帝王院高等学校
狂犬の育ての親は凶悪な魔女!
「私はとうとう終わってしまったよ」
「…何?」
「昔はしたい時にしたい相手を誘ったもんだが、結局、妊娠経験はなかったね」
「…」
「男から定期的に抱かれていないとホルモン分泌が減るのは、事実だよ」

軽口で和ませてやろうと気遣ったつもりだが、どうもタイミングが悪かったらしい。日本人は口を揃えて不謹慎だと言うに決まっている。今はそんな時期だ。

「がっかりさせてくれるじゃないか。いつものお前なら、『不謹慎だ馬鹿女』だの『永遠の敗北者』だの、育ての親同然の私を馬鹿にして笑っただろうに」
「…何が親だ。お前に親になる資格など、」
「ないね、そんな権利欲しいと思った事もない。私の子は、自らの手で作ってきた発明品だけさ」

後は一日3杯ほどのコーヒーと、無趣味さを隠す為に暇を見つけて買い漁ったレコード盤だけ。視力を失う前までの人生で、仕事の隙間に辛うじて存在したもの。今はそれが人生の全てになりつつある。

「今だから白状するけれど、私は目元がはっきりした顔が好きなんだよ。ああ、だけど陛下にそっくりな坊ちゃんに欲情した事もないね。陛下より先に出会っていたら、ナイトには一度抱かれてみたかったけれど」
「殺されたいのか。夜人がお前みたいな汚れた女に手を出す訳がない」
「ナイトは私の本性に気づいていなかった様だから、有り得たかも知れないだろ?」
「黙れ」
「物作りを取り上げられた私は、空っぽだ。お前が慰めてくれないか」
「痴れ者が。貴様の様なアバズレ、願い下げだわ」
「同意見だ、お前は考え方が私に近いからね。お前だけは絶対にない」

同族嫌悪。大切なものほど触れられない内気な研究者は、最後の最後まで好きな男に想いを伝える事も出来ないまま、せめて人生で二度目に惚れた男の意思を汲んでやろうと、似合わない真似をしている。

「寂しさは精神を冒すんだ。強くおなり、龍人」

目が見えないと言う事が、これほど退屈だとは知らなかった。
それでもあの時、二回り以上離れた男から貰ったプロポーズにしては甘さの欠片もなかった言葉があるだけで、惨めさが和らぐ気がする。

「…失せろ役立たず。貴様の居場所などとうにない」

声だけはそっくりな双子の片割れが意地悪ばかり宣おうと、人生を懸けて愛した男の盛大な葬儀が執り行われている最中だろうと、研究者人生で最も苦労した味噌作りがライバル為だった事すらも、今では良い思い出として蘇ってくる。

「調子が戻ってきたじゃないか」
「失せろと言っている、マリア=アシュレイ」
「私のコードは抹消されているのかい?一昨日会ったあの子は、テレジアと呼んだけれど」

状況が読めない女だと、何人に言われてきただろう。読めないのではなく読む必要性が見当たらないからだとその度に言い返してきては、これだからイングランド人はと鼻で笑われる。生まれたのはアメリカだ。

「視神経が生きていれば、科学的に視力を取り戻す事は可能だと教えてやっただろう?」
「ナインは俺が助けた。もう貴様にも裏切り者にも用はない」

イギリス人だった両親の事は顔も覚えていない。だから『名前負けしている』と言われても『羨ましいのか』と笑い飛ばしてきたものだ。

「つれない事を言うね」

マリア=アシュレイと言う、一人の研究者の生涯。
特別機動部技術班班長コード:テレジアは、地震によって亀裂が走ったアビス探索中に硫黄ガスが充満している地底湖へ落下し、辛うじて一命は取り留めたものの、転落時に負った怪我と悪状況下に於ける処置の遅延により、復帰は絶望的。あらゆる手段を講じたものの、技術班での職務は事故後に事実上引退し、職務で得てきた知識と情報を中央情報部へ提供する傍ら、区画保全部の管轄に置かれる事になった。

