帝王院高等学校
さぁ、家族で食事をしましょう。
許されないだろうと言う認識は、当然初めからあった。
どれほど浮世離れした生活を続けていようが、マッドサイエンティストと呼ばれる様になって何十年経っていようが。最低限の倫理観はあるつもりだ。

「…ふ。今日は随分機嫌が良いのう。少しは休まんと、疲れてしまうだろうに」
「まぁ。ぽかぽかのお布団の中にいるだけでなのに、疲れたりしませんよ」

但しそんな些細な罪悪感など、時間が経つにつれて簡単に霞んでいく。いつか失ったものを失ったと認めたくなかったからか、強がっていただけのなのか。

「ね?お父さんは賢いのに、時々おかしな事を言うわね」

寂しさなど、家族と共に燃え落ちる家を捨てたあの日、忘れた筈なのに。

「子育てって、こんなに楽しいの。知らないまま死ななくて良かったわ」
「…」
「そうだわ。ねぇ、お父さん」
「何だ?」

日に日に衰えていく妻は想像を絶する痛みに気丈にも耐えていたが、強過ぎる鎮痛剤の副作用で、正常な理性はほぼ存在していなかっただろう。表情も声音も、出会った頃から穏やかだった人のままなのに。

「最近、ずっと家に居るわね。研究室には戻らなくて良いの?」
「そうか。お前には此処が家に見えるのか、遥…」

産着に包んだ狐のぬいぐるみをあやしている妻のベッドは、薄いカーテンが隔てた先にある。
研究に没頭する余り日常生活の必要性を忘れてしまった哀れな男は、衣食住全てを職場で済ませられる様に改築し、社員に与えられている家には殆ど帰らなかった。家の中の何が何処にあるのか全く知らないのだから、家主を名乗る資格などないだろう。
気紛れに娶った妻が従順に帰りを待っていた事を知っていて、何年も何年も見て見ぬ振りをし続けたりしたから、彼女は今。目に見えて窶れていく我が身を顧みず、ままごとの様な真似をしている。

「我が社の研究は、儂が居らんでも滞りなく進んでおる」
「それじゃあ、またお兄さんを探しましょうよ。私と結婚してしまったから探せなくなったんでしょう?」
「そんな風に思っておったのか。何年も探して手掛かりすら掴めなんだから、探す事をやめただけだわ。龍一郎兄は、もう死んだんだ」
「家族が居なくなってしまうのは、悲しいわね」
「…そうだのう。だが儂にはお前が居るではないか」

いつからか自分の呼び名が変わった。『龍人さん』から『お父さん』、気づいたのはいつだっただろう。
己の寿命を感じたのか、初めて『子供が欲しい』と我儘を言ったあの日から、妻は細く長い管で繋がれたまま、二度と自由に動き回る事はない。もう少し早くに気づいてやれていればなどと、どの面下げて宣えるのか。

「私はお父さんより6歳も年上だから、先に死んでしまうのよ」
「ふん。染色体の構造にしても、統計的に見ても、男より女の方が長寿だと証明されておる」
「だったら、私の病気ももしかしたらこのまま悪くならずに、皺だらけのお祖母ちゃんになるまで生きられるかも知れないんですね」

ああ、まただ。
人生で何度同じ思いを繰り返さねばならないのか。科学とは幾つも枝分かれしている。機械分野、生体分野、単純に無機物と有機物に分けるとすれば、その中にも更に区分が存在していて。『兄』は正しく天才だった。広く深く知識を欲しがり、研究者でありながら発明家であり、そして医者でもあった。それに引き換え自分は、双子の兄よりも物を作る分野に興味があったから、技術班のマリア=テレジアをずっと独占していただろうか。

「その時は、儂も皺だらけになっておろうな」
「貴方は今のまま変わらないんじゃないですかね」
「人を化物の様に言ってくれるわ」
「だってお父さんは、空飛ぶ車を作ってしまう研究者ですもの。老化を遅らせる事くらい出来るんじゃないですか?」
「人体を機械化する方が、余程楽だろうな」

