり続けたそうだ。
段々浅くなっていく呼吸、弱まる脈拍、冷えていく体温、記憶をなくしていた筈の夜人はレヴィ=グレアムの本名を声が枯れるまで叫び続け、迫り来る死には最後の最後まで構わなかった男爵もまた、己のパートナーの名を呼び続けた。

『レヴィが起きないんだ、ずっと呼んでるのに、俺、ちゃんと思い出したのに』
『…』
『じ、人工呼吸だってやってるんだ、ほら、見てくれよ、合ってるよな?こうしたら助かるんだよな?なぁ、ほら…!』

今でも手の震えが止まらない。
どうしてこの手はあの時、幼い頃と何一つ変わらず、何も出来なかったのだろうか・と。










「俺が貴様の弟を殺した犯人だ」

何だ、少しも似ていないではないか。
兄弟…いや、叔父と甥だと言うからどんなものかと思えば、現実はやはりこんなものだ。

「ほー。で、死因は?」
「だから俺がこの手で殺したと言っている」
「だから死因は何だって聞いてんだろうが小僧、お忙しい天才外科医とっ捕まえて時間の無駄に付き合わせるな」
「っ、他に言う事があるだろう!」
「ねェなァ、なーんにも」

何年懸かったと思っている?
頼る者の居ない故郷の島国で、馬鹿と無能に囲まれどれだけ逸る気持ちを押し殺してきたと思っているのか。やっと手にした医者の免罪符を手に、やっと謝罪する日が来たのだと。断頭台へ向かう死刑囚の様な気持ちで此処まで辿り着いたと言うのに、どうして目の前の男は欠伸を噛み殺しながら頭を掻いているのか。
遠野夜人には顔も背丈も声も似ていない医者は、想像していたよりずっと若く見えたが、予想より遥かに無能だった。

「我が従弟ながら泣けてくるほどに出来が悪い立花夏彦が珍しく文を寄越したかと思えば、当院に研修希望の若造は履歴書を寄越すなりうちの愚弟が死んだなんざほざきやがる。これじゃ、幾ら成績優秀で国家試験一発合格した有望な人材っつっても、遠野夜刀さんの手には余りますネー」
「ふざけるな!」
「ふざけてんのはお主の方だボケ、これにはどう見たって立花龍一郎って書いてあんぞ?」

ああ、そっくりだ。目が、在りし日のあの男に。
持ち上げた履歴書をばさりと下ろし、それまで面倒臭げな表情だった遠野夜刀は長い息を吐く。

「鳳凰から聞いてた話じゃ、俺の弟を連れ去ったのは米国船籍の船に乗った銀髪の実業家だ。数少ない目撃者の話じゃ、小さい餓鬼を連れてた」
「…その餓鬼が俺だと言えば、理解出来るか?」
「更に目撃者が言うには、その餓鬼はある日を境に橋の下に住み着いた浮浪者にそっくりだったってよ」
「…」
「見窄らしい二人の子供が住み着いたのは、冬の終わりだった。そこから程近い駄菓子屋の婆さんが言うには、近所のデカい屋敷が火事を起こした頃からだ」

舐めていた様だ。
目に映るほぼ全ての人間を見下してきたツケが祟ったに違いない。少なくとも目の前の男は、夜人とは双眸の強さ以外はまるで似ていないと言う事だ。

「2月29日、俺の知人に双子が生まれた。片方は嫡子として届けられたが、片方は出生届も出されていない。面白い事に双子の割に似てねェんだ。いつだったか、百足に刺された餓鬼が母親に連れられてきた。簡単な処置くらいだったから看護婦に任せたが、そいつが後で俺に言ったんだ。『冬月の奥様はいつ新しい子を産んだんでしょうね』」
「…」
「冬月龍一郎と同じ日に生まれた弟の事をあの場で知ってたのは、俺だけだ。消失した冬月家から遺体で見つかった人間の数が五人だと謳いやがった新聞なんざ、信じやしない。何せあの事件前に冬月の前当主は死んで、その妻は病弱な次男が入院していた病院に付き添って被害を免れた。その二人以外の一家全員死んだってんなら、紙面に載る遺体の数は六人が正解だからな」
「…」
「幾ら優秀な冬月だろうが、四歳の餓鬼が一人で生きられる訳がねェ。但し、一人じゃ無理でも二人ならどうだろう」

