帝王院高等学校
妥協なんて大人は一秒刻みで!
その日、神木に一筋の稲妻が落ちた。

「高天原、に」

ビリビリと葉を感電させ幹を伝い大地へと流れていく、真っ白な光が世界を包む。
悲鳴さえ呑み込み大地を揺るがした轟音の後、横たわる赤毛を抱き上げた艷やかな黒髪は謳う様に呟いた。

「その御霊を以て毒と成し、禁忌に触れた獣に知恵を与え給え」
「お、お前は、何を…っ」
「愚かしき蝶の羽根をもぎ、飢えた蛇の贄に為さんが為に」

地を這う声はまるで大蛇の如く、聴く者全ての魂を縛りつけたのだ。

「…人間はいつもいつも、同じ事を繰り返しやがる」
「ひっ」
「所詮、人の形をした失敗作だからだ。…判っていたのに俺は、一体何に縋りついていたのか」

ピクリとも動かない赤毛を、宝物の様に抱き上げた男の瞳が燃えているかの様だった。
けれど落ちても尚、空を震わせている激しい雷鳴が瞬く度に、彼の眼差しに反射しているだけだ。

「冬月羽尺」

凍りついた冬の水面の如き声音が、腰を抜かしている女に投げ掛けられる。
たった今、実の息子を毒殺しようとした冷酷な女とは思えない、余りにも哀れな表情だ。仏の裁きの様な落雷に怯んだのか、それとも、久し振りに対面した息子の怜悧な睥睨に怯えているのか。

「言い残す言葉は」
「お前など産まなければ…!」
「…」
「秀之は私を慕っている!実の母の様に!」

この女がひた隠しにしてきた秘密を知ってしまった息子に、どれほどの恐怖を感じたのかは知らない。判るのは、冬月家の娘は大宮へ嫁ぐ前までは、乞食の様な生活をしていた事だけだ。

「あの子が大殿の名跡を継げば今後こそ私は、兄様に認めて貰えるわ!お前さえ居なくなってしまえばっ」
「いつまで家族の情などに縋るつもりだ?」
「っ」
「幾ら取り繕うが、その体は十口へ落とされる宿命だった。その事実を隠し、父上が娶って下さらなければお前は」
「煩い!お黙りなさい、化物の分際で…!」
「お前は自分が望んだものを、俺に与えようとしなかっただろう?」
「っ、は…?」

とある女は己をまっとうな存在だと宣い、自らの息子を『化物』と呼んだ。
受け入れられないものを淘汰するのは人間の防衛本能だ。だから今日まで、哀れみはあっても憎んだ事など一度として。

「誰よりも兄に愛されたがった妾の子。冬月を名乗りたいが為に兄の駒になる道を選んだ『無能者』。お前の望みはただ、正式に妹として認められる事」

ああ、それでも尚、哀れみは尽きない
冬月がお前を認める事はないだろう。どうして判らない?冬月鶻がお前を叔母と呼んだ事はあったか?帝王院寿明が何も知らない愚かな男だと、信じているのか?

「最早、二度と私が貴方を切望する事はない。己が産み落とした怪奇に呪い殺されたくなければ、怯えたまま隠れ暮らす事だ」

共に暮らす事は出来ないようだと、最後に見た父は言った。
お前の為にも妻の為にも。と。最後まで慈悲深い眼差しで、大宮司は幼子に頭を下げたのだ。

『弱い私を許してくれ、俊秀』
『…』
『私は羽尺を哀れんでいる。然しそれ以上に、愛おしく思っているのだ』
『存じております、父上。…不出来な私をお許し下さい』

だから哀れむ事はあっても、憎しみなど決して持つまいと。


「穢れた野望を捨て、ただ平穏だけを希うが良い」

今日までは、確かに。
































人生で。
そう、自分の人生に『後悔』なんて感情は、一度として存在しない。

「何だFuking yellow(糞黄色人種)、じろじろ見やがって」

出会った頃のあの男を一言で称するなら確実に『最低野郎』だと思っていたが、ボーダーラインマイナスから始まった価値観は日が経つに連れて上昇傾向。プラスから落ちていくよりずっとゆっくり、然し着実に階段を上がっていった。正にスポットライトを浴びる直前、歓声で迎えられながら勿体つけつつ譜面台へ向かう指揮者の様に。