双子とは余りにも近い生き物だ。愛と同様に憎悪に近い感情すらあるだろう。
研究者としては一流だったが女としても母代わりとしても最低な部類に入るだろう女は、冬月の姓を捨て冬の星を名乗る様になった幼子を立派な研究者にしたがった。自分達を拾ってくれたレヴィ=グレアムの役に立つ人間になりたいと言う共通認識だったのに、何故だろう。一卵性双生児なのに似ていない双子は、目指した場所も同じではなかったらしい。
ひたすら研究と実験に時間を費やした龍人は、生命よりも機械分野の見識を深めた。同じ様に研究と実験に勤しんでいるとばかり思っていた兄は然し、亡き父が志した医療の勉強も並行していた取り組んでいたのだ。

「…今はまだ悪化を遅らせる事しか出来んが、もう少し待っていろ。いつか俺が、お前の病巣を消し去ってくれるわ」
「ふふ。お父さんはドラゴンですもの、出来ない事なんてありませんね…っ」
「どうした、何処か痛むか?」

当時の特別機動部には配下に技術班と医療班があったが、8代男爵リヒト=キング=ノアの幼馴染みだったリゲルと言う男が班長だった。ステルシリーでは珍しい事に、彼のコードは本名と同じだと言われている。ロンドンの屋敷から逃げ延びたレヴィ=グレアムの亡命に手を貸し、レヴィと共にグリーンランドからアメリカ大陸へ渡ったオリヴァーと、ウェールズのアシュレイ伯爵家の連絡役を担っていた男だ。
リヒト=グレアムと同年代でレヴィの兄代わりでもあり、アメリカへ渡って間もなく実業家の娘と結婚している。表向きはアメリカの上場企業で働きながら資金を集め、成長したレヴィがステルシリーを立ち上げるに至った立役者と言えるだろう。本来ならば特別機動部長辺りが適任だったが、十数年のアメリカ生活で社会的に影響力を有していたリゲルが円卓の枢機卿に名を連ねる事はなかったが、結婚した妻の家が医療関係の企業だった事から医療班長として尽力した。腕の良い医者や社会から追放された医者を定期的に見繕っては、ステルシリーにスカウトしていた訳だ。

「腰が、少しだけ…。でも大丈夫です」
「いや、薬を使おう。すぐに楽になる」

リゲルは世間では倫理的に問題のある治験なども積極的に行い、身体的にハンデを持つレヴィ=ノアの担当医でありながら、歴代メアが子供を残せなかった事を誰よりも苦慮し、外界よりも数倍早い医療の構築を進め、軈てシンフォニア計画を立ち上げた。これによりステルシリーは格段の進歩を遂げ、大陸に救う『パラサイト』と謗られながらも、ホワイトハウスはステルシリーを追い出せずに一定の距離を保っている。

「お父さんは忙しいのに、こんな事で手を煩わせてしまって…」
「気にせんでよい。儂はお前の夫だぞ」
「ふふ。そうですね」

龍人は間違いなくテレジアの教え子だった。
然し兄は、テレジアとリゲル、どちらの教え子でもあったと言う事だ。龍人がそれに気づいたのは、成長する度に手術を繰り返していたハーヴェスト=グレアムに、子供を作る能力がない事を双子の片割れが指摘した時だった。

「暫く体が怠さを感じると思うが、辛かったら眠っておれよ」
「…心配しなくても大丈夫ですよ、お父さん。私にはこの子が居るんですから」

神崎遥と出会ったのは、オリオンと冬月龍一郎が消えてから幾つかの季節を超えた頃だ。
当時ヨーロッパで働くアジア系の看護師は物珍しく、中国語と片言の英語を介すものの日本語は話せなかった遥を、まさか日本人だとは思わなかった。里親の姓を名乗っていた彼女から本名を聞いたのは、彼女の養父だった医者が今際の際に、それまで隠し続けていた遥の出生の秘密を明かしてからだ。臨終を見届けた冬月龍人も驚いたが、遥本人はもっと驚いただろう。

「失礼致しますマスターシリウス、本日の検査結果をお持ちしました」
「ああ。そこへ置いていけ」

レヴィが遠野夜人と共に急逝し、龍一郎が姿を消してから、もう何年経っただろう。
未だに医療班長として席だけは残しているリゲルは、キング=グレアムの即位から姿を現す回数が減った。それは龍一郎が残した手術によってハーヴェスとの失明の危機が回避されたからなのか、長年支えてきたレヴィが死んだからなのか、それとも単に年齢的に足が遠のいただけなのか。レヴィの死で誰よりも疲弊した『悪魔』は特別機動部長の職を辞すると、オリオンを後継者にと言い残してウェールズの実家へ帰っていった。伯爵家には年老いた両親がいた為、生まれて間もない息子を妻と共に育てていく余生を選択したのだ。

