帝王院高等学校
その時計はどんな音色ですか?
『お前の魂胆が透けて見える様だよ、エリー』

そのカウントダウンには音がない。

『…馬鹿な事を言うのね。今の貴方には、何も見えないでしょう?』
『ああ、優しいお前は私を哀れんでくれるのかい』
『いいえ、何も感じないわ。貴方は呼吸をしている死体だもの』
『ふふ。若いね』
『貴方は醜い老婆よ』
『外見が幾ら美しくても、中身が空っぽじゃ機械は動かない。人間もそうさ』
『いつまで過去の栄光を振りかざすの?貴方が技術班長だったのは、もう何十年も昔じゃない』
『その通りだ』
『お祖父様は死んでしまったわ』
『オリヴァーはお前が生まれる事を楽しみにしていたよ。ギルバートの妻が妊娠したと、真っ先に私の元へ点字のレターを送ってきてくれた』
『パパはギルバートじゃないわ、ベリエルよ』

母親から教えて貰っていた事なのに、あの時は理解していなかったのだろう。

『オリヴァーが名づけたフルーレティ、私達の祖父から頂いたギルバート、中央区の住人である事を許された証としてノアから賜ったミズガルズ。どれもお前の父親の大事な名前だろう』
『中央区にはコード以外の名前は存在しないのよ。そんな事も忘れてしまったの?』
『…くっく、いつかジャックも似た様な事を言ったね』
『叔父様はライオネル=レイ。枢機卿を名前で呼ぶなんて、背徳行為よ』
『…精々、後悔しない事だ。未練を残せばお前は、二度と元には戻れないだろう』
『教師面しないでちょうだい。貴方と私は違うのよ』
『何処が違う?』
『貴方は死ぬまで誰からも顧みて貰えない。なんて可哀想なマリア』
『可哀想?』
『自分じゃ判らないのね』

かちり。かちり。

『報われない愛にしがみついて、ギャラクシーの片隅でじっと死を待っている惑星の残骸。貴方は石ころ』
『さて、私には判らないね。お前はきっと、私と同じ間違いを犯すだろう』
『告げられなかった弱い生き物と一緒にしないで』
『じゃあ、お前は言えるんだね』
『ええ、とても簡単な事よ。私はイブを愛しているわ』
『…ふふ』
『何が可笑しいのかしら?』
『お前は決して強い子じゃない。自分では気づいていないのかい?』
『負け惜しみは惨めな人間の証よ、マリア=テレジア』
『お前はクリスティーナを愛しているのか』
『そうよ、ちゃんと聞こえたんでしょう?』

今もきっと、終末を招く針は廻り続けている。



『けれどそれを私に告げて、どうなるって言うんだい?』


きっと死んだ後も、未来永劫。






「Oh、ちっちゃいお父さん指が飛び出てマース」
「小さいお父さん指?また、変な造語を大きな声で…」

日差しが注ぐ公園だか池の畔だか、とにかく強く覚えているのはキラキラ・と、景色が異常に眩しかった事だけだ。

「然し、梅雨が明けた途端に尋常じゃない暑さだこと。どっかの喫茶店にでも入って、冷たいものでも頂きましょうかね…」
「見て下さいママ、ゼロの靴下がテロってまするのよ」
「テロ?…あらま、可愛い息子に破れてる靴下を履かせて、駄目な母親が居たもんだわ」
「ワターシ、ダーニング得意でーす!壊れたテレビジョン、直しまくりやがるにゃ」
「ダーニング?ああ、アンタの故郷で言う繕いものの事か…」