「んー、ちょっと小耳に挟んだんだけどさ」
「あ?」
「アンタ、背中に刺青入ってんの?」

人生に絶望など一度として存在しなかった。だから後悔などした事もない。
瞳に映る世界は生まれた時から一貫して同じ光景で、文学作品に登場する様な『色のない世界』も『目の前が真っ暗』も、所詮は他人事だ。恐らくそれは今後も変わらない。

「それがどうした」
「何で入れようと思ったのか、気になるっしょ」

音だけが。
ただそう、音だけが欠けている様な気がする。自然界には絶対存在しない、人間が作り上げた五線譜の旋律は奏でる者がいなければ存在する事も出来ないのだと。

「隠したい傷があるとか?(´ω`)」
「んなもんに理由なんざあるか。したいと思ったからやっただけだ」
「バッドファッションって奴?」
「好きに解釈しとけ」

いつか、そんな事を考えた事もあっただろうか。
だからと言って(もしかしたらこの指はもう)後悔している訳でも(以前の音を奏でる事は許されないのではないかと)絶望している訳でもないのに、だとすればどうしてそんな事を考えてしまったのか。(試してみようと思った事はある)(まだリハビリが終わるずっと前の話だ)(それ以降は見て見ぬ振りをしている)(きっと)(多分)(理由は知らない)(ともすれば知りたくないだけ?)

「…だから何だって言ってんだろうが」
「へ?(・ω・`)」
「無言で凝視してんじゃねぇ。視線が鬱陶しい」
「えっと、ごめん?」
「…見たいなら見せてやっから、見たら失せろ。気が散って仕方ねぇ」

綺麗にすっと伸びた背中に、さらりさらりと流れている真紅。薄手のセーターは彼の肌より若干薄いライトベージュで、両足を包んでいるレザーパンツは布越しに無駄のない筋肉を見せつけてくる。

「おがくず詰めた箱に牛肉ぶち込んでるだけじゃんか」
「燻製っつーんだ、覚えとけ糞餓鬼」
「俺ぁクソガキでもファッキンイエローでもねぇ、健吾だよぃ。そっちこそ覚えてねぇじゃん(´・ω・`)」
「は。覚える必要性が見つからねぇなぁ」
「ひっど!もう一ヶ月になんだべ?もっと心の扉開けし!」
「煩ぇ」

この男は一言で表すなら最低で、傲慢で、そして天才だった。
網膜に映る全ての文字を解読する知識量は音楽記号にも波及し、いつかマルチリンガルである事でも天才と持て囃された高野健吾が、決して同じ土俵には立てないと痛感させられたほどだ。

「ヒュー♪脱げ!脱っげ!早くその良い体見せろし、勿体つけやがって生娘かよぃ!(ヾノ・ω・`)」
「物好きな野郎だな、テメーも」

シャツを脱ぐと同時に宙に舞う長い真紅が、褐色の肌の上に散った。炎を擬人化したらきっと、この男にそっくりなのではないかと思わされて、心の中だけで笑った事は秘密だ。

「おら、見えるだろ」
「全然見えねぇっしょ!髪の毛退かしてくんねぇと!」
「果てしなくうぜぇ。おら、見えるか」
「あー…うん、超見える」

ああ。判った、鳳凰だ。
刺青と言うよりはトライバルと言うのだろう。黒一色なのにまるで神々しく燃えている様に見える、厳かな不死鳥が翼を開いていた。褐色の肌に刻まれたシンボルは、そこで生きているかの様に。

「す、げ…。ヨーゼフだ」
「あ?何訳判んねぇ事ほざいてやがる。もう良いだろ」
「ん、ありがと(´3`)」
「満足したら失せろ。日曜の朝っぱらから押しかけて来やがって」
「だってカナメは自由参加の課外授業サボった事ねぇし、ユーヤは寝てるし」