「本日21時から円卓が開かれます。マスターネルヴァから本議会の参加要請が届いておりますが…」
「珍しいな、奴が儂を呼びつけるとは」

然し特別機動部長に任命された筈のオリオンはいつの間にか行方を晦ましていて、以降の足取りは杳として掴めていない。
兄弟だった筈だ。自分だけではなくハーヴェスとも含めて、同じ年の三つ子の様な関係ではなかったのか。龍人は事故で仕事を続けられなくなったテレジアに代わり、技術班長と特別機動部副部長を兼任しつつ兄の行方を探し続け、リゲルの息子である一歳年上のベテルギウスと、十歳年下のアルデバランが社員として働き始めた頃に、いつの間にか大きくなっていたカミュー=エテルバルドから『自分の職務を全うしろ』と言われ、遂に龍一郎を探す事をやめた。

「スケジュール外の円卓が開かれると言う事は、12柱が揃わねばならん話があると言う事に他ならん。ネルヴァが提案したのであれば、儂の耳に入っていない訳がない。誰がノアに上奏したか、目星はつくか?」
「総合営業部と区画保全部の連名で借り出されていたシャドウウィングが、本日午前中に対空管制部へ返却されています」

ベテルギウスは誰の目で見ても明らかにオリオンの信者だ。龍一郎の意思を龍人よりも尊重している。仕事を半ば放り出し龍一郎を探し続けた龍人を止める事なく、然し一度として龍一郎を探そうとしないキング=グレアムは何を考えているのか全く判らない。

「南米統括部でも欧州情報部でもなく?」
「総合営業部です。推測ですが、先に完成したベルセウスの件ではないかと」
「…ふん、とうとう開発班がネバダを買収しおったか。さて、どんな手を使ったのか」

任命された訳ではないが暗黙の了解で特別機動部長代理の位置にあった龍人は、十代で大学をスキップ卒業したカミューに隆一郎の後を任せる事にした。その旨をもう一人の兄であるキングに告げた所、返ってきた言葉は『そうか』の一言だ。

「…エリア51を?あの地区で我が社の支配下にあるのは、ユタ州とアリゾナ州ですが」
「ノアの方舟は政府空軍機など足元にも及ばん、世界最大船籍だ。あれを飛ばすとあれば、表に隠し続けるのは不可能に等しい。…等価交換だわ」
「では総合営業部は取引の為に?」
「他に何の理由がある?上の馬鹿共は戦争の予定がなくとも軍事力の強化に余念がない。寧ろ、世界が平和ボケしている内にこそ真価を発揮しよう。事が始まってから慌てておっては、むざむざ殺されるだけだからな」

正式に技術班長として勤務する様になった龍人は、兄探しの道中に目をつけていた医者と看護師をスカウトする際、記憶に残っていた神崎遥にも声を掛けた。丁度その頃、長年医師として働いてきた彼女の養父が体調を崩していた為、看護師を続けるべきか結婚して安心させるべきかの判断に迫られていた遥に、好都合だと結婚の話を持ち掛けたのだ。
高齢だったが死の直前までしっかりと会話していた彼女の養父は、アジア系の容姿である龍人に『中国人か?』と尋ねてきたので否定した所、『日本人の男を見るのは二度目だ』と言って笑った。

「よい、了解した。儂が席を外す間、家内の世話を頼む」
「畏まりました。既に14時を回っていますが、お食事は如何がなさいますか?」
「ああ、もうそんな時間か…」

まるで遺言の様に、遥が戦時中に出会った日本人兵士の娘である事。兵士は捕虜として北の地へ連れられていき、妊娠したまま逃げ延びた彼の妻は痩せ細った体で出産し、死に際に子供だけは助けてくれと懇願された事などを話した。

「遥」
「何ですか?」
「昼を食い損ねておったから、外で食ってくる」

唐突に、亡き母の口癖を思い出した。
冗談じゃない。寝食を忘れるほど医療文献を読み漁った所で、自分では妻を助けられる見込みがないと思い知らされるばかりなのだ。『食事は家族で』だなんて、今では残酷が過ぎる。
近頃では流動食さえ満足に飲み込めなくなっている妻を呑気に眺めながら飯が食えるほど、無神経ではないと言う事だ。