研修医の採用面接の為に開かれた応接間のソファから立ち上がった男は、日本では長身の部類に入る龍一郎よりまだ高い位置にある頭を掻きながら部屋の隅にある保温ポットを掴み、湯呑に煎茶の粉を落とすと豪快に湯を注いだ。お盆の上に幾らか溢れた様だが、構わず持ち上げようとして「あつ!」と呻いている。

「アメリカには、イギリスから亡命した貴族様が営んでる馬鹿デカい会社があるらしい。実情は全くと言って良いほど何も判ってないっつー話だが、鳳凰のコネで社員全員が天才で構成された集団だって事が判った。世界は狭ェなァ、俺も似た様な家を知ってる。人間離れした化物並みの魑魅魍魎を飼い慣らしてる、神主の家だ」
「もう良い」
「何がもう良いって?」
「…俺が、冬月龍一郎だ」

指を火傷しそうになりながらも湯呑を煽った夜刀は、息を吐いて「不味い」と呟いた。

「やっぱ、鳳凰の家で飲んだコーヒーが今ん所ピカイチだな」
「…他に言う事はないのか」
「オウムかお主は。二度も三度も同じ事を言いやがる」
「俺は夜人を殺した」
「判った判った、餓鬼扱いせず話を聞いてやるから、その前にお前は履歴書を書き直せ」
「書き直す?」
「院内で偽名使おうが女装しようが、仕事が出来れば文句はない。だが院長先生に嘘をつく事は許さん。何せ院長とは病院で一番偉いお医者さんだからだ。足を向けて寝るな。尻向けて屁をするな」

やはり馬鹿なんじゃないだろうかと疑ったが、

「うちで働きたけりゃ、テメェの丸裸な履歴書持って来い。前職欄に書くのは『ステルシリー』だ」
「な、んで貴様が、その名を…」
「24歳の餓鬼には判らんだろうが、夜刀さんには『恋愛の師匠』と慕ってくれる専属の忍者が居るんだ」
「何を馬鹿な事を…」
「夜人が死んでた事なんて、院長様はとっくに知ってんだ糞餓鬼」

この男は、自分よりも遥かに曲者の様だ。































「楽しいなぁ、聖地は未知の情報の宝庫だ」
「畏れながらマスター、それ以上興奮なさると…」
「ああ、勃起し過ぎて股間がとても痛い」

肩より少し長い、ブラウンにも見える濃い金髪を輪ゴムで適当に纏めていた男は、両手で器用に操っていた2台のタブレットから目を離し、顎髭が生えている口元をにたりと吊り上げた。

「申し訳ございませんが、聖地でのお戯れは寛容しかねます。本国へお戻りになられるまで、どうかそのままに」
「一人や二人くらい日本人と宜しくやっても、マジェスティはお許し下さるだろう。未知の情報をアーカイブする間、股間に気を取られていては収まるデータも収まらない」
「マスター、我が中央情報部の品位を著しく下げる発言はおやめに」

黙っていれば欧米紳士に見えない事もないが、彼の股間がスラックス越しに存在感を主張していなければ・の、話だ。どっからどう見ても変態でしかない。

「だったら区画保全部長を裸に向いてアナルを適程慣らした状態で連れてこい、ライトナウ、今すぐ」
「畏れながらマスターは円卓一の潔癖症であらせられます。解している間に心筋梗塞でお亡くなりになる確率は…」
『ステルシリーライン・オープン、解析が終了しました。死亡確率は69%』
「シックスナインなんて、流石はデスティニー。今すぐお願いしたいね」