明日は月曜日だし・と。最後の言葉は飲み込んだ。
都内にマンションを所有している嵯峨崎佑壱は、度々学園を抜け出しては週末を自宅で過ごしている。近頃舎弟希望の少年らが数を増し、幾ら広い部屋でもそろそろ全員で押しかけるのは難しくなってきた頃だ。誰が呼び始めたのか総長と呼ばれる事もある佑壱を筆頭に、佑壱の片腕と呼ばれている錦織要が副総長の有力候補だった。

「は、馬鹿が馬鹿なりに寂しがってるっつーのか。とてもそうは見えねぇが」
「アンタこそ中一の癖に朝っぱらから燻製に励んでんじゃんか。プロ料理人かよ(つд⊂)」
「毎日腹減らしてる馬鹿共が、」

言い掛けた佑壱の声を遮る様に、インターフォンが鳴った。
最上階ワンフロアをそっくりそのまま買い上げている佑壱の部屋はエレベーター直通なので、一階のエントランスにある自動ドア脇のインターフォンで呼び出される仕組みだ。顎で『出ろ』と言われた健吾はソファから立ち上がり、何個目かの燻製器をバルコニーに運んでいる佑壱の背中を横目に壁のパネルへ手を伸ばす。

『ユウさーん、まつこお腹空いたよぉ〜ん』
『うめこのお腹にはまだ幼い弟と妹が宿ってるのぉ!』
『お前ら白い目で見られてるから、少し声落とした方が良いんじゃね?…って、あ、総長じゃなくてケンゴさんだ』
『あ、ほんとだ』
『酷い!ユーヤさんと一緒に美味しいもの食べてるんでしょ?!』
「俺が言うのもアレだけどよ、オメーらの煩さ半端ねぇっしょ(ヾノ・ω・`)」
「開けてやれ。管理会社から通報される前に」
「勝手に入ってこいってよ。人様に迷惑かけねぇ様に、階段で上がって来るべし(*´∀`*)」
『『『マジっすか!』』』

バルコニーで髪を風に踊らせながら、指に煙草を挟んだ男は言った。健吾の所為なのは間違いないが、上半身裸のまま高層マンション最上階の強風に煽られていて、寒くないのだろうか。言われるままに一階エントランスの開錠ボタンを押せば、モニタの映像は途切れた。

「な、もしかして毎週コイツら押し掛けて来てんの?(´ω`)」
「…あー。土曜の午前中は、率高い気がすんな」
「超面倒見良い人じゃんw流石『総長』っしょ」
「今の所この部屋に来た事があんのはテメーだけだ、Die Bremer Stadtmusikanten.(ブレーメン)」

少し近づき過ぎたのかも知れないと、その時初めて気がついた。最低人から案外悪い人間ではないに進化して、たった今かなり面倒見が良い人物かも知れないと言う評価に辿り着いた事で、油断したのか。それとも初めから?

「ネルヴァの餓鬼はメール一つ寄越さねぇのに、幼馴染みの方が先に訪ねて来るたぁな。どっかの陰険が考えそうな筋書きじゃねぇか」
「ユウさんが何言ってっか、俺良く判んねぇんだけど?(ヾノ・ω・`)」
「今までお前らを呼んだ覚えがあんのは真ん中の物置部屋だけ。俺がフロア丸ごと買い上げてる事は、要も知らねぇ」
「…あーあ、しくじった。でも安心しろし、俺はそっち側じゃねぇから」
「は。どうだか」

気高い不死鳥は自分以外を信用していないらしい。可哀想だと思わなくもないが、恐らくそれが正解だ。健吾だって他人を無防備に信頼する事などない。寧ろわりと人見知りな方だと自覚している。