「食べたいものがあれば買ってくるが、何がよいか?」
「私はいつものお粥さんで良いですよ。此処のお米は、本当に美味しいんですもの」
「あんな味気ないもので腹が膨れるものか。しっかり喰わねばもっと痩せ細るではないか」
「甘いものばかり欲しがるお父さんは、ちっとも太りませんねぇ。そう言えばいつだったか、私が作った卵ケーキを毎晩食べたがって…」
「六日目で、とうとうお前から叱られたんだ」
「ふふ。後にも先にも、貴方を叱ったのは一度だけです」

元気だった。あの日は特に、始めて怒った顔を見て驚いたものだ。大人しい貞淑な妻だとばかり思っていたから、結婚を早まったと思ったかも知れない。それからすぐに妊娠した妻は夫よりも腹の中の子供に夢中で、自分は自分で仕事を理由に気遣ってやる事もなく。

「心配しなくても、いつまでも貴方のお帰りをお待ちしておりますよ」
「然し、」
「私は一人でも大丈夫ですから…」

ああ。こうしていると本当に、出会った頃から何も変わっていない様に思える。然しいつ何が起こるとも知れない状況で、一人置いておく事は躊躇われた。己の力不足に悲嘆する方が、見えない所で苦しんでるかも知れない妻を案じるより絶望が浅い様な気になる。

『食事は家族で頂きましょう』
『遠くの明かりに惑わされないように』
『家族で一つの火を囲んでいれば、他の事に気を取られたりしないでしょう?』

両親と暮らした4年間は本当にあっと言う間だったが、何十年経っても記憶は色褪せない。マザコンだったと言う自覚がある自分の中にも、父の血はしっかり流れていると言う事だろう。酷い男だった覚えしかないが、最低具合で言えば自分の方が上だろうか。

「…悪いが、何か運んで来てくれるか。家内には玉子粥、儂は何でもよい」
「畏まりました」
「さおりちゃん」

今日はいつもより機嫌が良いのか、単に神経が過敏になっているのか。
全く眠る気配がない妻のベッドの傍らにある椅子へ腰掛けた男は、ぬいぐるみを愛しげに抱いている妻の横顔を無言で見つめた。彼女のか細い腕には、幾つもの点滴の針が痛々しげに突き刺さっている。刺したのは他でもなく自分自身だ。

「可愛い可愛い沙織ちゃん。早く大きくなぁれ」
「はて、香織じゃなかったか?」
「嫌だ、香織ちゃんは神様の元に飛び立ってしまったでしょう?」

やはり、記憶が混濁している様だ。
神崎遥。先の大戦で海を渡った日本人の忘れ形見は、出産に立ち会った異国の医師が養子として迎える事で生き延びる道を与えられた。実の両親の名前以外は何も知らない女は、養父の後を継ぐべく医学を志し、看護師になる夢を果たす。

「一人目の子が流れてしまって、私は妻として不適合でしたね」
「そんな事は…」
「不出来な妻だったから、がっかりなさったんでしょう?」

違う、お前の夫はそんな立派な男じゃない。そう言った所で彼女は、認めようとしないのだろう。
ステルシリーと言う世界の技術者が、外の世界の住人にしてみれば『神様』の様に見えたとして、盲目に心酔されては堪らない。いっそ罵ってくれた方が余程マシだ。

「産んであげられなかった香織の事ばかり悔やんで、妻の役目を全うしなかったんですから。貴方が帰ってきたくなくなるのも、仕方ないですね」
「…責めるつもりなら、あの時の様に怒鳴ればよいのだ」
「まさか。どうして私が、立派な貴方を叱る理由があるんですか」

居なくなってしまった兄を探しても探しても見つからず、我ながら情けない生活を数年続けた時に出会った年上の看護師が、偶然海外育ちの日本人だった。切っ掛けはその程度だ。周囲に純粋な日本人は一人も居なかったから、物珍しさと懐かしさが急に湧いてきた。初めから気紛れなのだ。
あの時、傍に龍一郎が居て何ら変わらない以前の生活を続けていたとしたら、龍人が遥に興味を持ったかどうかは、誰にも判らない。いや、そもそも龍一郎を探すと言う理由がなければ、世界中の『アジア人がいる病院』を訪れようとはしなかった筈だ。