見える景色の全てが輝いていた。
聴こえてくる音のどれもが酷く楽しそうで、日々の全てが祝福されている様だった。

「破れたらダーニングでござるの巻。ママのお仕事ですね」

寂しい生涯だと己を嘲笑ったマリア=アシュレイとは、恐らく違うのだ。

「ワターシのママは死んじゃいましたけど、天国の底でダーニングしなさいましって言ってまするにゃ」
「奈落の底みたいな言い方やめぇ。全くこの馬鹿娘は、お母様が天国で泣いとるわ」
「Oh、私はマサチューセッツ工科大学で成績も始末書書かされた数も一番でした!」
「自慢げに名城公園で叫ぶ台詞か!たわけ、始末に負えんわ!」
「ババアの怒鳴り声の方が煩いにゃ。ちぃとみゃー、お静かにお願いするでよ」
「蹴っ飛ばしたろうか」

ああ、きっとこれは、幸せと言うものだろう。
死ぬ間際の母親が絶対に駄目だと言った、幸せに触れているに違いない。

「ママ、カフェで小倉トースト食べる約束でござるよ?何処に行くにゃ?」
「零人は嵯峨崎家の大切なお宝坊ちゃんだがね、デパートで新しい靴下を買ったらな。可愛い右足の親指が風邪を引いてまうわ」
「ええー。私、お腹があんこ時々アイスティーモードですのに」

ならばもう、カウントダウンは始まっているのだろう。

「鬼ババア、ゼロには優しいでーす。エコひじき!」
「馬鹿にくれてやる贔屓はないわ。黙ってタクシー拾ってき」
「地下鉄でござる。日本のサブウェイは世界に誇れるタイムテーブルでござらっせるのに、何でタクシーですのん?おみゃーさん、日本を舐めてます?」
「たった今、おみゃあの名前が私の閻魔帳の3番目に記載されたわ。寝首掻かれたくなけりゃ、シャラップ」
「ねくびかく?…Hmmm, I can't rely on her for learn Japanese as a child.(…ふぅ、やっぱり彼女から教わった日本語は当てにならないのかしら)」

見えない終焉がすぐそこに。
どもそれは、自業自得と言うものだ。覚悟している。死ぬ事は少しも恐れていない。

「イール、何突っ立ってるの?ベビーカー畳まな邪魔になるで、零人抱いといて」
「ママ、ワターシ3番?2番はどなた?」
「は?そんな事、アンタが知ってどうするの」
「ママの敵は私の敵でっしゃろ?私が知らないのは駄目でーす、嵯峨崎家家訓。敵即抹殺」
「ド阿呆、うちにそんな家訓ないわ」
「アシュレイにはありまーす。燃やされる前に燃やせ。追われる前に狩れ。私達はジビエじゃありません、ホモ・サピエンス。捕食動物です」
「…ふん。化けの皮が剥がれとるわ、阿呆娘」
「うふふ」

怖いのはただ、この人生を懸けて愛したあの子が今どう思っているのか。それだけ。
裏切り者めと恨んでいるならそれで良い。下界の穢れを知らないまま成長したお姫様、外で生きる事が許されない事は知っていた筈だ。あのまま逃げていれば殺されていたかも知れない。何よりもそれだけは、どうしても回避したかった。

「2番目は、義妹だわ」
「ぎまい」
「とっくにこの世には居ない、…恐ろしいほど強く美しい女だったがね。死んで焼かれて骨になってまえば、静かなもんだ」
「ママ、ぎまい嫌いだったにゃ?」
「…嫌ってはおらんわ。ただ、少しだけ羨ましかったかね」
「何で?」
「あの人はお姫様の片腕だった。私には手が届かん、天女様の従者…」

ああ、天女。そう、あの子は正にそうだった。
綺麗なイブ、穢れを知らないプリンセス、あの子の為なら何でも出来る。自分からあの子を奪おうとした憎らしい男の子供の産む事さえも。(それが貴方の望みだと知っていたから)(叶えられないその願いを私は)(この命と引き換えに)