「マジだって。ユウさんがこのマンションのとっぺんに住んでる事、教えてくれたっつーか…あっちにゃそんなつもりねぇんだろうけど、俺の耳に入れてきたのは朱雀だし(´3`)」
「すざく?…ああ、大河の餓鬼かよ。何でンな事知ってやがるんだ、野郎」
「カナメがユウさんに懐いてるっぽいの、知ってたんだよ。アイツ日本語は可笑しいけど根っからの馬鹿じゃねぇから」
「それで俺に近づいてきた訳だ」
「だってあのカナメが自分から近づいてく奴なんて、興味沸かねぇ筈がねーべ?」

風に乗って、スモークフレーバーが漂ってきた。何を見ているのか、紫煙を吐いている背中はバルコニーに置かれている椅子に座って振り向きもしない。後ろから刺されるかも知れないなんて危機感は、この男にはないのだろう。

「つーか。俺に下心があってアンタに近づいたんだったとしたら、早めに除外しとくべきなんじゃね?」
「ああ、敵になんねぇ蟻を気にするティラノサウルスは居ねぇってな」
「言ってくれるね〜(ヾノ・ω・`)」

しっかり服を着ているのにぶるりと震えた健吾は、此処へ来る前に買ってきた缶のホットドリンクをレジ袋から取り出す。既に温くなっていて、温もりは期待出来そうにない。

「ユウさん、カフェオレ飲む?(´Д`*) めっちゃ冷めってっけど」
「甘ったるいコーヒーは好みじゃねぇ。喉が乾いたんなら、シンクの上の棚に放置してんのがあっから勝手にやってろ」
「ブラック派なん?ついでに淹れよっか?」
「おう」
「イマイチ警戒心がねぇな。もし俺が毒とか入れたらとか思わん?(´・ω・`)」

このフロアには丸ごと貯蔵庫と厨房に改造されている部屋と、家具一つないだだっ広い部屋と、そして最後にこの部屋がある。
広さの割に無駄な家具がない部屋で最も存在感を放っているのはベッドとテレビ、そして無防備に壁に立てかけられているギターだ。部屋の雰囲気に合ってはいるが、一目で弦が緩んでいる事が判るギターはインテリア代わりなのだろうか。だとすればもう少し趣向を凝らすべきだと思う。スタンドに立て掛けるだとか、壁に吊るすだとか。

「まぁ、わりと効かねぇ体質だからな」
「ん?わりとって、どんくらい?」
「青酸カリじゃまず死なねぇ程度」
「人類最強じゃん」
「昔、母親方の血だろうと思ってた事がある」

唐突に己の話を始めた佑壱の意図は見えない。
判り易い様でいて、誰よりも上手に本音を隠している男。健吾は佑壱をそう評価している。間違いなく人の上に立つ器だ。人を惹きつける圧倒的な存在感がある。

「どっかの馬鹿の話だが、意気揚々とピザを食わせようとしやがる。顔を合わせる度に、馬鹿の一つ覚えみてぇにマルガリータばっか」
「お、急に話飛んでね?(゚ω゚)」
「5歳の餓鬼に向かって『美味くなる魔法のスパイス』だっつって、どぱどぱタバスコ振り掛けてな」
「大人げねーな。そいつ何歳だよ」
「10か11か、今の俺より幾つか下だった」
「餓鬼じゃん。そんで?」
「初めて食ったタバスコに無言で悶えてる俺の前で、阿呆みてぇに水飲んでやがった。嫌がらせのつもりなら普通よ、自分も食う必要はねぇだろ?」
「うひゃひゃ!何なんそいつ、バリ受けるw」

手の込んだ料理が趣味かと思えば、シンクに置かれていたのはインスタントコーヒーだ。ラベルには何処の国とも知れぬ言語が記されているが、淹れ方は日本のものと変わらないらしい。試しに適当に手にしたマグカップに粉を落とし湯を注いでみたが、すぐに溶けて味も普通のコーヒーだった。
もう一つ手にしたマグカップにも同じ様に注ぎ、健吾は自分のマグカップにだけ温いカフェオレを半分注ぐ。コーヒーフレッシュの様なものが見当たらないから、苦肉の策だ。

