帝王院高等学校
そして魔女集会も佳境に突入!
「…何をしているんだ、貴様は」

地下駐車場の一角、自力で縄を解いた男は乗用車のトランクの中で息を殺し続け、やっと光が見えてきた瞬間投げ掛けられた台詞に息を吐いた。

「…申し開きの言葉もない。まさかネクサスオリジナルがあの場に現れるとは…」
「あれがファーストの監視下にあると、知らなかった訳でもあるまい。よもやネクサスの手助けを期待したその愚かさに涙が出てくるわ」

タン、と。男が持っていた杖でコンクリートを叩く音が響いた。
年々あの男に似てくる実兄のくすんだブロンドは、日本人の白髪と見分けがつかないだろう。

「遠野夜刀を名乗る男に会った」
「…ほう、興味深い話ではあるな。良いだろう、今回の失態の責任を問うのは先延ばしにしてやる」
「オリオンだと思われる遠野龍一郎の死以降、杳として行方が掴めなかったあの男は」
「ナイト=メアの兄…いや、正確には甥だ。レヴィ=ノヴァを誑し込みオリオンを追放へ追いやった、穢らわしき娼婦の血族と言うべきか」

その無機質な声音に、我が兄ながらぞっとする。

「穢らわしき、とは…?」
「皆、騙されているのだ。メアこそが災厄の根源である事を認めようとしない」

現在の元老院はフルーレティ=アシュレイの名の元に開かれているが、中央情報部長だったコード:ベリアルが引退したのは前妻の娘であるエアリアスがアビス=レイと共に国を出た直後だ。クリスティーナとの逢瀬を重ね駆け落ちを企てた犯罪者の監視役を買って出た筈のエアリアスは、然し間もなく出産し、大悪魔の名を持つアシュレイ伯爵は罪深き男の子を産んだ娘の責任を取った。

「ベリアルの魂胆は知れんが、オリオンの生存が確定的であれば、ベルセウスの起動は可能なのだろう?ベルセウスデータは中央情報部も把握していない、CHAθSの重要機密だからな」
「マスターオリオンの行動に無駄がある筈もない。ナイトの伴侶が遠野俊江である確証さえあれば、マジェスティキングより統率符を与えられた帝王院秀皇が正統な男爵であろう」
「遠野俊江がメアとして認められるには、多少手間が掛かるぞベテルギウス。歴代ノアは親族の祝福の元、新月の夜に婚姻の儀を執り行ってきた。既に子供が生まれている現状は、芳しくない」
「…だから貴様は愚かだと言うのだ」

円卓から下った枢機卿は基本的に元老院の預かりとなり、その生涯を全うする習わしがある。枢機卿のまま殉職する者は稀で、人事を介さず自ら退職を申し出るのは背徳に値する行為だ。然しキング=ノアによってルークの世話役に任命されたアシュレイは、後にルークがノアの座に着くと世話係としての力量を認められ、元老院議長へと選出される。あの一件さえなければ、特別機動部副部長だったベテルギウスが議長になるのは確定的だった筈だ。

「良いか、ナイトの銘は遠野夜人を母代わりの様に錯覚しているキング陛下が与えたものだ。然し陛下には伴侶がなく、故にシリウスはアダムとイブを作った」
「…それが何か?」
「愚かしいシリウスはシンフォニア同士の近親相姦を企んだが、聡明なオリオンは違う」
「何が違うと言うんだ?」
「キングにナイトの銘を与えられた男と、オリオンの血を引く娘…。これ以上ないアダムとイブではないか。そうだろう、アデルバラン?」

9代キング=グレアムの円卓で、ルークを認めた枢機卿はほんの数名。それ以外は最後まで『生まれる筈ではなかった神の子』を黒羊と呼んだ。最後まで意図が判らなかったのは、ノアの忠実な従者として死んだライオネル=レイだけだ。
オリオンである冬月龍一郎が失踪して以降、特別機動部長代理と技術班長を兼任していた冬月龍人は最後までマスターにはならず、若くして大学を卒業した天才児、カミーユ=リヒテンシュタイン=エテルバルドが二十歳で特別機動部長の座に就いた。還暦を迎えたばかりの若さで急逝したエテルバルド伯爵の家督も継ぎ、コード:ネルヴァは瞬く間に世界に君臨する魔王へと伸し上がっていく。彼の結婚は遅く、63歳の現在、一人息子は15歳だ。