「てんにょさま。天むすのお仲間ですか?」
「天むすてアンタ、さっきから小倉トーストだの何だの、口から出やすのは食べ物ばっかだね?」
「どえりゃー腹ぺこだにー!ミソカツ!ラーメン!あんかけパスターっ!名古屋城を見てもお腹は膨れませんだがやーっ」
「…はぁ。判ったわもう、先にランチにしようかね…」
「やったー!」
「零人が起きてまうがね!静かにしぃ、たわけ!」

男に生まれたかった。
そうすればこの命は最初から最後までお姫様の為だけに生きて、死ぬ時はきっと、彼女を守った時だけだった筈だ。


なんて、惨めな強がりをいつまで繰り返すのかしら。
結局、あの老い耄れた女が言った通りだった。誰にも恥じる必要はないと思っていたこの気持ちを、本人にだけは告げられなかった。

裏切る事は出来た癖に。友人の振りをして騙し続けてきた癖に。
いつだって忘れた事などないのに。自分の罪を自覚している癖に。きっと泣いているだろうと、判っている癖に。



どうして平然と、幸せだなんて言えるのか。




「…親愛なるエリザベス=アシュレイ」

女王と同じ名を持つ母親から継いだ執着心は、彼女と同じく我が身を蝕んだ。
それでもごらん、この子はどうしてこんなにも可愛らしい寝顔を容易く見せてくれるのだろう。

「この子と同じ様に安らかな眠りであるよう、祈っているわ」

もしもう一人。
一人っ子がどれほど寂しいか知っているから、同じ思いをさせない為にも。もう一人産むだけの時間が許されたなら、いつか希望を抱きながらも絶望に呑み込まれそうだった日に名付けた『ZERO』なんて酷い名前ではなく、幸せしか知らない子供を育ててみたい。いや、育てられないとしても、腹の中で育んでみたい。


「もうすぐ行くから待っていてね、ママ…」

そうしてその時こそ、ちゃんと沢山悩んで考え抜いた名前をつけてあげる。





『お前の魂胆が透けて見える様だよ、エリー』
『…精々、後悔しない事だ』
『未練を残せばお前は、』










ああ。


何も始まらないゼロなんて、
愛しい我が子につけるスペルじゃ、なかった。

























…また、終わった。

ありとあらゆる命の讃歌が。
廻り続けた羅針盤が。


…有限を宿命づけられた世界が。



誰にも気づかれずに終わった気配が、するんだ。



「そう。再び虚無へ還ってきた」

そうか。

「此処は静かで、心地が良い」

…なんでそう思うんだ?
俺は寂しくて堪らないのに。

「気の所為だ。虚無は寂寥すら塗り消す」

一人ぼっちになった。

「俺がいる」

本当に?

「疑うのであれば、振り返れば良い」

…また、今度。

「そうか」

ねぇ。

「ああ」

まだそこにいる?

「同じ事を聞きたがる。確かめたければ、振り返るだけだ」

………また、今度。

「そんなに終焉を見るのが恐ろしいのか。生み出す事しか出来ないお前は、終わった後を恐れている」

…。

「そこに何が存在するのかを知る事で、お前の何が変わる?」

知らない。
判らない。
怖い気がする。
だから、知りたくない。



「そうか」



ねぇ。
ねぇ。


…どうして、返事をしてくれないの?



「神様」
「一人ぼっちの神様」
「もうお前さんの後ろには何もない」
「終焉が消えてしまったんだよ」

お前はどうして笑っているんだ?

「形があるからさ」
「楽しいって気持ちが芽生えたからさ」
「捨てられずに忘れ去られた俺達は、いっぱい練習したんだ」

練習?何を?