「ABSOLUTELY」
「は?」
「直訳は『絶対的に』、Absolute『制約なき完全』を強調したクラウンの裏組織の事だ」
「知ってんよ、そんくらい。アンタの兄貴が総帥だろ?」
「海を渡れば、円卓の騎士を指し示す。アーサーのままに」
「コーヒー、冷めちまうべ?」
「奴が可愛がってるってのは知ってる。大河に俺の話を吹き込んだのは、ゼロだろう」
「…思いの外、何でも知ってんね?知らねぇ振りしてる方が楽なん?」
「さして興味がねぇだけだ。テメーも下手な真似がしたいってんなら、もう少し賢く立ち回れ」
「どゆこと?」
「裏切るつもりなら悟られんなって事だ。ブルータスみてぇにな」

健吾が差し出したマグカップを面倒臭げに受け取った佑壱は、何故か中を覗いてなけなしの眉を跳ねると、無言で一口啜った。美味いとも不味いとも言わない。

「今はタバスコ平気?」
「ま、嫌いじゃねぇ」
「カナメは辛いもん好きだべ?夏の流しそうめん納涼会でわさび入れまくって、担任に注意されてたの見た事あっから」
「そりゃ、初耳だ」
「いい加減シャツ着ろや。風邪引くべ?」
「タバスコで自滅した馬鹿の弟が、どんな仕返しを企てたか気にならねぇのか?」

拾った佑壱のシャツを投げつけてやれば、健吾の携帯がポケットの中で震えた。10階で死んでいると言うメッセージと共に写真が添付されていて、健吾は『がんば』の一言だけ送り返す。

「仕返ししたん?」
「『美味くなる魔法のソース』つってな」
「センブリ茶でもぶっ掛けた?」
「致死性の低い青酸カリより若干強めの毒をぶっ掛けた」
「ちょいちょいちょい、…冗談っしょ?(;つД`)」
「言っただろうが。母親方の血だと思ってた、ってな。結果この通りだ」

つまり目の前でピンピンしている佑壱も、学園内で時々見かける嵯峨崎零人も、どちらにも効かなかった。そう言う事だろう。

「この程度で言葉を失うほど驚いてんのか糞餓鬼。一度心臓止まっといてピンピンしてる餓鬼も、この世には居るらしいがなぁ」
「…へぇ、そりゃマジ奇想天外っしょ(ヾノ・ω・`)」
「毒素に抵抗力が強すぎるってのは、良い事ばかりじゃねぇんだよ」
「何で?」
「時々、真っ当な薬も効かねぇ」
「あ、そっか、成程。毒から作る薬もあるもんな」
「ネルヴァの餓鬼がそれだ。腎機能が低下する危険性を孕んでいても、手術に踏み出せねぇ」
「…」
「は。お前が知りたかったのは、どうせその辺りだろ?残念だが俺はこれ以上何も知らねぇよ。見込み違いだったな」

立ち上がった佑壱がすれ違いざま、ぐりぐりと健吾の頭を撫でていった。ボサボサにされてしまった髪を手櫛で整えながら、何処へ行くのかと尋ねれば、佑壱は『近所迷惑だ』と呟く。

「外で騒いでる馬鹿共を殴ってくる」
「騒いでる?って、声なんか何も聞こえねぇじゃん」
「少しは賢い方かと思えば、テメーも量産型の馬鹿か」

佑壱が玄関のドアを開けた途端、騒がしい声が聞こえてきた。まだ少し遠い様だが、階段を上がりながらなんやかんや怒鳴っている三人分の声が聞こえてくる。

「…うっひゃ。地獄耳(゚ω゚)」

呟いた途端、携帯電話が再び震え始める。今度はメールではない様だとバイブレーションの長さに眉を跳ねた健吾は、応答した途端に吹き出した。

「やっとお目覚めかよ。もう11時過ぎてんのに、寝過ぎだべ?」
『煩ぇ、何時間探したと思ってやがる。何処に居んだよ』
「おう、カフェオレ飲んでるとこ(´▽`)」
『嘘つくなや。食堂は真っ先に行ったぜ』
「だってユウさんちだもんよ」
『あ?』
「なぁ、案外悪くねぇかも」
『何がだよ。つか今からタクシー拾ってそっち行くから、そこ動くんじゃねーぞ』
「金の無駄遣いしてんじゃねぇっしょ。俺なんかバス停まで山道走って下りてったんだかんな」
『馬鹿かよ』