「そして小さな嘘をつく」
「嘘だと?」
「くっく。笑わせる、お前が助けた…?」

それから数年が経つ頃には全データを譲渡し終え、また視力を完全に失った事で、西海岸寄りにある忘れ去られた小さな教会の管理人と言う肩書きを得た。つまりは同情同然の、天下りの様なものだ。

「いつかお前が飼育していたマウスが脱走した事があったね。あれは、お前の部屋を片づけようとしたナイトが犯人だった」
「…下らん話はやめろ。そんな気分じゃない」
「皆の迷惑よりもマウスの方が大事だと言い切って、ナイトから叱られたお前が。機械と兵器しか創らないお前が、人助けをした?」

使えない駒をいつまでも手元に置くほど、レヴィ=グレアムは愚かでも慈悲深い人間でもない。十中八九、心底優しい遠野夜人の口添えがあったに違いなかった。その優しさは時に残酷だったが、過ぎた事だ。
視力を失う中、最後の仕事として結婚十周年のオルゴールを作ったけれど、皮肉に思われなかっただろうか。目を失った事は誰の所為でもなかったけれど、あの優しすぎる日本人は誰よりも悲しんでくれたと聞いている。遠野夜人の子供なら産んで育ててみたいと思った事もあったが、誰にも告げずに墓場まで持っていくべき秘密だろう。

「まるでマウスを解剖する様に」
「…疑うのであれば、ナインが目覚めた後に聞いてみるがよい」
「坊ちゃんは数年前から、完全に視力を失っていたそうだね。だと言うのに、外科手術を蛮行と言い続け、硝子細工でハーヴェスト坊ちゃんの視力を補う事ばかり考えていた、あのお前が坊ちゃんを助けた…?」
「しつこい」
「はっ、ナイトに聞かせてやりたかった!こりゃ傑作だ!」

何がこんなに楽しいのか、自分でも良く判らない。
二度と戻るつもりのなかった中央区の匂いを再び嗅ぐ前の道中、涙腺が枯れ果てるまで泣き腫らしたからだろうか。景色は飽きもせず闇一色だと言うのに、視神経が機能停止しても涙は変わらず出るのだから、人体の神秘だ。

「弱虫シリウスが神の子に!なんて喜劇だろう!」
「殺されたいのか…!」
「余裕がない今のお前は、オリオンにそっくりだ」
「見えている様な事を宣うでないわ!」
「普段の口調は、龍一郎との差別化を望んで演じているのか」
「!」
「取り乱す気持ちは判るよ、シリウス」

恐らくこの中央区の誰もが、同じ感情だろう。
国籍も名前も捨てたノアの従者達が、外で咽び泣いている。雨など降らない筈の地下帝国は、雨季に入ったかの様な陰鬱な雰囲気だ。

「冬月龍人。誰だって他人と比べられて嬉しい筈がない。比較対象が遺伝子学的にも近しい一卵性双生児の片割れであれば、尚更だ」
「黙れ」
「『龍一郎がやってくれる』と言う期待を裏切られて、お前は震えるその手にナイフを握ったのか」
「黙れと言っておるのだ劣悪種が…!何の役にも立たない今の貴様に、俺の何が判る?!」
「どんなに優秀でも、18歳の子供」

手を伸ばして抱き締めてやりたいと思っても虚しく空中を掻くだけの手は、暫く彷徨って膝の上へ着地した。向こうから近寄ってきてくれないのであれば、撫でる事も出来ない。確かに今の自分は役立たずだ。

「お前達の本当の父親は医者を志して死んだんだったね。ケイアスの鍵を与えられた双子の片方は、亡き父と同じ医学にも通じる科学を研究し、片方は…」
「それが何だと言うんだ…。高尚な目標を掲げても、殺されてしまえば跡形もなくなる。この俺を、愚かな父と同じ括りで語るな」