「ネルヴァの息子もシスターテレジアの息子も、どちらも円卓には相応しいがギャラクシーコアへ届くとは思えん。ノアの権利は、より純黒に近しい者の手に委ねられるべきだ」
「し、然し、兄上はルーク=ノアを認めておられたのではないのか?」
「ファーストを飼い慣らす事も出来ず、セカンドに自由を許している今のノアでは、ステルスの発展に見込みがない。何よりマジェスティルークには、上昇志向がない」
「それは…」
「キングへの恨みを玉座を手に入れた時点で喪失したのであれば、あれはもう抜け殻だ。今後ノアの跡継ぎが育つまで待つと考えて、何年必要だ?来日して三年も経っているのに未だに帝王院を吸収する様子もなく、日数が過ぎるのを待っているだけの抜け殻では、黒羊以下でしかない」
「つまり、ノアをすげ替えるおつもりか。それも、帝王院秀皇ではなく…」
「時代は常に、新たな世代によって作り替えられるものだ」
「…」
「シリウスでもネルヴァでもなく、寧ろその二人の子供さえも呑み込み、ファーストを手懐けセカンドを従える天神の血までも引く、唯一無二の寵児。正真正銘の神は、エルサレムには存在しなかったのだ」

背筋が冷える。
狂っているとしか思えない表情の兄を見る勇気がなく、男は足元へ目を落とした。言っている事は理解出来るが、現在のステルシリーを作り上げたのはルークだ。毎年着実に利益を上げていて、叶二葉の横暴に目を瞑れば、円卓にも社員にもマジェスティルークに不満はないと思われる。

「そしてこれは、キング=ノヴァのお心でもある」
「…陛下はステルシリーを壊すおつもりか?」
「どの道、未来が見えないのであれば壊せば良い。私はライオネル卿と同じく、命尽きるまでステルスの忠実な従者だ」
「新たなノアに会わねば、判断はしかねる」
「キングが認めた少年に不服があるのか?」
「…ファーストから何か報告はあったのか?」
「あれは私達を信用していない」

賢い子供がいた。昔の話だ。
生まれてくる事を許されず隠され続けた幼子は、然し監禁同然の生活の中で独自に学ぶ方法を見つけ、盲目の女が所持していた全てのレコードを聴き言葉を覚えると、元技術班長の知識を注がれるままに幾つもの言葉を覚えた。それは、マリア=アシュレイが老衰で目覚めなくなる日まで続いた様だ。

「アシュレイに裏切られたとでも思っているのだろう、ゼロの母親がエアリアスと知って、殊更だ」
「フルーレティは紛れなくノアの方舟。奴はルークを裏切らない。あのファーストが、必ずしもルークを敵視しているとは思えん」
「お前も『そう』だろう、アデル?」

あの天才をあのまま幽閉したままだったなら、どれほどの損失だっただろう。あの紅鏡の如く燃える髪、溢れ出る銀河を塗り固めた様なダークサファイアの瞳、パーフェクトリンガルで人間を愚弄する傲慢さまでもが、今世紀のソロモンと呼ぶに相応しかった。

「思い込まなければならない時は多々ある。選択する権利は常に、極少数の選ばれた人間に与えられる権利だ」
「…」
「意思を貫くには犠牲が伴う」

けれどあの少年もまた、凡庸だと円卓は下したのだ。ほんの一時教育係として嵯峨崎佑壱の教育に携わったアシュレイは、間もなくルークの世話係へと異動する。彼を精一杯育て上げる事こそが天命だと励んだが、結果的にファーストは外の世界へと飛び立っていってしまった。