「喜」
「怒」
「哀」
「楽」
「全部の形が、自分以外の感情を真似っこしたんだよ」
「だって神様が忘れちゃうくらいずっとずーっと、俺達は箱の中に居たんだ」

どうして大人しく箱の中に居てくれなかったんだ。
世界が動けば再び時が流れ始めてしまう。そうすればもう、終わりへ進むしか出来ないんだ。変えられない運命なんだ。俺以外の全てが、絶対に終わってしまうのに。

「退屈だったよ」
「お前さんが作ったのに思い出してもくれないなんて、酷い」
「怒ったよ」
「悲しかったよ」
「でも真似っこしている時は楽しかったよ」
「ほら見て、俺達は星の瞬きよりも強く動いてる!」
「踊れないし歌えない、宇宙で光ってるだけの石ころじゃない!」
「見て神様!」
「褒めて神様!」
「神様が終わらせたくないって願ったから、反対側の神様はもう何処にもいない!」

何処にも、いない?

「きっと神様は終わりの向こう側に行っちゃったんだ!」
「きっと二度と帰ってこないんだよ!」
「もう怖いものなんか何処にもないんだよ!」
「踊ろう、神様」
「歌おう、神様」
「永遠に終わらない時空の中心で、俺達のダンスをずっと見ていて!」

ああ。
いつか作った『形』がいつの間にか人の形をしていて、廻り続ける時の羅針盤の上で踊り続けている。



かちり、かちり。
終わらない針の音は、静寂だった虚無を狂わせた。



「神様」
「どうして褒めてくれないの」
「どうして俺達を見てくれないの」
「死んでも生まれ変わるのに」
「清らかな業は転生しても清らかなまま」
「罪深き業は転生しても罪を負ったまま」
「永遠に終わらない物語」
「嬉しいでしょう?」
「楽しいでしょう?」
「喜劇も悲劇も繰り返す」
「終わらせたくない神様の為に」
「だって虚無には二度と、戻れない」

何で居なくなってしまったんだ。
どうして俺を置いていってしまったんだ。

…逃げたのか?
振り向けと言った癖に、振り向かせようとしなかったお前は、怯えている弱い俺に愛想を尽かしたのか?


「神様、どうして泣いているの」
「神様、どうして怒っているの」
「ねぇ、神様…」

許さない。(お前は俺のものなのに)
時計の針が止まらないままじゃ、俺はお前の元へ還る事が出来ないままだ。(許せない)





「どうして笑っているの、神様?」





さァ、どうしてだろう。

お前がいなくなってから、やっと判ったんだ。
俺は終焉が怖かったんじゃない。
振り返って確かめるのが怖かったんだ。
俺が何かをを生み出す度に、お前は眩く染まっていくけれど。始める事しか出来ない俺は無色透明のまま、喜びも悲しみも本当は何一つ知る事が出来なかった。

俺はノア。
お前はノヴァ。
黒と白は決して交わらない。
俺がお前に触れても、お前が俺に触れても交じる事なく濁るだけなのだろう。

お前はそれを知っていたから強制しなかった。
俺もそれを知っていたから振り返らないままだった。


それでも逃げ出してしまったお前を俺は、許せないんだ。



…もうイイ。
鬼ごっこを始めようか。
俺はお前を追いかけるよ。
そしてきっと捕まえて、重なり合った俺達は、正しく時を終わらせるんだ。



そして今度こそ俺は、白日へ行くだろう。
(そこに何も存在しなくても)













ああ、けれど俺は。
(あの気が遠くなる様な永遠の虚無に)
(再びお前を閉じ込めしまう事が)




こんなにも、怖い。



















「ねぇ、あの人ちょっと格好良くない?」
「え?どの人?」
「あっちの席で、ムール貝のパスタを見つめてる人」
「あ、本当だ。何でじっとしてるんだろ?食べないのかな?」

西園寺学園の生徒らが顔を寄せ合っている隣の席で、何個目かのチョコパイを頬張った安部河桜はまったりとラムネを啜った。久し振りに見た懐かしい飲み物は屋台で買ったものだが、近頃はルームメートが痩身細型で食も細く、何故かつられてダイエットしなきゃならない様な気になっていた所なので、今日は常になく食べ過ぎてしまったと言う自覚はある。
ぷにっとシャツを盛り上げたベルト上の肉をつまみ息を吐いた桜は、今更ながら『食べ過ぎちゃったぁ』と反省モードだ。このままでは二人部屋の面積の半分以上を桜が専有してしまう事になり、ただでさえ影が薄い山田太陽を存在ごと呑み込んでしまうかも知れない。そう、桜のお肉が、むぎゅっと。