レヴィ=ノア=グレアムに唯一の汚点があるとすれば、それは自分の様なお荷物を抱え続けた事に他ならない。

「お前の父親は、ナイトの兄に目を掛けていたそうじゃないか。パラレルワールドの概念を知っているだろう?もしかしたら、ナイトが医者になっていた世界があったかも知れない。お前達の父親とナイトの兄が作った病院で、お前達兄弟も働くんだ」
「…知るか、そもそも僕は遠野夜刀に会った事がない。龍流が方々へ連れ回したのは、龍一郎だけだったわ」
「何だ、オリオンが羨ましかったのか?亡父を馬鹿にしているのかと思えば、とんだファザコンじゃないか」
「羨んだ事などない」
「お前みたいな素直な子供が生まれてくれるんだったら、一人くらい育てておけば良かった」

男の子より女の子の方が育て易いだろうか、などと呟いたが、返事はなかった。

「何か言いたそうなのに、お前は私に何も聞かないのかい」
「…」
「オリオンは怪我をしたんだ」
「怪我?」

これであっているのだろうか。判らない。助けてくれとは、最後まで言わなかったから。

「何故貴様が知っている。龍一郎は、」
「そんな事が知りたいんじゃないだろう?」

同じ親から生まれた双子でも、彼は目の前のこの子とは全く違う生き物だ。
思うがままに生きているかの様に見えて誰よりも多くの事を考え、最も合理的な手段だけを選択している。目的の為なら我が身も惜しまない、あらゆる意味で狂った研究者。ステルシリー特別機動部長としては、間違いなく適任だっただろう。子育てに生き甲斐を見出したオリヴァー=アシュレイが、早期引退を決めるほどには。

「龍一郎はお前を裏切ったのかい?」
「…っ」
「そうじゃないなら、思ってもない事を口にするんじゃないよ」

中央区には18歳の少年が三人。その三人はほんの最近までランクAとして、レヴィ=ノアの円卓の柱だった。
一人は特別機動部長。一人は特別機動部副部長。そして最後の一人は中央情報部長。オリオン、シリウス、プレアデス、三つの星はノアのギャラクシーを彩る兄弟の代名詞として知られた。

「喪が明けない内に坊ちゃんの体に刃を入れるのは大層辛かっただろう」
「シリウスを苛めないでくれるか、マリア」

酷く懐かしい声だ。職務中に怪我をしてからは見舞いにも来てくれなかった従弟は、いつからこんな大人の声を出す様になったのだろう。

「…久し振りだねジャック、結婚相手は見つかったかい?」
「そっちこそ」

男子三日会わざれば刮目して見よ。遠野夜人が口癖だ。
三人の男子の母親代わりだったからか、服のサイズが変わる度、食べる量が増える度、特にレヴィ=グレアムに付き添って数日間外出した後には必ず言った言葉だった。二日以上の外出には必ず夜人を連れて行きたがったレヴィに対して、幼子を置き去りには出来ないとゴネにゴネた夜人の記憶は今でも色褪せない。

「外に技術班の試作機が転がっていたが、一人で乗ってきたなんて言ってくれるなよ」
「目が見えない事をこんなに悔やんだのは初めてだ、オートパイロットで目的地に到着するなんてサイエンスファンタジーの傑作だろ?私の手で作ってみたかったよ、本当に悔しい」
「シャドウウィングの操縦はかなり複雑だが、良く乗れたな。君が暮らすエリアは開発が頓挫して以来、無法地帯だ。ナビゲーションシステムに登録されていないのに」
「シャドウウィング?ファントムウィングの計画案は見た事があるけど、聞いた事がないね」
「シャドウは四輪、ファントムは機能は落ちるが機動力に特化した二輪車だ。オリオンの設計図は完璧だが安定生産までは至ってない。資金面もそうだが、製造工場の開発を優先している」

夜人の言葉は正しかったのだろう。
この声は本当に、あの気弱でヘタレだった従弟なのだろうか。目が見えていれば疑いようもない事だが、それが敵わない今、猜疑心は増すばかりだ。