佑壱が座っていたバルコニーの椅子に座り、強い風を顔に受ける。確かに寒いが、悪くない気分だ。燻されていく牛肉の香りが鼻を擽る。

「ユウさんさ、王様になってくれるかも」
『何の』
「ネバーランド」
『…訳判んね』

ヒーローはきっと、後悔も絶望もしない。その瞳に映る世界には光と色が溢れていて、いつだって見ているのは希望なのだろう。健吾の世界に希望なんてものはなかった。だから絶望もしない。
けれどヒーローと呼ぶには毒気が強過ぎる佑壱はどうなのか、今判断するのは時期尚早ではないか。後悔も絶望も知らない代わりに希望も見た事がない健吾と佑壱は同類なのか否か、答えはいつか勝手に見つかるだろうと思う。

「オメーの事、ネルヴァの餓鬼って言ってたぞぃ」
『あからさまに不審がられてんじゃねーか』
「うひゃひゃ。簡単に壊れねぇ、マジもん不死鳥国王だと良いな(´ワ`)」
『壊すつもりかよ』

どちらなのか自分でも判らなかった。明確な返答を避けた理由だ。
人間の体が如何に脆いものなのか知った時、恐怖を知らない男がどうなるのか。知りたい様な気もするし、知らないままでいたい気もしている。人間はいつだって矛盾を抱えているのだ。嫌いな訳でもないのにそばに居たくない時が、家族の間にだってあるだろう。

「ハイドンは一人しか居ねぇけど、王様は国の数だけ居るだろ?」
『うぜー。また意味不明な事言いだしやがった』
「ブラックジャックみてぇな天才が見つかればそれで良いんだけど、天才なんて色んな分野に結構ひょいひょい居るからよ、見つけ出すのが大変なんだよ」

溜息じみた音が聞こえてきた様な気がするが、風が強すぎて良く聞こえない。そう言う事にした。
突き詰めて言えば夫婦の間にだって、一定の線引きは必要なのだ。根掘り葉掘り互いの事を知りたがれば喧嘩の種になり、どれほど愛し合っていたとしても簡単に別れてしまう。簡単に別れられるならまだマシだ。世の中には憎しみあっていても、離れられない夫婦だって居るだろう。それはどちらが正解なのか、きっと誰も知らない。

「夢の国じゃピーターパンは永遠に皆のヒーローなんだ。俺はピーターパン極める事にしたっしょ」
『あー、そうかよ。頑張れば』

通話が切れるのと同時に、部屋と部屋の境にあるバルコニーの仕切りから騒がしい声が漏れてきた。舎弟達のたまり場になりつつある物置部屋に詰め込まれた阿呆三匹が、腹減ったと合唱している。

「たけりん、向こう側から誰かの声がするよん?」
「うめこ、そっちは他人様のおウチだから覗いちゃ駄目だって」
「ユウさんユウさん、何かこっちから良い匂いすんだけど〜?何か美味しいもん隠してない?素直に言えば許してあげるけど?」
「一人ずつ殴り殺す予定だが、テメーだけは捻り殺してやろうか竜」
「あだだだだだっ、タンマタンマっ、ユウさん!俺一応年上なんだけど〜?!」
「Shout up weirdo, I don't give a damn. You have to get the fuck out of the world right at this moment.(煩ぇ。んなもん知った事か、とっととシね)」