「ロードを消され、ファーストを消され、常に貴様の忠誠が実を成す事はなかった」

何度も。何度も壊されてきたのだ。けれど仕方ない。全てはノアの取り決めだ。従者に何が言えるのか。

「ロ…ロードは、生まれた時から私が教育を与えてやっていれば、あんな馬鹿な真似はしなかった筈だ…。順序が間違っていただけで、っ、そもそもエアリアスが謀反を企てなければロードは…!」
「私とは違い、お前はステルスではなく男爵の命に従いたいだけだ。そしてそれは、間違っていない」
「!」
「無理もない。幼かったお前は、オリオンの記憶など微かだろう。彼の生き様を間近で見ていれば、もう少し我々の価値観は変化していただろう」
「オリオンの血を引いていようと、三人目のナイト候補が男爵に値する人間かどうかは定かではない。この目で見て判断しなければ」
「私は待っていた。陛下の遺体を掘り返したライオネル閣下がシリウスの覚悟を知った日から、今まで」
「…兄さん?」
「過ちを犯しても認める事が出来なくなった古ぼけた身を、容赦なく裁かれる日を」

カツカツと、杖がコンクリート弾いていく。
ゆっくりと地上を目指し歩いている背中を追う度に、雨音が近づいている様な気がした。



「全てを白日の元に晒す時なのだ。…全ては、ギャラクシーの為に」

大聖堂の鐘の音が、遠くから正午を報せてくる。
何かの幕開けの様に。
































掌に人と書いて飲む。
そう言えば昔は、コンサートの度に隠れてこのおまじないをした様な気がする。

「…結構、緊張するタイプなのよ、私」

誰に聞かせるでもない一人言一つ。
盛大に賑わっていると思っていた目的地は思いの外閑散としていて、ホテルロビーの様な煌びやかな空間には、景色にぴったり似合っているバトラー姿のフロントマンが数名、来客らしき姿も自分を除けば一組だけの様だ。

「えっ、西園寺学園の生徒会長?!」
「はぁ、そうなんです。こっちで不貞腐れてる馬鹿孫が生徒会長で、親族招待状は捨ててしまったと言うんで。でも此処の一年生にもう一人孫が居るんで、連絡がつけば迎えに来てくれる筈なんですけど、…何度掛けても電源が入ってないみたいで」
「ばーちゃん、兄貴が変態だからってそんなに落ち込むなょ。俺まで悲しくなってくるだろィ、うっうっ」
「舜、兄ちゃんは家で一日中お前の体を診察したいんだ。こんなババア放っておいて、今すぐ帰ろう二人のスイートホームへ…」
「はァ?二人じゃねェだろ、母ちゃんも居るぞ?夜になったら多分親父も帰って来るし」
「チッ。…適当な理由で離婚させて親父には連れ子を嫌がる新しい女を当てがって、ばーさんに引き取られるルートを選ぶべきか…」
「舜の面倒は見てもお前の面倒は見ないから、一人で逞しく生きておいき和歌。短い付き合いだったね」

いや、待て。何なんだこのきな臭い会話は。
盗み聞きする気など更々ないが、三人連れが異様に目立つ雰囲気なのでつい目が行ってしまうのも無理はないだろう。明らかに日本人離れした青み掛かった銀髪の長身と、小柄な茶髪の少年はどちらも稀に見る美形で、彼らに挟まれた品のあるご婦人はフロントからは見えない位置で長身の足を踏んでいる。それはもう、年齢と品格に相応しくないリズミカルなステップで踏みまくっていた。

「お待たせ致しました、こちらが招待状の半券とパンフレットでございます」

思わず吹き出しそうになりながら耐え抜けば、フロントから出てきたバトラーが近づいてくる。帝王院学園の校門を兼ねていると言う煉瓦造りの建物の中で、真っ先に差し出したのは生徒らの親族に配布される招待状だ。今月頭に高等部へ進級した息子の中等部卒業証書と共に送られてきたチケットは、無人の自宅のピアノの上に放置されていた。それに気づかなければどうするつもりだったのかは、チケットを置いた犯人を捕まえないと判らない。