「少し離れている間に進歩したんだね。今の私はレコード盤のディスクを入れ替えるのも難儀しているのに」
「君は変わらないな。…二人の墓には?」
「死人に祈りを捧げるなんてナンセンス。ノヴァは星の崩壊を指す。私達が忠誠を誓うノアは、新たな王様だ」
「現実的で何よりだ」
「新たな陛下の名は」
「当然、キング」
「レヴィ陛下が最後まで名乗らなかった、リヒト陛下の銘だね」

泣き声が消えない中央区で誰よりも乾いた声を出している、それがまさか従弟だとは思わなかった。まだ三十代だと言うのに、百年近く生きてきた老人の様な印象を与えてくる。それほどの悲劇が起きたのだろう。

「現円卓が安定するまで、皆の筆頭に立ちなさい。判ってるね、レイナード」
「社員の名前は登録されているコードだ。そんな事も忘れたか、テレジア」

役立たずの研究者は、誰も寄りつかない寂しい教会で密やかに死ぬまで、永遠に続く闇の中で過ごす。
そんな覚悟をやっと持てる様になった頃、人生でたった一度だけ『貰ってやる』と言ってくれた男がやってきた。惜しむらくは、立派な青年になっただろう彼の姿をこの目で見届ける事が適わなかった事だろう。今はそれだけが残念だと思う。

「…しっかりしたもんだ。日本語も上手になった」
「光栄、と言いたい所だが、俺は回線を凍結しているシリウスを呼びに来たんだ」

笑い話だ。人生を捧げるほど愛した男が死んだと言うのに、涙の一つも出やしない。

「陛下は既にお目覚めになられて、円卓を招集すると仰られている」
「っ、何だと?!絶対安静だと言っておっただろう、何をしていたんだ!」
「お前が目を離したからだろう、俺を責めないでくれるか。まぁ、カミーユがついているから大丈夫だとは思うが…」
「三歳の餓鬼に何が出来る、愚か者が!」

転がる様な勢いで駆けていく足音が遠ざかり、何処か張り詰めていた肩の力をそっと抜く。

「ご立派だねノアは。リリア様の件はレヴィ陛下の個人的なものだ。エテルバルドの子守りを、ノアが引き継ぐ必要はない」
「どうしたってノヴァの崩御は世界中に知れ渡る。イギリスだけじゃなくアメリカも、この期に仕掛けてくる可能性があるんだ。軍事力のあるナチスに対する牽制になるなら、もう少し役に立って貰おう」
「血も涙もない対外実働部長殿も、立派なもんだ」
「『魔女』の皮肉は、褒め言葉として受け取ろう」
「誰より現実を直視しているのは、オリオンでもシリウスでもない。…親を亡くして泣く暇がないなんて、無慈悲だよ」
「ノヴァもそうだったと聞いている。俺も君も、そんな冷酷な神だから仕えてきたんだろう?」
「…グレアムは優しい一族だよ。冷酷にさせたのは、愚かな人間達だ」

ロンドンでは『悪魔に魂を売った伯爵家』と称されるアシュレイで、最も甘ちゃんだと馬鹿にしていた従弟は、きっと自分よりもずっと強かったのだろう。

「オリヴァーが早まった真似をしたそうだね」
「…オリオンから聞いたのか。彼は?」
「さぁ。愚痴を吐くだけ吐いて、とっとと行ってしまったよ」
「怪我は大丈夫なのか?」
「盗み聞きなんて紳士がする事じゃないね。…自分の体で、坊ちゃんの手術の予行練習をしたそうだ」
「なんて思い切った真似…いや、お陰で成功したんだ。執刀したシリウスは、生きた心地がしなかっただろうが」
「医療班はお飾り集団かい?」
「ノアの体にノヴァの角膜を移植するんだ。誰がやりたがる?」

煙草の匂いがする。らしくない匂いだ。
揃ってコーヒーより紅茶を好んだアシュレイ兄弟も、三度の飯より甘いものを欲しがった冬月兄弟も、煙草を嗜む趣味はなかった。少なくとも、視力を失うまでは。