もうコイツには何を言っても無駄だと、曰く『手下達』は口を噤んだ。
ノアの円卓を支える12本の柱、それぞれが世界中に絶大な影響力を有している為に『枢機卿』と呼ばれるランクAの共通点があるなら、狂人と呼ぶに相応しい天才だらけだと言う所だ。現在の1位枢機卿が叶二葉である事からも、比較的容易に理解出来るだろう。二葉にはおよそ一般的な『倫理観』だの『理性』だのが欠落しているだけで、仕事に関しては超一流なのだ。仕事も頭の回転も早過ぎるが故に、暇な時間を与えてしまうと碌な事をしない側面はあるものの、それにさえ目を瞑れば疑うべくのない天才である。
森羅万象を計算しているとまで噂される左脳主義者の頂点に肩を並べているのは、今の所、円卓に出席した試しがない対外実働部長だけだった。
元老院との橋渡しである右元帥の職にありながら、聖地で暮らす事を長年許されてきた赤毛の枢機卿は、天才しか存在しないステルシリー全社員の誰とも比較不可能な、アースリンガルと言う特技がある。
バイリンガルやマルチリンガルと呼ばれる語学に精通した人類の、最大進化系と言って良いだろう。地球上のあらゆる言語を常人離れした速度で吸収し、学者達が何百年も解明出来ずにいた古代文字を幾つか解明している。パズルを組み立てる様に言葉の仕組みを理解し、その優れた耳で複雑なイントネーションを聞き分けるコード:ファーストの能力は正に天が与えた才能と言うべきだ。

「サムニコフの肌を余す所なく可愛がってやりたい気持ちはあるものの、年中マグマの様に発熱しっぱなしのサーバーに囲まれて、トイレ以外にはほぼ動く事もない究極の引き籠もり集団である我らが、晴れて聖地日本へ足を踏み入れた理由は一つ限りだ」
「仰る通りでございます。全ては、マジェスティルークの思し召し」

そんな狂人じみた天才達を統べる唯一神、ランクSは文字通り一人しか存在しない。
同じ時代に一人存在するかしないか、それほどの確率で揃ったネイキッドとファースト、二人の天才を凡人同様に思わせてしまう桁外れの知能指数は、今後何百年経とうが彼を除く全人類が辿り着く事はないだろう。

「おっと、噂をすれば。あれに見える白髪兄ちゃんは、我が主かな?」
「マスター、今の発言は不敬罪に問われる可能性があります」
「セックスの最中でも表情を変えないあの人格崩壊者が友達と歩いてる姿を見られるなんて、長生きはするものだ」
「…マスター、お戯れは程々に」
「この美しい純白のエデンは、ノアの気紛れによって血で染まるんだろうか。ファーストの髪の様に」
「マスターエル」
「そう怖い顔をするな、副部長。我が中央情報部が円卓を裏切る事なんて、72%の確率でないさ」

とは言え、表向き部下の数名が裏切ってしまっている状況では説得力に欠けるだろうか。
あれは裏切ったのではなく『裏切り者の観察』なのだが、果たして他の部署が納得してくれるかどうかは判らない。

「我らに判らない事があってはならない。地球は丸い物語である。大地は巨大な地図である。生きとし生けるものの行動は、全て文字のない記録である。全宇宙を保管せよ。中央情報部は銀河の書記官たれ。それ即ち、」
「唯一神の冥府揺るがす威光を須く知らしめんが為に」
「エクセレント」

常に権力が変動する12の部署の中でも、中央情報部だけは特別な存在だ。同じく組織内調査部も特例と言えるだろうが、彼らが過去に出動した記録はない。円卓の反逆を事前に食い止める、言わば抑止力としての存在意義だろう。帝王院学園に於ける左席委員会と何ら変わらない。例え何もしていなくても、存在しているだけで役に立つ。

「さて。警戒心が強いリゲルの息子達に、私の部下達は上手く取り入れたかな?」
「人員管轄部から出た反逆者の行動は、ほぼ正確に把握しています」
「無能共が散々証拠を残して裏切ってくれたお陰で、私がシリウス卿の研究室を荒らした犯人だとバレずに済む」
「お言葉が過ぎます。マスターシリウスのラボはキャノン内にあるのですよ」
「そうとも、そしてキャノン内のセキュリティ管理者は区画保全部だ。電球一個、取り替えが遅れただけで始末書を書かなければいけない。完璧主義者か潔癖症じゃなければ三日で急性胃炎になりそうな、極めて多忙部署」

それに引き換え一時も休まず稼働している中央情報部は、その情報力によって絶大な信頼と畏怖を集めてきた。今地上でのうのうと生活している全人類、ほぼ全ての行動を把握している。中央区内部であれば100%に等しい。枢機卿権限のセキュリティを発動されてしまえば話は別だが、その時間そのエリアで『セキュリティが敷かれていた』と言う記録は残る。それがどう言う意味を持つのか、余程鈍い人間でもない限りは理解するだろう。