「申し訳ございません、正規のパンフレットは配布終了しておりまして、取り急ぎ複写したものになってしまいました」
「いいえ、ご丁寧にどうも。最終日のこの時間に伺って対応して頂けただけで、感謝します」

入場許可印が捺されたチケットの半券と、コピー冊子の様なものを抱えて立ち上がれば、丁度もう一組の入場許可も下りた様だ。何やらゴネている北欧人風の長身をぐいぐい引っ張っている茶髪の少年と目が合い、帝王院学園へと続く自動ドアの前で何となく愛想笑いを零した。

「ふォう!」
「…ふぉう?」
「お、お嬢さん、これは恥ずかしい所をっ。どうぞお先にお通り下さい、レディーカーストですので!」
「ファーストだよ舜、だから辞書を読みなさいって言うんだ」

しゅばっと自動ドアの前から飛び退いた茶髪の少年は、何処ぞの紳士の様に片手でドアを指し示す。何事だと目を丸めれば、恥ずかしげに咳払いした傍らの女性がパシンと頭を叩いた。どう見ても還暦過ぎの婦人なので、祖母と孫の関係なのだろう。

「ごめんなさいね、この子ったら綺麗な女性を見掛けるとジェントルマン振りたがるのよ。相手にすると面倒臭いから、無視して下さる?」
「ふふ、あ、ごまんさい。日本にもジェントルマンが居るなんて思わなくて、何だか可笑しくって。お孫さんですか?」
「ええ、二人共息子の子なの。この学校には娘方の孫が通っているんだけど、この歳になると腰を上げるのが遅くてねぇ。日曜日だからちょっと覗いてみようかって、ほんのさっき思い立ったのよ」
「その方が正解だったかも知れませんよ。昨日まではきっと混雑していたでしょうから…あら?」

話し込みながら建物から出れば、霧雨で景色が烟っている。タクシーで乗りつけた時までは曇ってはいたが、雲間から日差しが覗いていた様な気がしたけれど、豪華な造りのフロントに気圧されて入場手続きに多少尻込みしていた所為か、知らない内に降ってきていた様だ。

「あらやだ、ちょっと肌寒いわね。傘借りれないかしら」
「私がフロントに聞いてきましょうか?」
「ばーちゃん!おっちゃんが傘貸してくれたァ!」
「良くやった舜、お前らしかず気が利くね!」

そこへ茶髪の少年が元気良く駆け寄ってくる。手に傘を二本持っているのが見えたが、それを受け取った祖母は躊躇わず一本手渡してきたのだ。咄嗟に受け取ったものの、四人で二本しかない傘を一つ借りてしまうのは気が引ける。然しそれを告げようとする前に、ご婦人は首を傾げた。

「おや、和歌はどうしたんだい?」
「んー、ロン毛でくるんくるんなおっちゃんに傘あげるからこれ頂戴って言われたんだけど、訳判んないまんま頷いたら何か兄貴だけ連れてかれた」
「連れてかれた?!…ま、良いか。あの子なら大丈夫だろ」
「うん、絶対大丈夫だょ。だって兄貴だもん」

それは大丈夫じゃないとあわあわするも、ばさっと傘を開いたご婦人は孫を傘の中に入れて、仲良く並んで歩いていく。凄まじい急展開に狼狽えたまま反応出来ずに居れば、くるっと振り向いた品の良いマダムはにっこり微笑んだのだ。

「貴方どうしたの?早く行かないと、全部終わっちゃうわよ?」
「い、いえ、お孫さんは本当に大丈夫なんですかっ?」
「あらやだ、平気よぉ。あんな糞みたいな畜生風情でも一応西園寺学園の代表なんか任されてるんだから、一度や二度誘拐されたくらいで死にはしないわよ」
「誘拐?!く、糞…っ?!」
「ばーちゃん、もうちょっとお上品にしねェと、じーちゃんが生きてたら心臓発破で死んじまうょ?」
「馬鹿だね舜、じーさんはとっくに死んじまっただろ、糖尿病で。甘いもんばっかり食べるからぽっくり逝くんだ、お前もインスタントラーメンばっかり食べてるとぽっくりだよ」
「ばーちゃん知らねェの?ラーメンは小麦粉で出来てるから野菜なんだょ」