「龍一郎より龍人の方が手先は器用だったね。自動ロック式のドアを作った時も、鍵の仕組みはシリウスが考えたんだ。服装にしたって、龍人はセンスが良い」
「そう、オリオンのセンスは常人には理解出来ないんだ。そんな所だけナイトに似た」
「派手なものが好きだったね、メアは。ジュエリーは喜ばない癖に孔雀の羽根なんかは喜んでくれた」
「北京から香港に逃げた黄河の娘婿を悪びれなく口説いて、『気色悪い』と言われていた事もある」
「中国?内乱で逃げおおせた王族かい?」
「上海のスラムで名を挙げたと言う男が、片言だが日本語を話したそうだ。両親が日本人だと言ったとかで、興奮したナイトが…まぁ、悪気はないんだろうが、急に抱きついて…」
「良くレヴィ陛下が許したね」
「…許す訳ないだろう。俺が止めていなければ、間違いなくあの場で引き金を引いていた」
「はは。アジアが消えた所で、私達は痛くも痒くもない。殺せば良かったんだ、ナイト以外の日本人、全て」
「おい」
「日本列島ごと全部吹き飛ばしてしまえば良かったんだよ、下手に生かしておくからナイトがホームシックになってしまうんだ。地図から日本が消えてりゃ、帰省しようなんて考えなかった筈なのに」
「…全部聞いているのか。だったら、今の台詞が意味を為していない事も判っているだろう?」

判っている。全て、今の自分がこの世で最も大切に思っている男から聞いた。世界の冷酷さも残酷さもとっくに知っていた癖に、何度痛感させられるのだろう。

「私が録音機なんて作った所為で、ナイトは自分の病に気づいてしまった」
「それは違う」
「陛下は最後まで気づかせるつもりがなかったんだろう。錯乱したナイトが日本行きの軍用機に忍び込んで、故郷へ飛び立ってしまうまでは」
「…」
「アルツハイマー、か。私もシンフォニアプロジェクトに多少関わった身だが、当時の責任者はリゲルだ。私の専門は機械弄りで、人体の知識はちっぽけなもんさ。…どうしてもっと勉強しておかなかったんだろう」
「病は人類の天敵なんだ。誰の所為でもないよ」
「最後の最後に、ナイトは陛下を思い出したんだろ?」
「…判らない。ナイトを看取ったのは、オリオンだけなんだ」

可哀想な子供。まだ18歳なのに、何度身内の死に目を眺めてきたのだろう。
目の前で父親と母親と、慕っていた伯母を失った幼子は燃え落ちる家からたった二人で逃げ出し、寒空の下、誕生日を祝ってくれる人間など何処にもいなかった。たった4歳だ。4年に一度しかない誕生日を祝ってくれる者など、当時の彼らには、何処にも。

「3月3日。日本はお姫様を飾る日だ。雛あられに興味を持った陛下がお菓子屋さんを覗いている間に、ナイトはチビ達を見つけたそうだよ」
「知ってる」
「…あの時シャドウウィングがあったら、私が見つけてやりたかったね」

心も体も傷だらけでやってきた青年は一晩中喋り続け、不味いコーヒーを最後に飲み干すと『ご馳走様』と呟いて、寂しい教会から出て行った。

「陛下が生前、海岸沿いで忍者に会ったと仰っていたよ。発音が難しい名前だった様な気がするけど、あの頃は日本語が喋れなかったからか、脳が劣化したのか、どうも思い出せない」
「20年も前の話だから無理もない」
「忍者は主人を生涯裏切らない」
「もう一度会って話がしたいと言って、陛下は日本へ向かった」
「でも戻ってきた陛下が連れてきたのは新しい奥様と、自称忍者のチビ二匹。マチルダが出て行って部屋から出る回数が減ったナイン坊ちゃんが、あんなに大きな声で喜ぶなんて思わなかった」
「それも覚えてる。『お土産は弟ですか?』、見事な日本語だったな。心底驚いたぞ」

何処へ行くのかと尋ねる事も、連れて行ってくれと懇願する事も出来なかった。そんな権利は、若者の精一杯の求愛を笑い飛ばした日に失っている。けれど正しい選択だと思っている。寂しく死んでいくだけの哀れな女が、豊かな将来を約束された少年の足枷になるなんて、許される筈がないだろう?