まるで旋律の様に美しいイントネーションだ。
どたばた騒がしい向こう側が気になって手すりから身を乗り出せば、絞められている馬鹿と目が合った。

「勘弁してやってよ総長、馬鹿が益々馬鹿になっちまうべ?」
「えっ?何でそっちからケンゴさんが出てくんの?!」
「そっちケンゴさんが住んでんの?!」
「部屋見たい〜!」
「こっち来い健吾、飯作ってくるからコイツら纏めて見張ってろ」
「うひゃ。総長命令なら仕方ねぇな。あ、それと飯は8人分要るっしょ」
「あ?」
「下見ろし、ドレッドのバイクに乗ってきたカナメが居るだろ?(*´艸`)」

向こう側のバルコニーに並んだ四人が外を覗き込んでいるが、揃って首を傾げている。高層マンションの最上階から臨む眼下は、まじまじと眺めるには多少の勇気が必要な様だ。

「ドレッドって西中の、…誰だっけ〜?」
「アメヤだろ?親父か祖父さんだかが区議やってるとか何とか」
「粟谷だろ、ユウさんにぶっ飛ばされて街中探し回ってたっつー。アイツ、カナメさんのパシリになったの?」
「オレとおまつとたけりんと、ケンゴさんとカナメさんとアワヤ…あれ?6人分じゃない?」
「お馬鹿うめこ、ユウさんの分が入ってねぇじゃん」
「それだと一人分多くね?ケンゴさん、自分だけ二人分せしめる気っスか?」
「違ぇっつーの。ユーヤも今から来るってよ(ヾノ・ω・`)」
「冗談だろ、眩暈がしてきたぜ。今から牛の様に食らう餓鬼共の飯を作らせられるんか、俺は」

折角の日曜日なのに、と言わんばかりの佑壱にご愁傷様と呟けば、不死鳥の化身は恐ろしい笑顔を浮かべたのだ。健吾の12年の人生では初めて見る、最も胡散臭い笑顔だった。

「お前は自炊やってんのか?」
「は?そりゃ殆ど購買か食堂だけど量が全然足りねぇし、簡単なもんくらい作れっけど?(´∀`*)」
「朝っぱらから電話と呼び鈴攻撃で俺に喧嘩売った罰だ。手伝え糞餓鬼、厨房の恐ろしさを叩き込んでやる」
「うへ。だから糞餓鬼じゃなくて、健吾だって(´<_` )」
「言っとくが、死にたくなけりゃそのジャンパー脱いどけよ健吾」
「料理ってそんな命懸けだったっけ?!Σ(゚д゚;)」

健吾の初めてのお手伝いは、20畳を全面改装した厨房の隣にある12畳を改装した冷蔵・冷凍貯蔵庫の中からメモに記された食材を運び出す事だった。成程、ポリエステル製の薄手のジャンパーを着て篭れば一気に体温を奪われる所だったに違いないが、Tシャツ一枚で突入する所でもなかった。

「ぜ、絶対脱げっつったの嫌がらせだろ…っ?(゚皿゚))) 寒くて歯が噛み合わねぇっしょ!(゚皿゚)」
「気づくのも遅いが手際も悪い。さっさと解凍しろ、こっちは既に米研いで出汁も取ったんだっつーの」
「畜生っ、肉多めじゃなきゃ許さねーぞぃ!。゚(゚´ω`゚)゚。」
「ユウさん、俺は何をしたら良いですか?」
「…要、お前はあっちで良い子にしてろ。お前にはもう、教える事は何もねぇ」

健吾に対する態度と要に対する態度の違いに最初は差別だと思ったが、どうも違ったらしい。皮ごと実が削り取られている無残な林檎が転がっていて、ナイフから手を離した要の左手が林檎より真っ赤に染まっていた。

「…何で俺が材料集めてる十分くらい間にサスペンス始まってんの?(´`)」
「何かやらせろっつーからやらせたら、ガス釜に火を入れてる間にこうなった」
「あー、適材適所って言葉あるっスよね(´ω`)」
「あんま舐めてやんな、あれでも鶏と魚は捌けるからな。てんで駄目なのは、それ以外だ」
「おっふ、血腥ぇっしょ(´・ω・`)」

後悔も絶望も恐怖もないらしいダークヒーローも、諦めの境地に至る事はある様だ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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