ドヤ顔で胸を張っている少年に顔を見合わせた女性組は、どちらからともなく吹き出した。

「本当に馬鹿な子でしょ、恥ずかしいわ」
「この年頃の男の子なんて、何処もこんなものですよ。うちなんて主人がいつまで経ってもお子様なんで」
「ああ、男は死ぬまで少年のままってね。昔から歌詞にもなってる」
「そうですね、本当にそう。息子が主人にそっくりな性格で、今から頭が痛いです」
「子供が可愛いのはほんの数年間だからね。あっという間に大きくなって、一人で育った様な面をするんだよ」
「ふふ」
「まぁ、私達もそうだったんだろうけどね」
「親になってみないと、親の苦労は判りませんから。感謝はしてるんですけど、照れ臭くて絶対に言えない」
「それが判ってるから、子供達にも強く言えないんだよねぇ。自分達も親の手を煩わせてきた癖に、自分の子供にはいつまでも可愛いまんまで居て欲しいなんて傲慢な考えだよ」
「ええ、本当に。でもそう考えてしまう」
「そうそう、人間なんて身勝手な生き物さ」

幾分砕けた口調になったご婦人に名刺を手渡すべきか悩んで、ハンドバッグの蓋を片手で開ける。
校門側から中に入るとすぐに芝生と煉瓦が広がる広大な広場に出たが、大きな噴水以外は特に何もない。視界が開けているのですぐ向こうに花畑の様なものが見えたが、結構な距離がありそうだ。そのまだ遥か彼方には宮殿の様な建物が聳え立っており、この距離でも馬鹿デカいのが良く判る。

「こりゃあ、筋肉痛の覚悟をしないといけないみたいだね」
「本当に。パンフレットに案内が載っているって聞きましたけど、地図がないと迷いそう」
「最短距離で真っ直ぐ進むしかないね。こんな時に雨だなんだから、日頃の行いを悔やみたいよ」
「ふふっ。あ、そうだった。さっきフロントで、一年生にお孫さんがいらっしゃるって聞きましたけど…」
「そうそう、高等部に一人いるんだ。この子より一つ年上で、居なくなった方の孫の一つ下」
「うちの息子も今年高等部に上がったばかりなんです。同級生ですね」
「おやぁ、本当かい?」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、こう言う者です」
「これはご丁寧にどうも。えっと名刺名刺…あったあった、何でも捨てずに持っておくもんだ。私はこう言う者です」

ハンドバッグから取り出した名刺入れを片手に、財布を漁って名刺を引っ張り出したご婦人と挨拶を交わす。品の良い人だとは思っていたが、医師ならば納得が行った。

「昔作った名刺なんだけど、それしか持ち合わせがなくて。すみませんね」
「いえいえ。婦人科と、まぁ、小児科も務められていたんですか」
「曽祖父の代から診療所をやっていて、父の代で多少大きな病院になったもんだから、他に選択肢がなかっただけですよ。両親は腕の良い医者だったけど、私は全然」
「そんな、ご冗談ばっかり」
「謙遜でもなんでもないんだけどねぇ」

それも遠野総合病院と言えば日本で最も設備が充実した病院で、帝王院学園最上学部工学科医療技術コースと提携しており、都内の幾つかの大学とも連携している。帝王院財閥の傘下である製薬会社も専属で請け負っていて、新技術導入が早い事でも評判だ。何せあの帝王院財閥がついている大病院だ、政府に対しての影響力も強いだろう。

「遠野先生は院長でいらっしゃったんですか?」
「主人がね。今は息子が継いだから、私はたまに手伝いに行くだけの隠居だよ。70過ぎの婆さんがいつまでも邪魔しちゃ、悪いだろ?」
「ええっ?やだ、まだ60歳くらいかと思っていたのにっ」
「まぁまぁ、嫌だぁ、嬉しい事言ってくれるわねぇ。聞いたかい舜、ばーちゃんもまだまだ捨てたもんじゃないだろ?」
「へ?ばーちゃんを捨てたらバチが当たりそうだから、捨てないょ?しわしわだけど」