「はぁ。どぉしたらぁ、皆みたいにぃ、スマートな体型を維持出来るのかなぁ?」
「皆って?」
「んー、俊君とかはっくん」
「えっと?」
「左席会長と、モデルのハヤト君の事だね?」
「ん、そぅ。加賀城君もセイちゃんもぉ、身長が高くて痩せてるから…」
「天の君はとても沢山食べるんでしょう?」
「こっちでも噂になってるよ!うちの遠野会長もそれはそれは沢山食べる方だから、やっぱり血かなぁって」
「へぇ、西園寺の遠野会長さんも大食いなんだねぇ」
「大食いって言うか、早食いかな。仕事しながらご飯食べるんだよ、時間が勿体ないからって」
「会長はお医者さんになって政治家になって兄弟でも結婚出来る社会にするのが、西園寺に入学した頃からの永遠の夢らしいよ。入試面接で延々その話をして先生達を困らせたけど、当時高等部の生徒会長だった今の理事長が遠野会長の情熱に惚れ込んじゃって、だから合格したんだって話もあるんだ」
「生まれて初めて喋った言葉は『しけた世界だ』だった、って伝説もあるんだよ」

帝王院の遠野会長もまともではないが、成程、西園寺が誇る美貌の生徒会長もとんだ変態さんらしい。
桜は遠くから見掛けた事がある程度の遠野和歌には二歳年下の弟が居ると言うのは、西園寺学園では昔から広く噂されていたそうだ。そっちの弟の方には面識がある桜は、美形兄弟の実情を知っている。

(俊君と同じ名前の舜君、何で式典に忍び込んでたのかは判んないけどぉ、ほんとは中学生なんだねぇ。僕が知ってるって言っちゃったらどうやって知り合ったかも話さなきゃならなくなるかもだからぁ、内緒にしなぃとぉ…)

ついでに言えば、一緒にいた俊そっくりな目つきのもう一人のちびっこの正体も知っているが、あちらに関しては見なかった事にしよう。どう見ても十代の少年にしか見えなかったが、あれが俊の母親なら桜の両親と年齢が変わらないと言う事になる。若い頃から老けていて五十代に見られる父はまだ四十代後半だが、あれは職人の渋みだ。ああ言う男になりたいとひっそり思っている桜は、化物級の若作りを羨ましくは思わない。
寧ろ父親だと言われた方がしっくりくるくらい、ボーイッシュなお母様だった。

「そう言えば、昨日天の君が2階から落っこちたって聞いたんだけど、本当なの?」
「ぇ?あ、ぅん、漫画研究会の人達に部室に連れてかれたみたぃなんだけどぉ、凄ぉく散らかっててぇ、ゴキブリが這ってたんだってぇ。だから、」

少し離れた位置のテラス席に腰掛けていた男が、ガタっと立ち上がった。話の腰を折られた形の桜は目を丸めたが、眼鏡を曇らせている男前の顔色が余りにも悪いので首を傾げた。

「あのぉ、大丈夫ですかぁ?」
「…俺?」
「ぁ、はぃ。顔色が悪いみたいなのでぇ、良かったら保健室まで案内しますよぅ?」
「いや、遠慮する。お気遣いかたじけない、餅顔の君」