「母親がいなくなって寂しがっているかのかと思っていたのに、陛下が取り寄せた日本の資料を読み更けて日本語の練習をしていたなんてね。坊ちゃんは私の想像を超えている」
「初対面で日本人の男を新しい母親と紹介されて、躊躇なく母上と呼んだからな」

絶望しても未来を見据えた冬月龍一郎の意思は、幼い頃から変わっていない。

「オリオンの初恋は私なんかじゃないよ、賭けても良い」

ハーヴェスト=グレアムの目は自分を人体実験に使ってでも治そうとした頑固な男は、元上司が怪我をしたと報告を受けても顔色一つ変えなかった。それ所か『無様な失態だな』と嘲笑ってくれた事を覚えている。技術班を離れなければならなくなったと言っても、『これでラボは俺達だけのものになる』などと宣わなかったか。

「石頭だから認めたくないだけさ。同性恋愛なんか珍しくもないのに、この私を他人の代わりにしようだなんて烏滸がましい事を…」
「未練があるなら、」
「つまんない台詞を吐くんじゃないよレイナード。あんなのは同情なんだ。あの子の貞操観念は私と大差ないだろ。私が誰と寝たって嫉妬の一つもしなかった癖に」
「へぇ、嫉妬して欲しかったのか?」
「…私は可笑しな事を言ったね。忘れておくれ」
「外面の良い君が、オリオンの前では化けの皮が剥がれたからな。二人は結婚するんだと思ってたぞ。オリヴァーも」

一晩中愚痴を聞いてやったのだから、今度は誰かに聞いて貰う番だ。
大人は子供の前で愚痴を言ったりはしない。だからマリア=アシュレイもそう、大人を舐めている石頭小僧ではなく彼より多少大人の従弟の前で、虚勢を脱ぎ捨てる。十年前までは、オリヴァー=アシュレイがその相手だった。

「マザコン男は年上の女が好きなんだ。お前みたいに痛い目を見て、女性恐怖症になる馬鹿も少なくない」
「余計なお世話」
「頭で考えてるだけじゃ実現しない事なんて知ってる筈なのに、いつも出遅れてしまう。私はそんな星の下に生まれたんだ。本当に欲しいものは、絶対に手に入らない」
「それは俺に言うべき言葉じゃないだろうが」
「さっき聞いてたんだろ?私は、あの子の子供を産んでやれない」
「…」
「罰だね。不摂生、重金属汚染もあるか。事故で頭を打った時に、骨盤を骨折していた事かも知れないね。目が見えなくなった所為で一日の大半を座って過ごしているからか、少し歩くだけでも辛いんだ。40代とは思えないくらいポンコツだろう?女の尊厳もなくして、侘しい余生を過ごす覚悟は、今度こそ完璧だよ」
「子供が欲しいのか?」
「天使みたいな子供なら欲しいね。どうせ顔なんて見えないけど」

男の子だろうか、女の子だろうか。何なら男女二人でも良いかも知れない。想像するだけなら自由だ。どう足掻いても叶わない夢を抱き続ける研究者こそ、新たな未来を拓く翼になれる。

「私の事なんかより自分の心配をしな。レヴィ陛下の時は若手でも、今の一位枢機卿はお前だ。階級が上がりすぎると近づき難くなるだろ。オリヴァーの結婚が遅れたのが良い例だ」
「…兄さんも君も、引退するのが早過ぎるんだ。俺はいつも貧乏くじ」
「ユダはイエスを裏切った罪に耐え切れず死を選んだが、お前はそんな馬鹿な真似はしないと信じているよ。例えその身の内に、イスカリオテの血が流れていても」
「母の血を罵倒するつもりなら流石に怒るぞ」
「私達ステルシリーは、一人残らずバビロンの幽囚さ」