ペちんと頭を叩かれた孫は祖母の笑みに気圧され、フッとニヒルな笑みを浮かべて沈黙した。見事なサイレント状態だ。祖母と孫のカーストが垣間見える。

「貴方こそちょっと見ない綺麗な方だから芸能人かと思ってたんだけど、まぁまぁ、ピアニストさんなんて素敵な職業だ事。私は音楽にはそれほど詳しくないけど、主人がクラッシクを嗜んでいたから、ベートーヴェンとシューベルトは多少知ってるよ」
「旦那様も医者でいらしたんでしょう?大変なお仕事ですね」
「医者に暇も多忙もないんだけど、私はマシな方だったろうねぇ。主人は外科医一本だったから手術三昧で、学会以外じゃメス握りっぱなしの人だったよ。まぁ、息子に継がせる前に倒れてしまったんだけどね」
「そうでしたか…」
「生きていたら79歳になってるか。しぶとそうな男だった癖に、呆気なく逝ってしまうんだから泣くより呆然としたね。とても信じられなくて。何せ私の父親は107歳で頗る元気なもんだから」
「107歳!それは凄い」

傘持ち役と貸している少年だけが頑なに黙っている事を除けば、だだっ広い道なりも楽しく過ぎていく。一人だったら途中で根を上げていそうな距離があっという間に縮まって、雨に濡れて光る花に包まれた道へと入った。

「うちは言っての通り医者一家みたいなもんだけど、そっちも音楽一家って奴かい?」
「いいえ、全然。私だけが突然変異って言われてます。母は専業主婦で、父は一代で不動産業を興したんです」
「はぁぁ、そりゃ凄い方だ。苦労しただろうに」
「ですかね。だから一人娘の私を甘やかしたがったと言うか」
「うんうん、そりゃそうだ。男親ってのは娘にはどうしても甘くなるもんだよ」
「物心ついた頃から幾つか習い事をやらせて貰って、その内の一つがピアノだったんです。結果的にそれが仕事になっているんですから、感謝しないといけませんね」
「失礼な話をする様だけど、ピアニストって日本じゃそれほどお仕事がなさそうな印象があるよ。やっぱり世界中を飛び回っていらしゃるのかい?」
「はい。拠点はドイツで、近頃はハンガリーと日本を往復してます」
「それは大変なお仕事だ。体を大切にね、タカノさん」
「有難うございます」

ああ、やはり読めなかったかと高野佳子は小さく笑った。
持ち合わせの名刺がフランス語のものしかなかった所為かも知れないが、念のためフルネームは日本語の漢字表記だ。それ以外はフランス語で書かれている為に、注意して読まなければルビのコウヤには気づかないのも無理はない。受け取った名刺には遠野美沙と言う漢字の隣に、子供でも読める平仮名で列記されていて、産婦人科医・小児科医の肩書きも並んでいる。

「ねィねィ、お嬢さん」
「お前は黙ってろって言っただろ、舜」
「まぁ、じっとしていろなんて可哀想じゃないですか。何かな、シュン君」
「タカノって、高野豆腐のタカノだろ?」

茶髪の少年の台詞に『おや?』と目を丸めた佳子の前で、美沙の三度目の平手が決まった。あながち間違いではなかったのだが、失礼な事を言うんじゃないと孫を叱っている美沙の手前、沈黙を通す。ぎゅるるんと響いた音に何事かと瞬けば、再び沈黙した少年の腹の音の様だ。

「思い立ったが吉日でやってきたは良いが、昼ご飯を食べてこなかったからお腹が空いたのかい」
「あ、私も午前中で仕事切り上げて飛んできちゃったんで、まだ何も食べていないんですよ。さっと見物してすぐに帰るつもりだったんで…」
「そうかいそうかい。此処で出会ったのも何かの縁だろうし、一緒にランチしてくれないかい?婆さんとエセ紳士と同席が嫌じゃないければ」
「そんな、嫌なんて」
「あっ、俊兄ちゃんだ!」