「死ぬかも知れないって思う様になって、やっと貴方に向き合える様になるまで、一体何年懸かったのかしら。…良い歳をしたおばさんが今頃になって子供を産みたいだなんて言い出して、それはそれは困ったでしょう?」
「何の。儂を見くびるでない、男は生涯現役と言うだろう?」

そう言えば、妻と最後に食事をしたのはいつだったか。
結婚して間もなく妊娠した時も、彼女の身を顧みる事などなかった。間もなく流産した時も、気丈に『私は大丈夫』と言った遥の言葉を鵜呑みにし、仕事に託けて研究所に篭もり、家から遠のいただろうか。

「…師君は儂を、買い被り過ぎだ」
「ねぇ、沙織ちゃん。お父さんは謙虚な人でしょう?とても凄いお医者さんなのに、どうしてかしらね」

結婚して間もなく、遥にとって自分は夫ではなく、彼女が支えるべき『医者』でしかない事に気づいた。遥が出会った中で最も知識と技術に優れていた龍人は、彼女の中で神格化されたのだろう。だから気紛れの様なプロポーズを素直に受け入れ、国籍を捨てる事を承知した上で、アメリカへついてきたのだ。

「ねぇ、お父さん。お願いがあるんです」
「何だ。お前の我儘は何でも聞いてやるぞ」
「私、日本語をちゃんと勉強したいんです。この子と日本語で話がしたい」

そう思い至った瞬間から、妻は妻ではなく同居人に変化した。そう思う事で罪悪感から目を逸らしたと言う事だ。
随分、身勝手な話だろう?自分が連れて帰ってきたと言う負い目があった為、距離を取る事で現実から目を逸らそうとしたのだ。夫以外に頼る者が誰も居ない地下世界で、初めての妊娠と流産を経験した彼女がどれほど辛かったのか、少しも考えようとせずに。

「だからお父さん、時間が空いている時に日本語を教えて下さらないかしら」
「そんな事か。よい、幾らでも教えてやる」
「じゃ、何か喋って下さいな。結婚したばかりの頃に少しだけ勉強したから、そんなに難しくない言葉だったら聞き取れると思うの」

二度目の妊娠は自然妊娠ではなかった。手術が極めて難しい妻の病状は一言で言えば『手の施しようがない』状態で、多少腫瘍を削り投薬を併用する事で進行を遅らせる事には成功しているが、現状では体外受精に耐えられる可能性は低いと判っていた。

「『受精失敗した直後からお前のシンフォニアを作っている』」
「?」
「『心配するな。お前の代わりに子供を産む為だけの使い捨てでしかない』」
「…もう、難しくて全然判らないわ。お父さんは意地悪ですね、沙織ちゃん」

けれど、彼女の初めての我儘をどうにか叶えてやりたいと強行してしまった。受精卵を体内に戻すまでは容易に運んだが、結果は妊娠失敗。然し辛い過程を耐えた妻にそんな報告が出来る筈もなく、苦肉の策で選んだのは『許されないだろう』方法だった。

「香織と沙織、か。三人目は男かのう?」
「さぁ、どうかしら?」
「男だったら空を翔ける名前にする。空蝉月の宮の決まりだ」
「貴方の龍みたいに?」
「…龍はもうよい、父と儂ら兄弟の合わせて三匹おるからな。鳥か虫か、その辺がよいだろう。儂の祖母は嫁いだ後、蝶子と名乗った。元の名は胡鞠だったと言う」

冬月家は双子を凶事と言い龍人の存在を決して認めなかったが、然し『龍』の名を禁じはしなかった。冬月の血を引く限り家訓に沿った名であるべきだと、冬月鶻が息子に言った言葉を覚えている。恐らくあの場に一緒にいた龍一郎も覚えているだろう。

「母は魚だったが、名を変えずに済んだ理由は登竜門と言う言葉があるからだ。鯉は龍になると言う。確かに、母上は鯉の様に艶やかな方だった」
「お義母さんのお名前は、どんな字を書くの?」
「糸魚と書く。だがお前と同じ様に、本当の名前ではなかった」
「そうでしたね。お義母さんの本当の名前は、しおりさん」

記憶に残る龍一郎は、当時の鶻にそっくりに育っていた。顔立ちも龍流ではなく鶻に似ていると思う。鶻にあって龍一郎にないものは、冬月の家名だけ。死ぬまで空蝉の家に縛られた祖父とは違い、片割れには守るべき家はない。だから帰ってこないのだろうか。殴り合いの喧嘩をした日だって、食事は一緒にと言う母の遺言を守ってきたけれど、もしかしたら本当に死んでいるかも知れない。探さなくなったのはそれを確かめるのが怖いからなのか。