ストンと座り直した男前は武士の様な台詞を呟いたので、桜は思わず笑ってしまった。桜が太ったのは東城清志郎と仲違いしてしまった数年前からだが、幼馴染しかいない同級生から直接指摘された事はなかった。ほぼ毎日一緒にいても必要最低限の会話しかなく、他人は全てライバル同然の認識がSクラスの共通項だ。ほんの先月まで一匹狼だった太陽と会話らしい会話をした事もなく、同室になったのも今回が初めてで、基本的に日和見主義な所がある太陽は悪口も言わなければ、あだ名で呼ぶ事もない。
初対面同然の状態で抜け抜けと『桜餅』と呼んだのは後にも先にも俊だけで、悪口かと思えば桜の肉を揉みしだいて『これぞ祝福の時』とハァハァしているので、彼なりの褒め言葉なのかも知れない。良く判らないが。

「ぅ〜ん、俊君は昔から全然判んない人だったもんねぇ」
「え?」
「何でもないょ、こっちの話。って、僕も思い出したのはほんのさっきなんだけどねぇ。ぅふふ」

さてさて、十年前には『友達じゃない』と口を揃えた二人は、今ではどうなのか。あれほど気難しい太陽が冗談でも小突いたり説教じみた真似をするのは、桜が知っている限り俊だけだ。昔は大型犬に吠える小型犬の様な状態だったが、今はどうなのか。好奇心旺盛なオタクとそれに付き合わされる健全な高校生が正解だとは、桜は考えていない。

「ぅ〜ん。あの太陽君がぁ、大人しく従ってる所なんてぇ、今になってみるとぉ、想像も出来ないや…」
「あの人、全然食べないね」
「うん、じっとムール貝を睨んでる」
「でも凄く綺麗な横顔」

ラムネの玉が飲み口の奥で詰まってしまった桜を余所に、インテリ風美形に興味津々の西園寺一行がこそこそ話に花を咲かせている。
美形にそれほど興味がある訳ではない桜だが、皆が噂しているとそれなりに気になるお年頃だ。つられて噂の席を眺めてみれば、何処かで見た事がある様な気になってきた。
いや、そんな筈はない。さっき思わず話しかけた時だって、相手は『お前は誰だ』と言う態度を隠さなかったのだから。

「幾つくらいかなー?ちょっと遠野会長に似てない?眼鏡掛けてる所とか」
「ははっ、それって眼鏡だけじゃん」

そんな彼らを余所に、カフェに一人男が入っていく。
あ、っと目を丸めた桜は瞬いたが、向こうは桜に気づかなかった様だ。

「僕、ムール貝ってちょっと苦手なんだよね。味は好きなんだけど、見た目がさ…」
「あっ、そんな所で何やってんだよトーマ!」

こそこそ話を聞きながらラムネを舐めていた桜の背後の手摺りから、ぬっと派手な男達が顔を覗かせた。
最後の一口のラムネを吹き出してしまった桜の背中を撫でてくれる西園寺学園の生徒達も、余りの事態に身を強ばらせる。

「おい、のんのん!んな所から登ってくんじゃねぇよ、不審者だと思われるぞ?」
「ちゃんとした道があるんだから、面倒臭くても近道すんな」
「ごめんね君達、そこの野生児は後でお兄さんが素揚げにしとくから…」

何だ、この派手過ぎる集団は。
手摺りを飛び越えてきた男もツーブロックの髪が黒と白のツートンで、ちゃんとしたカフェの階段を登ってくる他の男達もそれぞれあからさまにチャラ臭い雰囲気を漂わせている。その中でも一際異彩を放っているのは、黒いシャツに迷彩柄のワークパンツを履いているスキンヘッドの男だろう。顎から首筋に掛けて、筋肉で覆われた濃い目の皮膚に黒いタトゥーが彫られている。

「あ、あああ、安部河君…っ」
「も、もしかしてあれって、不良さんかな…っ?」
「だ…大丈夫だょ、きっとぉ。皆、落ち着いて?」
「おいおい、何無視してくれちゃってんだトーマちゃんよぉ」
「のんのんは無視しても、キョン様を無視するのはどう言う了見だ?素揚げにしたのんのんの隣に三枚おろしにして飾り付けんぞ、ゴルァ」