二度目の沈黙も長続きしなかったらしい少年が、しゅばっと走り出す。
何事かと思えば花道を抜けた先に屋台が集まっていて、そこに集まった作業着姿の少年らがポスターらしきものを広げているのだ。

「おいチビ、何だオメーは」
「アリアさんが驚いてんだろ、あっちいけ」
「お子様がユニバーサルな会合に入ってくるんじゃない」
「えっ?えっ?何でだよ、俺も仲間に入れてくれよ!だってそのポスターに写ってる銀髪の人って、俊兄ちゃんだろっ?」
「はぁ?お前何言ってんの?」
「ぎゃはは、シュンニーチャンって誰ですかっての!」
「俊兄ちゃんは俊兄ちゃんだよっ、サセキのカイチョーで世界一カッケー遠野俊に決まってんだろっ?!」

流石、若いだけ瞬発力が違う。
あっという間に騒ぎに紛れていった舜を追い掛ければ、彼より圧倒的に体格の良い作業着達に囲まれて軽く苛められているではないか。この状況で少しも焦った風ではない美沙の代わりに焦った佳子は駆け出そうとしたが、すぐさま腕を美沙に掴まれた。

「コラコラ、舜。お前は何を騒いでいるんだい。暴力は駄目だよ、暴力は。お前の場合は真剣に駄目だ」
「だってばーちゃん、コイツらが俊兄ちゃんのポスターを勝手に作って独占禁止法なんだっ!ショーゾー権の侵害なんだっ」
「ん?これの何処が俊………ありゃ?本当だ、このシーザーってのは、俊じゃないか。何でこんな格好してるか知らんけど、自棄に似合うねぇ。まるでマフィアさんみたいだ」
「ばーちゃん、英語読めるん?!」
「ばーちゃんはドイツ語専門だよ、英語はちょっとしか判らない。で、このポスターは何なんだい?」
「何だってお婆ちゃん、カルマ知らねぇの?」
「カルマ?」
「え?ちょ、ちょっと、それ貸して下さいませんか?!」

騒ぎの原因らしきポスターを覗き込んでいる美沙の背後から様子を伺った佳子は、ポスターに並んでいる異様な雰囲気の少年らの中に酷く見知った顔を二つ見つけ、その場にヘタリ込んだ。

「な…何してるの、この子達は…っ」
「ちょ、ちょっと、こんな所に座り込んだらお尻が濡れるだろ!早く立ちなさいよ、タカノさんっ」
「ご、ごめんなさい、これ…私の子なんです」

頭痛を覚えたピアニストがその細く長い指で指し示す先、オレンジの頭の少年が快活に笑っていた。

「えっ、ケンゴのお母さん?!」
「げっ、言われてみればめちゃくちゃ似てるっ」
「大変ですアリアさん、ケンゴのママさんが居ます!サイン貰いますか?!」
「駄目だって、アリアさんはソルディオの方が興味あるって言ってんだから!」

騒がしい作業着達がしゅばっと跪いた先、ベンチでタピオカを啜っている外国人女性と目が合ったピアニストは額を押さえたまま呼吸を止め、

「あらん?セシル公爵ちゃんじゃない、何で日本に居るんだい?そっくりさんかい?」
「そう言う貴方は、私のペンフレンドのミーシャにそっくりですね」
「その遠野美沙だよ、御年74歳の本物だ」
「そうですか」
「あまりの事に驚いて緊張しているのは判ったから、この状況を説明してくれるかい?」

世界のクイーン百選に選出される公爵を前に態度が変わらない女医と言えば、


「日向が心療内科に通っていた頃みたいに英語しか喋れないなんて私には通用しないから、そのつもりでね」

孫がちびるほどの笑顔で宣った。

←いやん(*)(#)ばかん→
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