そう言ったのは、レヴィ=グレアムだった。彼はもう、地球上の何処にも居ない。

「グレアムはヤコブの民。だからリヒト陛下に命を救われた伯父様は、お前にジャックと名づけた」
「お喋りしたいだけなら、CHAθSじゃなくても良いだろう?陛下にお会いするなら許可を頂いてきても良いが、どうする?」
「卑しい私がマジェスティに謁見する理由がない」
「陛下がご結婚なさる日まで、君にはシスターで居て貰わないと」
「生涯独身を貫くつもりの私には、ぴったりな役目だね。…シンフォニアは継続するのかい?」
「責任者はリゲルとオリオンだ。それに関して、円卓は関与しない掟がある」

魔女。悪魔。いつの時代も迫害されてきた薬師一族の先天疾患は、生き残ったリヴァイ=グレアムの生涯を脅かし続けた。彼の生き別れの姪はとっくに亡くなっていて、レヴィの血を分けた家族はハーヴェストだけだ。
今後、グレアムの血はキング=ノアを脅かすだろう。既に今この瞬間も、ステルシリーの敵は人類だけではない。

「…オリヴァーは元老院に残ると言ったかい?」
「いや、兄さんは近い内にウェールズへ帰すつもりだ。あの人にはもう、此処は地獄でしかない」

神に忠誠を誓うステルス。まるで忍者の様に決して裏切りはしない。
然し男爵の血の存続を望む為には、許されざる冒涜も必要なのだ。男爵の命令を忠実に守る職務が円卓を支える柱の役目なら、円卓とは違う位置から支える別の柱が必要になってくる。政治の様に、イエスとノーを共存させることが重要だ。

「幼馴染みとそのパートナーを同時に亡くせば、ね。ナイトの記憶後退が進んでいる事を把握しながら外に出してしまった事を、強く悔やんでいるだろう」
「自らアビスへ飛び降りようとするくらいには、な」
「未遂で良かった。伯爵の分際で女房子供に自分と同じ思いをさせるつもりだったのかい、馬鹿な男だね…」

本来の円卓の立場であれば、神の複製計画にNO以外の選択はない。然し本心はそうとは限らない。
現役の枢機卿が許可出来ないのであれば、円卓を離れた元枢機卿が採決を下せば良い。表向きは『監査役』として円卓の行き過ぎた行為を咎める役目を負いつつ、その実情は、神への背徳も辞さない、倫理に逆らった計画の実行と、継続。

「手を貸してくれないか、ライオネル=レイ。ナイトに挨拶をしておきたいんだ」
「お姫様の様に抱いて連れてってやろう」
「是非ともお願いするよ。私から陛下を奪った三人の女共とは違って、彼は唯一恨ませてくれなかった酷い男だから、居なくなって清々したって言ってやる」
「今更恨み言を聞かさせるとは、ナイトも思っていないだろうな」
「恨んでるもんか。私の気持ちに気づいていた癖に、最後まで陛下のお側で働かせてくれた事を感謝しているって、一度くらいお礼をね」
「まるで恋する少女だ。まさかナイトに横恋慕していたんじゃないだろうな」

見えないのに何故か、睨まれている様な気がする。幼い頃はつついただけで泣いた癖に、いつの間にかこれほどの威圧感を備える様になっていたとは、これも月日の流れと言う事か。

「それはお前だろ?親友なんて便利な言葉で周囲を騙し続けるのは気分が良かったか、ライオネル=レイ」
「…これだから魔女は嫌いなんだ。いっそ火炙りになってしまえ、馬鹿女」
「シスターテレジア様とお呼び、馬鹿男」
「マダムの間違いじゃないのか、おばさん」

女を抱き上げている時の男ほど無防備な生き物はいないと、綺麗に決まった平手打ちで思い知れば良い。

←いやん(*)(#)ばかん→
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