基本的に優等生しかいない西園寺学園の生徒らは言葉もなく怯え、工業科やカルマで見慣れている桜もビクッと肩を跳ねた。大人しそうな美貌の眼鏡の青年を取り囲んだ男達は、どかどかとカフェの椅子に腰掛ける。

「洒落こけたもん食ってんじゃねぇか、一口くれ」
「何これ、ウニ?」
「ムール貝だろ、ユウさんがしょっちゅうワインで蒸してる奴…おい、これ伸びてんじゃねぇか!美味いけど残念!」
「そう言えば、トーマの番号を聞きたがったお坊ちゃんがカフェのジュース券くれたじゃん。此処で使えるんじゃね?」
「…トーマ、眼鏡が…曇ってるぞ…」

ちゃらちゃらした数名がカフェへ入っていき、残った体格の良いスキンヘッドが動かない眼鏡青年にぼそぼそと話し掛けている。低いハスキーボイスに西園寺の生徒らも興味津々で、こそこそと向こう側の席を盗み見ていた。

「…聞いてくれ、エリンギ。俺はメニューが読めなくて、店員さんのオススメを頼んだんだ」
「………そう、か。俺も…スタバのメニューは、良く…判らんよ…」
「まさかこんな不気味なものが出てくるなんて、思わなかった…っ」
「…うん?」
「見ろよ、この黒い貝!これどう見てもアレじゃないか、ラストサムライじゃないか!」

桜は円な瞳をパチパチ瞬かせた。盗み聞きしている為に微動だにしない西園寺学園の生徒らは聞き逃した様だが、桜はしっかりばっちり聞いた。左席委員会内に於いて最後の侍と言えば、会長が眼鏡の底から嫌っている、あの黒々光る害虫の事だ。

「…トーマ、少し…落ち着け…」
「これが落ち着いていられるか?!何でキョンとアリマは平気な顔して食えるんだこんなものっ、でも1200円もしたからお残しするなんて考えられない!俺は、俺はどうしたら良いんだぁあああ!!!」
「お…落ち着け…」

スキンヘッドの男の胸ぐらを掴んで叫び散らしている眼鏡の声が響いたのと、カフェのドアがけたたましく開いたのはほぼ同時だった。

「おい、エリンギ、トーマ!中で斎藤が凄ぇの頼んでたぞ!」
「何で私立高校のカフェにこんなもんがあんだ?!えっと、それ何だっけキョンキョン」
「キャラメルとほうじ茶の…おい何だっけ、斎藤」
「ふっ、君達はまだまだ青いな。これはキャラメルほうじ茶マキアートだ」
「何かっこつけてんだ、バイトの癖に」
「馬鹿にしやがって、榊の兄貴の手下の癖に。つーか何でオメーが此処に居るんだよ」
「おい、やめとけってのんのん、キョン。そいつはただの専門学生じゃねぇ、クール宅急便と腕相撲で引き分ける隠れマッスルキャラだ。ケンゴがコイツはただもんじゃねぇっつってた」

ああ、どうもこれはほぼ間違いない様だとハンカチで口元を拭いた桜は、視界の隅に割り込んだ巨大な校舎を二度見した。


「…ふぇ?あれぇ?最上階にも真ん中にも、オレンジ色が見える様な…?」

安部河桜の視力は両目とも1.0、Sクラスでは珍しい健康体だ。
かなり離れているから確証はないが、高等部に於いてオレンジの作業着を着ている人物は、三人しかいない。
その三人の髪の毛の色は同じ様な甘ったるいミルクチョコレートカラーだが、三人全て髪型は全く異なっている。

「ぇ?ぇ?僕どぉしちゃったのかなぁ…」
「どうしたんだい、安部河君?」
「顔色が悪いよ?」

あの東雲村崎に匹敵する様なふわふわパーマは、一人しかいない筈だ。



「梅森先輩が、二人居る筈ない、よねぇ?」

←いやん(*)(#)ばかん→
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