「キャノン内に不審者が侵入したとあれば、何十枚の始末書が必要でしょう。最悪、解任も有り得ます」
「所がどっこい、シャム猫より気紛れなマジェスティのカモンニッポン命令で、有耶無耶になる確率は85%だ。良かったなぁ、サムニコフ。今後も私達は同じ円卓を囲み、末永く愛を燃え上がらせていくだろう」
「然しシリウスラボに侵入したマスターが盛大に荒らしてしまったので、帰国すれば直ちに発狂なさるでしょう。今は一時的に忘れているだけです」
「混乱したサムニコフが泣きながら首を吊ろうとする確率は57%、か。それほど高い確率ではないが、そうなってしまった時は颯爽と登場して足を引っ張ってやろう。勿論呼吸が止まるギリギリで助ける」

いや、もしかしたら助けないかも知れない。
情熱的な人工呼吸で奇跡的に息を吹き返す方が、何倍もドラマティックだろう?

「ああ、友達と遊んでいる陛下の写真を添付したメールを見たハニーを尾行している者から、定時連絡が届いた」
「マスターサムニコフをハニーと呼ぶのはおやめ下さい。明らかに我が中央情報部は、区画保全部の皆さんから敬遠されています。それもこれも、セクシャルハラスメントとサイコパスが主成分のマスターエルが嫌われているからです」
「嫌われている?そんなデータはアーカイブに記録されていない」
「記録した端からマスターが抹消するからです」
「ああ、成程ね。深く愛し合っている私達に嫉妬しているんだな。そうだろう、セントラルマザーサーバー?」
『只今の発言による部員の心情の推測値を提示します。組織内調査部仕事しろ63%、マスターサムニコフに対する同情25%、異動願を書くべきかの葛藤12%』

12部署唯一の髭面枢機卿には、エロスとサディスティックが同居している。黙っていればロマンスグレーな貴族に見えるだけに、とても残念だ。
どれほど残念かと言えば、12部署で最も美しいマスターと名高い特別機動部長が、お風呂に入らなかった最長日数『3ヶ月』と同じくらい残念でならない。知りたくない事まで知ってしまう中央情報部で働く社員は、肉体的疲労はそれほどないが精神的にはかなり鍛えられると言えるだろう。

「組織内調査部?」
『ご質問にお答えします。マスターの変態性が監査対象になれば、ランクA罷免もやむなしと判断される事を多くの部員が期待しています』
「そうなのか?」
「マザーサーバーは優秀なAIを搭載していますが、所詮は機械です。鵜呑みになさらぬよう」
「そうだな」
『嘘発見器での解析が完了しました。今の回答は極めて社交辞令だと思われます』

髭紳士に見つめられた黒服の部下達はふいっと同時に顔を逸らしたが、鍛え抜いた精神力で表情を変える事はなかった。全く、優秀な部下達だ。

「幸せのお裾分けがしたい。録画している昨夜のハニーの寝顔を見せてやろう、私の忠実な手下達」
「畏れながら、手下ではなく部員と呼んで頂きたく存じます」
「ふ。私の部員として認められたいのであれば、サムニコフが喜びそうなサプライズを提案するべきだ。そうだな、喜びの余りその場で服を脱ぎ捨てた彼が恥じらいながらも『私を好きにしてくれ…』と擦り寄ってくる様な、とびっきり素敵なサプライズを」
『只今の発言による部員の心情の推測値を提示します。爆ぜろエロ髭サド野郎88%、マスターサムニコフに対するお悔やみ12%』

機械音声に微笑んだ男は再び部員達を見やったが、やはりその誰もと目が合う事はない。年中無休でパソコンに張りついている根暗集団、中央情報部を簡潔に表すにはその一言で事足りる。

「さて、これ以上待っても君達から妙案は出ない様だ」

携えていたジェラルミンケースをぱかっと開いた男は、ゆったりと唇を吊り上げた。

「では私自らの提案を実行するしかない。作戦名は『ジェントルマン、チャラ男になったってよ』だ」
「…どうぞ、ご随意に」

部長を除く中央情報部一同は、無表情で空を見上げた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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