「…東雲紫織。糸魚の名は、高森家に引き取られた後に名づけられたものだ」

京都では知らぬ者が居ないほど有名だった帝王院俊秀は、東雲家を頼って東へ移り住んだと言われている。東雲には本家と幾つもの分家があったが、その全てが東雲姓を名乗っていて、宗家は戦後に商売を始めまずまずの成功を収めていた。帝王院財閥の急成長には及ばないものの、家柄の良さと寺社の古さは劣らない。
寧ろ長い徳川政権下では自由を許されていなかった公家より、江戸城のお膝元で暮らしてきた分、苦労もなかっただろう。

「古くから神仏に仕えた神主の家だった。禊の最中、野盗に襲われ母上は生き延びたが、目の前で両親を殺された母は精神的苦痛によってそれまでの記憶を失った」
「犯人は捕まったの?」
「知らん。儂がこの話を知っているのは、祖父が父と話している所に偶然居合わせたからだ。思い出すに、恐らく生後幾許もない時だった」
「相変わらず、お父さんは記憶力が良いのね」
「赤子だからと油断して迂闊な事を話すと、後で痛い目を見ると言う事だ」

食事が運ばれてきた気配を察して立ち上がり、戸口で待機している部下からトレーを受け取る。長い付き合いの従順な部下達は、己のマスターが一人でしか食事をしない事を知っている。食事中は絶対に姿を現さないので、暫く邪魔は入らないだろう。

「大連へ渡ったお前の父親か母親の消息を追って、中国へ渡った男が居るそうだ」
「まぁ。それは本当?」
「対外実働部から入ってきたネタだからのう、確かだ」

病気の進行こそ辛うじて遅らせてはいるが、鎮痛剤の乱用で起きている方が珍しくなりつつある妻を研究室の中に作らせた部屋に囲い、極力傍を離れない様に閉じこもっている今の自分は、技術班長の肩書きすら烏滸がましい。けれどノアの円卓へ呼ばれる内はまだ、利用価値があると思って貰えていると言う事だ。

「上海で派手な立ち回りをしたらしいな。大河白雀の怒りを買い追われている様だが、死んだと言う話はない」
「まぁ…」
「各地を飛び回っているライオネル=レイに調査を依頼しているが、個人的な案件だ。片手間になる事は理解しているが、依然として消息は掴めておらん」
「日本へ帰ってしまったのかも知れませんよ」
「そうなると、いよいよ手が出せんな。せめて名前だけでも、」
『プライベートライン・オープン、コード:シリウスにメッセージが届いています』

いよいよ職権乱用を指摘されても仕方ない真似をしている自覚はある。ノアの為に存在するシンフォニアプロジェクトを、円卓に無断で私的利用しているのだから、いい加減誰か怒鳴り込んできても良い筈だ。二人の兄はどちらも、何を考えているのか。

「…噂をすれば、たった今ライオネル=レイからリークがあったぞ。名は、藤倉涼也」
「スズヤさんですか」
「お前の父親の種違いの弟、つまり叔父に当たる男だ。最後の目撃情報はやはり上海、20年近く前の話だ」

人間は誰しも他人が何を考えているか、知りようがない。
土へ還す事など出来ないと、ノアとメアの遺体を掘り返した男が居る事を知っている。

「名が判れば捜索は難しくはない。では飯を食おう」
「お忙しいでしょうに、私の用事で手を煩わせてしまって申し訳ないですよ。くれぐれも宜しくお伝え下さいね」
「年寄りは忙しいくらいでよいのだ。仕事を奪われると、ボケるからのう」
「あら、お父さんのお粥に入っているのは何です?」

妻が溜息を零したので具合が悪いのだろうかと思ったが、どうも呆れているだけの様だ。先程まで抱いていたぬいぐるみを布団の上に放っている所を見ると、いつもより意識がはっきりしているのだろう。新しく承認した鎮痛剤が体に合ったのかも知れない。

「見て判らんか?黒豆のつぶ餡だ」
「ボケる前に別の病気になってしまいそう…」
「失敬な」

糖分は滋養に良いのだと語り聞かせている内に、粥はどんどん冷めていった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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